10月25日α(3)
背後の扉が開き、若作りをした女性が入ってくる。
手にはビー玉よりも大きな宝石の指輪が、バッグや服装はブランド品が、そして周りを包む空気には、えも言えぬ香水の匂いが漂っている。
顔に塗りたくられた厚化粧に、紫がかったレンズのメガネ。あきらかに成金といった、そんな風貌だった。
「優美」
「何よ……」
山倉を呼び捨てにする女性と、普段の山倉からは考えられない仏頂面。
この女性が山倉の母親だと理解するのに、そう時間はかからなかった。
山倉よりもお金を大事にするという、山倉の母親は、葉巻に火をつけながら山倉をにらみつけた。
「この子はだれなの?」
僕を顎で指し、山倉の答えを待つ。山倉は僕のそばへと寄り添い、強引に腕を組んでみせた。
「わたしの彼氏だよ。文句ある?」
「あるに決まってるでしょう」
「そう。でもわたしには関係ないわ。わたしが愛しているのは鷹野君だけなんだから」
普段の僕なら必要以上に照れて、顔を真っ赤にしていただろう。
だが、その場の雰囲気が、僕を更なる緊張の領域へと運んでいった。
「あなたにはすでに婚約者がいると、何度も言ったはずです」
「いやよ! 会ったこともない男と結婚するなんて!」
「いやなんて言葉は言わせません。これは山倉コンツェルンの未来のために必要な結婚なのですよ」
「ようするに政略結婚でしょ!」
食い入るように向かい合い、目をぎらつかせる。
山倉の母親が先に目をそらすと、そのまま僕に近寄り、睨みつけてきた。
「あなたがどこの誰かは知りませんが、優美はすでに婚約者がいるわ。すぐにお引取り願います」
「うそ! でたらめだよ! 鷹野君!」
二人に挟まれて戸惑う僕に、母が吐き捨てるように言い放った。
「どうせ財産目当てでしょうが」
「へっ?」
完全に思考になかった意見に、僕は反応できなかった。代わりに山倉が目を吊り上げ、母の胸倉を強くつかみあげる。
「鷹野君はそんな人じゃない!」
「なぜ断言できるの? 人間なんてみんな、お金の前では本性を現す。この子もすぐにそうなるわ」
「な、なりませんよ!」
慌てて否定する僕に対しても、母は平然としていた。
「お金目当てではないと?」
「も、もちろんですよ!」
「先ほどからどもってますが、それでも違うと言い切れるのかしら?」
「当然ですよ!」
半ば苛立ちで我を忘れながら、僕は強い調子で怒鳴った。山倉も母から手を離し、僕に同意してくる。
「そうよ。鷹野君はお母さんとは違うのよ」
「どう違うのかしらね」
「お母さんには、お金で得られない友情なんて、分からないのよ」
片方の眉毛だけを吊り上げ、僕を見下してくる。山倉の母を嫌う気持ちも、いまなら嫌というほどよく分かった
「鷹野君、わたしの部屋に行こうよ」
山倉が僕の手を引っ張る。背後から重いものが動く、低い音が聞こえた。
振り返ると、玄関においてあった装飾用の壺を掴んだ、山倉の母親の姿があった。
「危ない!」
僕の声はわずかに遅かった。振り下ろされた壺は、的確にターゲットへと振り下ろされた。鈍い音が耳を襲う。
だが、直後のつぼが弾け飛ぶ乾いた音で、その音は辺りには響かなかった。
そのまま山倉は、床に散らばる破片と一緒に沈んでいった。
「山倉……山倉!」
慌てて山倉を抱き起こす。
壺で殴られた山倉のこめかみから、ドロッとした赤い鮮血が染み出てくる。その液体は頬を伝って、床へと滴り落ちていった。
肉体から力は消えうせ、目を閉じたままピクリとも動かなかった。
延々と血を流していくだけの山倉を、冷たい視線で見下ろす母親。
「ふぅ、高い壺なのに……」
手に残っていた壺のふちを床へと捨て、母親は平然と立ち去ろうとする。
「どこへ行くつもりですか! 早く、救急車を呼んでください!」
「自分で呼べばいいじゃない」
