男爵令嬢に魅了されていた婚約者が土下座しにきましたが、謝罪は必要ありません!
「――本っ当に、申し訳ありませんでしたッ!!」
久しぶりに会った婚約者は、わたしの姿を見るなりその整った顔を歪ませると流れるままに土下座した。
ええ。それはもう、驚くほど見事な土下座でしたとも……!
騎士団長の令息として彼が幼い頃から厳しく鍛えられ、千年にひとりの武芸の天才だと知られているけれど、まさかこんな形でその運動能力が発揮されるなんて誰が想像しただろう。
何も、そんなところで身のこなしの良さを披露しなくてもいいのに!
「俺は……俺はっ、君になんてことをッ!!」
「ああああ、あの!? 顔を上げてください、フェリクス様!」
我が子爵家の敷居を跨ぐこともできず、門の向こうで土下座するこちらの青年はフェリクス・クライブ。
優秀な騎士を輩出して近年台頭してきた侯爵家令息で、八歳の時に決められたわたしの婚約者である。
そして、そんな彼がどうしてこんな謝罪をしているのかといえば――。
王立学園在学中にとある男爵令嬢に想いを寄せ、卒業パーティの真っ最中に冤罪をふっかけた上でわたしとの婚約破棄を言いつけたからだ。
「……あの。もう謝罪はいいので、とりあえず起きてください」
「っ!! わ、わかってるんだ。こんなことをしたところで君には迷惑でしかないってことはッ――でも。それでもっ!」
地面に置かれた拳が、骨が白く浮くほど握りしめられている。そんなに力を入れたら、剣を握る大切な手が傷ついてしまう。
慌てて門をくぐって彼の前に膝をつけば、彼の身体が震えているのが分かった。
「……フェリクス様……」
「ごめんっ、ごめん。ティア……。大事にすると言ったのに、他でもない俺が、君を、傷付けた……っ。到底許されることじゃない……」
名前を呼んだだけなのに、怯えたように身体がびくりと揺れる。
こんなに追い詰められているところを見るのは初めてで、わたしも言葉に詰まってしまった。
「……フェリクス様。事情は分かっていますから、そうご自分を責めないでください」
「……っ、ティア……」
ようやく顔を上げたフェリクス様の額は地面に押し付けたせいで赤くなり、端正な顔には殴られたようなあざができていた。
「エミリア男爵令嬢の使った薬物のせいで、フェリクス様が正常でなかったことは知っています。悪いのは彼女であって、あなたは被害者です……」
二年生の終わりごろにやってきた編入生によって、わたしたちの関係は一変した。
ピンクブロンドの髪をした愛嬌に溢れた可愛らしいその男爵令嬢は、あっという間にフェリクス様や第一王子殿下をはじめとする殿方たちを虜にしてしまったのだ。
婚約者としてそれなりに上手くやっていたつもりだったのに、急にフェリクス様から冷たい態度を取られるようになった時には、正直堪えた。
それでも、わたしは世辞にも裕福とはいえない子爵家の娘。
この婚約が子爵家を守るためのものだと知っていたから、婚約関係が続く限り、たとえフェリクス様にどう思われても側にいる覚悟はしていた。
それが、政略結婚というものだと思っていたから。
「……少し、お痩せになりましたか? 騎士様は身体が資本でしょうに」
赤くなった額をハンカチでぬぐうと、フェリクス様は今にも泣きそうな表情に変わる。
ついこの前まで、この人当たりの良い爽やかな好青年に、冷たい瞳で見下されていたのが嘘みたいだった。
「よければ座って話しませんか?」
「っ、ごめん! 君のドレスが汚れて……!」
「こんなのすぐに落ちますから気にしないでください」
立ち上がって膝を払ってみせれば、フェリクス様も腰を上げて申し訳なさそうな顔をしたままおろおろしている。
