海老原伴太郎という人物
伴太郎は延宝五年(一六七七年)生まれ。現在四五歳。家族は水戸藩開藩当時よりの代々三一(さんぴん:下級武士)であったが、元禄九年(一六九六年)若干十九歳で、望月家の亜流ながらも同派の流れを汲む神武真興流剣術の師範代となり、翌年免許皆伝を授かる。二十歳の年で免許皆伝とは、余程天賦の才に恵まれているのか異例の大抜擢である。
その後は、水戸藩三代目藩主、綱條公の陰なる警衛に勤番する者として二十年ほど仕え、綱條公の没後は将軍吉宗公より類い稀なる剣術の腕を買われて、江戸城の殿中菊の間に小姓組番頭らとともに詰め、将軍の直接警護に当たるようになったという。
その後、城内で二度にわたる狼藉者(ろうぜきもの:暗殺者)を手打ちにし捕獲した功績が認められ、将軍吉宗公より絶大な信頼を得ることになった。
ところが彼にとって殿中にほとんど詰めている勤務形態は苦痛であったらしく、一年ほどした後、自ら職を辞し江戸城を出る。そして、その二年前に伊勢国度会郡の山田奉行から江戸の町奉行に抜擢された大岡忠相(越前守)のもとに仕えるようになる。
ほどなくして伴太郎は町奉行の筆頭与力になり奉行の警護班をとり仕切る重役を任される。与力と言ってもいわゆる御家人(御目見以下)ではなく位の高い旗本(御目見以上:おめみえいじょう、将軍に接見することの認められている者)の位や権限を与えられており、役方(文官)とともに江戸城下の治安を預かり市中を練り歩くようになった。
しかし、伴太郎はやがて悪徳なことで知られる幕領代官の陣屋(代官所)へしばしば出入りするようになり、それまでの名声や華々しい功績とは逆に、今では完全に悪の手に染まってしまっているという。
見回りと称して、次々と稽古場荒らし(道場破り)をして金を強請ったり、主の娘や孫娘を手篭めにしたりさらったりして遊郭へ売りさばくなど、悪業の限りを尽くしているという。また、仕置人(殺人請負人)としての裏の顔も持っていて、そこでもまた法外な報酬を得ているらしい。しかし、かつての江戸城内の人脈を利用して、幕府の若年寄らに、手に入れた莫大な金の一部を渡しており、完璧なまでに悪業は黙認されているという。江戸城内の番方ですらそうであるから、ましてや町奉行の与力や同心などは、彼に指一本触れることさえできない。もはや放免するしかないのだ。
しかしお上(幕府の老中や奉行の大岡忠相)はこのことを全く知らない。巷に情報提供者を直接配置し、常に世情を詳しく調査している将軍吉宗公のもとにも恐らく伴太郎の悪業の情報は伝わらないであろう。伴太郎がかつて将軍直々の信頼を得ていたことは皆が周知の事実だから、さわらぬ神にたたりなし、というものだ。
椿太郎は言う。
「事故に遭ったと思い、諦めるよりないのだ」
「将軍様に直訴出来ぬのですか?」
「奴は陰ながらも、徳川御三家水戸藩に永らく仕え信頼のお墨付きを得ている上に、江戸城内の人脈も固めている。さらに、町奉行も味方につけており、奴のことで直訴など出来るはずがない。斬って捨てられるのがオチだ」
「では、仇討ちでは?」
「仇討? 我は南町奉行に追われている身だぞ。仇討ちなどと、正義感を振り回して、ノコノコと出て行った日にゃあ、どんなことになるか。赤ん坊だってわかろうってもんだぜ」
梨華はその言葉を聞いて、やはり椿太郎は宗家跡目となる『器』ではないと感じた。永々と続いてきた望月家の危機である。危機というより潰されたに等しい。しかも実の父が殺されたのだ。どんなに相手が手ごわかろうと、命投げうってでも報いてみせる、という気概がないのか……、と。
――何故、こんなにも冷静でいられるのだろう。
梨華はますます稽古場荒らしの伴太郎に対し恨みを募らせ、そして椿太郎に失望し久々の夫婦の交わりも冷めた人形のように為した。