神獣と嘘つき令嬢
王国には、古くから一つの決まりがあった。
王を選ぶのは、人ではない。
森に棲む白い神獣である。
王が老い、病み、あるいは己の時代の終わりを悟ったとき、玉座の間で「選定の鐘」を鳴らす。
その鐘の音を聞くと、白鹿は霧深い森から王都へ現れ、次代の王にふさわしい者の前で膝を折る。
血筋も、年齢も、財産も関係ない。
白鹿が選べば、遠い血筋の者でも王になれる。
白鹿が選ばなければ、第一王子であっても王座には就けない。
ただし、白鹿が現れたからといって、必ずすぐに膝を折るとは限らない。
神獣は、人の言葉を話さない。
ただ沈黙し、見つめ、待つ。
その沈黙こそが、王国にとって最も恐ろしい審判だった。
そして今、その白鹿は王都の中央広場に立っていた。
三日前、病床の王が選定の鐘を鳴らした。
鐘の音は王都に鳴り響き、夜明け前、白い神獣が霧の中から姿を現した。
王都の民は広場へ集まり、貴族たちは正装で並び、神官たちは祈りを捧げた。
誰もが思っていた。
白鹿は第一王子レナートの前で膝を折るのだろう、と。
レナート王子は美しく、堂々としていた。剣の腕も立ち、演説も巧みで、貴族たちの支持も厚い。
あるいは、第二王子オスカーかもしれない、と考える者もいた。
オスカー王子は穏やかで、学識があり、民の前ではいつも優しく笑った。
だが、白鹿は誰にも膝を折らなかった。
第一王子が進み出ても。
第二王子が祈りを捧げても。
高名な聖女が讃歌を歌っても。
宰相が王国の歴史を読み上げても。
白鹿は、ただ雪のように白い体を広場に立たせたまま、静かに人々を見ていた。
一日が過ぎた。
三日が過ぎた。
七日が過ぎた。
白鹿は何も食べず、何も飲まなかった。
神官たちが用意した清水にも、王宮料理人が整えた果実にも、貴族たちが競って差し出した供物にも口をつけない。
王都には不安が広がり始めた。
「神獣が王を選ばぬのは、王家に罪があるからではないか」
「国が滅びる前触れだ」
「白鹿は怒っているのだ」
そんな噂が囁かれるようになった三日目の夜、侯爵令嬢ミレイユ・アシュフォードは、毛皮の外套をまとって中央広場へ向かった。
彼女は銀茶の髪を結い上げ、蜂蜜色の瞳を不機嫌そうに細めていた。手には小さな袋を持っている。
広場には数人の衛兵が残っていた。
白鹿は、相変わらず広場の中央に立っている。
月明かりを吸ったような白い毛並み。枝分かれした角。夜の底を映したような黒い瞳。
神々しい、と誰もが言うだろう。
だが、ミレイユは白鹿の前に立つと、開口一番こう言った。
「あなた、馬鹿ですの?」
衛兵たちが凍りついた。
神獣に向かって、馬鹿。
ミレイユは構わず続けた。
「一週間も食べずに突っ立って、王を選ぶ前に倒れるつもりですか。迷惑な鹿ですわね」
白鹿は静かに彼女を見た。
「何ですの、その目は。私が間違ったことを言っていますか?」
白鹿は答えない。
ミレイユはため息をつき、持っていた袋を開けた。中には干し林檎が入っている。
「食べなさい。毒は入っていません。あなたを殺したら、後始末が面倒でしょう」
白鹿は動かなかった。
「疑っているの? 結構です。では、私が先に食べます」
ミレイユは干し林檎を一切れ口に入れた。
「ほら。無事ですわ」
それから、もう一切れを白鹿の口元へ差し出した。
しばらくの沈黙のあと、白鹿はゆっくりとそれを食べた。
衛兵たちが息を呑む。
七日間、誰の供物も拒んだ神獣が、ミレイユの差し出した干し林檎だけを食べた。
ミレイユは不満そうに言った。
「食べられるではありませんか。無駄に人を騒がせて」
白鹿は、もう一切れ欲しそうに鼻先を寄せた。
「図々しいですわね」
そう言いながらも、ミレイユは二切れ目を差し出した。
ミレイユ・アシュフォード侯爵令嬢は、王都であまり好かれていなかった。
美しいが、口が悪い。