こんなふうにちゃんと会話をしてくれるのは、いつぶりだろう。
ちゃんと昔と同じように彼に話せているのかも、今になってはよくわからない。
「……どうぞお入りください。何もない領地ですが、お茶くらいはお出しできますから」
それでも、まずはきちんと話をしないといけない。
かの男爵令嬢によってめちゃくちゃになったわたしたちが、これからどうするのかを――。
◆◆◆
我がコルト子爵家は、古いだけが取り柄の弱小貴族だ。
周囲を山に囲まれた小さな領地は不運にも先代で大きな土砂災害に見舞われ、領地の返還を考えるほどには財政が圧迫されているところを政略結婚という形で援助すると申し出てくれたのがクライブ侯爵家だった。
「この度は、愚息が多大なる迷惑と非礼をはたらいたこと、誠に申し訳ございませんでした。騎士団で団長という立場にありながら、息子の騎士道に反する愚行に気付けず、ティア嬢にはなんと詫びればよいか……」
フェリクス様と一緒に謝罪にきたクライブ侯爵様は、わたしと同席した父に向けて、深々と頭を下げた。
「精神に異常をきたしていたとはいえ、息子はあなたを傷付けました。――婚約はなかったことにするべきでしょう」
そして、告げられるのは婚約破棄の申し出。
被害に遭った他の令息は、第一王子も含めてすでに婚約破棄の手続きが済んでいることは、この田舎にまで聞き及んでいる。
「もちろん、この婚約でお約束していたことはすべて責任を持って遂行させていただきます。……それが、私たちにできるせめてもの償いです。他にもご希望があれば、なんなりと申し付けてください。できる限りの対応をさせていただきます」
そんな中、コルト子爵家だけが婚約関係を保留していたのは、こちらが選べるだけの立場にないから。
しかしそれも、迷惑料として担保されるのであれば話は変わってくる。
「……ティア。おまえが決めなさい」
「お父様……」
お父様はわたしの意思を尊重してくれる。
婚約が決まった八歳の時だって、前もって子どものわたしにもちゃんと話をして選ばせてくれた。
「……わたしは……」
沈黙が漂う客室で、俯いたままの婚約者。
もともと、天才と謳われる彼とわたしでは釣り合わない結婚だった。
この婚約が破棄されても、フェリクス様と結婚したい人はきっと他にもたくさんいるだろう。
「――っ、猶予をッ! どうか、猶予をくださいっ!!」
「フェリクス!!」
と、考え込んだ思考は、フェリクス様と侯爵様の声で弾け飛んだ。
「烏滸がましい申し出であることは承知しています。しかし、それでも! もしまだ、今の私に少しでも過去、婚約者として過ごした時のことを見出してもらえるなら! 挽回の機会を、どうか――!」
急に立ち上がって腰を折ったフェリクス様は必死だった。
侯爵様に怒られることも恐れずに頭を下げる彼に呆気に取られていると、見かねたお父様が静かに口を開く。
「……それは、君自身の体裁を守るためかね?」
「っ! 違いますっ!!」
諭すお父様に、フェリクス様はハッと顔を上げて即座に否定した。
「……ティア」
それからわたしに向き直った彼は、何を思ったか机をまわってわたしのすぐ横にまでやってくる。
ど、どうしよう――。
彼がこれから何をしようとしているのか、全然わからない。
わたしも立ち上がって対応するべきなのかと思って、椅子を引いたところだった。
フェリクス様が、わたしの横で跪いたのは……。
「ティア・コルト子爵令嬢。ずっと前から、あなたをお慕いしておりました」
そして、言い放たれた告白に時が止まった。
「…………………………へ??」
今、フェリクス様はなんて言っただろう。
――好き? 好きって言った? え、わたしのことが??
