10月27日(3)
ついに修学旅行の初日も就寝を残すだけとなり、明日が僕にとって最後の一日となる。
悔いを残さないよう、明日は全力を尽くさなければならない。
「あれ? 信也、どこ行くんだ?」
山倉に言われた時間、こっそり部屋から出ようとする僕を、三村が呼び止める。
隙がないというか、妙に目ざとい。さすがはニュースキャスターだ。
「いや、ちょっと自動販売機でジュースでも買ってこようかなって」
なぜだかわからないが、山倉に会いに行くとは言えなかった。三村も何の疑いもなく、
「ジュースって、もうすぐ消灯だぞ? 寝る前に水分取って、朝になって布団を濡らしててもしらないからな!」
壮快に笑い飛ばす。適当な愛想笑いを返すと、すばやく部屋の外へと躍り出た。
部屋のドアを閉めて、ため息一つ漏らす。
瞬間、僕の腕は引っ張られていた。
「なっ!?」
慌てて引っ張られた方向を見ると、力の主は山倉だった。どこかに連れて行こうとしているのだろう。
黙ってついていくと、二階と三階をつなぐ階段の踊り場で、山倉は止まった。
「ふぅ、だれにも見られなかったね」
額に溢れた汗を拭って爽やかな笑顔を見せる。実際は僕たちの疾走を前に、みんな呆気に取られていただけなのだが……。
「修学旅行って楽しいけど、二人きりになれないから嫌だよね!」
薄暗い踊り場に腰を下ろしつつぼやく。僕もその隣へと腰を下ろした。
「今日はすっごく楽しかった! 明日も楽しみだね!」
「ああ、そうだね」
曖昧な返事をした僕の顔を、バスの時と同じように覗き込んでくる。
わざと気づかないフリをして、僕はそっぽを向いた。
と、僕の腕に突然激痛が走った。山倉が力いっぱいにつねったのだ。
「いたっ!」
「もうっ、本当に大丈夫なの? 心配で、食事も喉を通らなかったんだから!」
「ごめん、大丈夫だから。気にしないで」
山倉には悪いが、明日の対策で頭がいっぱいなのだ。
口をへの字に曲げ、今後は逆に山倉がそっぽを向く。
どうやって謝ろうかと考えている最中に、突如、山倉が顔を近づけてきた。まるで何事もなかったかのように。
「鷹野君、明日はなんの日か知ってる?」
「えっ!?」
飛び出さんばかりに目を見開き、僕は山倉の両肩を掴んでいた。
「ど、どうしたの?」
僕の形相に驚き、目をパチクリさせながら問いかけてくる。
「あ、いや……なんでもないよ」
山倉から目を背け、曖昧に言葉を濁す。
知っているはずがない。知っているなら落ち着いてなどいられないはずだ。
「えっと、なんの日なの?」
明日の事件について、ふせたまま山倉に尋ねる。
すると、山倉はかなりのショックを受けたようだった。のけぞって倒れそうな全身を、なんとか手で支えている。
「本当に? 本当に知らないの?」
「う、うん。ごめん」
「別にいいけど、ショックだなぁ。鷹野君なら絶対に知ってると思ってたのに」
深くため息をつき、山倉はがっくりとうなだれてしまった。
「で、結局なんの日なの?」
「もう、わたしの誕生日だよ! 本当に知らなかったの!?」
言われて初めて気がつく。そういえば明日は山倉の誕生日だった。
「そ、そうだった! ごめん、忘れてたよ」
「忘れてた!? ひどい、ひどすぎるよ!」
「そ、その、ごめん!」
潤んだ瞳でうつむいた山倉に、頭を床にこすりつけて土下座をする。
だが、山倉は言うほど怒ってはいなかったようだ。土下座する僕を見て、クスクスと微笑んでいる。
「大丈夫。全然怒ってないから。それで、誕生日に欲しいものがあるんだけど」
「も、もちろん! なんでも言ってくれ!」
明日の事件で頭がいっぱいで、誕生日を忘れていた僕の、せめてもの償いだった。山倉の望む願いを叶えてあげたい。
そう思い軽く引き受けた山倉の望みは、予想を大きく超えたものだった。
「……キス」
「えっ?」
思わず聞き返す。山倉はトマトのように顔を赤くし、もう一度つぶやいてきた。
「鷹野君のキスが欲しい」
「えっ、なっ、そ、それは!」
慌てふためく僕の目を、山倉がまじまじと見つめてくる。
ただ、山倉の望みがそれだけなら、簡単に承諾したかもしれない。
僕も山倉が好きなのだから、キスで悩む必要などない。むしろこちらからお願いしたいぐらいだ。
だが、山倉の次の言葉が、僕の胸へと深々と突き刺さり、大きな圧力としてのしかかっていた。
「いまのところ、わたしの支えになってくれているのは鷹野君だけなの。もちろん、他の友達にも自分の本心を打ち明けようと思ってるよ。だけど、鷹野君以上に、わたしの心を癒してくれる人はいないと思う。それを考えると、心の隙間から不安が染み出てくる。いつか鷹野君が、わたしから離れていくかもしれない。それが怖くてたまらないの。だからずっと側にいてくれるっていう証明に、鷹野君のキスが欲しい」
言われて、瞬間的に頭へと浮かんできたのは、ミリアの警告だった。
『このままじゃ、信也君が死んだとき、優美ちゃんは信也君の後を追うかもしれない』
このままでは、ミリアの言った通りになってしまう。それではまったく意味がない。
「ダメかな?」
無言で考え続けていた僕に痺れを切らし、山倉は問いかけてきた。
こちらの返答も聞かず、山倉はすでに、潤んだ唇を近づけようとしていた。
「いや、ダメじゃないけど……」
四苦八苦していると、山倉は愛想をつかして、無言で立ち上がった。
「山倉、待ってくれ!」
どう弁解すればいいか悩みつつ、山倉を呼び止める。きっと怒っているだろう。
だが、振り向いた山倉の表情は、予想に反して笑顔に包まれていた。
「急いで決断しなくてもいいよ。わたしの誕生日は明日なんだし。それに、断られたとしても、嫌いになったりしないから。わたしには、鷹野君しかいないからさ!」
山倉が三段飛ばしで階段を上っていく。自分の部屋へと帰るつもりなのだろう。
「それじゃあお休み! 明日も一緒に楽しもうね!」
階段を昇り終わった後、もう一度僕の方を向き、そう言って山倉は走り去った。
「山倉とのキス……か」
自分の部屋に戻りながら、腕を組んで考える。ミリアの言った通りにならないようにするには、そして山倉を救うにはどうすればいいのか……。
部屋に帰ると、三村が目を丸くして僕を見ていた。
「ジュース、もう飲んだのか?」
「あ、うん。買ったその場で」
「なんだよ、少し分けてもらおうと思ってたのに。まったく、山倉と初旅行だからって、緊張しすぎなんだよ」
僕の背中を思い切り叩く三村。よく考えたら、三村とも明日でお別れなのだ。
初めて出会ったときから馬が合い、僕が山倉を好きだという事実を、唯一知っていた親友だった。
そして、自分の情報網を駆使して、僕に協力してくれたのだ。
「三村、吉沢さんとうまくやれよ」
「当たり前だ。お前こそ山倉とうまくやるんだぞ?」
応援するつもりが、逆に応援されてしまったようだ。せめて三村だけでも、本当のことを告げたかった。
もちろん、それを言ったが最後、僕は中界へと呼び戻されてしまうだろう。
最終日を前にして、整理しなければいけない事象は山ほどある。
だが、無常にも時間は待ってくれなかった。