第五章 薔薇の城
「マ、マリーローズ城にいく……?」
太陽帝国アヴァロン二代目皇帝ツァウベルンは、北の山奥にて露と消えた。
二十万もの大軍勢を率いての大親征に失敗したのだ。その戦争の顛末が世界に与えた衝撃は大きい、を通り越して天変地異に等しい。
なんといっても、太陽帝国アヴァロンは、工夫だか商人だかわからない怪しげな出自の男マクシミリアンが傭兵として名を成し、騎士として成り上がり、ついには国を乗っ取って、世界を征服した覇道国家である。
歴史もなければ、伝統もない。ただただ力によって君臨していたのだ。
その求心力の源たる武威が、根底から失われたのである。
しかも、跡を継いだ三代目スレイマンは、御年十八。若き貴公子といえば聞こえもいいが、いまだ士官学校に在籍している学生である。
世界各国の列強が、帝国の傘下に入ったのは恐怖ゆえだ。その畏怖する気持ちが消し飛んだ以上、みないうことを聞くはずがない。
各王たちは、それぞれ己が領土に引きこもり、今後の推移をじっと見守っている。
その視線は、新皇帝スレイマンの動向とともに、帝国の威信を踏みにじったクリシュナー王国の王ギルーシュにも注がれていた。
クリシュナー王国は山国であるから、雪に閉ざされた冬の間は動けない。春、雪解けとともに劇的な変化があるはずだ。
みなが春の雪解けを、いや、クリシュナー山地の積雪の残量を、固唾を飲んで見守っている。
そんな世界の注目を一身に浴びることになってしまったギルーシュから、ひそかに相談を受けて絶句してしまったのは、クリシュナー王国の譜代家臣にて、国内随一の女騎士ノワールだった。
「そっ、キミの大鳥ならひとっ飛びでいけるでしょ。鞍の後ろに乗っけていってくれないかな?」
気楽に相談してくる若き主君をまえに、黒髪の美しい女騎士は眉間に皺を寄せた。
「簡単に言われますが、マリーローズ城は帝都に近く、最低でも二ヶ国は横断することになりますよ。第一、かの国が味方になったという話は寡聞にして聞いておりません……」
「これから味方にしにいくんだよ。女王様からラブレターがきてね。ぜひ城で会いたいって♪ レディからのお誘いは断れないでしょ?」
マリーローズ王国の若き女王グレンダから、ギルーシュに密使が届いていたのだ。
生真面目なノワールは、頬を引きつらせる。
「マリーローズ王国の女王は、たしか陛下のご学友でしたね。それもかなりの美人と伺っております」
「そうだね。学園一の美女と言われていた。一つ下のエトワールはかわいい系だったからね。どっちが好みかで、学生たちはよく論争していたよ」
ギルーシュの言い分を聞いて、年上の家臣として諫言する必要を感じたのだろう。踵を揃えたノワールは、表情を改めて口を開いた。
「そのお話、シュヴァルツ大公やヒルデガルド王太后はご承知しておられるのですか?」
「言ったら反対されるに決まっているでしょ。だからキミにこうやって内緒で頼んでいるんだよ」
それを受けてノワールは、敢然と顎をあげた。
「それでしたらわたしも反対に決まっております。お考え直しください。陛下はクリシュナー王国の君主となられたのです。いつまでも気楽な次男坊感覚でいられては困ります。御身になにかあっては国が滅びるのですよ。まして、マリーローズ家は帝国譜代の王国です。その非公式な招待に応じるなど、暗殺してくれといっているようなものではありませんか」
「大丈夫、グレンダは信用できる女だ。そういうことはしない」
「女の色香に迷っているだけに感じますが……」
ノワールはじと~とした眼差しを向けてくる。
「惚れているのは向こうだよ。告白されたことだってあるんだ」
学園から脱出する夜のことである。同時に婿候補から落第と言われたのだが、そこまで教えることはないだろう。
「はぁ~、……おモテになられるんですね」
得意げに胸を張るギルーシュを見るノワールの眼差しは、雪山並に冷めていた。
「個人の好悪の情など関係なく、いまはお互いのお立場を考慮すべきでありましょう」
