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ファンタジー

神獣と嘘つき令嬢

作者: くるみ
掲載日:2026/05/20

王国には、古くから一つの決まりがあった。


王を選ぶのは、人ではない。

森に棲む白い神獣である。


王が老い、病み、あるいは己の時代の終わりを悟ったとき、玉座の間で「選定の鐘」を鳴らす。

その鐘の音を聞くと、白鹿は霧深い森から王都へ現れ、次代の王にふさわしい者の前で膝を折る。


血筋も、年齢も、財産も関係ない。


白鹿が選べば、遠い血筋の者でも王になれる。

白鹿が選ばなければ、第一王子であっても王座には就けない。

ただし、白鹿が現れたからといって、必ずすぐに膝を折るとは限らない。


神獣は、人の言葉を話さない。

ただ沈黙し、見つめ、待つ。


その沈黙こそが、王国にとって最も恐ろしい審判だった。

そして今、その白鹿は王都の中央広場に立っていた。


三日前、病床の王が選定の鐘を鳴らした。

鐘の音は王都に鳴り響き、夜明け前、白い神獣が霧の中から姿を現した。

王都の民は広場へ集まり、貴族たちは正装で並び、神官たちは祈りを捧げた。


誰もが思っていた。


白鹿は第一王子レナートの前で膝を折るのだろう、と。

レナート王子は美しく、堂々としていた。剣の腕も立ち、演説も巧みで、貴族たちの支持も厚い。


あるいは、第二王子オスカーかもしれない、と考える者もいた。

オスカー王子は穏やかで、学識があり、民の前ではいつも優しく笑った。


だが、白鹿は誰にも膝を折らなかった。


第一王子が進み出ても。

第二王子が祈りを捧げても。

高名な聖女が讃歌を歌っても。

宰相が王国の歴史を読み上げても。


白鹿は、ただ雪のように白い体を広場に立たせたまま、静かに人々を見ていた。


一日が過ぎた。

三日が過ぎた。

七日が過ぎた。


白鹿は何も食べず、何も飲まなかった。

神官たちが用意した清水にも、王宮料理人が整えた果実にも、貴族たちが競って差し出した供物にも口をつけない。

王都には不安が広がり始めた。


「神獣が王を選ばぬのは、王家に罪があるからではないか」

「国が滅びる前触れだ」

「白鹿は怒っているのだ」


そんな噂が囁かれるようになった三日目の夜、侯爵令嬢ミレイユ・アシュフォードは、毛皮の外套をまとって中央広場へ向かった。

彼女は銀茶の髪を結い上げ、蜂蜜色の瞳を不機嫌そうに細めていた。手には小さな袋を持っている。


広場には数人の衛兵が残っていた。

白鹿は、相変わらず広場の中央に立っている。

月明かりを吸ったような白い毛並み。枝分かれした角。夜の底を映したような黒い瞳。


神々しい、と誰もが言うだろう。

だが、ミレイユは白鹿の前に立つと、開口一番こう言った。


「あなた、馬鹿ですの?」


衛兵たちが凍りついた。

神獣に向かって、馬鹿。

ミレイユは構わず続けた。


「一週間も食べずに突っ立って、王を選ぶ前に倒れるつもりですか。迷惑な鹿ですわね」


白鹿は静かに彼女を見た。


「何ですの、その目は。私が間違ったことを言っていますか?」


白鹿は答えない。

ミレイユはため息をつき、持っていた袋を開けた。中には干し林檎が入っている。


「食べなさい。毒は入っていません。あなたを殺したら、後始末が面倒でしょう」


白鹿は動かなかった。


「疑っているの? 結構です。では、私が先に食べます」


ミレイユは干し林檎を一切れ口に入れた。


「ほら。無事ですわ」


それから、もう一切れを白鹿の口元へ差し出した。


しばらくの沈黙のあと、白鹿はゆっくりとそれを食べた。

衛兵たちが息を呑む。


七日間、誰の供物も拒んだ神獣が、ミレイユの差し出した干し林檎だけを食べた。