「な、なんだって!? アンタの娘が死ぬかもしれないんだぞ!」
慌てもせず、母親はポケットの中から、葉巻を取り出す。
「必要なのは、大手業者の御曹司と結婚できる道具よ」
「道具!?」
「反抗なんてされたら、先方に悪い印象しか与えないわ。もっと聞き分けのいい道具を養子として迎えたほうがよさそう。だから、その子はもう用無し」
「ふざけるな!」
「ふざけてないわ。それじゃあ会議があるから、あとはあなたの好きにしてちょうだい。
救急車を呼ぶなら優美の電話でね」
高笑いしながら去っていく母親を、追っていって殴るのはたやすいだろう。
だが、そんな暇はなかった。一刻も早く山倉を病院に連れて行かなければ――その先は考えただけでも背筋が凍る。
山倉の母親の言葉を当たり前のように無視して、食事をした部屋に備えられたレトロ風の黒い電話から、一一九番へと通報する。
僕は救急車の到着までに、知りうる限りの応急処置を施した。
出血部位に布をあて、指で骨に向かって圧迫する。これで大量出血を防げるはずだ。
「鷹野、君?」
かすれ声に反応し、山倉の様子を伺う。意識を取り戻してはいるが、顔面は蒼白で目も虚ろだった。
「救急車は呼んだから。喋らなくていいよ。ゆっくり、落ち着いてね」
「ありがとう。鷹野君にはお世話になりっぱなしだね」
山倉が再び目を閉じる。そこでようやく救急車が山倉邸に到着した。
救急員が慌てて山倉を運び、僕も一緒に救急車へと乗り込む。山倉の生死が問われている今、山倉を救うために来た僕が、放っておけるわけがない。
山倉と僕は、そのまま近くの病院――吉沢総合病院へと運び込まれた。
二時間ドラマでよく見かける、緊急治療室に運び込まれる光景を目のあたりにする。
そのまま手術中の赤いランプが、煌々と灯る。騒々しかった病院内は、瞬く間に静かになっていった。
手術室の前に備えられた長いすに、腰を下ろす。組んだ手の上に額を乗せて、がっくりとうなだれた。
もしかしたら、このまま死んでしまうかもしれない――頭をよぎった仮定と沸き起こる悪寒を、打ち消すように何度も首を振る。
とにかく早く結果を知りたかった。もしも山倉が死ねば、念願の山倉救出は当然、失敗となる。
そうなれば、僕は史上最悪の罪人だ。愛する人の死期を早めてしまったのだから――。
その時、ふと頭にミリアの顔が浮かぶ。人の失敗を哀れんでいる――悔しくも、そんな表情だった。
ひょっとして、ミリアに中界へと戻ってもらえば、山倉の生死が分かるのではないか?
わらにもすがる想いで、病院内に設置された公衆電話を探し、自宅へと電話をかける。
残念なことに、電話に出たのはミリアではなく、母さんだった。
「はい、鷹野ですけど」
「母さん! ミリアは帰ってきた!?」
「美利亜? いや、まだ帰ってないぞ。それよりお前、なんで姉さんを呼び捨てにしてるんだ?」
水が下流を流れていくような音で、頭から血の気が引いていく。
「そんなことより!」
「そんなこと? 年長者を呼び捨てにする無礼が、どうでもいいことだってのか?」
「ああ、もう! 訳はあとで説明するから、姉さんが帰ってきたら、すぐ吉沢総合病院へ来るように言って!」
母さんの返事を聞く前に、電話を切る。手術室の前へと戻り、再び長いすに座った。
手術中のランプはまだ消えていない。山倉の無事を祈る、それしかできない自分がはがゆかった。
何度もランプを見上げては、赤い光を確認し、すぐに顔をうつむかせる。
時間は淡々と過ぎているだろう。だが、僕にとってその時間は止まっているように感じていた。
灯りっぱなしのランプ、人影のない手術室の前、聞こえてくるのは、自分の呼吸と鼓動の音だけ。
手足が、意に反して震えだす。こぼれそうな涙をこらえるのに、僕は必死だった。