最盛期の太陽帝国の傘下には五十もの王国があった。
その内訳を大別すると、乱世の群雄であったが新興してきた帝国の武威に恐れをなして傘下に降った外様王国系と、帝国の創業に貢献した家臣が功績を認められて新たに創設された譜代王国系ということになる。
前者のクリシュナー王国のような外様系は現在、みな中立といった立場になっていた。しかし、後者の譜代系は、いまだ表向き帝国に従っている。そして、今回、ギルーシュの出向こうというマリーローズ王国は譜代系だ。
「ノワールは心配性だな」
「当然の配慮です。御身になにかあったら、姫様に申し訳が立ちませんし、泉下で兄に合わせる顔もありません」
硬い表情のノワールの言い分を認めて、ギルーシュは肩を竦める。
「マリーローズ家のような小国は、大樹に寄り添ってもらわないと立っていられない。いままで頼っていた大樹がダメになったら、新しい大樹を探す。それは当然のことだ」
「そういうものでしょうか?」
クリシュナー王国の譜代家臣であるノワールとしては、帝国の譜代家臣であるマリーローズ家の造反というのは、心情的に理解できないのだろう。
兄ノクトが、クリシュナー家のために死んだように、ノワールの父も母も祖父も祖母も親戚も、みんなクリシュナー家に仕え、死ぬことを当然としてきた。主家の名誉と富貴がそのまま、自分と一族の喜びなのだ。
このように考えられる家臣を幾人抱えているかが、いわば国の根本的な強さとなる。
しかし、新興国家である帝国には、こういう心根を持った家臣は少ない。富を欲して集まった者と、恐怖ゆえに従っている者たちばかりだ。
だから、ギルーシュからみても、列強から帝国傘下に入った王国に比べて、新興王国たちは怖くなかった。
クリシュナー王国軍が帝都ティティスに攻め入ろうとしたとき、その道程にある新興王国たちはまともな抵抗をできないだろう。
そのことは本人たちが一番わかっているはずだ。
皇帝に国王に封じられた恩は恩として、それぞれみな家族がいて、家臣領民の生活を預かっている。
そんな立場の人間が、そうそう負けると分かっている戦をできるものだろうか?
普通はできない。
だから、いかにしてクリシュナー王国に誼を通じようかと思案している。ただ、面子と世間体からなかなか踏ん切りがつかないでいるのだ。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。春までにいかに仲間を増やすかで、今後の勝敗を決する。その意味で、マリーローズ家の動向は諸王を動かす呼び水になるんだ。ということで」
一度言葉を切ったギルーシュは、茶目っ気たっぷりに両手を合わせて頭を下げた。
「これは余人には任せられない会談なんだよ。ぼくが行かないわけにはいかない。お願い、ノワールお姉ちゃんしか頼れる人がいないんだ」
「お姉ちゃん……って」
拝み倒されたノワールの顔に、困惑の色が浮かぶ。
次男坊として生まれたギルーシュは、長男カイエンにもしものことがあったときの予備に過ぎなかった。だから、その周りに有力家臣の子弟を配されるはずもない。
その意味で有能な兄がおり、女でありながら騎士として独り立ちしたいと欲したノワールは、ギルーシュと近しい関係を築けたのだ。
「子供のころよく遊んでくれたでしょ。ぼくには姉がいなかったからね。ノワールのことを本当のお姉ちゃんのように感じていたんだ。いまもだよ」
「くっ、ギルーシュさまのそういうところ卑怯ですよね。甘え上手といいますか、……約束の日時はいつなのですか?」
「三日後の夕方にはマリーローズ城に入りたい」
ノワールは諦めの溜息をついた。
「わかりました。少々お待ちください。準備を整えて参ります」
クリシュナー王国の空軍の責任者は、王女アシュレイということになっているが、実質はノワールだ。
うるさ型の重臣たちの目を誤魔化して、ひそかに手配してくれた。
※
