花嫁になるはずだった令嬢は、星紡魔法で橋を架けるのです。
「その瓶をしまってくれないか。今夜くらい、私の顔を立ててほしい」
伯爵令嬢エステルは、外套のポケットを押さえた。
硝子の底に溜まった光が、指の陰で銀色に揺れる。庭へ置いた銀鏡で、夕刻から集めた星明かりだった。星紡魔法の使い手は、それを「星を採る」と呼ぶ。
空を気にしすぎて、着替えが遅くなった。袖の端には草の種がひとつ残っている。摘まみ取ろうとすると、指先の細かな傷へ引っかかった。
向かいのアルヴィンは、その手を見て眉を寄せた。
「手袋まで忘れたのか」
「作業の途中でしたから。あと少し集めれば、今夜の分が足りるのです」
「まだあれをやるつもりなのか」
壁際に、渡り初めの案内が置かれていた。
星の橋を渡り、河中の古い観測塔へ。今夜の宴に集まった客が、食後に見学する予定になっている。案内の一番上には、主催者としてアルヴィンの名があった。
エステルの名は、どこにもない。
尋ねると、「結婚すれば同じ家の者になるのだから」と返された。
「院長先生も、見学のためにいらしています」
「隣国から来た客を、あの暗い糸の上へ歩かせるわけにはいかない。庭の灯りを見ていただけば十分だ」
アルヴィンの傍らで、クララが扇を畳んだ。
髪には光の花が咲いている。火の魔法を細かく分け、花弁の形に留めたものだった。熱はなく、彼女が首を動かすたび、白い花が髪の上で開いたり閉じたりする。
「素敵な花ですね」
「ありがとうございます。エステル様の肩掛けを拝見して、色を思いついたんです」
「クララ嬢。気を遣わなくていい」
アルヴィンが二人の間へ入った。
「何日も練習して作ったものを、朝には消える布と同じにされては困る」
クララの口が、開いたまま止まった。
エステルは姿勢を戻した。隣の楽師が弓を下ろしている。近くの客も話をやめ、こちらへ顔を向けていた。
「星の布も、織るには練習が要ります」
「そうだろうな。だが、いつまで続ける? 橋を作るなどと言い出して、もう半年だ。私が呼べば観測所にいる。手紙には糸の太さや金具の話ばかりだ」
その半年、アルヴィンが観測所へ来たことは一度もなかった。短い試験橋を渡れた夜にも便りを書いたが、返事は、次の宴に着る服を決めるものだった。
「今日なら見ていただけます」
「その前に、君の態度について話したい。先日、クララ嬢に灯りを消せと言ったそうだな」
「私に、ですか?」
クララがアルヴィンを見た。
「望遠鏡の前でのことでしょうか。目が暗さに慣れるまで、髪の花を消しておいた方がいいと――」
「君は彼女を庇わなくていい」
彼はクララの手を取り、客たちへ見える位置に立った。
「人の魔法を消させておいて、自分だけ星の研究とは。君の気位の高さには、もう付き合えない。まるで芝居の悪役令嬢だ」
「これ以上、君を妻として迎えることはできない。私と君の婚約は、ここで破棄する」
窓辺で杯が卓に触れた。
エステルはアルヴィンの口元を見ていた。まだ何か続くのかと思った。彼は顎を上げ、返事を待っている。
少し前までは、いつか橋が架かれば話が変わると思っていた。
渡ってもらえば、糸の話にも耳を傾けてくれるかもしれない。自分の手で作った道を並んで歩けば、遅くまで研究する理由も伝わるだろう。
今なら見られる、と言ったところだった。
エステルは左手の指輪を抜いた。関節に引っかかり、少し捻ると外れた。
「承知しました。正式な婚約解消については、両家でお話しください」
差し出した指輪を、アルヴィンはすぐには取らなかった。
「……それだけか」
「こちらはお返しします」
「君は、何を言われたかわかっているのか」
「わかっています」
彼の掌へ指輪を載せた。
庭へ出ようとすると、アルヴィンが行く手へ立った。
「その外套は脱いでいけ。これから客を案内する者に、草のついた服でうろつかれては困る」
「庭へ出ますので」