優雅だが、性格がきつい。
親切をしても、必ず余計な一言を添える。
孤児院に冬用の毛布を届けたとき、院長が涙ながらに礼を言うと、彼女は眉をひそめた。
「勘違いなさらないで。子どもが道端で凍えていると、馬車の通行の邪魔ですもの」
流行病の村に薬を送ったとき、村長が深々と頭を下げると、彼女は扇を鳴らした。
「領地に病が広がれば、税が滞ります。打算ですわ」
雨の中、迷子の子どもを馬車に乗せて家まで送ったときも、彼女はこう言った。
「泣き声がうるさかっただけです。次からは迷子になるなら静かになさい」
そんな彼女を、人々はこう呼んだ。
嘘つき令嬢。
親切を意地悪に見せかける。
優しさを悪意のように語る。
本心を隠すためなら、自分の評判が悪くなることさえ気にしない。
ミレイユ本人は、その呼び名を案外気に入っていた。
「正直者ほど面倒な生き物はいませんもの」
そう言って笑う彼女を、母である侯爵夫人はいつも困ったように見つめていた。
「ミレイユ。もう少し素直に振る舞えないの?」
「素直に振る舞って何になるのです。感謝され、期待され、面倒ごとが増えるだけですわ」
「あなたは本当は優しい子なのに」
「お母様」
ミレイユは扇を開いた。
「そういう根も葉もない噂を流すのは、おやめください」
侯爵夫人はため息をついた。
その嘘つき令嬢の後を、白鹿がついて回るようになった。
翌朝、ミレイユが王宮へ向かえば、白鹿もついてくる。
侯爵邸へ戻れば、白鹿も門をくぐろうとする。
茶会へ出れば、白鹿は庭から窓を覗き込む。
神獣が、悪評高い侯爵令嬢の背後を当然のように歩く。
王都は大騒ぎになった。
「白鹿はミレイユ様を選んだのでは?」
「まさか。あの方が女王に?」
「しかし、神獣があれほど懐くなど……」
当のミレイユは、心底迷惑そうだった。
「やめてくださる? 私は王になる気などありませんの」
白鹿は答えず、彼女のドレスの裾を軽く噛んだ。
「噛まないでくださる? これは昨日仕立てたばかりです」
白鹿はもう一度噛んだ。
「喧嘩を売っていますの?」
その場にいた侍女たちは、必死に笑いをこらえた。
王宮で緊急会議が開かれた。
玉座の間には、第一王子レナート、第二王子オスカー、神官長、宰相、そして主要な貴族たちが集められていた。
病床の王は出席できず、代わりに王の椅子には王冠だけが置かれている。
ミレイユは、白鹿を連れて会議室に入った。
「なぜ私まで呼ばれなければなりませんの」
第一王子レナートが鋭い目で彼女を見る。
「白鹿が君につきまとっているからだ。理由を説明してもらおう」
「私が知るわけないでしょう。鹿語は履修しておりません」
部屋の空気が固まった。
第二王子オスカーが薄く笑った。
「では、白鹿が本当に神意を示しているのか、試してみればよい」
彼は机の上に三つの小箱を置いた。
金の飾りがついた箱。
銀の飾りがついた箱。
何の飾りもない木箱。
「一つには金貨。一つには王冠の模型。一つにはただの石が入っている。白鹿が王を見抜くなら、王冠の箱を選ぶはずだ」
神官長が眉をひそめる。
「神獣を試すなど、不敬でございます」
「いいえ」
ミレイユが扇を閉じた。
「面白いですわ」
第二王子の目が細くなる。
「賛成するのか?」
「ええ。ただし、箱を用意したのが殿下では不公平です。中身を知っている方がいる試験に意味はありません」
「では、どうする」
「街の子どもに選ばせましょう」
呼ばれたのは、王宮前で花を売っていた小さな少女だった。
年は十歳ほど。細い腕に籠を下げ、寒さで赤くなった指で小さな花束を握っていた。
少女は突然王宮に連れてこられ、顔を青ざめさせていた。
ミレイユは少女の前にしゃがんだ。
「名前は?」
「リナです……」
「リナ。あなたには、三つの箱の中身を別室で入れ替えてもらいます。どの箱に何が入ったかは、あなた以外、誰も知りません」