「それじゃ、ちょっと行ってくる。ジュリエッタ、ぼくが不在なことは上手く母上たちを誤魔化してくれ」
「え、ちょ、ちょっと、待って! そんなこと無理に決まっているでしょ! 無理です! 本当に無理です! 絶対無理だからぁぁぁ!」
大鳥に乗って飛び立つギルーシュに留守を任された元同級生は、サイドポニーを振り回し、ムチムチの太腿を擦り合わせながら泣き喚いた。
そして、彼女よりも大きな声で、泣き喚いたのがバイアスだ。
「なんで俺がこんなものに乗らなくちゃならないんだぁぁぁーーーッ!!!」
「うるさい。静かにしろ。隠密行動だといっただろう」
叱責の声をあげたのは、ノワールだ。
冬の雪山の上を、三羽の大鳥は猛スピードで飛翔していた。
ギルーシュをマリーローズ城まで連れていき、連れ帰る。
この作戦を成功させるためにノワールの考えた方策は、航路に中継地点を十二ヶ所設けて、そこに代えの大鳥を用意して置く。それを乗り継ぎながら、いわばバケツリレーの要領で最高速度を維持したまま運ぶというものだ。
当初のギルーシュの計画としては、単身ノワールの大鳥に乗せてもらい、さっとマリーローズ城に行って、さっと帰ってくるものだったから、ずいぶんと大がかりな計画になったものだ。
さらにノワールは護衛も必要だと判断した。
とはいえ、大軍勢を連れていったら目立って、いらぬ危険を招く可能性がある。それよりも一人でもいい、見るからに強い漢を連れて行けば抑止力になるだろう。
クリシュナー王国一番の勇者といえばウインザーだが、彼はギルーシュにもしものことがあったら、後釜になってもらわねばならないような人材だ。決して連れていくわけにはいかない。それよりも多少、腕は落ちるかもしれないが、間違って死んでも国家運営に影響はない人物ということで、バイアスに白羽の矢が当たったのだ。
先行して道先案内人をしているのは、中継地に配されていた大鳥の騎士である。
その後ろを、ギルーシュを背に乗せたノワールの大鳥が続き、そこから伸びた紐でつながれたもう一羽にバイアスは乗っていた。
バイアスの体重は規格外であるから、二人乗りは不可能と判断されたのだ。
「俺は高いところ苦手なんだよ。というか、鳥が人を乗せて飛ぶって道理にあわねぇ」
「魔法を使っているからだ」
往生際が悪いバイアスに、ノワールは根気強く説明してやる。
時節柄、周囲には吹雪が舞っているが、ギルーシュら騎手の体には当たらない。これも魔法で空気の断層を作っているのだ。
「俺はそんな魔法は使えねぇ」
「わたしが使っている」
自らの判断でバイアスを連行したノワールであったが、早くも後悔しているようだった。声がうんざりしている。
「うわ、いま下を見ちまった。金玉がキュンッとした」
「下品な」
「女にはわからねぇよ。な、ギルーシュ」
地上では並ぶ者無き勇者も、上空ではただの臆病者のようだ。バイアスは完全に錯乱状態である。
ギルーシュは面白いから放置した。
「俺はやっぱ降りるー」
「暴れるな。落ちたら捨て置くぞ」
「この冷血女ーーーッ」
バイアスの罵声を浴びたノワールは、背中に抱き着いている主君に漏らす。
「陛下。この手綱。解いてよろしいでしょうか?」
「まぁまぁ」
なんとか宥めすかして、一行は無事にマリーローズ王国領に入った。そして、その本城へと向かう。
※
太陽が沈み、西の空が真っ赤に染まった逢魔が時、人目を忍んだ三騎の大鳥は、マリーローズ城の中庭に降り立った。
「ああ、生きているって素晴らしい。固い大地のこの安心感よ」
大鳥から転がり落ちたバイアスは、大地に頬ずりしながら感動している。
そんな様子を、ノワールは軽蔑した眼差しで見下ろす。
「大の男がだらしない」
待つほどもなく、城の中から華やかな赤いドレスに着飾った薔薇の如き女性が、従者と思しき老人を従えて現れた。
ノワールは即座に刀の柄を持って、主君のまえに身構える。
バイアスも立ち上がり、背負っていた長巻を下ろす。
ギルーシュはノワールの左肩に軽く手を当てて横に移動させながら、もう一方の手を軽く上げて気楽に挨拶する。