「橋の件は中止だと言っただろう」
遠くから、エステルを呼ぶ声がした。
窓際にいた小さな女の子が、母親の裾を離してこちらを見ている。菓子屋の娘だった。観測塔で子ども向けの会を開くと聞き、町から母親と来ていた。
「お星さまの橋、なくなっちゃったの?」
エステルが口を開く前に、アルヴィンが笑顔を向けた。
「今夜はもっと綺麗なものが見られるよ。庭には光の花もある」
「橋は?」
女の子はもう一度尋ねた。
エステルは彼女の前へ膝をついた。
「まだ、架かっていないの。塔の方で待っていてくれる?」
「渡れる?」
「確かめてから、お迎えに行くわ」
母親が娘の肩へ手を置いた。
「無理でしたら、どうぞお気になさらず。見学のお礼だけでも、お渡ししたくて」
手提げの籠には、焼き菓子が詰まっている。先日、塔を開ける時間について相談した時、エステルが好きだと話した菓子だった。
立ち上がると、アルヴィンの笑顔が消えていた。
「勝手な約束をしないでくれ。私が招いた客だぞ」
「町の見学者は、私がお誘いしました」
「では、断ってくればいい。結婚すれば、今のような道楽を続けさせるつもりはなかった」
エステルは瓶を持つ手をポケットの中で握った。
これを聞いたあとで、もう一度、いつか理解してもらえると考えることはできなかった。
「観測塔の鍵と、通行の許可は、町会からお預かりしています。婚約とは別のお話です」
「そういう言い方をするから――」
「アルヴィン様。クララ様へのお話も、あとで訂正してください。あの時は、私の方から灯りを消していただくようお願いしました」
エステルは外套の襟を直した。
「橋を架けるのは、私です。案内にも、そう書いていただきたかった」
返事を待たず、庭へ続く扉を開けた。
夜風の中へ出ると、すぐには歩けなかった。扉を押さえ、敷居に片足を置いたまま息を整える。
背後で音楽が始まる。外から扉を閉じて、ようやく手を離した。
*
河の中州に建つ観測塔は、春から閉まったままだ。
冬の氷で石橋の中央が崩れ、修理の金は町の大きな橋へ先に回された。望遠鏡を手入れする職人は昼に舟を出しているが、流れの速いこの場所で、夜の見学者を何艘も渡すことはできない。
石橋の途切れた場所まで来ると、欄干の上に青年が座っていた。
膝には、木の糸巻きが並んでいる。
「もう宴は終わった?」
「抜けてきた」
「食べた?」
エステルが首を振ると、ルカは足元の包みを指した。
「あとで食べよう。今、光はどのくらい?」
小瓶を渡す。ルカは夜空へ透かし、用意した糸巻きのひとつを選んだ。
隣国の観測院から来た器械職人で、望遠鏡の修理に続いて、冬に傷んだ設備の点検に残っている。
初めて会った時、荷箱へ星の縄で持ち手をつけると、ルカは箱を置いて、両手で糸を引いた。それから、新しいものを作るたび、試験のための重りや金具を用意してくれるようになった。
「さっき、向こう側を見てきた。新しい留め金が、図面と違う」
ルカの指す先に、金色の金具が光っていた。
アルヴィンが工房へ注文したものだった。宴の客にも見える場所だから、無骨な鉄の輪ではいけない、と。
蔓草をかたどった金具には、頼んだものより細い軸がついていた。
「昼に、重りを掛けた?」
「輪が開きかけたので、止めた」
ルカが曲がった輪を見せる。人が乗る前でよかった。
「替えられる?」
「石に穴を開け直すなら明日だね。今夜は使えない」
顔を上げると、塔の窓に灯りが見えた。
舟で先に渡った世話人が、見学者のために部屋を暖めている。望遠鏡の窓だけ、灯りを入れずに開けてあった。
エステルは欠けた橋へ近づいた。星の布も、支えが弱ければ落ちる。今夜の見学をやめた方がいいのかもしれない。
「エステル」
ルカが声を掛けた。
「こっちへ。そこの石も、冬にひびが入っている」
彼女は一歩下がった。
「ごめんなさい」
「橋を架ける分には足りていると思う。でも、支えの方を考え直さないと」