ミレイユは不満そうに言った。


「食べられるではありませんか。無駄に人を騒がせて」


白鹿は、もう一切れ欲しそうに鼻先を寄せた。


「図々しいですわね」


そう言いながらも、ミレイユは二切れ目を差し出した。

ミレイユ・アシュフォード侯爵令嬢は、王都であまり好かれていなかった。


美しいが、口が悪い。

優雅だが、性格がきつい。

親切をしても、必ず余計な一言を添える。


孤児院に冬用の毛布を届けたとき、院長が涙ながらに礼を言うと、彼女は眉をひそめた。


「勘違いなさらないで。子どもが道端で凍えていると、馬車の通行の邪魔ですもの」


流行病の村に薬を送ったとき、村長が深々と頭を下げると、彼女は扇を鳴らした。


「領地に病が広がれば、税が滞ります。打算ですわ」


雨の中、迷子の子どもを馬車に乗せて家まで送ったときも、彼女はこう言った。


「泣き声がうるさかっただけです。次からは迷子になるなら静かになさい」


そんな彼女を、人々はこう呼んだ。


嘘つき令嬢。


親切を意地悪に見せかける。

優しさを悪意のように語る。

本心を隠すためなら、自分の評判が悪くなることさえ気にしない。


ミレイユ本人は、その呼び名を案外気に入っていた。


「正直者ほど面倒な生き物はいませんもの」


そう言って笑う彼女を、母である侯爵夫人はいつも困ったように見つめていた。


「ミレイユ。もう少し素直に振る舞えないの?」


「素直に振る舞って何になるのです。感謝され、期待され、面倒ごとが増えるだけですわ」


「あなたは本当は優しい子なのに」


「お母様」


ミレイユは扇を開いた。


「そういう根も葉もない噂を流すのは、おやめください」


侯爵夫人はため息をついた。

その嘘つき令嬢の後を、白鹿がついて回るようになった。


翌朝、ミレイユが王宮へ向かえば、白鹿もついてくる。

侯爵邸へ戻れば、白鹿も門をくぐろうとする。

茶会へ出れば、白鹿は庭から窓を覗き込む。

神獣が、悪評高い侯爵令嬢の背後を当然のように歩く。


王都は大騒ぎになった。


「白鹿はミレイユ様を選んだのでは?」


「まさか。あの方が女王に?」


「しかし、神獣があれほど懐くなど……」


当のミレイユは、心底迷惑そうだった。


「やめてくださる? 私は王になる気などありませんの」


白鹿は答えず、彼女のドレスの裾を軽く噛んだ。


「噛まないでくださる? これは昨日仕立てたばかりです」


白鹿はもう一度噛んだ。


「喧嘩を売っていますの?」


その場にいた侍女たちは、必死に笑いをこらえた。




王宮で緊急会議が開かれた。

玉座の間には、第一王子レナート、第二王子オスカー、神官長、宰相、そして主要な貴族たちが集められていた。

病床の王は出席できず、代わりに王の椅子には王冠だけが置かれている。

ミレイユは、白鹿を連れて会議室に入った。


「なぜ私まで呼ばれなければなりませんの」


第一王子レナートが鋭い目で彼女を見る。


「白鹿が君につきまとっているからだ。理由を説明してもらおう」


「私が知るわけないでしょう。鹿語は履修しておりません」


部屋の空気が固まった。

第二王子オスカーが薄く笑った。


「では、白鹿が本当に神意を示しているのか、試してみればよい」


彼は机の上に三つの小箱を置いた。


金の飾りがついた箱。

銀の飾りがついた箱。

何の飾りもない木箱。


「一つには金貨。一つには王冠の模型。一つにはただの石が入っている。白鹿が王を見抜くなら、王冠の箱を選ぶはずだ」


神官長が眉をひそめる。


「神獣を試すなど、不敬でございます」


「いいえ」


ミレイユが扇を閉じた。


「面白いですわ」


第二王子の目が細くなる。


「賛成するのか?」