「やぁ、グレンダ。元気そうだね。ご招待に応じてやってきたよ」
オレンジ色の髪を結い上げた絶世の美女というしかない装いのグレンダは、チューリップ型に広がったスカートの裾を持ち上げて、優雅に頭を垂れる。
「ようこそクリシュナー国王ギルーシュ陛下。いまをときめく貴殿の来城を受けて、大変嬉しく思う」
「堅苦しいのはなしにしよう。今日はお忍びだ。俺は王としてではなく、あくまでも学友を訪ねたつもりなんだから」
朗らかなギルーシュの言葉に、グレンダも破顔する。
「そうだな。まずは中に、どうぞ」
艶やかな女王の案内に従って、ギルーシュとノワールとバイアスは城内に入る。
道案内をしてくれた大鳥の騎士には、いつでも飛び立てるように準備しておくように命じて、三羽の大鳥の傍に残ってもらう。
ギルーシュの傍らにぴったりと付いたノワールは、刀の柄に手をかけたまま警戒感を隠そうともしない。隠さないことが抑止力になる、とでも考えているかのようだ。
一方でバイアスは、ギルーシュの耳元で囁いた。
「おい、あのお姫様の横についている爺さんは何者だい?」
「ん?」
「あれは使い手だぞ。刺客がいるというのなら、あれだ」
バイアスの見立てに、ギルーシュは苦笑する。
「それはない。あれはゴドーといって、マリーローズ家の名物家老だよ」
マクシミリアンによって急造された王国は、どこも人材面でスカスカといわれるが、それでも幾人かは凄い人物を抱えているものだ。
このゴドーという老人は、その昔、帝国に歯向かった王国の将軍であり、さんざんに武勲をあげた。その後、主家は滅んだのでマリーローズ家に拾われたのだ。
赤い紅の塗られた口角を吊り上げたグレンダは、傍らの老人にからかいの声をかける。
「だそうよ。赤鬼殿に認められて良かったわね」
「はは、老骨には過ぎた評価でございます」
皇帝ツァウベルンを討ち取った稀有なる武勲を挙げた者として、バイアスの武名は鳴り響いている。付いた渾名が「赤鬼」らしい。たしかに鬼のような大きな体躯と、赤い頭髪は印象的だ。
「それにしても、この季節に大鳥で長旅とは苦労をかけたわね。寒かったでしょう」
「いや、案外快適だったよ。魔法ってのは本当にスゴイね」
ギルーシュとグレンダは世間話をしながら回廊を歩く。
「グレンダはドレス姿も似合っているね。見違えたよ。学校ではいつもズボンタイプの制服ばっかりだったからね。ああ、あと戦場の鎧姿も綺麗だったな。まさに戦乙女だった。そして、いまは堂々たる女王さまといった貫禄だ」
「ありがとう。素直に受け取っておきましょう。しかし、どうもスカートというやつは穿きなれないので落ち着かないわ。一国の王を出迎えるのだ、正装しなくては失礼にあたる、と傍仕えの者たちが煩くてね」
グレンダは傍らの老人をチラリとみた。どうやら、爺やに諫言されたようである。
「はは、グレンダも苦労しているわけだ」
「あなたほどでもないけどね」
傍らで厳しい顔をしている女騎士の顔を、グレンダはチラリとみた。
「やっぱわかっちゃう。ぼくの苦労を察してくれるのは君だけだよ」
楽しく談笑する王族たちを横目に、ノワールは苦虫を噛んだ顔である。
やがて、一行は客間に入った。
煉瓦作りの暖炉があり、高級そうなテーブルとソファーが配された、なかなか過ごしやすい空間だ。魔法で寒気を遮断していたとはいえ、やはり体は冷え切っていたのだろう。室内の暖かさは心地よい。
「おお、生き返るなぁ」
歓喜の声をあげたのはバイアスだ。
それに頷くクリシュナー王国一行に向かって、グレンダは命令する。
「お付きの方々はここで控えていてください。わたしはギルーシュと少し内密の話をしたいのです」
「なっ!?」
自分がこんなにも警戒しているのがわからないのか、と食ってかかろうとするノワールを、ギルーシュは止めた。
「ああ、いいよ。ノワールとバイアスは、ここで待っていてくれ」
「承服いたしかねます!」
