10月25日α(4)
時が動き始めるきっかけを作ったのは、手術中のランプの消灯だった。
手術室から、医者と看護士が数人、姿を現す。山倉はベッドで寝かされたまま、どこかへ連れて行かれた。
――まさか、霊安室へ?
おぼろな足取りで、山倉の後を追おうとすると、背後から肩を叩かれた。
「もう大丈夫ですよ。命に別状はありませんから」
振り向くと、看護士が微笑んでいる。
ようやく、僕の心に余裕と安らぎが生まれた。後を追うと、三○六号室へと山倉は運ばれていった。時計を見ると、すでに十四時を回っている。
いったい何時間ほど手術をしたのか――逆算しようとしたが、すぐにやめた。
手術が何時間続いたのかなど関係ない。大事なのは、いま山倉がこうして生き残っている嬉しい事実だ。
ベッドに寝かされ、落ち着いた寝息をたてている山倉は、死の恐怖など微塵も感じさせなかった。
病室に配備された緑色の丸椅子に座り、胸をなでおろす。あとは山倉が目覚めるのを待つだけだ。
山倉の寝顔を、頬杖をついてみつめる。山倉の痕に巻かれた包帯が、事の重大さを物語っていた。
「鷹野君?」
「うわっ!」
声を掛けられ、椅子ごとひっくり返りそうになるのを、どうにか踏ん張る。
山倉は丸い双眸を大きく見開き、僕の顔をまじまじと眺めていた。
「大丈夫?」
「な、なんとか。山倉の方こそ、気分はどうだい?」
「うん……大丈夫だよ」
顔をそらし、口を一文字に結ぶ。山倉特有のから元気が、ふつふつと伝わってきた。
「無理しなくていいよ。ここには僕しかいないんだから」
「そうだよね、やっぱり、鷹野君しかいないんだよね?」
山倉は自分の体を起こそうとしていた。
「まだ寝てたほうがいいよ」
「ううん、大丈夫だから」
僕の制止も徒労に終わり、山倉は上半身を起こす。
大量の涙が溢れ出す山倉の瞳。そのまま涙を拭うことなく、山倉はぽつりと呟いた。
「道具、だもんね」
息が一瞬止まり、鼓動が速度を上げる。
「聞いてたの?」
「殴られた後も、かろうじて意識はあったからね」
「そっか」
できれば聞かないでほしかった。あんな言葉を実の親から聞いたら、僕もショックで立ち直れないだろう。
「悪い夢だって思いたかったけど、やっぱり夢じゃなかったんだ」
わななく体を押さえ込むように、両手で自分の体を包んだ。
「わたしが、わたしがね、今までやってこれたのはね……」
震える体をそのままに、山倉が語りだす。
「希望があったからなの」
「希望?」
「昨日、話したよね? わたしはお母さんと一緒の時間がほしいって。お金なんか要らないんだって。いつか、わたしの気持ちに、お母さんが気づいてくれるんじゃないかって、そんな願望があったの」
僕は無言で耳を傾けていた。余計な口を挟むよりも、いまは山倉の告白を受け止めるべきだと判断した。
「だけど、認識が甘かったんだって身をもって知ったよ。お母さんはまったく気づいてくれてなかった。当然だよね。わたしは道具なんだもん。愛情なんて与えてもらえない。今までも、そしてこれからもね」
山倉は青い顔色で、腕にさらなる力を込めた。山倉の白い肌に、爪が食い込んでいく。
「それにもし、気づいてくれるような人だったら、お父さんだって……」
「山倉、もういいから、今はゆっくり休むといいよ」
山倉の腕を体から引き離すと、今度は両手で僕を抱きしめてきた。
「もう、ダメ。もう限界だよ。もう、もう生きたくない!」
絶叫は僕の耳元で叫ばれた。山倉の頭を逆に抱きしめて、頭を撫でる。
「山倉、落ち着くんだ」
「いやだ、もういやだ! わたしはなんで生きてるの? ただお母さんに利用されるためだけ? 道具としての価値しかないのに、どうして生きなきゃいけないのよ!」
「山倉!」
「みんな、みんな気がついてよ! 張り裂けそうな苦しみで、今にも心は砕ける寸前なのに! どうしてわたしの苦しみに誰も気づいてくれないのよ!」