婚約者になってから、九年。
今の今まで言われたことがなかった台詞に、わたしは混乱するしかなかった。
「今の俺の言葉では、到底信じてもらえないことは分かってる。それでも俺は、君のことが好きだからこの婚約をどうしても破棄したくない」
そこには、曇りのない銀色の瞳に、わたしだけが映っている。
「俺が君のことをどれだけ想っているか、これから俺のすべてをもって示すから……。だからどうか、もう一度君の婚約者として隣に立つチャンスをください」
わたしが好きだった、誠実でまっすぐな剣のような眼だった。
もう二度と、その眼差しがわたしに向けられることはないのかと思っていた。
わたしが何をやってもさえなくて、美人でもなくて、嫌われてしまったのだと――。
「……どうか……。お願いします……」
赤みを帯びた髪に隠れて表情は見えない。
でも、彼の声は切実で、わたしにはその姿が演技だとは思えなかった。
「…………一年、だけ」
「!」
「一年だけ様子をみて。それでもなお、この先の人生、共に支え合っていけると思えたなら……結婚しましょう」
「!!」
もとより、わたしはこの婚約を自分から断るつもりはなかった。
フェリクス様が破棄したいというなら、破棄しても構わないと思っていたけれど、わたしから破談を申し出る気はなかった。
何せ、彼と破談になったところで、次の嫁ぎ先に困るのはわたしの方だと分かっていたから。
「〜〜っ!!」
顔を上げたフェリクス様の瞳に光が差した。
「君の大切な時間をもらえること、感謝します。もう二度と失望させることがないよう、全力を尽くことを誓います」
フェリクス様は私の手を取ると、それを自分の額に掲げるように押し付ける。
この国の紳士が捧げる、誓いの証だ。
それが、あの男爵令嬢に捧げられたところを見てしまった記憶が蘇って、どうしようもなく心が苦しくなるのに蓋をする。
もともと政略結婚だ。期待するだけ苦しむのはわたしの方だと、嫌と言うほどあの一年で学んだ。
――そうしてその日、わたしたちが猶予期間を設けて婚約関係を続けることが決まった。
侯爵様は事件の真相をきちんと明らかにすることを約束し、婚約が破棄になった場合も子爵家を支援するという契約書もその場でお父様と交わしてくれた。
フェリクス様は王国騎士団の精鋭部隊に所属することは決まっていたけれど、一般兵として一から鍛え直すらしい。
「次にいつ外出の許可を取れるか分からないけど、毎日、君に手紙を書くよ。返事は気が向いたら時にしてくれたら嬉しい」
「……くれぐれも、お身体には気をつけて」
「うん」
来た時の鬱蒼とした暗い顔とは打って変わって、フェリクス様は背筋を伸ばして前を向いていた。
もともと背が高かったけれど、ここ数年でまたぐっと伸びた気がする。
「機会をくれて、本当にありがとう。一日でもはやく君に相応しい男になってみせるから」
魅了される前のこの人が、実直に努力できる天才だとわたしは知っている。
どんな厳しい稽古にも食らいついて、決して逃げ出すことはしない負けず嫌い。昔はよく物陰で悔し涙を流していたことも、ちゃんと覚えている。
「……フェリクス様。こちらを」
「これは……?」
「傷に効く軟膏です。少し香りは強いですが、打ち身にも効果があります」
「!」
誰にかは分からないけれど、その頬のあざは打たれてできたものだろう。
武家に生まれ、傷が絶えなかった彼に出会う度に痛そうなのが見ていられなくて手当していたら、軟膏を手作りするまでになってしまった。
「ティア……。ありがとう。大事に使うよ」
フェリクス様は小瓶を大事そうに握ると、胸ポケットに仕舞い込んだ。
「フェリクス。早くしろ」
「――今行きます!」
門の向こうには、すでに馬が準備されている。
