10月25日α(1)
十月二十五日 土曜日
鉄扉のように重かったまぶたが、ゆっくりと開く。目の前には、愛しい山倉がやんわりと微笑みながら、僕を見つめていた。
「なんだぁ、夢かぁ」
「なにが夢なの?」
夢の住人に声をかけられ、一瞬で意識が覚醒する。
勢いよく飛び起きると、僕はベッドの上にいた。
山倉が口元に手をやりながら、小さな声でこっそりと笑っている。
「や、山倉?」
「どうしたの? もしかして寝ぼけてる?」
寝癖のついた髪の毛を押さえながら、頭の中を整理する。
ようやくそこで、昨日山倉が泊まったことを思い出していた。
「あれ? どうしてベッドで……」
「わたしが運んだんだよ。そんなに長い距離じゃないし、体力なら自信あるからね」
山倉は力瘤を作りつつ、おどけてみせた。
彼氏よりも彼女が頼もしいというのは、少し複雑な心境ではある。
「鷹野君のお母さんが怒ってたよ。さっさと朝ごはん食べてくれないと片付かないって」
「そっか。いま何時?」
「九時過ぎだよ」
「山倉は、もう食べたの?」
山倉は首を振ってから、恥ずかしそうに呟いた。
「まだだよ。鷹野君の寝顔見てたからさ」
これでいったい何度目だろう。首から上だけがまるで別の次元に飛ばされ、炎で熱されたような感覚だ。
「それじゃあわたし、先に降りとくからね」
部屋を出て行った山倉に続き、階段を下りていく軽やかな足音が聞こえてくる。服を着替えると、山倉の後を追った。
ダイニングキッチンへと行くと、テーブルの上に朝食が準備され、その上にラップがかけてあった。
どうやら今日の朝食はパンとハムエッグらしい。
「やっと起きてきたか、この万年寝太郎が」
奥から出てきた母さんから、第一声で罵声を浴びせられ、浮き足立った気分がなえていく。
「優美ちゃん、こいつの寝坊癖、なんとかならないか?」
「いつも遅刻寸前ですからね。治らないかもしれませんよ」
「山倉まで……」
がっくりとうなだれる僕を見て、二人が大声で笑う。
気分としてはあまり良くないが、山倉の笑顔は今までに見たことのないような、とてもすがすがしいものだった。
「冗談だよ、鷹野君。今度から迎えに来るから、一緒に学校に行こうよ」
「それはいいアイディアだ。信也、まさかお前、女の子を待たせるなんてデリカシーの欠けたこと、しないよな?」
母さんから脅威のプレッシャーをかけられて、僕はおずおずと頷いていた。
般若のような眼差しで凝視され、否定などできるわけがない。
「それじゃあ、月曜日から迎えに来るね」
「そうしてくれるか、優美ちゃん。悪いな、信也が迷惑かけて」
「迷惑だなんてとんでもない。鷹野君がいなかったら、わたし……」
口ごもる山倉に、僕は胸が苦しくなった。
少しずつ恐れていた事態へと向かっている。
山倉が僕に依存しすぎると、僕が死んだときの苦しみが増すだけだ。
山倉の支えになれる、心からの友達を作ってほしい。もちろんそれは、僕以外のだれかでなければ。
僕のことを忘れてほしくはない。だが、僕だけを想い続けないでほしい。
それが僕の、正直な想いだった。
「鷹野君、今日はどうするの?」
不意に聞かれて、我に返る。
「えっと、今日は……」
考えつつ、ふとカレンダーを見やる。十月二十五日――自分で言うのもなんだが、今日は僕の命日だ。
山倉を迎えに行く途中、僕は子どもをかばって――。
「まずい!」
「んふ?」
「どうした、信也?」
勢いよく立ち上がった僕を、目を丸くした二人――山倉はパンをくわえたまま――が僕を見上げる。
「ごめん、山倉。ちょっと用事があるんだ。悪いけど待っててくれるかな?」
「信也……」
母さんの冷たい視線が突き刺さる。だが、これだけはどうあっても譲れなかった。
「いいよ。わたしも着替え持ってきてなかったから、一度家に帰ろうと思ってたし」
「じゃあ、用事が終わったら山倉の家に行くよ。ごめんね!」
「うん、じゃあ家で待ってる」
山倉と別れ、僕は急いで外に出た。目指す場所は一つ、病院前の交差点だ。
秋空にしては強い日差しを浴びながら、記憶を簡単に整理する。
初めて体験した今日、僕は一人の少女を助けた。その結果として、命を落としてしまったのだ。
二度目である今日、少女は同じように横断歩道へと飛び出すだろう。その場に僕がいなければ、少女の運命は――考えただけでも鳥肌が立つ。
全力で住宅地を駆け抜け、吉沢総合病院へと向かう。件の横断歩道にたどり着いた時、幸いにも少女の姿はまだなかった。
僕は横断歩道を渡った。反対側から飛び出すよりも、そばにいた方が助けやすい。
十分ほど経過して、少女とその母親が姿を現す。
僕の記憶どおり、そこで少女の母親は知人と出会い、立ち話を始めた。
少女はよたよたと横断歩道へと進み、道路に飛び出す直前で、僕は少女を引きとめた。
「子ども、危ないですよ?」
「あっ、す、すみません」
その直後、横断歩道へ突っ込んでくるトラック。僕にとっては二度目でも、少女の母親には、壮絶すぎる光景だった。
トラックは交差点を横切った時点で、急ブレーキを踏んでいた。辺りの人影から、ざわめきが起こる。
刹那、僕の両手をがっちりとつかみ、少女の母親が涙目で僕に訴えかけてきた。
「あ、ありがとうございます! 娘の命の恩人です!」
「あ、いや、そんな大した……」
「あなたがいなければ、娘は今頃あのトラックにはねられていました!」
「いや、まあ、そうかもしれませんね……」
母親の必死の形相にうろたえつつも、なんとか返事をする。少女は何が起こったのかいまいち分かっていないらしく、きょとんとしていた。
母親は知人への挨拶もそこそこに、僕を引っ張った。
「ぜひともお礼をさせてください!」
「いや、別に、そんな気を使っていただかなくても」
「いえいえ、娘の命の恩人ですから。ただで返すわけにはいきません」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「でしたら、喫茶店でコーヒーでも。せめてそれぐらいはさせてください!」
母親は僕の手を引く力を、まったく緩めようとしなかった。仕方なく僕は了承し、近くの喫茶店まで移動した。