小瓶を返される。
母に教わった星の糸は、髪飾りや透ける肩掛けにするものだった。
前の生で、エステルは星空を映す施設で働いていた。星を線で結んで子どもたちへ話す仕事だった。今度はその線へ触れられると思うと、飾りだけで終わりたくなかった。
何本も撚り合わせれば、切れない縄になる。椅子や砂袋を吊るす試験を繰り返し、人が足を載せられる布へと太さを変えた。
翌朝には全て消える。毎晩また光を集めるところから始めなければならなかった。
半年前、アルヴィンに、塔へ通える道を作りたいと話した。
夜だけ渡れれば、あの場所をまた使える。何本もの階段を上らずに望遠鏡のある部屋へ入れるので、足の悪い人や子どもも招ける。
彼は、できたら知らせてくれ、と答えた。
その言葉を、ずっと励ましだと思っていた。
「婚約がなくなったの」
ルカの手が、糸巻きの上で止まった。
「今?」
「さっき。研究を続けるつもりかと聞かれて、それから、破棄すると」
声にすると、喉が狭くなる。
ルカは何も尋ねず、欄干に掛けていた自分の上着を畳んだ。エステルへ渡すのではなく、乾いた石の上へ置く。
「座る?」
「まだいい」
「わかった」
そのまま待たれると、何を言えばいいのかわからなかった。
「橋を渡ったら、話を聞いてもらえると思っていたの。糸の話も、ただ夜更かしをしているわけじゃないって」
「うん」
「でも、見なくてもいいんですって」
ルカは曲がった金具を箱へ戻した。
「今夜、橋を架けるのもやめる?」
エステルは塔を見た。
望遠鏡を使えるように、先日、自分で帳を織った。窓から漏れる街の灯りを遮るためのものだった。使うたびに織り直す必要があるが、昼にはなくなって、窓を塞がずに済む。
世話人は今夜のために、椅子を拭いて並べたと言っていた。
菓子屋の母娘が、岸の道をこちらへ歩いてくる。女の子は籠を持ちたがり、母親と持ち手の片方ずつを握っていた。
「やめない」
エステルは外套の袖を折り上げた。
「アルヴィン様に見せるためじゃなくて、あの子に渡ってもらうために作るわ。今夜でなくてはだめだと、無理はしない。でも、まだ、できることを調べたい」
ルカが頷いた。
「じゃあ、古い石橋の図面を見よう。残っている場所で使える支えを探す。僕は、向こうをもう一度確かめてくる」
彼は舟の綱を解く前に、世話人へ合図するための鐘を鳴らした。
図面を広げる。橋の両側には、かつて灯りを置いた石の台があった。付け根に残る鉄の輪は、舟を繋いだこともあると聞いている。
冬の氷で傷んでいなければ、それを使えないか。
紙の上へ指を置くと、背後から声がした。
「ここにいらしたのですね」
クララが、老婦人と一緒に来ていた。
隣国の観測院長だった。エステルが見学を依頼した手紙へ、細かな質問を書き添えて返してくれた人だ。
「橋の方に問題があると聞きました」
「留め金が使えません。今、別の場所を調べています」
エステルが立とうとすると、院長は手を振った。
「そのままで。図面を見せていただける?」
老婦人は侍女から小さな敷物を受け取り、石の上へ腰掛けた。クララも隣へ屈む。
「星の光は足りているの?」
「最初の場所なら。でも、この輪を使うと、岸からの距離が伸びます。橋を同じ幅にすると、布が薄くなりすぎるかもしれません」
エステルは瓶を置いた。
誰も、暗いとは言わなかった。
院長が図面の幅を指で測っている間に、クララが小瓶の中を覗く。
「どうやって集めるのですか」
「鏡に映った星明かりを掬うんです。灯りの少ない場所で、星がよく見える時に。今夜は、庭の奥に鏡を置きました」
「庭は、今から灯りを増やすそうです」
エステルは宴の建物へ目を向けた。
窓に、新しい光がいくつも並び始めている。
「もう少し必要なのですよね」
「ええ。次の場所に架けるなら、少なくとも、この瓶の半分ほど」
「どこの灯りを消せば、集められますか」