山倉を抱える腕に、力を込める。山倉の感情が伝わり、胸に激痛が走った。
「山倉……死ぬなんて、もったいないこと言うなよ」
「だって!」
反論しようとした山倉の口を、手で塞ぐ。落ち着きを取り戻すのを待ってから、僕は手を外した。
「死んだら、みんなとお別れなんだぞ」
「いいよ、わたしが死んだって、だれも悲しまない」
「そんなことないさ。僕はもちろん、三村や吉沢だって悲しむよ」
頭を撫でながら、なだめるように諭す。
だが、山倉は小さく首を振った。
「だめだよ、やっぱり。いつだって、わたしは一人なんだ。誰もわたしのこと、友達だなんて思ってないよ。本当の友達なら、わたしの苦しみを、分かってくれるはずだもの」
山倉は一人で苦しみ続けていた。それが痛いほどよく分かった。
だれにも頼らず、自分一人で解決しようと躍起になり、うまくいかないのもすべて自分ひとりで抱え込む。その悪循環が、山倉の心を八つ裂きにしてしまったのだ。
「ねえ、山倉」
山倉が顔を上げる。
「友達ってどういう人だと思う?」
「わたしを信頼してくれて、分かってくれる人。わたしを友達と思ってくれる人だよ」
山倉の定義に、僕は小さく首を振った。
「僕の考えは少し違うかな?」
「じゃあ、信也君にとっての友達ってなんなのよ?」
少しいらついているのか、荒々しい口調で聞いてくる。
僕は一呼吸おいてから、山倉へと話した。僕にとっての友達の定義を。
「僕にとっての友達は、僕が友達だと思える人だ」
「何よそれ。わたしと一緒じゃない」
「違うよ。山倉は友達だと思ってくれる人と言った。僕は友達だと思える人だ。相手から友達と思ってもらえるかどうかは関係ない。大事なのは、自分が相手を友達と思えるかどうかだ」
「じゃあ、鷹野君にとって友達って、相手が自分をどう思ってても関係ないってこと?」
「そうだよ」
「そんなの、おかしいよ。友達ってお互いに助け合うでしょ?」
「もちろん」
「だったら、相手から嫌われてても友達なんておかしいじゃない」
「山倉の言うことはもっともだよ。だけど、それは結果だけを求めてる。安易に友達を手に入れようとしてるだけだ。それじゃあ本当の友達は手に入らないよ」
山倉の瞳に、再び脅えが生まれていく。
僕の言葉は山倉にとって厳しいものかもしれない。だが、山倉にいま必要なのは、僕の存在よりも、信頼しあえる友人のはずだ。
「相手が山倉をどう思っているかなんて関係ないだろ? 山倉が友達だと信じることが大切だと思う。そうすれば、みんな友達のはずだろ? そして僕たちの周りに、信じてくれる山倉を、見捨てる人なんていないさ」
「確かに、鷹野君の言う通りかもしれない。だけどどうすればいいのか、わたしには分からないよ」
下唇をかみながら、山倉は顔をしかめた。心なしか瞳に涙が浮かんでいる。
「信頼してるって、口で言うのは簡単だと思う。だから僕は、本当の信頼は行動で示すものじゃないかなって」
山倉は黙っていた。聞いてくれているものと判断して、僕は続ける。
「山倉は今まで、苦しみや悲しみを胸の内に溜め込んでいた。自分の本音を伝えるのを怖がっていた。本性を出すと、嫌われるんじゃないかって脅えてた。僕たちは魔法使いじゃない。話してくれなければ、山倉の本心なんて分からないんだ。じゃあどうして、山倉は僕たちに、悩みを打ち明けられないのか。それは、相手を心から信頼していないからじゃないか?」
首を左右に振り、山倉は僕の言葉を否定した。だが、反論はしてこなかった。
「確かに自分の悩みを、他人に打ち明けるのには勇気がいるよ。だけど、僕はその勇気こそが信頼だと思ってる」
「勇気が……信頼?」
「勇気を出して、悩みを告白するということは、その人を信頼しているからだろ? 僕に悩みを話した時だって、かなりの勇気が必要だったと思う。だけど、僕はそこに山倉の信頼を感じたんだ」