気色ばんだノワールは、ギルーシュに詰め寄った。
「陛下、お考え直しください。暗殺は帝国の十八番です。まして、ここは敵地も同然。いや、敵地なのですよ」
「大丈夫、グレンダはそんなことはしないさ、な」
「当然です。あなた方の大事なご主君に決して危難が及ばぬこと、マリーローズ家の名誉にかけてわたしが誓約いたします。ゴドー、お二方の世話を任せますよ」
グレンダの言葉に、ゴドーは慇懃に一礼する。
「承りました。ホットワインを用意いたしましょう」
バイアスはなにも言わない。彼はギルーシュの判断に決して異議を唱えないと、自らに課している。
しかしながら、命を盾にして主君を必ず守ると気負っているノワールは、まったく退く気がない。それと察したギルーシュは、その耳元で艶っぽく甘えた。
「せっかく美人と二人っきりになれるというのに、邪魔しようというの? ノワールお姉ちゃんは案外野暮だね」
主君の言い分に、ノワールは顔を真っ赤にする。
「くっ、陛下の判断ならば従います。しかし、なにか変事がありましたら、すぐに踏み込みますので、そのおつもりで」
いまにも斬りかからんがばかりの眼差しとなった女騎士は、主君を連れ去ろうという女王を睨む。
ともかくも家臣の説得に成功したギルーシュは、キザったらしく一礼してグレンダを促す。
「それではご案内願いますかな」
「ええ。では、参りましょう」
家臣を置き去りとしたギルーシュとグレンダは再び廊下にでた。
「アルコールは遠慮する! バイアスも決して口をつけるな!」
八つ当たりのようなノワールの大声を壁越しに聴きつつ、王の称号を持つ男女は歩を進め、そう遠くない部屋の扉の前で足を止めた。
「さぁ、ここよ。入って」
女王自らが扉を開く。
天井を見上げると豪奢なシャンデリア。高級そうな紫檀のテーブルがあり、椅子は三つ。壁には美しい絵画が飾られ、暖炉の中では煌々と火が焚かれ、中央に衝立がある。
いかにも高貴な人を招くための部屋だ。
「なるほど、寝室に案内されるんだとばかり思っていたんたけど、グレンダは意外とマニアックだな」
室内に入ると同時に嘯いたギルーシュはグレンダの体を抱き、壁に押し付けると口づけをした。
「っ!?」
さらに右手でドレス越しの乳房を鷲掴みにした直後に、左頬に強烈な平手打ちを食らった。
パン!
「イテテ……なんだよ。二人っきりになりたかったのは、こういうことをやりたかったからじゃないの?」
頬を摩りながらぼやくギルーシュに、眉を怒らせたグレンダは紅唇を右手の甲で拭いながら叫ぶ。
「違うわよ!」
「おまえが俺と結婚したいっていったんだぜ」
露悪的な表情を作ったギルーシュの言い分に、グレンダは顔を烈火の如く赤くさせる。
「わたしに隠れて、ヘレナ先生と付き合っていたくせにっ!」
「いや、あれは……その……なんというか」
別にギルーシュとグレンダは、将来を誓い合った恋人同士ではない。誰と付き合っていたからといってとがめだてされる謂れはないのだが、なんとなく浮気が見つかってしまったような後ろめたさを感じる。
「別にいいわよ、言い訳なんてしなくても、それに先生はもう……」
「ああ……」
死んでしまった者の話題を遡上にあげても、暗い雰囲気にしかならない。
ギルーシュは気を取り直して質問する。
「それじゃ、なんだ。先に政治の話でもしたいのか? 譜代王国であるマリーローズ家が、帝国を裏切ってウチに降るっていうのなら、むろん、無条件で歓迎するよ。条件として、俺の正妻の座がお望みなら、受け入れよう。キミが心配していたマリーローズの後継問題も、次男以下の子供に必ず継がせると約束する。二人で新しい世界を作ろう」
両手を広げて宣言をする覇王気取りの元同級生を、グレンダはまじまじとみる。
「ギルーシュ、あなた。少し見ない間に、ずいぶんと変わったわね」
「それは変わりもするだろう。これでもずいぶんと辛酸を舐めたからね。なぁ、スレイマン。おまえだって変わらざるを得ない体験をたくさんしただろ?」