クララはもう立ち上がっていた。
「西の庭だけです。建物から離れていて、空が広く見えるので」
「では、そちらの飾りはやめてもらいます。私の家から持ってきた灯りですから」
「望遠鏡で見た月が面白くて、帰ってから、その話ばかりしました。灯りのことしか、伝わらなかったのですね」
クララは髪の花を消した。
「今夜は、橋の方を見たいです」
歩いていく背中へ礼を言い、エステルは鏡を取りに立った。
ルカが戻ってきた時には、西の庭が暗くなっていた。古い鉄の輪には傷みがなく、塔側も使えるという。
「ただ、布が足りないなら、今夜は半分の幅で試すこともできる。招いた人たちには、延期を伝えよう」
エステルは新しい位置へ引いた線を見た。
幅を狭めれば、大人が体を横へ向けて渡る橋になる。試験には使えるが、あの女の子と母親を通すことはできない。
「もう一度、採ってくる。集まらなければ、そうしましょう」
「一緒に行く」
「輪の準備をしていて。私が戻ったら、織り始められるように」
ルカはエステルの袖口を見た。
「今度は、糸を素手で巻かないで」
道具箱から薄い革の指当てを出す。握ると、エステルの指の長さに合っていた。
「直してくれたの?」
「昨日、少し余っていたから」
傷の上へ柔らかい革を重ね、礼を言った。ルカが糸巻きの準備に戻るのを見て、西の庭へ向かう。
西の庭に銀鏡を置くと、星が映った。指先で掬い、瓶へ移す。ひとつ取っても、空の星は変わらない。次の光が届くまで、噴水の音を聞いて待つ。
宴の方を振り返りたくなった。明日、父に何から話そう。指輪を渡した手の軽さが、まだ馴染まない。
鏡にまた光が映る。瓶の底に銀色が溜まるにつれて、早くルカへ見せたくなった。最後の粒を入れ、栓を閉じる。
岸では、ルカが二つの糸巻きを用意していた。
「どう?」
「足りると思う。見て」
瓶を受け取った彼は、底から口までの光を確かめた。
「試験の時より多いね。残った分は、手すりに回せる」
「最初に、床を織る量を取り分けるわ」
エステルは瓶の光へ指を差し入れ、ゆっくり引いた。
指と硝子の間に、糸が伸びる。ルカが糸巻きを回して受け取り、エステルは太さを確かめながら次の糸を引く。
何本も揃えたものを撚り合わせると、銀の縄になった。
岸側の鉄の輪へ端を結ぶ。塔側へは、ルカが舟で運んだ。流れへ落ちないように、間の縄を少しずつ送り出す。
対岸から合図があり、縄が張った。
もう一本。同じように渡す。
エステルは二本の間へ縦の糸を張り、横の糸をくぐらせた。上、下、上。指先を動かすたびに織り目が進み、光の布が水路を覆っていく。
最初の幅を確かめ、同じ太さを保つ。
長く引けば、瓶の光を少なく使える。でも、薄くすれば、足を載せた時に穴が空く。試験で何度も破れた布の感触を思い出し、糸巻きの回る速さを落とした。
ルカが縄を締め直すと、布は浅く弧を描く道になった。エステルは足を載せる中央へ、補強の糸を重ねる。
瓶の底が見え始めた。まだ向こうまで届かない。
エステルは糸巻きを止めた。
「残りを測ります」
「私が記録しましょう」
院長が膝へ紙を載せる。ルカに使った縄の長さを聞き、残りの光を目盛りのついた棒へ引いた。
床の分を取り分ける。補強と手すりへ回す分も、確かめた。
「足ります。続けます」
指当てを直し、次の糸を取った。
最後の織り目を向こう岸へ送り、端を縄へ結ぶ。ルカが布を引き、緩みを揃えた。
光の橋が、古い石橋の脇に架かった。
歩く部分は厚く、両側には細い糸の手すりがある。布の隙間から、黒い水が透けていた。
遠くで誰かが息を吐いた。顔を上げると、宴の客たちが岸に集まっている。クララが、菓子屋の娘と手を繋いでいた。
アルヴィンも、その後ろに立っていた。
「こんな細いもので、客を渡すつもりか」
エステルは糸巻きを箱へ戻した。
「まず、重りで確かめます」
ルカが塔側の小さな巻き上げ機を回す。