「ええ。ただし、箱を用意したのが殿下では不公平です。中身を知っている方がいる試験に意味はありません」


「では、どうする」


「街の子どもに選ばせましょう」


呼ばれたのは、王宮前で花を売っていた小さな少女だった。

年は十歳ほど。細い腕に籠を下げ、寒さで赤くなった指で小さな花束を握っていた。

少女は突然王宮に連れてこられ、顔を青ざめさせていた。

ミレイユは少女の前にしゃがんだ。


「名前は?」


「リナです……」


「リナ。あなたには、三つの箱の中身を別室で入れ替えてもらいます。どの箱に何が入ったかは、あなた以外、誰も知りません」


少女は震えながら頷いた。


「間違えても構いません。ただし、見たままを覚えていなさい」


「はい……」


リナは三つの箱を抱え、神官と衛兵に案内されて別室へ向かった。

やがて、三つの箱が会議室に戻された。


金の箱。

銀の箱。

木箱。


白鹿はゆっくりと歩き出した。


一歩。

また一歩。


広間にいる誰もが息を殺す。


白鹿は金の箱を通り過ぎた。

銀の箱にも目を向けなかった。


そして、何の飾りもない木箱の前で足を止めた。


第二王子オスカーが薄く笑う。


「開けろ」


神官が木箱を開けた。


中に入っていたのは、ただの石だった。


部屋に失望の空気が広がった。

第一王子レナートが低く呟く。


「やはり、白鹿は狂っているのか」


第二王子は肩をすくめた。


「神獣などと呼ばれていても、所詮は獣か」


その瞬間だった。


花売りの少女リナが、小さく息を吸った。


その顔は真っ青だった。

唇は震え、両手は握りしめすぎて白くなっている。


ミレイユは少女を見た。


「あなた、何か言いたいことがあるの?」


少女は首を振ろうとした。

けれど、その前に白鹿が静かに少女へ歩み寄った。


白鹿は、少女を責めるようには見なかった。

ただ、雪のように白い鼻先を、そっと少女の手に寄せた。


少女の目から、涙がこぼれた。


「ごめんなさい……」


部屋中が静まり返った。


「王冠の箱を、盗まれました」


第二王子の表情がわずかに強張る。

少女は泣きながら続けた。


「別室で箱を入れ替えたあと、知らない男の人に口を塞がれて……弟の名前を言われました。黙っていなければ、弟がどうなるか分からないって」


神官長が息を呑んだ。


「だから、私は……王冠の箱を渡して、代わりに石を入れました」


第一王子が声を荒げた。


「では、この試験は無効だ!」


「いいえ」


ミレイユが静かに言った。


「むしろ、今ようやく試験になりましたわ」


全員が彼女を見る。

ミレイユは白鹿を見た。

白鹿は、少女のそばに立っている。


「白鹿は王冠を選ばなかったのではありません。脅されて嘘をつかされた子どもを選んだのです」


リナは涙をこぼしながら、白鹿の首に触れた。


「ごめんなさい。怖かったの。でも、神獣様の前で嘘をついたままにはできなかったの」


白鹿は、少女の手をそっと舐めた。

それは、罰ではなかった。

赦しのように見えた。

ミレイユは扇を閉じた。


「王に必要なのは、王冠を探す目だけではありません。脅された者が、なお正直であろうとする声を聞き逃さない耳です」


彼女は第二王子を見た。


「そして、その声を奪おうとする者を、決して許さないことですわ」


第二王子は笑った。


「感動的な話だ。だが、その子どもの証言だけで疑うのか?」


「疑う?」


ミレイユは微笑んだ。


「いいえ。確信しております」


「証拠は?」


「今から探せばよろしいでしょう。王宮の中で、花売りの少女の弟の名まで知っている者は限られます。さらに、王冠の箱を持ち出した者はまだ遠くへ行けない。門を閉じなさい」