もう少し休んでから出発すればいいのに、騎士団長である侯爵様は仕事があるし、フェリクス様はフェリクス様ではやく一人前になりたいからと言って首を縦には振らなかった。
「それじゃあ、行ってくる」
「……はい。お気をつけて」
見送りの挨拶を終えれば、フェリクス様は走って侯爵様と合流した。
そして、息つく間もなく颯爽と馬に跨ると、わたしを一瞥してから子爵家を後にした。
◆◆◆
――ティアへ。
時間をくれたこと、本当にありがとう。
過去の俺が君にしてしまったことは覆らない事実で、俺が君を傷つけたことも変わらない。
謝っても謝り切れることじゃないことは分かっているけれど、謝るだけが誠意ではないと思うから、これからの人生をかけて君に償うことを誓うよ。
まずは、君の隣に立っても恥じないような騎士になる。
追伸)傷薬、ありがとう。さっそく使わせてもらったよ。心ばかりだけどお礼に王都で流行っているお菓子を贈ります。口に合うといいな。
――ティアへ。
予定から随分遅れてしまったけど、今日から王国騎士団に配属されることになったよ。
覚悟はしていたけど、俺は君を傷つけた最悪な婚約者だということを、改めて痛感させられた。
団長である父上の顔にも泥を塗ってしまった。
初日からなかなか厳しい訓練が始まったけど、これくらい君の傷に比べたらどうってことないね。
これからは、騎士団の寮から手紙を送ります。
――ティアへ。
今日は偶然第一王子殿下を見かけたよ。
彼の婚約は破談になって、お相手だったリシャーナ公爵令嬢は第二王子殿下の婚約者になったことはもう知ってるかな。
俺は事件があった後、父上に連れられて領地で中毒症状が落ち着くまで隔離されていたから、今日そのことを初めて知ったんだ。
殿下だけでなく、俺たち以外の婚約がすべて破談になったことを聞いて、君に今すぐ会いに行きたくなった。
寛大な君の配慮に、心から感謝します。
・
・
・
――ティアへ。
元気にしてますか。俺は元気です。
仕事ばかりで気の利いた話ができなくてごめん。
明日から一週間、アルデン山脈で実地訓練があります。毎日手紙を書くっていったのに守れなくてごめん。書けなかった日の分のことも、必ず君に伝えるよ。
君がよい一日を過ごせますように。
「……本当に毎日お手紙がきますね。お嬢様」
フェリクス様が謝罪に来てから、毎日わたしの手元には手紙が届くようになった。
自分で言ったことは曲げない、まっすぐなところは昔と同じで。
こういうところを尊敬していたことを思い出して、なんだか落ち着かない。
「今日も、お返事は書かれないんですか……?」
そう静かに尋ねるのは、幼い時からわたしに仕えてくれているメイドのマーサだ。
「……お返ししたいとは思ってるの。……でも、いざペンを持つと、どうしても書き出せなくて」
「お嬢様……」
在学中。二年生の長期休みの時に送った手紙の返事に、形式だけのやり取りなんて君も面倒だろうからもう送らなくていいと言われた。
そして、三年生の時に贈った誕生日プレゼントを目の前で投げ捨てられてから、もう彼に贈り物をするのはやめようと決めた。
今は状況が違うかもしれないけど、人の心は移ろいゆくものだと知ってしまったからか、ペンを握っても手が動かない。
「こんなことでは、本当に愛想を尽かされてしまうとはわかっているのに……」
何も取り柄がないのだから、婚約者が自分のために毎日送ってくれる手紙に返事をすることくらいしないといけない。
そう頭では分かっているけれど、どうしても返事を書くことができないまま、フェリクス様の十八回目の誕生日は刻一刻と迫ってきていた。
◆◆◆
「……今日も来てない、か……」
気が向いたら返事をしてくれたら嬉しいと言ったのは、自分だ。
しかし、一カ月が経過した今もなお、あの優しい婚約者から返信がないのが現実に、フェリクス・クライブも流石に打ちひしがれそうになっていた。