少女は震えながら頷いた。
「間違えても構いません。ただし、見たままを覚えていなさい」
「はい……」
リナは三つの箱を抱え、神官と衛兵に案内されて別室へ向かった。
やがて、三つの箱が会議室に戻された。
金の箱。
銀の箱。
木箱。
白鹿はゆっくりと歩き出した。
一歩。
また一歩。
広間にいる誰もが息を殺す。
白鹿は金の箱を通り過ぎた。
銀の箱にも目を向けなかった。
そして、何の飾りもない木箱の前で足を止めた。
第二王子オスカーが薄く笑う。
「開けろ」
神官が木箱を開けた。
中に入っていたのは、ただの石だった。
部屋に失望の空気が広がった。
第一王子レナートが低く呟く。
「やはり、白鹿は狂っているのか」
第二王子は肩をすくめた。
「神獣などと呼ばれていても、所詮は獣か」
その瞬間だった。
花売りの少女リナが、小さく息を吸った。
その顔は真っ青だった。
唇は震え、両手は握りしめすぎて白くなっている。
ミレイユは少女を見た。
「あなた、何か言いたいことがあるの?」
少女は首を振ろうとした。
けれど、その前に白鹿が静かに少女へ歩み寄った。
白鹿は、少女を責めるようには見なかった。
ただ、雪のように白い鼻先を、そっと少女の手に寄せた。
少女の目から、涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
部屋中が静まり返った。
「王冠の箱を、盗まれました」
第二王子の表情がわずかに強張る。
少女は泣きながら続けた。
「別室で箱を入れ替えたあと、知らない男の人に口を塞がれて……弟の名前を言われました。黙っていなければ、弟がどうなるか分からないって」
神官長が息を呑んだ。
「だから、私は……王冠の箱を渡して、代わりに石を入れました」
第一王子が声を荒げた。
「では、この試験は無効だ!」
「いいえ」
ミレイユが静かに言った。
「むしろ、今ようやく試験になりましたわ」
全員が彼女を見る。
ミレイユは白鹿を見た。
白鹿は、少女のそばに立っている。
「白鹿は王冠を選ばなかったのではありません。脅されて嘘をつかされた子どもを選んだのです」
リナは涙をこぼしながら、白鹿の首に触れた。
「ごめんなさい。怖かったの。でも、神獣様の前で嘘をついたままにはできなかったの」
白鹿は、少女の手をそっと舐めた。
それは、罰ではなかった。
赦しのように見えた。
ミレイユは扇を閉じた。
「王に必要なのは、王冠を探す目だけではありません。脅された者が、なお正直であろうとする声を聞き逃さない耳です」
彼女は第二王子を見た。
「そして、その声を奪おうとする者を、決して許さないことですわ」
第二王子は笑った。
「感動的な話だ。だが、その子どもの証言だけで疑うのか?」
「疑う?」
ミレイユは微笑んだ。
「いいえ。確信しております」
「証拠は?」
「今から探せばよろしいでしょう。王宮の中で、花売りの少女の弟の名まで知っている者は限られます。さらに、王冠の箱を持ち出した者はまだ遠くへ行けない。門を閉じなさい」
第二王子の顔から余裕が消えた。
「勝手な命令を……」
「勝手ではありませんわ」
ミレイユは神官長を見る。
「神獣の選定を妨害した罪です。王位を望む方なら、この重さはご存じでしょう?」
神官長は厳かに頷いた。
「門を閉じよ。神獣の選定を汚した者を逃がしてはならぬ」
衛兵たちが一斉に動いた。
第二王子は唇を噛んだ。
やがて、王宮の裏門近くで一人の男が捕らえられた。
懐には、小さな王冠の模型が入っていた。
男は第二王子オスカーの近侍だった。
取り調べは長くかからなかった。
近侍は、第二王子の命令で箱をすり替えたと白状した。
リナはその場に崩れるように泣いた。
ミレイユは彼女に近づき、淡々と言った。
「よく話しましたわね」
リナは涙で濡れた顔を上げた。
