稽古場(道場)の決闘
果し状にある廃墟と化した稽古場(道場)。
そこには数々の教授陣の名札が今も並んでいる。しかし、今は亡き師範、望月椿太郎左衛門と、指南、何某一刀斎の二名の名札は際だって強い怨念を周りに漂わせているように梨華には感じられた。
正面の入口から入った真正面に、狐が仁王立ちとなって海老原伴太郎を待っていた。その出で立ちは、女ながらも、仕合いに臨む稽古場(道場)主のような堂々たるものだった。
能面の男の姿はない。狸は狐よりやや下がって立ち、『その時』を待っている。
梨華は狐の姿を見て、最期の覚悟を決めるとともに目に涙が潤んできた。
――狐、ヤバーイ! 超かっこいい……。
――でも、できれば能面の男みたいなフツーの剣士に来てもらいたかったなあ。狐は忍者だし、狸は超デブだし。
梨華はデブは決して嫌いではない。むしろ好みとするタイプだ。しかし、黒ずくめのデブは見た目何となく暑苦しいし、だいいち決闘という緊迫した空気にはやっぱりそぐわない。
ほぼ定刻になって、海老原伴太郎が入って来た。一人だ。かなり長めの打刀(うちがたな)と、脇差、小柄、の三本の刀を差している。改めて近くで見るととてつもなく体格がいい。
格好はというと、あの時、稽古場荒らしに来た時のような落武者のようなものではない。南町奉行、筆頭与力のビシッとした格好である。
――あいつだ! あいつだあ! ついに会えたぞう!
梨華は震えながら足を踏み鳴らした。憎き、恨めしき伴太郎の顔は決して忘れることはない。たとえ地獄に堕ちようとも……。
伴太郎は稽古場に五、六歩入ったところで、正面にいる狐とまっすぐに向き合った。狸は伴太郎から見て狐の斜め後方に位置している。狐のほぼ真後ろに梨華が脇差を差して震えながら立っている。
両者無言のまま時が流れた。
お互いに名乗りもしない。決闘を申し入れた者が誰か、海老原伴太郎には果たしてわかっているのだろうか……。
◆◇◆
次の瞬間である!
それは俄かには信じ難いことだった。
「芝居は、これまででようござろう!」
伴太郎が顎をしゃくり上げると狐と狸が彼の方へゆっくりと進み両脇に並んだ。そしてもと狐の後方にいた梨華と対峙した。伴太郎は懐から能面を取り出して顔に付けた。
「!!」
能面の男はまさにそこにいた。梨華が殺人を依頼した男、伴太郎。それは仕置人のボス、能面の男自身だったのだ。
「たまげたぜ。殺害を当人に依頼するたわけ者がこの世におろうとはな。それがしの、うな(首)を取るなぞ、片腹痛いわ。百年早い。は、は、は。女人相手に抜刀するは、それがしの趣味にはござらぬ。やい、狸。貴様に任す。その女子、貴様の好きにするがよいぞ!」
梨華の頭の中はぐるぐると回った。そして次に自分の命が、人間の『屑』である奴に奪われるのを望んでいた考えを撤回し、もうこうなれば自ら命を絶つしかないと考えた。
梨華は長めの脇差を抜いた。
狸は一瞬慌てたようなそぶりを見せたが、伴太郎に『好きにせよ』と言われながらも全く動かなかった。
「狸、いかがした?」伴太郎が問う。
「貴様、女子は、好まぬかや? しからば狐。貴様がやれ。その女子を腰巻一枚にさせ、貴様の手裏剣にて舞を躍らさせてやれ。そして舞の仕上げに地獄へ送りてやれ」
梨華は、本当にこの段階で自害しても良かった。しかし、自分自身の不甲斐なさにどうしようもない未練も感じていた。亡き義父に対してこのままでは申し訳なく、死んでも死にきれないような気持ちが心を襲った。
それだけが梨華が自らの首を斬ることを躊躇させていた。彼女の目は血走り、やや厚めの下唇が小刻みに震えている。
――私は肝心なときに、何て間抜けなことをしてしまったのだ。