10月27日(1)
十月二十七日 月曜日
のっそりとベッドから起き上がると、僕は制服に着替えた。
部屋を出て、まずミリアの部屋にノックをするも、返事はなかった。
この家の住人が僕だけではないのかと、錯覚するぐらい静かだった。階段を下りる足音、ダイニングキッチンへとつながる扉を開ける音――僕の行動で生み出される物音以外に、耳に入ってくる情報はなかった。
ダイニングキッチンに入るも、だれも見当たらなかった。代わりのように、朝食だけは準備されている。
ゴーヤチャンプルにもずく、ご飯は炊き込みご飯。嫌がらせのように、僕の苦手なものばかりだ。
だが、僕はそれらを残らず食べきった。これが母さんの最後の手料理かと思うと、不思議と不味くはなかった。
食器を流しに置いてから、母さんの部屋へと向かう。ノックするが、こちらも返事はなかった。
朝食が準備されていたのだから、どう考えても一度は起きているはずなのだ。
「母さん、起きてる?」
ドア越しに声をかけても、反応はない。
「いないの?」
もう一度ノックをしながら、声をかける。それでも返事はなかった。
額をドアに付けて、大きく息を吐く。時計を見ると、そろそろ山倉が来てもおかしくない時間だった。
「さようなら、お元気で……」
そう言葉を残して、階段を駆け上った。
流れ出る涙は、なかなか止まらなかった。
すぐに家のチャイムが鳴り響く。僕は涙を拭り去ると、無理やりに笑顔を作った。
荷物を持って階段を下り、玄関の扉を開ける。
「おはよう、鷹野君!」
そこにいたのはもちろん山倉だった。長くてしなやかな髪の隙間から、ちらちらと覗く大きなガーゼが痛々しい。
制服姿の背中には、赤いリュックサックをかるっている。
「おはよう。それじゃあ行こうか」
「うん! 楽しい修学旅行を満喫しよう!」
山倉に手を引っ張られ、僕は自宅を後にした。愛着のある家がどんどん離れていくも、僕は背後を振り返らなかった。
未練を断ち切るため、そして山倉を救うという最重要事項に専念するために。
学校へと着くと、すでに多くの生徒がグラウンドへと集合していた。
「信也……お前」
山倉と二人で、整列場所へと向かっていると、血相を変えて震える指を、僕に向けてくる三村がいた。
「ああ、三村。おはよう」
「おはよう、三村君」
二人で同時に挨拶をすると、三村が僕の胸倉を突然つかんだ。
「な、なんだよ、三村……」
「お前、なんで山倉と一緒なんだよ」
「えっ? なんでって……ああ!」
ようやく三村の驚嘆の意味が分かり、僕は何度も頷いた。
「山倉と付き合ってるんだ」
「マジか!」
三村の視線が、一瞬にして山倉へと移る。
山倉は少し頬を染めたまま、無言で頷いていた。
「良かったじゃないか信也! もっと早く教えてくれればいいのに、水臭いじゃないか」
「いろいろと忙しくてさ。悪かった」
「いいってことよ。これからは二人の恋の行く末を見守ってるからな。何かあったらすぐに相談してくれよ」
「ありがとう、三村君」
僕よりも早く山倉がお礼を述べる。三村は何気に照れながら、僕たちの元から離れた。
「修学旅行は学問の一環です。あまりはしゃぎすぎないように気をつけましょう」
全員が集合を終わらせて、先生が注意を促す。
だが、そんなものは全員、耳から抜けているようだ。
あきれ顔の先生が、各クラスごとにバスへと乗せる。そこで三村が再び近づいてきた。
「信也、山倉と席交換しといたからな」
「えっ?」
小声でつぶやく三村に、僕は目を丸くしていた。本来なら僕は三村と隣の席で、山倉は吉沢と隣の席だったはずだ。
「俺も吉沢の隣のほうがいいからな」
「自分のためかよ!?」
「そう言うなって。二人の仲を深めるチャンスだろ?」
「そりゃ、まあ……」
相槌を打ちながら、僕は内心ショックを受けていた。ここはできれば、山倉と別々の座席がよかったからだ。
