10月25日(6)
「んじゃ、こっちよ」
僕の手をつかんで進もうとするミリアを、軽く力を入れて振りほどく。
「小さな子どもじゃないんだからさ。引っ張らなくてもついていくよ」
「そう、じゃあついてきてね」
ミリアはそのまま先ほどと同じように、壁をすり抜けていってしまった。死んだ人間にしかできない芸当だろう。
「そっか、だからさっき手が扉をすり抜けたんだ……」
一人で納得しつつ、一歩を踏み出そうとする。その一瞬に、山倉と母さんの姿が視線の隅を横切った。
振り返ると、山倉と母さんは並んだまま体を小さく震わせていた。涙はすでに枯れてしまったのか、瞳を拭うしぐさはない。
未練を振り切るよう視界から二人を外し、ミリアの後を追って壁への一歩を踏み出す。
すると、なぜか無警戒の頭に、鈍痛が響いていた。壁へと衝突したのと同じ感覚だ。
「あ、あれ? どういうことだ?」
頭を抑えて目の前の壁を凝視していると、同じように頭を抑えてミリアが出てくる。
「もうっ、どうしてついてこないのよ! 迷子になられたら困るんだから、さっさと来てよね!」
どうやらぶつかったのは壁ではなく、ようすを伺いに来たミリアだったらしい。
「死んでいる人同士はぶつかるってわけか」
再び腕を掴み引っ張るミリアに、今度はおとなしく引っ張られた。
壁から病院の廊下へと出ると、否応なしに薬品の匂いが鼻をくすぐってくる。
だれも見えないのをいいことに、ミリアは足早に廊下を進んでいった。それも病院の出口とは逆方向――屋上へと向かっている。
「ミリア、どこに行くんだ?」
「中界だっていってるじゃない。何を聞いてるんだか……」
ブツブツとぼやきつつ、ミリアが僕を引っ張っていく。どうやらぼやくという行為はミリアの癖のようだ。
「さっ、ここから行くからね」
屋上に出てきたミリアが指差す。その先には、白くぼやけぎみの階段が空へと向かってのびていた。
どこまでも続く虹色の階段の終点は、肉眼では確認できない。
「これを上っていくのか?」
「大丈夫よ。現界でいうエスカレーターみたいなものだから。さっ、行くわよ」
立ち上る階段の一段目へと足を乗せると、ミリアの言ったとおりに、歩かずとも上方へと連れて行かれる。
少しずつ小さくなっていく町並み。地平線に日は沈みかけ、真っ赤に染まった空が哀愁を誘う。
こんな高い場所から生まれ育った町並みを見るのは初めてだった。同時に最後でもあるだろう。
吉沢総合病院のすぐ隣にある駅からは、電車の走行音が聞こえてくる。
そそり立つ銭湯の煙突や、一年半ほど通い続けた高校など、思い出のある大きな建物を一つ一つ確認する。
そして最後に自分の家を網膜に焼き付けておいた。
小さな家なのでほとんど見えなかったが、緑色という特殊な屋根のおかげで、確認はできた。
瞳から、枯れたと思っていた涙がこぼれ落ちる。
ミリアの言った通り、この街はもう僕の街ではない。あくまで過去の街だ。
そう考えただけで、急激に胸が苦しくなった。
「今まで、ありがとうございました」
温かく見守ってくれた人々、いつもそばにあった街並みに、感謝の念を込めて頭を下げる。
「さてと、もういいかな?」
頭を上げると、背後からミリアが尋ねてきた。無言で頷くと、得意げに指を一本立ててみせる。
「それじゃあ今から天界と地界について説明するわね。地界の説明なんて信也君には不要だろうけど、一応ね」
僕の返事も聞かずに、ミリアはなれた口調で説明を始める。どうやらこれも案内人としての仕事らしい。
「さっきも言ったけど、簡単に言うと天界と地界は現界人に天国とか地獄って呼ばれてる場所ね。とりあえず殺人や銀行強盗でもしないかぎり、大抵は天界に行けるわ。天界での生活は――まあ現界人の生活とかわらないかな? 朝起きて、仕事に行って……」
「仕事って……死んでまで仕事しなきゃいけないのか?」
「死んでまでって、信也君は仕事してるわけじゃないでしょ?」
ミリアにするどく指摘され、ウッと言葉が詰まる。確かに働いたことはないが、あまり働くという行為に好感を持ってないのも確かだ。
仕事で疲れたとぼやく母さんの姿は、もはや日常の風景として、脳裏にすり込まれてしまっている。
「まっ、仕事をしなくても大丈夫よ。最初はそう望む人がほとんどだしね。だけど考えてみなさいよ。目標もなく毎日ボーッと過ごすなんて退屈でしょうがないと思わない?」
言われてみれば、確かにその通りかもしれない。仕事をしない一日というのは、学校に行かない一日と同じようなものだろう。たまにならそれも嬉しいが、毎日となればつまらなくなってくる。
「だから仕事っていっても暇つぶしみたいなものなの。心配しなくても大丈夫だって!」
僕の背中に力いっぱい、平手打ちを浴びせた。痺れるような痛みが広がっていく。
「あと、天界の人間は将来的には生まれ変われるわ。いつになるかは分からないけど、生まれ変わりたいという嘆願書を出せば、少しは早くなるらしいよ。もちろん、今までの記憶なんかは無くなるんだけどさ」
そこで一旦深呼吸をし、今までとは打って変わって暗い声を出した。
「問題は地界の方ね。悪い人と、あとは自殺した人かな? エンマ様がよく言ってるんだけど――生きるための努力が報われず死んでしまう人もいるのに、自ら命を絶つなど言語道断――ってね。地界に落ちた人は鬼たちによって半永久的に苦しめられるの。その方法は様々なんだけど、その苦しみから解放されるのは、鬼が勢い余って殺してしまった時だけだって。怖いわよねぇ!」
暗い声とはいえ、それを笑顔で説明するミリアの方が恐かった。
「まっ、信也君は悪い子じゃないみたいだから、天界に行けると思うけどね」
ミリアはケラケラと笑っているが、今の段階では天界や地界の様子よりも、山倉の未来に何が起こるかの方が気がかりだった。
話半分に適当に相槌を打っていると、ようやく階段の頂上が見え始めた。
「ついたついた。ここが中界です。ようこそ信也君!」
ようこそと言われても死後の世界なのだ。できれば歓迎されたくない。