「怒らないの……?」
「怒っていますわ」
リナがびくりとする。
ミレイユは扇で第二王子のほうを示した。
「あなたを脅した相手に」
リナはまた泣いた。
白鹿は、もう一度その手を舐めた。
第二王子オスカーは拘束された。
だが、白鹿はまだ誰にも膝を折らなかった。
第一王子レナートは、安堵したように前へ出た。
「これで分かっただろう。王位を乱していたのは弟だ。白鹿よ、私を選べ」
白鹿は、彼を見た。
そして、何もしなかった。
第一王子の顔が赤くなる。
「なぜだ!」
その声には、王に選ばれなかった悲しみより、侮辱された怒りが滲んでいた。
ミレイユは小さく笑った。
「まだ分かりませんの?」
「何がだ」
「白鹿は、嘘を嫌うのです」
彼女は懐から一通の書状を取り出した。
「第一王子殿下。あなたは、病床の陛下の薬を減らしておりましたね」
空気が凍った。
「何を馬鹿な……」
「陛下を死なせるつもりではなかったのでしょう。ただ、長く意識が戻らなければ、摂政として権力を握れる。そうお考えになった」
「出まかせだ!」
「では、薬師を呼びましょう」
ミレイユの合図で、王宮薬師が現れた。
彼は震えながら、第一王子に命じられて薬の量を変えたと証言した。
第一王子は怒鳴り、言い訳をし、最後には膝から崩れ落ちた。
王宮は沈黙した。
王を継ぐはずだった二人の王子が、どちらも王にふさわしくなかったのだ。
そのとき、白鹿が歩き出した。
人々は息を呑んだ。
白鹿は、ミレイユの前まで来た。
そして、静かに膝を折った。
広間に、どよめきが広がる。
神獣が選んだ。
嘘つき令嬢を。
ミレイユは白鹿を見下ろした。
「……やめてくださる?」
白鹿は動かない。
「私は王になりたくありませんの」
白鹿は、さらに頭を低くした。
「あなた、本当に迷惑な鹿ですわね」
神官長が震える声で言った。
「ミレイユ様。白鹿があなたを選びました」
「知っていますわ。目の前で膝をつかれていますもの」
「では……」
「お断りします」
全員が固まった。
白鹿まで、少し顔を上げた。
ミレイユは胸を張った。
「私は王に向いておりません。口は悪いし、忍耐もないし、嫌いな相手には顔に出ます」
誰も否定できなかった。
「ですが」
彼女は白鹿の前に膝をついた。
「王を選ぶ手伝いなら、して差し上げます」
白鹿はじっと彼女を見る。
ミレイユは扇で白鹿の鼻先を軽く叩いた。
「あなたが見抜くのは嘘。私が見抜くのは、人が嘘をつく理由です」
人は誰でも嘘をつく。
優しさを隠す嘘。
弱さを守る嘘。
誰かを陥れる嘘。
自分だけを守る嘘。
王に必要なのは、嘘をつかないことではない。
嘘の向こう側にあるものを、見誤らないことだ。
三日後、白鹿は再び王都の広場に立った。
王族、貴族、騎士、神官、商人、職人、孤児。
身分に関係なく、多くの者が集められた。
ミレイユはその一人一人に問いを投げた。
「あなたが最後についた嘘は何?」
ある騎士は言った。
「怖くないと嘘をつきました。部下を不安にさせたくなかったので」
白鹿は動かなかった。
ある貴族は言った。
「税を減らしたと嘘をつきました。実際は民から多く取りました」
白鹿は背を向けた。
ある少女は言った。
「お腹が空いていないと嘘をつきました。弟にパンを食べさせたかったから」
白鹿は少女の手を舐めた。
そして最後に、一人の青年が進み出た。
名をアルノー・ベルラン。
王家の遠縁にあたる、地方領主の三男だった。
彼は地味な青年だった。
飾り気のない服に、日に焼けた肌。王都の貴族たちのような華やかさはない。
けれど、その目はまっすぐだった。
ミレイユは尋ねた。
「あなたが最後についた嘘は?」
アルノーは少し考えてから答えた。
「父に、王都へ行きたいと嘘をつきました」
「本当は?」
「行きたくありませんでした」
「では、なぜ来たの?」
