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稽古場荒らし(道場破り)

 稽古場荒らし(道場破り)の主は「南町奉行、海老原伴太郎」と名乗った。格好は鎧をまとい髪が落ちていて、まるで時代を飛び越えて戦場いくさばから飛び出てきたようないわゆる落武者そのものだ。しかし、その精悍な顔付きからは鋭い眼光が放たれており、姿勢に一分の隙も感じられない。まさに稽古場荒らし(道場破り)を絵に描いたようなはまりようである。

「たのもう! 腕に覚えのござるものは出会いなされい!」

 指南役の心得所(こころえどころ)はその風貌と隙のない堂々とした態度に、皆震え上がってしまっている。

 梨華はただごとでないと察し、即座に身を小屏風で仕切られた場所に隠した。 

 師範代の清水又吉は、立ち上がり一同を見渡して、何某一刀斎(指南免許)の名を発した。

「何某一刀斎!」

「ははーっ」

「何某一刀斎!」

「ははーっ」

「何某一刀斎!」

「ははーっ」

「これ! 一刀斎! お主、ははーっと言いながらどんどんと下がっておるではないか。かの無頼漢を手討ちなされい」

「…………」

「早うせぬか!」


◇◆◇

 それは一瞬のことだった。指南免許の一刀斎は木刀をまともに胴にくらいその場にうずくまり、倒れた。口からは大量の血がほとばしり稽古場の床はたちまち赤く染まった。稽古場(道場)に通う皆の憧れの的であって見事な剣術の使い手であった一刀斎が一瞬にして打ちのめされた瞬間だった。

「ひいい!」

 一同はこれを見て一斉に土下座し額を床につけた。

 免許皆伝の清水又吉が愈々(いよいよ)覚悟を決めて木刀を握った。

 相手の稽古場荒らし、海老原伴太郎と名乗る男は五尺三寸(約一五九センチ)の木刀を上段に構えた。

「かーっ!」

 仕掛けたのは清水又吉だった。しかし、彼の木刀は握り手のすぐ脇を巧みに叩かれ無残にも弾き飛ばされた。その時点でもう又吉は丸腰であり、降参しなければ命はないものだった。

 それでも又吉は素手で相手に掴みかかろうとし、次の瞬間伴太郎の木刀の先は天井を指した。誰もが又吉の背骨が伴太郎の木刀で砕かれることを予想し目を覆った。

 そのときである。伴太郎の木刀と又吉の間に割って入ったのは、師範であり梨華の義父である望月椿太郎左衛門だった。鈍い音がして師範は又吉の代わりに不幸にも頭を砕かれその場に沈んだ。

 瞬時にして師範の『命』は彼の稽古場(道場)に散ることとなった。


 床に転がっていた師範代の又吉は気を動転させながら叫び狂った。

「師範! 師範!」

 振り返って伴太郎を睨み付けた又吉の目はもはや尋常なものではなかった。

「おのれ! 往ぬるか! 許されざる者。地獄の底まで道連れに致し候ぞ!」

 又吉は稽古場の奥正面に奉られている打刀(うちがたな)の方へ走って行った。何をしようとしているか誰にも理解できた。


 この時代の『仕合い』は竹刀しないではなく必ず木刀で行われていた。このため仕合いは命がけのものであり、ほとんど行われることはなかった。木刀と言えどもまともに打たれれば命を失うことになるからである。

 しかし、結果として同じ殺し合いであっても、『木刀』と『真剣』とでは意味が全く違う。

 木刀はいわゆる『仕合い』であり、真剣は殺し合いのいわゆる『決闘』である。結果が同じであっても動機がまったく異なるのだ。ましていかなる無頼漢の乱入であっても相手が木刀で『仕合い』を申し入れて来たのであるから、真剣を持ち出すのは完全に常軌を逸した行為である。そもそも木刀は真剣の抜刀を受けることができず、同じ条件下に行われる決闘にすらならない。それは単なる殺人行為である。


「清水殿! 仕合いにござりまする!」「清水殿!」「清水殿!」


 指南役心得所(こころえどころ)は皆、狂気乱心の師範代、清水又吉を止めにかかっていた。

 梨華は町民の出身であったが、士がやってはいけないことをやろうとしていることだけは感じ、小屏風から走り出て、転がるようにして又吉の足をつかんだ。しかも両の足のふくらはぎを抱きかかえるようにして……。又吉はつんのめるように倒れ、床に伏せた。

 そして正気に戻った。

「……梨華殿。かたじけのうござる」


 伴太郎と名乗る男は、稽古場を出るときに声高らかに言った。

「稽古場(道場)を存続致したくば、金五百両、千住の代官所に持てい!」


 町方の南町奉行に勤務する伴太郎が、なぜ勘定奉行配下の代官所に金を収めるよう要求するのか……。『政治』がまったくわからない梨華には理解できないことだった。

(なお、千住の代官所に当時、悪徳代官がいたという意味では決してない。『千住』というのは物語上の都合にて便宜的に登場するものであることを申し添える。)


 梨華は悲惨な一部始終を目のあたりにして、師範であり梨華の義父である望月椿太郎左衛門の死と、百五十年以上続いた家族の断絶に悲しむ一族の心を思いがけず味わうこととなった。

 梨華には父も母もいない。彼女にとって望月家は家族であり、義父の死は実父の死も同然であった。

 そして彼女は、それを彼女自身の怒りに変えることによって、復讐を心に誓うこととなった。

 意を決したその日、彼女は望月家を出た。

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