第二王子の顔から余裕が消えた。


「勝手な命令を……」


「勝手ではありませんわ」


ミレイユは神官長を見る。


「神獣の選定を妨害した罪です。王位を望む方なら、この重さはご存じでしょう?」


神官長は厳かに頷いた。


「門を閉じよ。神獣の選定を汚した者を逃がしてはならぬ」


衛兵たちが一斉に動いた。

第二王子は唇を噛んだ。

やがて、王宮の裏門近くで一人の男が捕らえられた。


懐には、小さな王冠の模型が入っていた。

男は第二王子オスカーの近侍だった。

取り調べは長くかからなかった。

近侍は、第二王子の命令で箱をすり替えたと白状した。

リナはその場に崩れるように泣いた。


ミレイユは彼女に近づき、淡々と言った。


「よく話しましたわね」


リナは涙で濡れた顔を上げた。


「怒らないの……?」


「怒っていますわ」


リナがびくりとする。

ミレイユは扇で第二王子のほうを示した。


「あなたを脅した相手に」


リナはまた泣いた。

白鹿は、もう一度その手を舐めた。


第二王子オスカーは拘束された。

だが、白鹿はまだ誰にも膝を折らなかった。


第一王子レナートは、安堵したように前へ出た。


「これで分かっただろう。王位を乱していたのは弟だ。白鹿よ、私を選べ」


白鹿は、彼を見た。

そして、何もしなかった。

第一王子の顔が赤くなる。


「なぜだ!」


その声には、王に選ばれなかった悲しみより、侮辱された怒りが滲んでいた。

ミレイユは小さく笑った。


「まだ分かりませんの?」


「何がだ」


「白鹿は、嘘を嫌うのです」


彼女は懐から一通の書状を取り出した。


「第一王子殿下。あなたは、病床の陛下の薬を減らしておりましたね」


空気が凍った。


「何を馬鹿な……」


「陛下を死なせるつもりではなかったのでしょう。ただ、長く意識が戻らなければ、摂政として権力を握れる。そうお考えになった」


「出まかせだ!」


「では、薬師を呼びましょう」


ミレイユの合図で、王宮薬師が現れた。

彼は震えながら、第一王子に命じられて薬の量を変えたと証言した。

第一王子は怒鳴り、言い訳をし、最後には膝から崩れ落ちた。

王宮は沈黙した。


王を継ぐはずだった二人の王子が、どちらも王にふさわしくなかったのだ。


そのとき、白鹿が歩き出した。

人々は息を呑んだ。

白鹿は、ミレイユの前まで来た。


そして、静かに膝を折った。

広間に、どよめきが広がる。


神獣が選んだ。


嘘つき令嬢を。


ミレイユは白鹿を見下ろした。


「……やめてくださる?」


白鹿は動かない。


「私は王になりたくありませんの」


白鹿は、さらに頭を低くした。


「あなた、本当に迷惑な鹿ですわね」


神官長が震える声で言った。


「ミレイユ様。白鹿があなたを選びました」


「知っていますわ。目の前で膝をつかれていますもの」


「では……」


「お断りします」


全員が固まった。

白鹿まで、少し顔を上げた。

ミレイユは胸を張った。


「私は王に向いておりません。口は悪いし、忍耐もないし、嫌いな相手には顔に出ます」


誰も否定できなかった。


「ですが」


彼女は白鹿の前に膝をついた。


「王を選ぶ手伝いなら、して差し上げます」


白鹿はじっと彼女を見る。

ミレイユは扇で白鹿の鼻先を軽く叩いた。


「あなたが見抜くのは嘘。私が見抜くのは、人が嘘をつく理由です」


人は誰でも嘘をつく。


優しさを隠す嘘。

弱さを守る嘘。

誰かを陥れる嘘。

自分だけを守る嘘。


王に必要なのは、嘘をつかないことではない。

嘘の向こう側にあるものを、見誤らないことだ。


三日後、白鹿は再び王都の広場に立った。

王族、貴族、騎士、神官、商人、職人、孤児。

身分に関係なく、多くの者が集められた。

ミレイユはその一人一人に問いを投げた。


「あなたが最後についた嘘は何?」


ある騎士は言った。


「怖くないと嘘をつきました。部下を不安にさせたくなかったので」


白鹿は動かなかった。


ある貴族は言った。


「税を減らしたと嘘をつきました。実際は民から多く取りました」


白鹿は背を向けた。


ある少女は言った。


「お腹が空いていないと嘘をつきました。弟にパンを食べさせたかったから」


白鹿は少女の手を舐めた。

そして最後に、一人の青年が進み出た。


名をアルノー・ベルラン。