ごく当たり前にギルーシュは背後に声をかける。一瞬、間を開けて衝立の向こうから、一人の男が現れた。
金髪碧眼。背は高く、肩幅もある立派な体躯を、金糸の入った豪華な装束に包んだ青年だ。
太陽帝国第三代皇帝スレイマン。その人だった。
「……気づいていたのか?」
「ああ、グレンダからの呼び出しの手紙をみたときから、おまえもいるだろうと予想は付いていた」
頭を掻きながら天井を仰いだギルーシュは、横目で親友の顔をみる。
「呼び出したのはおまえじゃないよな」
「ああ、俺もグレンダに呼ばれた。俺の求婚に了承をもらえたのかと思ってな」
「相変わらず読みが甘いな。グレンダは昔から俺に惚れていたんだ。以前はおまえに遠慮して口説く気はなかったが、いまは譲る理由はないぞ」
どうやらギルーシュが意図的に挑発していると察したのだろう。スレイマンがぐっと怒気を飲み込んだ表情になっている。
「まぁ、それはそれとしてだ」
不意に表情を一変させたギルーシュは朗らかな笑みをたたえてスレイマンの下に歩みより、右手を差し出す。
「まさか生きてもう一度、会えるとは思わなかった。顔を見られて嬉しいよ」
「……。俺もだ」
すっかりこの場の主導権を握られてしまったスレイマンはややぎこちなく、ギルーシュの手を握った。
二人の握手する光景に顔を輝かせたグレンダは、慌てて声を張り上げる。
「さぁ、席について。まずは久しぶりの再会を祝して乾杯しましょう」
グレンダに促されて、ギルーシュとスレイマンは、テーブルをはさんで向かい合わせに席に着く。
場の空気をよくしようと務めているのだろう。グレンダはかなり意図的に明るい声を出す。
「大人ならこういうとき、お酒なんだろうけど。わたしたちは未成年だし、マズイわよね。それでリンゴの炭酸水を用意したの。今年のうちはリンゴの出来がよくてね。とっても美味しいのよ」
「じゃ、それを貰おう」
「俺もそれでかまわん」
ギルーシュもスレイマンも、特に飲み物にこだわりはない。というよりも、いまこの状況で、なにを飲んでも、あまり味がわかるとは思えなかった。
ドレス姿のグレンダが、給仕役を行う。使用人を締めだしてしまっているのだから仕方ない。
いまこの世界の政治情勢では、決して会ってはいけない男たちが会っているのだ。
テーブルの上にクリスタルグラスが三つ置かれ、グレンダが瓶を傾ける。その白い手が小刻みに震えているさまを、ギルーシュとスレイマンは黙ってみていた。
そして、それぞれのまえにグラスは配される。
「それでは、こうして再びテーブルを囲めた悦びを祝して、乾杯♪」
「乾杯」
「乾杯」
主催者の音頭に合わせて、スレイマンとギルーシュはグラスを翳した。そして、一気に飲み干す。
それはお互いに、毒殺など恐れてないぞ、と意地を張り合ったかのようだった。
一瞬、喉を焼くような熱を感じたのは、精神的なものだろう。実際は、甘く芳醇な香りが鼻を抜けた。
「お、二人ともいい飲みっぷりね。まだまだあるわよ。なにせ今年のリンゴは豊作だったからね」
無理して高いテンションを維持しているグレンダは、再び二人のグラスに瓶を傾ける。
二杯目に手をつけるまえにギルーシュは、テーブルに両手をついて頭を下げた。
「いろいろと言いたいことはあるが、スレイマン。まずは学校を脱出する夜には世話になった。感謝する」
「気にするな。俺もおまえにはもっといろいろな恩を受けている」
「まぁな。付き合いは実質二年程度だったが、いろいろあったよな。そういえば、おまえスギナって食ったことあるか?」
唐突なギルーシュの質問に、スレイマンは困惑の表情になる。
「スギナ? ああ、つくしんぼか? あれって食えるのか?」
「ああ、逃亡の途中で食うものがなくてな。毒はないらしいんで食ってみたんだが、死ぬほど不味いぞ、あれ。絶対にお勧めしない」
「あはは、生きるためならなんでもする。ギルーシュらしいわ」
二人の会話にグレンダはおおいに笑った。
