10月23日(3)
家の前で息を整えてから、念のために瞳を拭った。袖に残った小さな染みが、正しい判断だったと教えてくれる。
「ただいま」
「おう、お帰り」
家に入ると、母さんが出迎えてくれた。ミリアの姿は見当たらない。
ミリアについて聞こうと口を開くと、それより早く母さんが尋ねてきた。
「信也、美利亜をみなかったか?」
「姉さん、まだ帰ってないの?」
「ああ。遅くまで出歩くなって口がすっぱくなるほど言ってるのに、なにを聞いてんだかな。まったく、鍵をかけて外に締め出してやろうか」
天井を見上げて、僕はため息をついた。母さんを怒らせるという行為が、どんな災難を呼ぶか、ミリアは分かっていないのだ。
だいたい、僕のサポート役として来ているミリアに、出歩く用事などないはずだが。
「信也、悪いけど探してきてくれないか?」
「僕が?」
「いいだろ? どうせ暇なんだし」
暇ではない。勉強――はどうでもいいが、山倉を救うために全力を尽くすという使命が
ある。
かといって、ここで母さんを敵に回すのは頭のいい行動とはいえない。
「わかった。行って……」
僕が嫌々ながらも承諾しようとしたところで、背後から扉の開く音がした。
当然、帰ってくる人間は一人しかいない。
「ただいまぁ!」
元気よく、そしてタイミング悪く、ミリアが帰宅の挨拶を飛ばす。
予想通り、母さんのカミナリがミリアへと落ちていった。
「美利亜! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだ!」
「えっ? 信也もいま帰ったんじゃ……」
「信也は学校に行ってたんだ! いつまでもぶらぶらしてるお前とは違うんだよ! 罰として明日は外出禁止!」
「えっ、ええぇ!?」
元気一杯だったミリアの顔が、いっきにしぼんでいく。エンマ様に罰について宣告された場面の再現だ。
「まったく、この年齢になってまで外出禁止を使うとは思わなかったぞ! 信也も言うことを聞かないほうだったが、美利亜は輪をかけてひどい!」
確かに僕も、よく外出禁止を受けた。
大抵は僕のいたずらが原因だったが、たまに母さんの虫の居所が悪かったために、理不尽な外出禁止を食らう場合もあった。
その内容は単純明快で、外出してはならないというもの。学校にも行けない。
そして母さんが仕事で家にいなくても、僕が外出すれば、すぐに察知する。その理由は未だに解明されていない。
だが、そんな罰を受けていたのも小学生までだ。
中学生になってからは、母さんの恐ろしさを悟っており、無意味ないたずらなどしなくなった。
「いいか、もう何度も言わせるな。早く家に帰れ! 働いてわたしに楽をさせろ! わたしの言うことを素直に聞け!」
「何度もって、言われたことないのに……」
「なんか言ったか!?」
体を震わせながら、涙目で頭を乱雑に振りまくる。
ミリアの整った黒髪が、僕の顔に当たっているのにも気づかずに。
「とにかく、今日はもう夕飯を作る気分じゃない」
「あちゃ……」
「信也、なんか言ったか!」
僕も負けじと、全力で首を振っていた。
「カップラーメンでも食べとけ! ちゃんと片付けもしろよ!」
母さんは鼻を荒々しく鳴らすと、自分の部屋である居間へと引っ込んでいった。
勢いよく閉められたふすまが、ビンタのようなするどい音を発する。
「信也君のお母さん、すごいねぇ……」
ようやく母さんの雷から解放され、ミリアが顔全体をふっくらとさせている。
「まったく、こっちはいい迷惑だよ。ミリアのせいで夕飯がカップラーメンになっちゃったじゃないか」
「わ、わたしのせいなの?」
「機嫌が悪くなると、母さんはご飯を作らないんだ。そんな時は、決まってカップラーメンなんだぞ」
「カップラーメンって……なに?」
予想外の反応が返ってきて、一歩だけ足を引いてしまった。どうやら中界にカップラーメンはないようだ。
「ったく、食べさせてやるよ」
ダイニングキッチンへと移動すると、ミリアを席へと座らせる。
カップラーメンを二つ持ってきて、お湯を入れる。その後三分待ってから、蓋を開けさせた。
「わぷっ!」
興味津々で覗いていたミリアの顔を、濃厚な湯気が襲い掛かる。
あたふたしてるミリアに苦笑しながら、先に食べる。まずくはないものの、手料理に比べれば、どうしても劣ってしまう感が否めなかった。
