癒しの月
9月になって朝晩は秋の気配を感じるが昼間はまだ暑い。洋子が修二に出会ったあの猛暑の日からすでに一年が過ぎている。
もうすぐ中秋の名月。
修二と出会ってまだ日が浅かった昨年の中秋の名月の日のことを思い出す。
夕刻にウォーキングをしていると、修二からラインが届いた。
「洋子さん、月がきれいですよ」
雲に見え隠れする月を眺めながら、洋子は
「ほんとですね、すごくきれいですね」と、
嬉しい気持ちで返した。
そのあとしばらくの間、お互いに見ている月を愛で合った。和やかな会話だった。
あれから洋子は月を見るのが楽しくなった。
仕事の帰り道、お天気の穏やかな日は必ず空を見上げて月を探す。
でも数ヶ月後、
同じように月がきれいに見えた夜、修二に
「今日は月がきれいですよ」と送ってみたら、
意外にそっけなく、
「そうなんですね。また見てみますね」
と返ってきたきりだった。
忙しかったのかもしれないが、洋子は少しがっかりした。
けれども、月を楽しめるようになったのは修二のお陰なので、その点は感謝している。
今ではラインのやり取りもほとんどない。
もう修二のことを思い出すのは本当にやめようと、また思っていたところ、
その週の土曜日、ジムで筋トレを終えて車に乗り込むと、前方から修二が歩いて来た。洋子はは反射的に車から出て修二に
「これからなんですね。私は帰るところです」と言った。
「お久しぶりです。お変わりありませんか」と返す彼の笑顔は少し気まずそうに見えた。
半年ぶりだった。
短いやり取りのあと、別れ際に
「またラインします」と背中に聞こえた。
「ラインはくださらなくていいですよ」と心の中で洋子は言った。
昔、付き合った男たちが別れ際に
「また電話するよ」と言ったのを思い出す。
今では、男が去る時は「またラインするよ」と言うのだろうか。
修二が洋子とは接点を持ちたくなくなった原因は自分にあると洋子は思っている。
自分が修二に対して失礼だったからだ。
「あなたとは共有するものがないし、あなたはいずれこの地を去る人なのだから何を話しても気にしなくていいと思うから話してしまう」
と宣言し、プライベートなことを多く話した。
それは彼にとっては全くどうでもいいことだっただろう。それでも優しい口調で時々質問をしたり、感想を言ったりして洋子の話に関心を示してくれた。それに気をよくして洋子はあれもこれもと狭い世界のことを話し続けた。
優しい人が怒った時は黙って離れる、あるいは笑顔で去る、ときには二度と反応しない、と、どこかで読んだ。
これが修二に当てはまるかもしれない。
そもそも、洋子はつい最近、陰で修二をひどく詐欺師呼ばわりしたくせに、なぜまたこんなことを思っているのか、自分でもわからない。
これほどまでに修二に対する気持ちが支離滅裂な理由は、おそらく、修二についての情報が無さすぎるからだ。
修二を1000ピースのジグソーパズルに例えたなら、洋子は3ピース程しかもっていない。全体像は想像次第でどうにでもなる。逆に言えば想像しなければ修二の姿は見えてこない。
とても寛大で良い人に思えたり、うらおもてがある人なのかもしれないと思えたり。ベテランの詐欺師に見えたり、宗教の勧誘をする人に思えたり。
修二については、あらゆる姿を思い描くことができる。
でも洋子がいちばん好きなのは、寛大で家族に優しくとても優秀な営業マンとしての修二だ。
今年も中秋の名月を愛でる日が来る。
前の日の夜は雲のない空に美しい月が見えた。
洋子は昨年のことを思いながら夜空を眺めた。仕事も休みでささやかな幸せの時間。
夜遅くまで自宅のベランダから月に向かって感謝の気持ちを送った。
そして次の日。
昼頃に修二からラインが来た。
「今日は中秋の名月ですね。月が見える時間には、私はジムの湯船から月を眺めることになると思います。」
洋子は嬉しかった。
今年も修二と月を見て過ごせる。
「湯船から月を眺めるなんて風情があっていいですね。私も今夜月を見ようと思います。仕事帰りの時間になるので、月を眺めながら帰ります。楽しみです。」
そして夜になった。
月を愛でながら、修二は昨年と変わらず、月にまつわる穏やかで素直な言葉を送ってくれた。
洋子も同じように月を通して優しい気持ちで話した。
わずかな時間のラインのやり取りで心は満たされた。月に感謝だ。
これで漸く執着を手放すことができそうだ。
その夜は満たされた気持ちで眠りに落ちた。
すっかり寝入った午前二時前。電話が鳴った。
酒に酔った夫からだ。
「今どこなのかわからない」と言ったので、
洋子は寝ぼけながら、
「どこ?どこまで行けばいいの?」
と言ったら、
「タクシーが来たからもういい」
と言って電話は切れた。
電話が切れてから、自分の喋り方が少し面倒くさそうだったかなと思った。
すると再び電話が鳴る。
今度はものすごい剣幕だ。
「お前のご主人様がどこにいるのかわからないと言っているのに、その態度はなんだ。もう出て行け。今すぐ出て行け。離婚だ」
熊が吠えているようだった。
こういう理不尽なことはこれまで何度もあった。
1年ぶりくらいにこの罵声を聞いた。
洋子は着替えて布団を畳み、部屋を少し片付け荷物をまとめた。そこへ夫が帰宅。2階の居間に来て、更に同じ言葉を捲し立てた。洋子は
「わかりました」と言って家を出た。
午前二時半。行く当てはない。
真夜中の街をただ道なりに走った。