神武真興流剣術
神武真興流剣術の稽古場(道場)は、椿太郎の実父である師範の七代目椿太郎左衛門、師範代の清水又吉(免許皆伝)、何某一刀斎(指南免許)の三名によって支えられており、その下に指南役心得所(こころえどころ)として、男士五名、女士一名の計六名の上級剣士が教授指導にあたり、武家の子息や町人など約六~七十名に剣術を教授している。
当時、幕府は町人が武術の指南を受けることを忌み禁止していたが、時代の流れには逆らえずこれを黙認していた。
師範代の清水又吉はかなりの剣術のつかい手であった。そこそこに年のいった士であったが、剣術一筋未だ独身であって、ときに梨華を稽古場(道場)へ寄らせ何かにつけて話し掛けてきた。
「梨華殿、そなたの夫、椿太郎殿はまっこと美人画が得手よのう。此はそなたを模したものでござろう?」
「左様にござりますが……」
又吉の手元には椿太郎の描いた浮世絵があった。よく見ると美人画でなく春画の方である。浮世絵春画はこの年幕府が好色ものを禁止したあとを受けて世に出回っている『あぶな絵』とは異なり、わかり易く言うと『完全無修正版』である。しかも女性自身をかなり誇張したものが多く、描き手の絵師がいわゆる『モデル』を必要としていたのもそういった事情によるものだ。
――やっだあ。これって本人を前にして見ちゃっていいワケ?
「又吉様。恥ずかしゅうござりまする。どうかこのような淫らなるものは……」
「いやいや。げに美しゅうござる。気になさるでない」
――気にするよ。他の範となるべき師範代が、神聖な稽古場でそんなもの見てるって師範に言いつけるぞ! この、ど助平!
「又吉様。どうかご覧なされませぬよう。ねえ、又吉様」
「ふむ。そちはちと、痩せたであろうか」
「いささか痩せました。頬の肉がおち申した」
「普通、尻より痩せて参るのが常なるがのう」
――ムッ! 普通じゃなくてごめんねっ!
「は、は、は。この尻が、ますます大きゅうになりおって……」
バシッ!
又吉の頭の辺りで大きな音がした。梨華の手には草履が握られていて、又吉の額にははっきりと草履の痕が付いていた。
「又吉様。お頭に蚊のとまりて、これを仕留めようぞと……。なれど、打ち逃がし申した」と梨華。
「………。かたじけのうござる……むう」と又吉。
そこへ唐突に、血相を変えた指南役心得所(こころえどころ)の男が走りこんできた。
「大事にござりまする!」
「いかがなされた」
「稽古場荒らしにござりまする」
「何とな!」