今度は頷いてみせる。僕も自然と、頭を下げていた。
「悩みを話したからって、すぐに解決するとは限らない。だけど、山倉には思いつかなかった解決方法を、誰かが思いつくかもしれないだろ? 山倉が勇気を出せば出すほど、その可能性はあがるんだ」
細かく震えていた山倉の体が、ゆっくりと落ち着きを取り戻し始めた。
ベッドへと腰掛けて、山倉の肩に手を乗せる。顔を上げる山倉に、僕は精一杯の笑顔を送った。
「僕の言ってること、分かってくれた?」
涙を拭いながら、山倉は首を縦に振った。
「鷹野君、わたしが間違ってたよ。回りのこと気にしてるって言いながら、一番に自分のこと――自分が傷つかずにすむ方法ばかり考えてた。鷹野君の言葉で目が覚めたよ。だけど……」
「だけど?」
「もうみんな、呆れてるんじゃないかな? 誰も信頼できないわたしに、愛想を尽かしてるんじゃないかな?」
山倉の頭を抱えて、僕は優しく教えてあげた。
「間違いに気がついたのなら、それを直せばいいだけさ。いまならまだ間にあう。山倉は幸せになれるんだ。だから死ぬなんて……生きたくないなんて言わないでくれよ」
しばらく僕たちはそのまま動かなかった。山倉のすすり泣く声だけが、僕の耳を捉えて離さなかった。
先に動きがあったのは、山倉だった。抱きしめる僕の手を優しく振り解き、にっこりと微笑んでみせる。
「鷹野君に出会えてよかった。鷹野君がいなかったら、わたし、絶対にダメになってた」
「山倉の力になれたなら、僕も嬉しいよ。だから、元気出して。もう……」
「うん。死にたいなんて言わなくて済みそうだよ。みんなにも全部話してみる。果歩ちゃんにも、すごく心配かけてると思うし、三村君は……ニュースキャスターだからなぁ」
「大丈夫だよ。三村がいくらニュースキャスターでも、本当に苦しんでる人の悩みを、暴露したりなんかしない。そんな奴なら、僕は最初から友達になったりしてないよ」
「そうだね。鷹野君の親友だもんね」
山倉は大きく背伸びをしてみせた。目の前を見据えた瞳は、燦然としている。
「なんだか、すごく世界が輝いてみえる。いままで濁った泥水のような世界だったのに」
僕の肩を引き寄せると、山倉は明るい声で笑っていた。
「もう大丈夫だよ、信也君! わたしの中にあったわだかまりが、薄れていってる気がする。わたしは一人じゃない。一人で苦しむ必要はないんだよね!」
山倉にほおずりをされてしまい、慌てて僕は山倉から離れた。
「あはは、真っ赤になっちゃってる。そんなに照れなくてもいいじゃない」
「て、照れるよ……」
口ごもる僕に、山倉は口元を緩ませた。
映える微笑みに、僕は確信する。山倉はもう大丈夫だ。
「それじゃあ、そろそろ帰るよ。明日また来るから」
「うん、待ってる」
山倉に手を振り、部屋を出ようとすると、
「鷹野君……」
背後から山倉の声が聞こえ、振り返った。
山倉は僕から視線をそらしつつ、なにやら手をもじもじとさせていた。
「あのね。果歩ちゃんにも三村君にも、全部話すつもり。だけど、やっぱりわたしの一番は鷹野君なの」
「ありがとう。山倉にそこまで想ってもらえるのは嬉しいよ」
「うん。だから……ずっと側にいてくれないといやだからね?」
山倉が脅えた表情で、僕を見つめてくる。
動悸が一度だけ高鳴る。それでも、後戻りはできなかった。
「当たり前じゃないか。山倉が僕を必要としている限り、ずっと一緒にいるよ」
「本当に?」
「嘘なんていわない。山倉さえよければ、僕の家に住んだっていいさ」
「えっ、いいの!?」
「もちろん。自宅にいたら心が休まらないでしょ? 僕の家だったら狭いけど、母さんもいるし。ちょっと怖いけど、悪い人じゃないからさ」
「ありがとう、ありがとう鷹野君!」
ベッドの上で何度もお礼を言いながら、頭を下げ続ける。
僕はそんな山倉に軽く手を振り、病室を後にした。