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浮世絵師、椿太郎

 時は江戸時代中期、享保七年(一七二二年)、壬寅(みずのえとら)。

 元禄十五年の赤穂浪士討入り事件から二十年を経た今、ここは江戸の町である。

 徳川家宗家以外の御三家の一つ、紀州徳川家から江戸幕府八代将軍に就任した徳川吉宗が、政治・経済の改革、いわゆる享保の改革を主導していた時分である。


 望月椿太郎もちづきちんたろうは流行りの浮世絵師であった。

 椿太郎が浮世絵師となった経緯いきさつについては、彼の少年時代にまで話を遡らなければならない。

 彼は由緒ある武道家の家柄に生まれ育った。

 その昔、いわゆる戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、神武真興流じんむしんこうりゅう剣術の創始者として世にその名を馳せた剣客、望月椿太郎左衛門もちづきちんたろうざえもんという士がいた。

 椿太郎は七代目椿太郎左衛門の実子であり、まさに一族の直系である。彼の母は未だ彼が幼少の頃、河豚ふぐの毒にあたって非業の死をとげた。このため彼は上女中に身の回りの世話だけを受け、寝る時間と食事をする時間以外、一日の多くの時を父とともに過ごした。彼は師範である父から直々に剣術の手ほどきを受け、いずれは免許皆伝となって宗家を継ぐはずであった。しかし、彼は剣術がすこぶる不得手であり、稽古場(当時は道場のことを稽古場と言った)の師範代を務めていた清水又吉(免許皆伝)も、彼が宗家の跡目になるということは到底無理と諦めかけていた頃、彼の才能は剣術とは全く異なる別の方向へと突然花開いた。幼少の頃から父の目を盗んでは敷地内のはなれに建てられた古い武具庫の中で、稽古場(道場)に置き放しとなっていた瓦版の挿絵を見て、そこに描かれている浮世絵の美人画に心奪われ、日々目を肥やしていたのであった。こうして椿太郎は一族始祖の元服年齢、十六を数えるころ稽古場(道場)を自ら離れ浮世絵師となって主に美人画、春画(色事絵)を手がけるようになった。

 彼は浮世絵の絵師(版画の下絵を描く者)であるが、同時に彫師・摺師も兼ね、その芸術的な才能と器用さは傑出したものだった。

 彼はその後、浮世絵のいわゆる『モデル』をしていた町人娘、梨華りかと縁を結び、二人の間に娘、絽利華ろりかをもうけた。やがて娘の絽利華が物ごころ付いてくると、今度は彼は娘をモデルに少女春画を描き始め、これがまた江戸市中で一時大評判となり彼の浮世絵はかなりの高値で売れるようになった。

 ところが、ある日これが時の将軍吉宗公の手に渡った。

「いとおかしかるも、面妖なり……」

「いえいえ、将軍様。破廉恥にも程がございまする! ほれ、此は未だしものものも生えあらぬ幼な子にござります」

 老中・若年寄など当時の幕府の重鎮たちは烈火のごとく怒り、裏で出回っている椿太郎の少女春画を片っ端から回収しては皆で回覧し、「けしからぬ。言語道断たるもの」と口々に言い、その絵を細部にわたりしっかりと検閲し眉をしかめた。結局のところ椿太郎の浮世絵は、巷の風紀を甚だ乱したとして、幕府は椿太郎を即刻捕らえ伝馬町牢屋敷に監禁し裁きを受けさせるよう、当時江戸南町奉行の大岡忠相(越前守)に命じた。忠相は椿太郎に当時の捕獲懸賞金としては破格の米十石(百斗、米俵で約二十五俵)を与えることとして手配された。米十石というと、当時の金銭相場としてはおよそ二十両。現在の貨幣価値としては約四百万円程度である。かくして椿太郎は梨華を一人家に残し娘の絽利華をつれて逃亡し、浮世からその姿をくらますこととなった。彼は今もなお少女春画を描き続けており、密売ルートにてこれを高値で売り、巷の目を逃れひっそりと目立たない場所で生活を送っている。 

 椿太郎の妻、絽利華の母の梨華の生い立ちはというと、彼女は幼い頃親に捨てられて長屋の住人に拾われそこで共同で育てられた。このため、特定の育ての親もなく、親というものを知らない。十五歳を数える時、浮世絵師椿太郎に見初められ、住み込みでいわゆる春画の『モデル』になり、その後彼と夫婦となった。椿太郎が手配犯となって突然娘の絽利華を連れて家を出た後は、役人に捕らえられることを避けるため記録帳の上で婚姻関係を解消したが、戻るべき実家のない梨華は行くあてもなく、結局椿太郎の実家である望月家に身を寄せることとなった。梨華は身の回りの生活に不自由することはなかったが、椿太郎との生活を失い、失意のどん底に陥っていた。

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