だが、ミリアは初めて食べたカップラーメンに舌鼓を打っていた。
「美味しいじゃない! しかもお湯入れるだけでいいなんて。仕事に疲れた夜にはピッタリね」
丸い瞳を細長く伸ばし、うっとりとしている。
はたから見ればモデル級の美少女であるミリアが、カップラーメンで感動している。そのギャップが妙におかしかった。
食事を終えた僕たちは、素早く二階へと上がった。もちろん片付けは済ませてある。
僕が自分の部屋へと入ると、ミリアが続いて入ってきた。
「どうかした?」
尋ねると、ミリアは目を吊り上げていた。
「どうかした? じゃないでしょ! せっかく今日も信也君に協力してあげようとしてるのに!」
また弟に君づけしている。だが、何度言っても無駄のようなので、諦めた。
「今日は特にないよ」
「報告とかあるでしょう? 例えば優美ちゃんの骨折は防げたの?」
「ああ、それは大丈夫だよ。ただ……」
「ただ?」
僕は黙っていた。ミリアが顔を覗きこんできても。
「どうしちゃったのよ。急にしおらしくなっちゃって。優美ちゃんを必ず救うって宣言したのは嘘だったの?」
無意識の内に、僕はミリアをにらみつけていた。ミリアの得意げな笑顔が怯えへと変わる。
嘘なわけがない。山倉を救いたいという気持ちはいまも同じだ。なのに、心の中心に空洞が開いているのはなぜだ?
「なあ、ミリア」
「なに?」
「僕は、あまり山倉と仲良くしない方がいいよね?」
「なんでそうなるわけ?」
ミリアが困惑しながら、逆に聞き返してきた。そこで保健室の出来事と考えをミリアへと伝えてみた。
ミリアなら僕とは違う答えを出せるかもしれない――そう期待しながら。
「簡単なことじゃない。優美ちゃんを見守りながら、仲良くならなければいい。信也君の言う通りだと思うよ」
「そう、だよね。だけどなにかしっくりこないんだ」
「なにがしっくりこないのよ」
「いや、なんだろうな。自分でも分からないんだ」
「なによそれ、変なの」
ミリアが勢いよく、ベッドへと腰掛ける。
はっきりしない態度の僕に、いらついているようだ。
「もしかしてさ、優美ちゃんの気持ちとか関係なしに、信也君が仲良くしたいだけじゃないの?」
またも脳裏に衝撃が響いた。ミリアの何気ない一言は、いつも僕の脳細胞を活発にさせてくれる。
僕と仲良くなれば、山倉は苦しむ可能性がある。そう思うのなら、山倉と距離を置けばいいだけの話だ。
だが、それを僕の心は拒否している。せめて一週間だけでも、山倉との思い出を作りたい。
それが心に空洞を作っている理由――交通事故で死んでしまった僕の未練なのだ。
「どうしたいのかは知らないけどさ。あまりいろんなことに手を出すと、肝心の優美ちゃんの命を救うっていう、最初の目的がおろそかになるよ。今は自分のやるべきことをやれば、それでいいんじゃないかな?」
ミリアのいうとおりだ。山倉との恋愛にかまけている場合ではない。
肝心なのは山倉を救うこと。その一点だけだ。
「うん、ありがとうミリア。なんだかふっきれたよ」
「まったく、信也君たら、わたしがいないとなにもできないんだから」
子どもをあやすように、微笑むミリア。抗議したいのは山々だったが、確かに今の時点ではミリアの言った通りだ。
きっと中界での経験が、生きた人間には理解しがたい死者の心理を、容易に汲み取らせるのだろう。
「困ったときはいつでも相談しなさいよ。わたしは信也君のパートナーなんだから」
「頼りになるパートナーで助かるよ」
「……なんか、言い方に棘があるような」
「ないない。本当に頼りにしてるって」
憮然としながらも納得したのか、ミリアは部屋から出ていった。
ミリアを見送ると、僕は机の上のパソコンを立ち上げて、調べ物を始めた。
山倉と仲良くならずに守るには、まず山倉を突き落とした奴らをどうにかするべきだと考えたのだ。
僕の調べ物が効果を発揮すれば、山倉に手を出すものはいなくなるし、発揮しなくともハッタリにはなる。
調べ物をノートに書き込みながら、頭へとつめこんでいく。寝る前にもベッドの中で復唱した。
明日の行動次第で、また未来は変わる。山倉を救うための未来が、着々と形成されていくのだ。そう考えると、興奮してあまり眠れなかった。