王家の遠縁にあたる、地方領主の三男だった。

彼は地味な青年だった。

飾り気のない服に、日に焼けた肌。王都の貴族たちのような華やかさはない。

けれど、その目はまっすぐだった。


ミレイユは尋ねた。


「あなたが最後についた嘘は?」


アルノーは少し考えてから答えた。


「父に、王都へ行きたいと嘘をつきました」


「本当は?」


「行きたくありませんでした」


「では、なぜ来たの?」


「領地の村が飢えています。王都に訴えなければ、春まで持ちません。ですが父は病で動けない。だから、私が行きたいのだと嘘をつきました」


「王になりたい?」


「なりたくありません」


その答えに、人々がざわめいた。

ミレイユは笑った。


「気が合いますわね」


アルノーは困ったように微笑んだ。


「光栄です」


その瞬間、白鹿が歩いた。

そして、アルノーの前で膝を折った。

今度こそ、誰も異議を唱えなかった。

ただ、アルノー本人だけが真っ青になった。


「お待ちください。私は王になるための教育など受けておりません。領地の収穫と水路のことなら多少は分かりますが、王宮の礼法も、外交も、軍の動かし方も知りません」


その言葉に、ミレイユは初めて少し満足そうに笑った。


「よろしい」


「よろしい、とは?」


「知らないことを知らないと言える。まずは合格ですわ」


アルノーは困惑した。


「しかし、それだけで王になれるわけでは……」


「当然です」


ミレイユは王宮の重臣たちを振り返った。


「白鹿が選んだのは、完成された王ではありません。王になる資質を持つ者です。ならば、王に育てる仕組みが必要でしょう」


そうして、王宮には摂政会議が置かれることになった。

アルノーはすぐに全権を握る王ではなく、三年のあいだ、摂政会議の補佐を受ける暫定王として即位する。


国政の最終判断権は王にあるが、財政、軍事、外交、法務については、それぞれの専門家が助言し、決定の記録を残す。

王が学ぶための時間と、国が混乱しないための制度が同時に整えられた。


補佐役の中心は三人いた。


一人目は、老宰相ギルベルト。

先王の時代から政務を支えてきた実務官僚であり、法と財政の鬼と呼ばれる男だった。


二人目は、退位した先王。

薬の量を戻されて回復した彼は、病を理由に王位を退いたが、夜ごと書斎でアルノーに王としての孤独と責任を教えた。


三人目は、ミレイユだった。

彼女の役目は、礼法でも法務でもない。


嘘を見抜くこと。

そして、嘘の向こうにある欲と恐れを読むことだった。


即位から一月後、アルノーは老宰相ギルベルトの執務室で書類の山に埋もれていた。


地方への救済金。

軍の維持費。

河川工事の予算。

王都の食糧備蓄。

孤児院への補助金。


数字は、彼が知っている畑の収穫量とは違った。

一つ動かせば、別の場所で誰かが泣く。

そういう冷たい重さが、紙の上に並んでいた。


ギルベルトが淡々と言う。


「陛下、民を救いたいというお気持ちは結構。ですが、国庫にない金は使えません」


アルノーは書類に視線を落とした。


「……では、救えない村は、そのままにするしかないのですか」


老宰相は、すぐには答えなかった。


「いいえ。ですが、救う順番を間違えれば、救えるはずだった村まで失います」


「順番……」


「それを決めるのが政です。善意だけなら、誰にでも持てます。けれど、王は善意に道筋をつけねばなりません」


アルノーは黙った。

そして、もう一度書類を見た。


「私は、数字が嫌いになりそうです」


「嫌いで結構。逃げなければ、それでよろしい」


横からミレイユが口を挟んだ。


「陛下、今の沈黙は悪くありませんでしたわ」


アルノーが顔を上げる。


「悪くない?」


「分からないことを、分かったふりで裁かなかった。王としては、まず上出来です」


「褒めているのか?」


「ええ。たいへん珍しく」


「それは光栄だ」


「ただし、次は沈黙したまま固まらない練習が必要です。会議で置物になられては困りますもの」


アルノーは少しだけ笑った。

老宰相も、咳払いで笑みを隠した。

夜になると、退位した先王がアルノーを小さな書斎へ呼んだ。


先王はまだ痩せていたが、目には静かな力が戻っていた。


「アルノー。正しいことをすれば、皆が喜ぶとは限らぬ」


「はい」