砂袋を載せた板が、普通の縄で橋の上を引かれていった。光の布が沈む。両端の星の縄が張り、鉄の輪が荷重を受ける。
板が真ん中で止まった。
エステルは石の縁へ屈み、織り目を見る。上にいる時には気づきにくい、下側の糸の緩みを確かめた。
「端を少し締めて」
「こちら?」
「ええ。そこだけ」
布の片側が持ち上がった。
しばらく待つ。砂袋は落ちず、織り目にも裂け目はできない。
院長が時間を記し、ルカが重りを向こう岸へ引いた。次は、エステルが普通の麻縄を腰へ結ぶ。
「最初は私が渡ります」
「それが消えたら、どうする」
アルヴィンの声に、クララが空を見た。
「先ほどの雲は、通り過ぎましたね」
「雲で消えるわけではありません」
エステルは橋の手すりへ触れた。
「星が見えなければ、新しい光は採れません。でも、一度織ったものは残ります。夜明けにはほどけるので、今夜の見学が終わったら、通行を止めて片づけます」
「普通の橋を直せば済む話だ」
「修理できるまで、この塔を使うための橋です」
院長が記録紙を畳んだ。
「恒久的な橋と比べるなら、そのための費用も日数も、同じように考えなくてはいけませんね。私は、今夜渡れるかを見に来ました」
エステルは橋へ足を載せた。
厚い布がわずかに沈み、靴底を受け止める。次の一歩では、下から風が抜けた。裾が光を拾い、白く透ける。
向こうでルカが立ち上がった。両手を空け、こちらを見ている。
真ん中まで来ると、空が広かった。
宴の建物も、庭の灯りも、岸へ下がっている。橋の手すりに触れる指が、星明かりに染まった。
「エステル、足元」
ルカの声がした。
「見ているわ」
「さっきから、空の方が長い」
笑おうとして、息が漏れた。
最後の一歩を石の上へ載せると、ルカが肘の近くへ手を添えた。麻縄を解く間も、彼女が水際へ寄りすぎないよう、そちらへ立っている。
「渡れた」
「うん」
彼に言うと、ようやく実感が湧いた。
「誰かの重さじゃなくて、私が」
「見ていたよ」
岸へ麻縄を返すと、院長が先に腰へ結んだ。
橋の真ん中で一度立ち止まり、手すりを握って布の張りを確かめる。それから渡り終え、エステルへ手を差し出した。
「手紙に書かれていたことが、よくわかりました。明日、もう少し長くお話しできますか」
「はい」
「私たちの院にも、夜だけ使う観測場所があります。あなたの橋を試したい場所が、いくつか思い当たるのです」
差し出された手を握る。
エステルが返事を探している間に、院長は続けた。
「まずは期間を決めて、研究に来ていただきたい。こちらから材料も報酬も用意します。条件は明日、きちんと相談しましょう」
「橋を織る仕事として、ですか」
「ええ。あなたが織り、ルカのような職人が支えを作る。どちらが欠けても架からない橋ですから」
ルカが少し顔を背けた。耳の上まで赤くなっていた。
次に渡ってきたのは、菓子屋の娘だった。
母親の手を借り、命綱をつけてもらう。小さな靴が光の布へ触れると、女の子はすぐに下を覗いた。
「お水が見える」
「前を向いて歩こうね」
母親が岸から声を掛ける。
女の子はゆっくり進み、真ん中で手すりを掴んだ。指の間に、銀色の光が並ぶ。
「星も、触れるんだ」
エステルは向こう側で膝をつき、彼女を待った。
小さな手を受け取る。女の子は石へ降りても、まだ橋を振り返っていた。渡ってきた母親と一緒に、何度も星の糸へ目を向ける。
「望遠鏡も見られる?」
「ええ。そのために、橋を作ったの」
塔の扉を開けると、暖めておいた部屋からパンの匂いがした。世話人が椅子を並べ直し、子どものために足台を持ってくる。
クララも渡り、髪の灯りをつけないまま窓へ歩いた。
エステルは、望遠鏡の傍らに立った。
月を見せる。次に、肉眼では一つに見える、寄り添った二つの星を。
前の生でも、この瞬間が好きだった。
覗いた人が黙り、もう一度見る。自分の目で見つけた光を、誰かにも見せたくなって、場所を譲る。