「そろそろ便箋を買いにいかないと」
それでも、ここで止めるわけにはいかない。
中毒になっていた時の記憶は定かではないが、他でもない自分自身が婚約者を傷つけたことだけは確かなのだ。
たとえ他人からお前のせいではないと言われても、それに頷いて責任転嫁するほど落ちぶれてはいない。
フェリクスは日課になっている朝の郵便物のチェックを終えると、支度をして街に出た。
今日は午前休。午後には夜間訓練の招集がかかっているから、ゆっくりはしていられない。
向かう先は、もちろん婚約者に送るレターセットが置いてある文具店だ。
王都の商店街から一本外れた道に、質の良い紙を扱う店がある。
チリリンとドアベルを鳴らして扉を開けると、こぢんまりした店内に先客が一組。
「――あら、フェリクス卿。こんなところで奇遇ね?」
そして、護衛を引き連れたブロンドの髪を縦に巻いた彼女を見て、フェリクスはギョッとする。
なぜなら、こちらの彼女こそ、自分たちが男爵令嬢によってたぶらかされていることを突き付けた張本人で、第一王子失脚後、第二王子の婚約者となった次期王妃の公爵令嬢だったからだ。
「……リ、リシャーナ嬢……」
「お会いするのは、先の件以来ね。お元気そうで何よりです」
「……その節は、大変ご迷惑を……」
「ええ、本当に」
顔は笑っているのに、まるで蛇に睨まれた蛙の気分だった。
「こちらにはなんのご用で?」
「……手紙を買いにきたんだ」
「なるほど。ティアさんに送るための」
何もかもを見透かされている。
フェリクスは居た堪れないが、これも婚約者を傷つけた罰だと思い、甘んじて受け入れた。
「あなたは婚約者に心の底から感謝すべきですね。もしまた同じような過ちをしでかしたなら、このわたくしが直々に引導を渡して差し上げましょう」
「うん。そうしてほしい。もし次があったら、だけど」
二度目はない。だから、この口約束が実行される時は絶対にこないし、こさせない。
フェリクスとて、好きな人のことを苦しめるやつなんて、自分でも許せないのだ。
「どうやら、毎日彼女に手紙を出しているというのは本当のようですね?」
「……そうだよ。……まあ、ティアからは一度も返事をもらえていないけど……」
「当然でしょう」
「……うん。わかってる……」
フェリクスは視線を横にずらして、レターセットを探す。
自分の文章では楽しんでもらえないかもしれないが、少しでも喜んでもらえるように選びたかった。
「……このままだと、今年の誕生日も祝ってもらえないかな……」
自嘲するフェリクスを見て、リシャーナはカッと目を見開いた。
「――本当に、何も覚えていらっしゃらないんですのね」
「……え?」
声の音が数段低くなったリシャーナに、フェリクスは振り返る。
そこにいるのは、蛇どころか鬼の形相をした公爵令嬢だ。
「あなたでしょう。去年の誕生日、ティアさんから渡されたプレゼントを彼女の目の前で中庭の池に捨てたのは!!」
そして、告げられる自身の所業に、フェリクスは自分の罪の重さをようやく思い知ったのだった。
◆◆◆
「――え? フェリクス様が学園に、ですか……?」
わたしがそのことを知ったのは、フェリクス様の誕生日プレゼントを用意するためにこっそり王都まで来ていたときだった。
「……知らなかった? 私が聞いた話では、ここ数日毎日のように通ってるって……」
教えてくれたのは、学園時代に仲良くなったオリビア様だった。
わたしと同じく騒動に巻き込まれた彼女は、今は新しい出会いを探して王都のタウンハウスに滞在している伯爵令嬢だ。
「一体どうして……? 学園でお仕事を?」
「それがどうにも、仕事ではないみたいなの。まだ校舎に誰もいない早朝にきて、授業が始まる前には学園を出て水浸しで街を歩いているところを見た生徒がいるって……」