「橋を架ければ、橋のない村が怒る。税を下げれば、兵の給金が足りぬ。兵を減らせば、国境の村が怯える」


「では、どう選べばよいのですか」


先王はゆっくりと息を吐いた。


「後悔の少ないほうを選べ。そして、選んだ後に逃げるな」


アルノーは黙って頷いた。

その後ろで、白鹿が書斎の窓から顔を出していた。



アルノーは、すぐれた王として即位したのではない。

すぐれた王になるために、毎日学び続けた。

朝は老宰相に法と財政を叩き込まれ、昼は会議で貴族たちの遠回しな要求に疲れ果て、夜は先王に王の責任を教わる。

その隣には、たいていミレイユがいた。


「陛下、あの伯爵の発言は民のためではありませんわ」


会議の後、ミレイユは扇で口元を隠しながら言った。


「なぜ分かる?」


「あの方が急に洪水対策を唱え始めたのは、橋の建設地を自領に寄せたいからです。昨日まで川の流れになど興味もありませんでしたもの」


「なるほど」


「感心している場合ではありません。次は笑顔で断る練習です」


「笑顔で?」


「ええ。王は怒鳴るより、笑って断るほうが怖いのです」


アルノーは難しい顔で微笑んだ。

ミレイユは即座に首を振った。


「それでは畑で大きな芋を見つけた人です」


「そんなに悪いか?」


「悪くはありませんが、伯爵は怯えません」


白鹿が鼻を鳴らした。


「あなたも笑わないでくださる?」


白鹿はまた鼻を鳴らした。

数か月が過ぎる頃には、王宮の空気は少しずつ変わり始めていた。


二人の王子の不正に関わった貴族たちは処罰され、王都に滞っていた穀物は地方へ送られた。

飢えていた村には、まず冬を越すための食糧が届き、春には種と農具が配られた。

急場をしのぐために王宮の祝宴は三つ中止され、貴族たちからは不満が出た。

ある伯爵夫人が茶会で声高に言った。


「新王は華やぎというものを知らないのですわ。王宮が質素では、国の威信に関わります」


ミレイユは優雅に茶を飲んでから答えた。


「飢えた村の前で金箔の菓子を食べるほうが、よほど威信に関わりますわ」


伯爵夫人は言葉を失った。

その日から、ミレイユの悪評はさらに広がった。


「嘘つき令嬢が新王を操っている」

「白鹿まで手なずけた魔女だ」

「王宮の贅沢を奪った冷血な女だ」


ミレイユはそれを聞き、満足げに笑った。


「悪くありませんわね」


アルノーは不思議そうに尋ねた。


「悪くないのか?」


「ええ。人は分かりやすい悪役がいると安心します。陛下が嫌われるより、私が嫌われるほうが安上がりです」


「それは、君が損をしているだけでは?」


「いいえ。私はもともと嫌われていますもの。追加料金はかかりません」


アルノーは黙った。


「ミレイユ」


「何ですの?」


「ありがとう」


ミレイユは扇を開いた。


「お礼を言われる筋合いはありません。私はただ、無能な王に仕えるのが嫌なだけです」


「そうか」


「ええ」


「それでも、ありがとう」


ミレイユはしばらく黙った。

そして、ぷいと顔をそらした。


「陛下は物覚えが悪いですわね。私は礼を言われるのが嫌いなのです」


白鹿が、そっとミレイユの背中に鼻先を押しつけた。

ミレイユは小さくため息をついた。


「あなたまで何ですの」


白鹿は何も言わない。

だが、ミレイユの嘘を見抜いているようだった。


一年後、アルノーは正式に王として認められた。

もちろん、完璧な王になったわけではない。


外交ではまだ言葉を選びすぎるし、貴族の皮肉には気づくのが遅い。

軍議では将軍たちの勢いに圧倒されることもある。

けれど、彼は知らないことを恥じなかった。


間違えれば学び直した。


誰かが弱さから嘘をついたとき、それを罰する前に理由を聞いた。

誰かが欲から嘘をついたとき、それを見逃さなかった。



王都には、また新しい噂が流れた。


新王アルノーは誠実だが、嘘つき令嬢には頭が上がらないらしい。

白鹿は神獣だが、干し林檎で機嫌が直るらしい。

そしてミレイユは、相変わらず口が悪いが、彼女の通った後には助かる者が増えるらしい。


ある日、王宮の庭で、花売りの少女リナがミレイユに花束を差し出した。

あの箱の試験で脅された少女だった。


「ミレイユ様。これ、受け取ってください」


ミレイユは眉をひそめた。


「なぜ?」


「お礼です。あのとき、助けてくださったから」