女の子が母親の袖を引いている間に、ルカが橋の見回りへ戻った。エステルは客へ次の星を教え、扉の方を一度見た。
彼も振り返っていた。
客が減り始めた頃、岸からアルヴィンが声を掛けてきた。
「エステル。こちらへ来てくれないか」
院長が最後の記録を確かめている。エステルは世話人へ望遠鏡を任せ、橋の向こうへ戻った。
「話がある」
「私も、金具についてお尋ねしたいことがあります。頼んだものと違っていました」
「見栄えを整えただけだ。あのような鉄の輪を客に見せるわけにはいかないだろう」
「支えられなければ、飾りにはなっても、橋の金具にはなりません」
ルカから受け取った、曲がった輪を見せる。
アルヴィンは手を伸ばしかけ、引っ込めた。
「工房へ確かめておく。それより、院長とは何を話していた?」
「研究に来ないかと、お誘いいただきました」
「断るんだろう」
エステルは彼を見た。
「お話を伺います」
「隣国へ行くつもりなのか。君は、この町で暮らすはずだ」
「何を続けるかは、私が決めます」
橋の向こうで、客が扉から出てきた。クララが女の子の手を取り、帰りの順番を待っている。
アルヴィンは声を落とした。
「先ほどは、私も言いすぎた。君がこれほどのものを作れるとは、聞いていなかった」
「お手紙に書きました」
「手紙では、わからないこともある」
「ですから、来ていただきたかったのです」
彼は黙った。
エステルも、次の言葉を待った。すぐに話を終えてしまいたいのに、急ぐと、また曖昧なままになる気がした。
「明晩も、客を招いている。橋を渡ると知らせてあるんだ。金具を直す間だけでも、今夜と同じものを作ってくれないか」
ようやく、頼まれた。
エステルは光の橋へ目を向けた。
明晩も晴れるとは限らない。光が集まるか、金具以外の支えが使えるか。今夜の記録を確かめてからでなければ、引き受けられない。
「見学のためのご依頼でしたら、明日、観測所で伺います。天候次第ですが、できる範囲をお伝えします」
「そんな面倒な形にしなくても、今まで通りでいいだろう」
「今まで通りには、いたしません。私の名で仕事を受け、費用も報酬も決めてから織ります」
アルヴィンの目が、彼女の裸の左手へ落ちた。
「婚約まで、あの一言で終わらせるつもりか」
「あの一言だけではありません」
エステルは、袖の折り目を直した。
「研究は結婚したらやめるものだと、先ほど初めて伺いました。私は続けたいのです」
「続ければいい。そこまで言うなら、私も――」
「私が何をしているのか、知ろうとしてくださらなかった。今夜、橋が架からなかったら、そのお言葉は聞けなかったと思います」
彼の背後で、クララが橋を渡り終えた。
「エステル様」
手すりから手を離し、彼女が隣へ立った。
「宴の席でのお話、私からも皆様へ説明しました。灯りの件も、私が冷たくされたという件も。ですから、アルヴィン様からも、訂正をお願いします」
アルヴィンは、岸に残る客たちを見た。
誰も急かさなかった。
彼は口を開き、閉じてから、誤解があった、と言った。
「エステルがクララ嬢へ嫌がらせをしたというのは、私の早合点だった。訂正する」
クララが頷く。
エステルは、曲がった金具を箱へ戻した。指輪を返した時より、手から力が抜けた。
「婚約解消の件は、明日、父にお話しします。今夜は、客の方をお送りしなくては」
彼はもう、行く手へ立たなかった。
*
三か月後、エステルは隣国の観測院で、夜明け前の橋を解いていた。
小高い丘の上へ続く道は、夏の雨で一部が崩れる。そこへ夜だけ星の布を渡せば、重い望遠鏡を運び上げずに、上の観測台を使える。
幅を広げた分、光は多く要った。
今では銀鏡が六枚、草地に並ぶ。採った量、織った幅、渡った人数を毎晩記録し、晴れた日は何が違ったかをルカと確かめる。