「え……!?」
それは、どういうことなんだろう。
話を聞くからに、普通の様子ではないと思ってしまうのは、わたしの思い込みだろうか。
「もしかして、学園にまだ中毒性のある何かが残っているのでは……」
「でも、流石にあんなことがあった後だから、守衛が止めるはずよ」
「……そう、ですよね……」
冷たい目をしたフェリクス様の顔がフラッシュバックして、嫌な想像が止まらない。
「ごめんなさい、ティア。そんな顔をさせたいわけじゃなかったの……。これはあくまで噂だから、そう気に悩まないで」
「…………は、い。教えてくれてありがとうございます。今知ることができて、よかったです……」
王都に来てよかった。
もしまたフェリクス様の身に何か起こっているのだとしたら、はやく策を練らないといけないから。
後手に回って後悔するなんて、もう嫌なのだ。
「……わたし、調べてみます。その噂が本当なのか。どうして、フェリクス様がそんなことをしているのか」
「私も力になるわ。困ったことがあったら、すぐに声をかけて」
「はい。ありがとうございます」
侯爵家のタウンハウスを出ると、わたしはすぐに準備に取り掛かった。
マーサにもちゃんと事情を説明して、前もって学園にも入園の許可をもらった。
先に守衛さんから聞いた話では、オリビア様が聞いた噂通り、ここ三日間ずっとフェリクス様は学園を訪れているとのことで。
中庭の池で何かをしているということまで突き止めたわたしは、彼が再びやってくるのを待った。
そして、日が昇り始めた早朝に、フェリクス様を待ち伏せし始めてから数十分後。
マントを羽織って現れた彼は、まっすぐ池に向かったかと思えば、上着を脱いでそのまま池におりた。
「――っ!?」
驚いて飛び出ようとしたところを、マーサに引き止められて、なんとかその場に踏み止まることができたけど、目の前のことが信じられなかった。
暖かくなってきたとはいえ、朝と夜はまだ冷える。
水温なんて、きっとものすごく低いはずなのに、どうしてフェリクス様はそんなことをしているのか。
バシャバシャと水音がしたかと思えば、ザルのようなものを掬い上げては何かを確認して、また掬い上げての繰り返し。
「……………………ぁ」
何かを探している――。
そう気がついて、思い出した。
その池に、何が落ちているのかを。
「――フェリクス様!!」
気が付いてからは、居ても立っても居られなかった。
マーサが止めようとした手を振り切って、教室から出るとフェリクス様の元へ走った。
「……えっ、ティア――!? ど、どうして君がここに!?」
「それはこちらの台詞です……! 何してるんですか、そんなところで……!!」
手を止めたフェリクス様は、目を丸くしてわたしを見上げはしたものの、池から出ようとはしなかった。
「……こんなところ君には見せたくはなかったんだけど、また余計な不安をかけちゃったのかな……。ごめんね……。探しものをしてるだけだから、見つかったらすぐに帰るよ」
それどころか、そういって困ったように笑うとまた作業を始めようとするのだから、黙っていられなかった。
「はやくそこから上がってください……! 探しものなんて、また新しいものを用意すれば――」
「駄目だよ。すごく大事なものなんだ」
バシャン、ジャリジャリ。
バシャン、ジャリジャリ。
池の底の砂を掬って、何度も何度も。
冷たい水のせいで、暗がりでも手が真っ赤になっているのが分かった。
「代わりのものなんていらない。ティアが俺のために用意してくれた、十七歳の誕生日プレゼントはあれだけだから」
「……っ!」
フェリクス様の探し物が、わたしの想像通りだと知って息を呑んだ。
――ああ、もう……。本当にこの人は!!
どれだけわたしを困らせたら気が済むというのか……!