「私はあなたを助けたのではありません。第二王子を追い落とすために、あなたの証言を利用しただけです」


リナはにこりと笑った。


「はい、わかりました」


ミレイユは言葉に詰まった。

リナは白い小さな花束を彼女に押しつけて、走っていった。

ミレイユはしばらく花束を見つめていた。

白鹿が隣から花を食べようとする。


「食べてはいけません」


白鹿は不満そうに鼻を鳴らした。


「これは私がいただいたものです」


そう言ってから、ミレイユは自分の言葉に気づき、少しだけ頬を赤らめた。

白鹿は静かに彼女を見ていた。


「何ですの」


白鹿は、ゆっくりと頭を下げた。

かつて広間で彼女に膝を折ったときのように。

ミレイユは困ったように笑った。


「私は王にはなりませんわよ」


白鹿は動かない。


「……分かっています。嘘をつくな、と言いたいのでしょう」


白鹿の黒い瞳は静かだった。

ミレイユは花束を胸に抱いた。


「嬉しいですわ」


それは、とても小さな声だった。

誰に聞かせるつもりもない本音だった。

白鹿は満足そうに目を細めた。


その日の夕方、アルノー王が庭へやって来た。


「ここにいたのか」


「陛下。執務を抜け出すとは、良いご身分ですわね」


「ギルベルトに追い出された。考えすぎて顔が死んでいると言われた」


「老宰相は正直ですわね」


アルノーはミレイユの手元の花束を見る。


「似合っている」


「お世辞が下手ですわ」


「本心だ」


「なお悪いです」


アルノーは少し笑った。

白鹿が二人の間に割り込むように立った。


「あなたは本当に邪魔をするのが好きですわね」


白鹿は平然としていた。

アルノーは庭の向こうを見た。


王都の広場では、子どもたちが走っている。商人たちは声を張り上げ、職人たちは店先で道具を磨き、かつて飢えていた村から届いた初物の野菜が市場に並んでいた。


国はまだ完全ではない。


正されていない不正もある。

救いきれない貧しさもある。

嘘も、欲も、恐れも、なくなりはしない。


それでも、少しずつ変わっていた。

アルノーは言った。


「ミレイユ。これからも私を助けてくれるか」


ミレイユは扇を広げた。


「嫌ですわ」


アルノーは笑った。


「そう言うと思った」


「ですが、放っておくと陛下はまた畑で芋を掘る顔になりますから」


「どういう顔だ」


「実直で、善良で、貴族に騙されやすそうな顔です」


「手厳しいな」


「ですから、仕方なく見張って差し上げます」


アルノーは深く頭を下げた。


「頼りにしている」


ミレイユはふいと顔をそらした。


「そういうことを真っ直ぐ言うのは、おやめください。対応に困ります」


白鹿が楽しそうに鼻を鳴らした。

ミレイユは白鹿を睨む。


「あなたも笑わない」


白鹿はまた鼻を鳴らした。


嘘つき令嬢は、今日も本心を隠す。

優しさを打算と呼び、照れを怒りに変え、感謝されれば迷惑そうに扇を開く。


けれど、白鹿だけは知っている。

彼女の嘘が、誰かを傷つけるためのものではないことを。

彼女の悪評が、誰かの盾になっていることを。

彼女が差し出す干し林檎には、いつも少しだけ多めの優しさが混じっていることを。


そして王国の人々も、少しずつ気づき始めていた。

嘘つき令嬢の嘘は、ときどき正直者よりも優しい。


王宮の庭に、春の風が吹いた。

白い神獣が、嘘つき令嬢の隣で静かに草を食む。

ミレイユはそれを見て、ため息をついた。


「まったく、面倒な国ですこと」


その声は、少しだけ嬉しそうだった。

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― 新着の感想 ―
不器用で危うい生き方だけれど、生来の嘘を見抜く力ゆえに自分を守るためにそうなったのかなーと思いました。人間不信不可避だっただろうに、引きこもるのではなく立ち向かう強さが素敵ですね。理解者が物言わぬ鹿さ…
鹿が霊獣の割に人臭くて良かったな〜。ブフッて笑うのがとってもいいです。フッて笑うほうかな。王宮の周りでうろうろしてるのが奈良の鹿っぽい…。
ミレイユは聡い故に、分かりやすく正しいことをしてはいけないと学んだんでしょうね。優しさや正しさは、時に自分だけでなく周りを巻き込んで利用される事があるから。 良いお話でした。
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