今夜は、道具を載せた小さな車を初めて通せた。車輪の引っかかった織り目は、次の試験で直す。
「端、外していい?」
向こう側でルカが手を上げた。
「ええ。こちらは巻けている」
縄が緩み、星の糸が糸巻きへ戻ってくる。
橋がなくなると、草の向こうに空が広がった。東だけが薄く明るい。昨日の晩から織っていたものは、もうすぐ全て消える。
ルカが上の道を回って降りてくる間に、エステルは道具箱を閉じた。
蓋の内側へ、菓子屋の娘から届いた絵を挟んでいる。
塔と、望遠鏡と、銀色の橋。橋の上には人が何人も並び、空には尖った星が大きく描かれていた。実際には一人ずつ渡ってもらったけれど、絵の中では、母親と手を繋いでいる。
あの塔は、晴れた夜に限って見学を再開した。
エステルが教えた織り方を、町の星紡魔法の使い手二人が練習している。光の量を読むのは難しいそうで、最近の手紙には、糸の太さについての質問が多かった。
アルヴィンの家からも、依頼が来た。
来年の宴で、橋を架けてほしい。婚約についても考え直してほしい。その二つが、同じ封筒に入っていた。
橋の相談は観測院を通して受けると返し、婚約については断った。
父は、両家の話し合いを終えていた。隣国行きには眉を寄せたが、院の雇用条件を最後まで読み、わからない箇所を尋ねた。
出発の朝に渡された外套には、道具を入れるための深いポケットがついていた。
足音がして、エステルは顔を上げた。
ルカが朝食の包みを持っている。
「厨房で焼きたてを貰えた。今、食べる?」
「手を洗ってから」
水桶で指を洗う。傷は減ったが、糸巻きを持つところには硬い皮ができていた。
差し出された布で拭き、パンを半分受け取る。
「今日は、院長のところへ行く日だね」
「ええ。期間を延ばしてもらえるか、お話しするわ」
「ここに残りたい?」
「まだ試したいことがあるの。冬の光でも、同じ強さの糸ができるか。それから、もっと荷物を――」
ルカがパンを食べながら、頷いている。
エステルは話を止めた。
「また、仕事の話ばかり」
「聞きたいけど」
「私、ほかのことも話したいの」
彼は包みを畳んだ。
「じゃあ、今日は休みを合わせよう。帰りに川沿いを歩く?」
「昼に?」
「昼に。散歩なら、暗くなるまで待たなくていい」
この国へ来てから、何度か二人で町へ出た。
いつも、部品を買うついでだったり、新しい鏡を受け取る帰りだったりした。エステルは今朝こそ、道具箱を持たずに出かけたいと思っていた。
「ルカ」
「うん」
「散歩に誘ってくれるのは、研究の仲間だから?」
聞くと、彼はすぐには答えなかった。
こちらへ体を向け、手に残ったパンを包みに戻す。
「違うよ」
エステルは、両手を膝へ置いた。
「君と二人で過ごしたいから。橋を織る時も、それ以外の時も」
明るくなりかけた草地に、銀鏡が並んでいる。
彼女はそのうちの一枚を取った。鏡面には、まだ星がひとつ映っていた。最後の光を掬うと、爪ほどの粒が指先へ移る。
「手を貸して」
ルカが差し出した手首へ、光を細く引いて結んだ。
緩く編み、織り目に小さな粒を残す。橋に使う糸よりずっと細い。引けば切れるし、明け方のわずかな間しか残らない。
「もう、すぐに消えてしまうわ」
ルカは手首を返した。
編んだ星が、袖口で瞬く。
「うん。今、よく見ておく」
残りの糸を取ろうとすると、彼が片手を出した。
「同じもの、君にも作っていい?」
「結び目が、いつも大きくなるでしょう」
「今日は小さくする」
「じゃあ、ここから」
エステルは糸の端を渡した。
ルカの指が、手首に触れる。大きくなりかけた結び目を、二人で解いてやり直した。
空が明るくなるにつれて、互いの手首の光が薄れていく。
彼が袖を戻すまで待ってから、エステルはその手を取った。
「まずは、仕事の話を終わらせてくるわ」
「院の門で待っている」
道具箱は部屋へ置いていく。
外套のポケットには、空の小瓶だけを入れた。