「あとひとつ。あとひとつなんだ……」
去年の誕生日、彼に渡したのは一対のカフスボタンだった。
あんな小さなもの、何日かかっても見つからないのは当然だ。無謀にも程がある。
「……見つけるまで、俺は君に合わせる顔がない……」
バシャン、ジャリジャリ。バシャン――。
「お嬢様!!」
「――っ、え?」
ひとつ余分な水音と見守っていたマーサの声に、顔を上げたフェリクス様と目があった。
「わたしも一緒に探します」
「ッ!? ティア!? 何してるんだ、今すぐ出て!!」
「嫌です。見つけるまで出ません」
感覚が奪われるような冷たさの水に、思いっきり手を入れて、砂利を掬う。
カフスボタンがないのを確認してから、もう一度。同じことを繰り返す。
「婚約者なのに、あなたのことを守ることができずに傷つけたのは、わたしも同じです。だから一緒に探しま――っ、わ、あっ!?」
「ティア!!」
婚約者が自分のために冷たい池の中であがいてくれているのを、黙って外から眺めているなんて、わたしにはできなかった。
移動しようと足を踏み出せば、重くなったスカートが進路を邪魔してバランスを崩す。
――バシャン!!
直後、それまでで一番大きな水飛沫が上がった。
「ティア! 大丈夫!?」
「ご、ごめんなさい……!」
わたしをかばってフェリクス様が下敷きになってしまった。
池はさほど深くないから溺れることはないけれど、胸まで水位がきている。
「とにかく一度出よう。身体を温めないと」
そう言って、フェリクス様はわたしの身体に腕を回すと、軽々持ち上げてしまった……!
「フェ、フェリクス様……!」
「ごめんね。少しじっとしてて」
「――お嬢様!!」
わたしが池に入ったのを見てどこかに走り去っていったマーサは、タオルを片手に戻ってきた。
フェリクス様は池から出ると、そっとわたしを下ろしてくれて。
そして、カツンと金属が鳴ったのは、わたしが地面に足をつけた時とほぼ同時だった。
「「!!」」
ふたり揃って音の鳴った方を見て、そこに転がる銀色のカフスボタンに目を見開いた。
「ティア……! あった! あったよ!!」
すぐに拾い上げたそれは、間違いなく去年わたしがフェリクス様に用意したカフスボタンだった。
軽く畳んで置いてあった上着を手に取り、そのポケットからもうひとつのボタンを出したフェリクス様の手には、ふたつのカフスボタンが並ぶ。
「君からのプレゼントで、間違いない……?」
「……はい。そうです……」
目の前で捨てられた贈り物を、フェリクス様が見つけてくれた。
「……もう、受け取ってもらえないと……」
「〜〜っ!! ごめんっ!! 本当に俺は馬鹿だ!」
そして、ここ一年で溜まった色んな感情が押し寄せてきてちょっと泣きそうになっているわたしを、フェリクス様は正面から抱きしめた。
「俺はまず、この二年間で君にしてしまったことから向き合うべきだったのに。先のことばかり考えて……!」
「い、いいんです。フェリクス様が謝ることはことは何も……」
「そんな訳ない! そもそも俺がティア以外の令嬢に近づかなければ、こんなことにはならなかった!」
抱きしめられる力が強くなって、少し苦しい。
「プレゼント、ありがとう。一生大事にする。もう絶対に手放したりしない」
離れていく身体を追いかけるように見上げれば、すぐ真上からフェリクス様の強い眼差しがわたしに注がれる。
――ああ、この人だ。
誠実で、まっすぐで。どんな試練も逃げずに立ち向かって、何度でも諦めずに戦えるこの人なんだ。
わたしが好きになったフェリクス・クライブという少年は。
まるで、昔に戻ったみたいだった。
わたしごと大事にしてくれると言われているみたいだった。
「……約束ですよ。もう失くさないでくださいね」
「うん。約束する」
彼のことをもう一度信じたい。
そう思うのは、愚かだろうか。
わたしも大概、彼に魅了されてしまった哀れな貴族令嬢なのかもしれない――。
〜後日〜
「え……? 君が何をやってもさえないって? どこの誰だ、そんなこと――ッ俺かッツツ!!」
「はは……。ただの事実なので気にしないでください」
「ごめん。君の好きなところをこれから毎日伝えるよ。それじゃあまずは今から100個」
「え」




