10月28日(4)
「お疲れ様!」
走っている僕の服をつかみ、動きを止めさせる。その手の持ち主は、ミリアだった。
「うわっ、すごい涙。ほら、ハンカチ貸してあげる」
無言でミリアから、ハンカチを受け取り瞳にあてる。顔全体に広がった水分をくまなく拭うと、大きく深呼吸をした。
辺りを見回すと、赤く巨大な扉のある中界の入り口だった。辺りにミリア以外の人影はない。
「よかったね! 優美ちゃん助かって」
ミリアはまるで、自分のことのように、はしゃいでいた。はつらつとした笑顔に、ハンカチを返す。
「山倉、平気だよね?」
自分の仮定を認めて欲しくて、尋ねる。
今までのミリアならきっと、わたしには関係のない話で終わらせただろう。だが――、
「きっと大丈夫だよ。上手な説得だったし、最後には微笑んでたしね」
望む答えを出してくれた。ありがとうミリア――お礼を言う前に、ミリアが嫌らしげな笑みを浮かべる。
「キスだって、見てるこっちが赤面しちゃったわ」
「なっ、もしかして……見てた?」
「もちろんよ。中界の姿に戻っただけで、あの場所にはずっといたからね」
腰に手をやり、勝ち誇るミリアの前で、僕はがっくりと膝を落とした。響き渡る高笑いで耳が痛い。
「でもさ、これで一件落着でしょ?」
「そうだね。安心して天界へと行けるよ」
「うん、これからは楽しい毎日……ではないかもしれないけど」
「ないの!?」
鋭い僕のツッコミを、愛想笑いでかわすミリア。
「まあ、それなりに楽しいはずだよ。よかったら案内人の仕事にも本当につけば?」
「うーん、どうしようか……」
「迎えに行った場所に優美ちゃんがいれば、また優美ちゃんの姿が拝めるかもよ? わたしが頼めば、すぐに雇ってもらえるんだけどなぁ……」
ミリアの囁きは、僕に選択の余地を与えなかった。
「お願いするよ。ミリア」
「お願いします、ミリア様……でしょ?」
「くっ……」
お互いの顔を見合わせ、二人で笑い出す。
無事に助け終わった安堵感から、頬が緩むのを抑えられなかった。
「じゃあ、いこっか!」
僕の手を引き、ミリアは門をくぐろうとする。そこで僕は足を止めた。
「ちょっと待った。最近ミリアのようすが変だったけど、もう大丈夫なのか?」
「えっ? あぁ、うん。もう済んだから」
「済んだ? いったい何があったんだよ? だいたい、僕のサポートなんてほとんどしてないじゃないか。一人で何やってたんだ?」
いたずらを成功させた子どものように、にやけた笑みでミリアが答える。
「教えてあげなぁい!」
「な、なんだよそれ! 教えてくれたっていいだろ!」
「フフッ、簡単に言うとね、わたしもこの一週間、色々とあったのよ!」
簡単にと言っても、さっぱり意味がわからなかった。
「さぁ、行こっ! エンマ様が待ってる」
「ああ……」
僕は再び巨大な門をくぐり、エンマ様と対峙した。今日も機嫌は良いらしく、青くてひょろ長い体は変わっていない。
僕のすぐそばには、事務所で会ったミリアの同僚――カルバドスがいた。
「お疲れ様。よくやったな。鷹野信也君」
「はい! ありがとうございます!」
お辞儀をすると、エンマ様は拍手をしてくれた。そばにいたミリアとカルバドスが、間を置かず続けてくれる。
「んじゃミリア、しっかり天界へと案内してやるんだぞ」
「言われなくても分かってるわよ! それじゃあ行きましょうか!」
ミリアが元気よく声を上げた。
「それではエンマ様、今回は本当にありがとうございました」
「疲れただろうから、ゆっくり休むといい。死後の世界を楽しむのは、その後でも遅くないだろう」
「ええ、そうですね。そうします」
これから先は、僕も死後の世界の住人なのだ。慌てる必要はまったくない。
エンマ様とカルバドスに頭を下げてから、僕はミリアと一緒に部屋の外へと出た。
上方へと伸びる階段の先には、輝く光に包まれた空間が、僕の来訪を心待ちにしているように見えた。
その階段の途中で、ミリアが思い出したように手を打つ。
「そうそう、エンマ様が今回の信也君の行動に、すごい感激しててね。何かご褒美をくれるって言ってたよ!」
「えっ? 本当に?」
「本当だよ! 一年に一回だけ、特別になにかを許可してくれるって言ってた。まったく幸せものだねぇ。天界で信也君みたいな、優遇を受けてる人なんていないんだからね?」
ご褒美とはなんだろうか? 一年に一回だけでも生き返らせてくれれば、ありがたいのだが……。
「わたしもね、今回の信也君の行動とか、いろいろな面で感動したし、得るものがあったから。晩御飯でも奢ってあげるよ!」
「おっ、サンキュ! なんでもいいのか?」
何度も頷くミリアに、僕は忍び笑いをしながら、望みのメニューを告げた。
「じゃあ、おでんにしようかな」
「んぎゃっ!」
先ほどまで意気揚々としていたミリアの顔色が、顕著に曇っていった。
「なんでもいいって言ったのはミリアだからな。約束は守ってくれよ」
「うぅぅ、うぅ!」
ふくれっ面でむくれるミリアを、爽快に笑い飛ばした。
その頃になってようやく、実感がわいてくる。
――そうだ。山倉を救ったんだ。本来なら分かるはずのない、未来の山倉の運命をこの手で打ち破ったんだ。
「どうか、お幸せに」
ミリアにも聞こえないほどの小声だが、山倉には確かに伝わった――そんな気がした。