「領地の村が飢えています。王都に訴えなければ、春まで持ちません。ですが父は病で動けない。だから、私が行きたいのだと嘘をつきました」
「王になりたい?」
「なりたくありません」
その答えに、人々がざわめいた。
ミレイユは笑った。
「気が合いますわね」
アルノーは困ったように微笑んだ。
「光栄です」
その瞬間、白鹿が歩いた。
そして、アルノーの前で膝を折った。
今度こそ、誰も異議を唱えなかった。
ただ、アルノー本人だけが真っ青になった。
「お待ちください。私は王になるための教育など受けておりません。領地の収穫と水路のことなら多少は分かりますが、王宮の礼法も、外交も、軍の動かし方も知りません」
その言葉に、ミレイユは初めて少し満足そうに笑った。
「よろしい」
「よろしい、とは?」
「知らないことを知らないと言える。まずは合格ですわ」
アルノーは困惑した。
「しかし、それだけで王になれるわけでは……」
「当然です」
ミレイユは王宮の重臣たちを振り返った。
「白鹿が選んだのは、完成された王ではありません。王になる資質を持つ者です。ならば、王に育てる仕組みが必要でしょう」
そうして、王宮には摂政会議が置かれることになった。
アルノーはすぐに全権を握る王ではなく、三年のあいだ、摂政会議の補佐を受ける暫定王として即位する。
国政の最終判断権は王にあるが、財政、軍事、外交、法務については、それぞれの専門家が助言し、決定の記録を残す。
王が学ぶための時間と、国が混乱しないための制度が同時に整えられた。
補佐役の中心は三人いた。
一人目は、老宰相ギルベルト。
先王の時代から政務を支えてきた実務官僚であり、法と財政の鬼と呼ばれる男だった。
二人目は、退位した先王。
薬の量を戻されて回復した彼は、病を理由に王位を退いたが、夜ごと書斎でアルノーに王としての孤独と責任を教えた。
三人目は、ミレイユだった。
彼女の役目は、礼法でも法務でもない。
嘘を見抜くこと。
そして、嘘の向こうにある欲と恐れを読むことだった。
即位から一月後、アルノーは老宰相ギルベルトの執務室で書類の山に埋もれていた。
地方への救済金。
軍の維持費。
河川工事の予算。
王都の食糧備蓄。
孤児院への補助金。
数字は、彼が知っている畑の収穫量とは違った。
一つ動かせば、別の場所で誰かが泣く。
そういう冷たい重さが、紙の上に並んでいた。
ギルベルトが淡々と言う。
「陛下、民を救いたいというお気持ちは結構。ですが、国庫にない金は使えません」
アルノーは書類に視線を落とした。
「……では、救えない村は、そのままにするしかないのですか」
老宰相は、すぐには答えなかった。
「いいえ。ですが、救う順番を間違えれば、救えるはずだった村まで失います」
「順番……」
「それを決めるのが政です。善意だけなら、誰にでも持てます。けれど、王は善意に道筋をつけねばなりません」
アルノーは黙った。
そして、もう一度書類を見た。
「私は、数字が嫌いになりそうです」
「嫌いで結構。逃げなければ、それでよろしい」
横からミレイユが口を挟んだ。
「陛下、今の沈黙は悪くありませんでしたわ」
アルノーが顔を上げる。
「悪くない?」
「分からないことを、分かったふりで裁かなかった。王としては、まず上出来です」
「褒めているのか?」
「ええ。たいへん珍しく」
「それは光栄だ」
「ただし、次は沈黙したまま固まらない練習が必要です。会議で置物になられては困りますもの」
アルノーは少しだけ笑った。
老宰相も、咳払いで笑みを隠した。
夜になると、退位した先王がアルノーを小さな書斎へ呼んだ。
先王はまだ痩せていたが、目には静かな力が戻っていた。
「アルノー。正しいことをすれば、皆が喜ぶとは限らぬ」
「はい」
「橋を架ければ、橋のない村が怒る。税を下げれば、兵の給金が足りぬ。兵を減らせば、国境の村が怯える」
