10月24日(3)
「鷹野君の言う通り、さっきまで泣いてたの。わたしのお母さんね、来てくれてないんだよ? ひどいでしょ……」
小さな声を絞り出して、山倉は独白を始めた。慌てる僕が慰めの言葉を探し当てる間にも、独白は進行していく。
「一日ぐらいの入院で、顔を出す必要なんてないって言ってさ……わたし、一人娘なんだよ? もうちょっとさ、大事にしてくれたっていいと思わない?」
「うん……」
山倉は僕の目を見ずに、淡々と思いを口にしていく。
「わたしのお母さんさ、お金の亡者でね。会社ばかりで滅多に家にも帰ってこないの。なんでもお金お金。今日の入院費用だって、お金はアンタが払いなさいよ! だって? 信じられる?」
「でも、お金を稼いでいるのは山倉のためでもあるんじゃないか?」
「わたしの……ため?」
「そうだよ。お金がないと苦労するよ。うちも貧乏でさ……」
「お金で買える幸せなんていらない!」
冗談混じりの戯言を一喝され、僕はようやく自分の失言に気がついていた。
「お金なんて、最低限あればいいの! 度を越えるお金なんて人の心を狂わせるだけ! そのせいでお母さんは狂った! お父さんも、お父さんもそのせいで……」
山倉の父親は、数年前に離婚したという話を聞いている。そして昨年、山倉の前で亡くなったらしい。
がっくりと力尽きた山倉は、ベッドに体を預けていた。僕の全身を覆っていた後悔と懺悔が、否応にもその存在を増していく。
『山倉ごめん! 僕が考えなしだった!』
頭の中で叫び続ける言葉も、口から発されなかった。
しばらくして、山倉はベッドから起き上がる。流れる涙は量を増し、川を形成して流れていた。
「ごめん。わたしの家庭の事情なのに、鷹野君に怒鳴ってもしょうがないよね?」
僕は無意識の内に山倉を抱きしめていた。
「いいんだ。苦しみを吐き出してくれて、頼りにしてくれて嬉しいよ」
「うん、ありがとう。すごく楽になった」
僕と山倉は無言で抱き合っていた。震える山倉の体を確かに感じながら……。
山倉の震えが止まる。山倉が顔を上げると、すでに涙は止まっていた。
いつもと同じ笑顔。でも、どこか違う。
それは、とても満足しているといった、すがすがしいものだった。
「鷹野君、わたしなんか好きになってくれてありがとう。わたしも、鷹野君なら自分を偽らず、本音で話せそうだよ」
山倉が手を伸ばし、優しく僕の手を握ってきた。自分の顔が、蛸のように赤く変色していくのがわかる。
「本当のわたしに気がついてくれたのは、鷹野君が初めてだよ」
「みんなだって気がついてるさ」
「ううん、みんなは元気なわたししか知らないから、悩みなんてないと思ってる。だからこそ元気な自分を、演じなきゃいけなかったの」
「でも、もう演じる必要はないよ」
返事の代わりに、ギュッと手に力が込められた。それに応えてこちらも握り返す。
「改めてお願いする。わたしとつき合って。そして支えて。精一杯わたしも頑張る。だからいつも笑っていられるよう、ずっと一緒にいてね」
目に涙を浮かべつつ、山倉が告げる。
次の瞬間、そんな健気な彼女をもう一度抱き締めていた。
二度目の抱擁でも最初は体を震わせていたものの、今度はすぐに力を抜いて身を任せてくれた。
「もちろんさ。これからもずっと山倉を支えて、いつでも救ってあげるよ。もう二度と、ため息なんて吐かせはしない」
「うん、ありがとう。でも、もしかしたら鷹野君に……」
「えっ?」
「な、なんでもない。お願いだから、助けてね」
「無理しないで、吐き出していいんだよ」
僕の提案に、小さく首を振る。まだ、すべては吐き出せないのかもしれない。
「大丈夫、本当に大したことじゃないから」
「そう? だったらいいけど……」
「それよりも鷹野君。明日休みだよね?」
話題を変えて、瞳を輝かせる。
「土曜日だからね。休みだよ」
「だったらさ、迎えに来てくれない? 好きな男の子が待っててくれるっていうシュチュエーションに憧れてたんだ! ごめん、待った? いや、今来たところだよ……みたいなやつ」
「ハハハ……」
「ちょっと、何がおかしいの?」
抗議をしてから、ぷっくりと頬を膨らませる。笑いをこらえながら、僕は山倉の提案を了承していた。
「それじゃあ明日……午前十時ぐらいになるらしいから。それよりちょっと前までには来ててね!」
「僕のほうが遅れて来ちゃって、立場が逆になるってのもあり?」
「なし!」
あっさりと却下され、二人で笑い飛ばす。僕はそのまま山倉に手を振り、病室をあとにした。
病院の廊下を歩いている間も、僕の胸は高鳴りっぱなしだった。
上がりっぱなしのテンションで、通り過ぎる人たちに元気よく挨拶していく。
病院から出ると、外はすでに薄暗くなりつつあった。楽しい時間というのは、どうしてこうも過ぎるのが早いのだろう。
「よっ、どうだった?」
どこで待っていたのか三村が僕のそばへと駆け寄ってくる。
「三村、わざわざ待っててくれたのか?」
「そりゃ、たきつけたものとしての責任もあるからな。で?」
心の底から湧き上がる笑いを、抑えることができなかった。三村の肩をバンバンと叩いた後に、グッと引き寄せる。
「サンキュ、三村」
「おおっ!? まじかよ!」
「えぇ、本当に!? 優美がオッケーだって言ったの!?」
いつの間にかそばにいたのは、花の入った籠を持った吉沢果歩だった。きょとんとしている僕に、三村が説明してくれる。
「クラスの代表で、お見舞いに来たんだってさ。感謝しろよ? 信也がいるからって、少し待ってもらってたんだからな」
「そうだったのか、ありがとう吉沢」
「ううん、それは別にいいんだけどさ。でも驚いたなぁ……優美の心を開かせるなんて」
吉沢は感心しながら、僕の全身をくまなく見つめる。
「頼りがいのある男とは思えないけどなぁ」
「ほっとけ!」
「フフ、でも優美が認めたんだから、きっと人の心が分かる素敵な人なんだろうね。わたしからもよろしくお願いするよ。優美のこと守ってあげてね?」
言いながら吉沢は病院へと入っていった。
「よかったな、信也」
僕の髪の毛を、ぐしゃぐしゃにかき混ぜつつ、三村からの祝福の嵐を受ける。
「これで安心しておれも吉沢にアタックできるってわけだ」
笑いとばす三村に、ふとした疑問――というよりも確信だ――が浮かぶ。
「なあ、三村」
「ん?」
「僕を待ってたのって、責任とかじゃなくて吉沢がいたからだろ?」
やはり図星だったようで、三村の笑いが止まる。
「ま、まあそうとも言うな。結果オーライってやつさ」
「お前なぁ……」
「いいじゃないか! おれも吉沢にアタックしてオッケーもらった暁には、ダブルデートといこうぜ!」
「じゃあ三村がフラれたら、僕と山倉のデートを見せびらかせるよ」
「くそっ、余裕がありやがる……」
顔をしかめた三村の肩を抱き寄せ、僕たちは病院に背を向けた。明日の一大イベントを胸に、僕の足取りはかろやかだった。