本当なら、飛び上がって喜びたかった。だが、今は僕よりも、他の友人との友好を深めてほしかった。僕の存在を山倉の中で、大きくしすぎないように。
といっても、これは三村にとっても、吉沢と隣同士の席になれるという、利益に基づいた行動だ。逃れようのない事態だったのかもしれない。
「どうかしたの?」
考え込んでいると、背後から山倉が僕に声をかけてきた。隣には吉沢の姿があり、僕の肩をポンと叩いてくる。
「優美をよろしくね、鷹野君」
それだけ告げると、手を振りながら、吉沢は自分の座席へと向かった。三村もそれに続いて、積極的に声をかけている。
いつまでも車内で呆けているわけにもいかず、僕と山倉も座席へと座った。
「はい、鷹野君」
すでに買っていたのか、オレンジ色のキャップのペットボトルの緑茶を、僕へと渡してくれた。熱すぎず冷たすぎず、ちょうどいい温度になっている。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
山倉に微笑まれて、僕の口元にも自然と笑みが生まれていた。
バスがゆっくりと動き出し、目的地へと向かう。
今から高速道路へと上がり、六時間かけて目的地へと向かう。バスの中では目的地につくまでの間、バスガイドさんによる挨拶と予定の説明があった。
目的地についた後は昼食を済ませ、歴史的建造物をいくつか回る。それが今日の大まかなスケジュールだ。
それが終わると、生徒の間でカラオケ合戦が始まる。
盛り上がる車内で、ただ一人僕だけはその場の雰囲気についていけなかった。
残した母親、山倉の救出、そしてこの世から永遠に姿を消す自身。頭の中はすでに一杯で、処理し切れなかった。
「鷹野君、マイクだよ」
マイクを目の前に差し出され、ようやく我に返る。
「ごめん、歌はちょっと苦手なんだ」
「そう? じゃあ次はわたしが歌うよ!」
マイクを高々と掲げる山倉に、車内から歓声と口笛が巻き起こる。
「曲名は『いつもそこに』で!」
それを聞いて、バスガイドさんが準備を始める。山倉の歌声は、まるで地上に舞い降りた天使のように、甘く柔らかい歌声だった。
歌の内容は、ふとした瞬間に恋心を抱き、愛し合うようになった二人は、いつまでも幸せに暮らすといった内容だった……。
歌い終わり、一礼をすると、山倉は歓声に包まれながら、次の人にマイクを渡す。
「ふぅ、久々に歌ったから緊張しちゃった」
「ご苦労様」
「ヘヘッ、どうだった、わたしの歌」
「うん、すごくよかったよ」
「そう? その割にはあまり楽しくなさそうだけど……」
とっさに僕は、目をそらしてしまった。怪訝そうに、僕の顔を覗きこんでくる山倉。
「気分でも悪い?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「本当に? 無理しないで休んでたら? 着いたら起こしてあげるから」
「うん、ありがとう……」
目を閉じて、山倉の姿を視界から消す。
あの歌の内容に、山倉の意図が含まれている。それはほぼ間違いないだろう。
僕は山倉の想いが伝わるたびに、心に重しをつけられている気分だった。喚起と悲痛が交じり合い、いままで味わった試しのない感情が沸き起こるのを、抑えきれない。
覚悟していたはずなのに、いまは恐怖に震えている。山倉と離れ離れになる恐怖だ。
まぶたの隙間から、涙がこぼれ落ちる。
それを拭うように、柔らかな布の感触が伝わってきた。山倉がハンカチか何かで、拭ってくれたのかもしれない。
それでも僕は目を開けなかった。いま目を開けてしまっては、きっと止め処なく涙が溢れ出てしまうだろう。
目をつむったまま、気持ちを落ち着かせていく。そうしていく内に、聞こえていたクラスメイトの歌声が薄れ、頭の中が暗くなっていった。