「では、どう選べばよいのですか」
先王はゆっくりと息を吐いた。
「後悔の少ないほうを選べ。そして、選んだ後に逃げるな」
アルノーは黙って頷いた。
その後ろで、白鹿が書斎の窓から顔を出していた。
アルノーは、すぐれた王として即位したのではない。
すぐれた王になるために、毎日学び続けた。
朝は老宰相に法と財政を叩き込まれ、昼は会議で貴族たちの遠回しな要求に疲れ果て、夜は先王に王の責任を教わる。
その隣には、たいていミレイユがいた。
「陛下、あの伯爵の発言は民のためではありませんわ」
会議の後、ミレイユは扇で口元を隠しながら言った。
「なぜ分かる?」
「あの方が急に洪水対策を唱え始めたのは、橋の建設地を自領に寄せたいからです。昨日まで川の流れになど興味もありませんでしたもの」
「なるほど」
「感心している場合ではありません。次は笑顔で断る練習です」
「笑顔で?」
「ええ。王は怒鳴るより、笑って断るほうが怖いのです」
アルノーは難しい顔で微笑んだ。
ミレイユは即座に首を振った。
「それでは畑で大きな芋を見つけた人です」
「そんなに悪いか?」
「悪くはありませんが、伯爵は怯えません」
白鹿が鼻を鳴らした。
「あなたも笑わないでくださる?」
白鹿はまた鼻を鳴らした。
数か月が過ぎる頃には、王宮の空気は少しずつ変わり始めていた。
二人の王子の不正に関わった貴族たちは処罰され、王都に滞っていた穀物は地方へ送られた。
飢えていた村には、まず冬を越すための食糧が届き、春には種と農具が配られた。
急場をしのぐために王宮の祝宴は三つ中止され、貴族たちからは不満が出た。
ある伯爵夫人が茶会で声高に言った。
「新王は華やぎというものを知らないのですわ。王宮が質素では、国の威信に関わります」
ミレイユは優雅に茶を飲んでから答えた。
「飢えた村の前で金箔の菓子を食べるほうが、よほど威信に関わりますわ」
伯爵夫人は言葉を失った。
その日から、ミレイユの悪評はさらに広がった。
「嘘つき令嬢が新王を操っている」
「白鹿まで手なずけた魔女だ」
「王宮の贅沢を奪った冷血な女だ」
ミレイユはそれを聞き、満足げに笑った。
「悪くありませんわね」
アルノーは不思議そうに尋ねた。
「悪くないのか?」
「ええ。人は分かりやすい悪役がいると安心します。陛下が嫌われるより、私が嫌われるほうが安上がりです」
「それは、君が損をしているだけでは?」
「いいえ。私はもともと嫌われていますもの。追加料金はかかりません」
アルノーは黙った。
「ミレイユ」
「何ですの?」
「ありがとう」
ミレイユは扇を開いた。
「お礼を言われる筋合いはありません。私はただ、無能な王に仕えるのが嫌なだけです」
「そうか」
「ええ」
「それでも、ありがとう」
ミレイユはしばらく黙った。
そして、ぷいと顔をそらした。
「陛下は物覚えが悪いですわね。私は礼を言われるのが嫌いなのです」
白鹿が、そっとミレイユの背中に鼻先を押しつけた。
ミレイユは小さくため息をついた。
「あなたまで何ですの」
白鹿は何も言わない。
だが、ミレイユの嘘を見抜いているようだった。
一年後、アルノーは正式に王として認められた。
もちろん、完璧な王になったわけではない。
外交ではまだ言葉を選びすぎるし、貴族の皮肉には気づくのが遅い。
軍議では将軍たちの勢いに圧倒されることもある。
けれど、彼は知らないことを恥じなかった。
間違えれば学び直した。
誰かが弱さから嘘をついたとき、それを罰する前に理由を聞いた。
誰かが欲から嘘をついたとき、それを見逃さなかった。
王都には、また新しい噂が流れた。
新王アルノーは誠実だが、嘘つき令嬢には頭が上がらないらしい。
白鹿は神獣だが、干し林檎で機嫌が直るらしい。
そしてミレイユは、相変わらず口が悪いが、彼女の通った後には助かる者が増えるらしい。
ある日、王宮の庭で、花売りの少女リナがミレイユに花束を差し出した。
あの箱の試験で脅された少女だった。
「ミレイユ様。これ、受け取ってください」
ミレイユは眉をひそめた。
「なぜ?」
「お礼です。あのとき、助けてくださったから」
「私はあなたを助けたのではありません。第二王子を追い落とすために、あなたの証言を利用しただけです」
リナはにこりと笑った。
「はい、わかりました」
ミレイユは言葉に詰まった。
リナは白い小さな花束を彼女に押しつけて、走っていった。
ミレイユはしばらく花束を見つめていた。
白鹿が隣から花を食べようとする。
「食べてはいけません」
白鹿は不満そうに鼻を鳴らした。
「これは私がいただいたものです」
そう言ってから、ミレイユは自分の言葉に気づき、少しだけ頬を赤らめた。
白鹿は静かに彼女を見ていた。
「何ですの」
白鹿は、ゆっくりと頭を下げた。
かつて広間で彼女に膝を折ったときのように。
ミレイユは困ったように笑った。
「私は王にはなりませんわよ」
白鹿は動かない。
「……分かっています。嘘をつくな、と言いたいのでしょう」
白鹿の黒い瞳は静かだった。
ミレイユは花束を胸に抱いた。
「嬉しいですわ」
それは、とても小さな声だった。
誰に聞かせるつもりもない本音だった。
白鹿は満足そうに目を細めた。
その日の夕方、アルノー王が庭へやって来た。
「ここにいたのか」
「陛下。執務を抜け出すとは、良いご身分ですわね」
「ギルベルトに追い出された。考えすぎて顔が死んでいると言われた」
「老宰相は正直ですわね」
アルノーはミレイユの手元の花束を見る。
「似合っている」
「お世辞が下手ですわ」
「本心だ」
「なお悪いです」
アルノーは少し笑った。
白鹿が二人の間に割り込むように立った。
「あなたは本当に邪魔をするのが好きですわね」
白鹿は平然としていた。
アルノーは庭の向こうを見た。
王都の広場では、子どもたちが走っている。商人たちは声を張り上げ、職人たちは店先で道具を磨き、かつて飢えていた村から届いた初物の野菜が市場に並んでいた。
国はまだ完全ではない。
正されていない不正もある。
救いきれない貧しさもある。
嘘も、欲も、恐れも、なくなりはしない。
それでも、少しずつ変わっていた。
アルノーは言った。
「ミレイユ。これからも私を助けてくれるか」
ミレイユは扇を広げた。
「嫌ですわ」
アルノーは笑った。
「そう言うと思った」
「ですが、放っておくと陛下はまた畑で芋を掘る顔になりますから」
「どういう顔だ」
「実直で、善良で、貴族に騙されやすそうな顔です」
「手厳しいな」
「ですから、仕方なく見張って差し上げます」
アルノーは深く頭を下げた。
「頼りにしている」
ミレイユはふいと顔をそらした。
「そういうことを真っ直ぐ言うのは、おやめください。対応に困ります」
白鹿が楽しそうに鼻を鳴らした。
ミレイユは白鹿を睨む。
「あなたも笑わない」
白鹿はまた鼻を鳴らした。
嘘つき令嬢は、今日も本心を隠す。
優しさを打算と呼び、照れを怒りに変え、感謝されれば迷惑そうに扇を開く。
けれど、白鹿だけは知っている。
彼女の嘘が、誰かを傷つけるためのものではないことを。
彼女の悪評が、誰かの盾になっていることを。
彼女が差し出す干し林檎には、いつも少しだけ多めの優しさが混じっていることを。
そして王国の人々も、少しずつ気づき始めていた。
嘘つき令嬢の嘘は、ときどき正直者よりも優しい。
王宮の庭に、春の風が吹いた。
白い神獣が、嘘つき令嬢の隣で静かに草を食む。
ミレイユはそれを見て、ため息をついた。
「まったく、面倒な国ですこと」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。