太陽王国アヴァロンの皇帝スレイマン、マリーローズ王国の女王グレンダ、クリシュナー王国の国王ギルーシュ。
この三人は同じ学校の生徒会だった。スレイマンは会長、グレンダは副会長、ギルーシュは書記。そういう形で様々な諸問題に協力して対応、青春を謳歌していたのだ。
まるで時間を巻き戻したかのような幸せな錯覚に捕らわれたグレンダであったが、やがて重々しい溜息とともに現実に立ち戻る。
「……名残は尽きないけど、あなたたちは忙しい身だろうし、あまり時間をかけると控えている側近たちが焦れてなにしでかすかわからないから、そろそろ本題に入るわね」
語るグレンダの白い手はもちろん、声まで震えている。
彼女の口から紡がれるであろう要件を、ギルーシュは察することができた。おそらくスレイマンもわかったのだろう。苦い表情になっている。
「あのさ……、お互い、いろいろ背負っているわけだし、思うところもたくさんあるんだろうけど、ここらで手打ちにしない」
「……」
ギルーシュの顔にも、スレイマンの顔にも、驚きはなかった。
このような形で引き合わされた以上、グレンダの意図は明白だったからだ。
男たちの冷めきった眼差しに挫けることなく、グレンダは声を励ました。
「あんたたちさ。学校では仲良かったでしょ。喧嘩ばっかりしていたけど、お互い認め合っていた。わたしは羨ましかったのよ。あんたたちの関係。いかにも男の友情って感じで。女には入り込めず、この身が悔しかった」
王国のたった一人の後継者として、男子に生まれたかったというグレンダの忸怩たる思いを、二人とも察している。
「あれからいろいろあって、結構な時間が経ってしまった気もするけど。まだ一年も経ってないのよ。いまならまだ間に合う。トップの二人が手を取り合えば、戦争は避けられるでしょ」
無理して明るい表情を作っているグレンダは、交互に男たちの顔をみた。
「……」
ギルーシュとスレイマンは、無言で相手の顔を見つめる。
お互い答えは決まっていたが、それをグレンダに告げる役をやりたくなくて、視線で「おまえが言え」と促す。
重苦しい沈黙のあと、あきらめた二人は同時に答えた。
「「それは無理だ」」
それを受けて、白いテーブルクロスを両手で握りしめたグレンダはヒステリックに声を荒げる。
「なんで、なんでよ! あんたたち夢を語っていたじゃない! これからは太平の時代だ。帝国全土に鉄道を縦横にひいて、物資の流通をスムーズにするとかいろいろ! 二人が作ろうとしている世界はほとんど同じはずよ! それなのになんで殺し合わなくちゃならないの! このままいったら確実にどちらか死ぬわ!」
血を吐くようなグレンダの言葉の後半は、啼泣になっていた。
惚れた女を泣かせてしまったことに、ギルーシュもスレイマンもバツの悪い気分になる。
ややあってポケットからハンカチを取り出したギルーシュは、グレンダに差し出す。
「あ、ありがとう」
こういうことがさりげなくできてしまうのがギルーシュであり、無骨で動けないのがスレイマンだ。
自分の気の利かなさを嘆くようにスレイマンは、椅子に座り直して腕組みをした。
「すまんな。グレンダ。キミの頼みでも、こればかりは利けない。天に太陽が二つないように、地上の覇者は独りだけだ」
「そうだな。グレンダも学校で学んだだろ。戦争で解決できなかった問題を、話し合いで解決できるはずがない」
ギルーシュも同意した。
話し合いで妥協点を探るというのは、どちらかが譲り、どちらかが勝ち取る、ということだ。戦争の決着がつかない状態では、どちらが譲るか決められない。どんな妥協をしても、弱腰だ、と味方から突き上げを食らってしまう。
「内乱に妥協はない。もう始まってしまったドンパチを止めることは不可能だ」
「どうしてよ? あんたたち別に憎みあっているわけではないでしょ。友情だってまだあるじゃない」
涙目で睨んでくるグレンダに、ギルーシュは優しく質問する。
「グレンダ。キミのところは先の戦いで、死傷者は出てないんだよな」
「え、ええ」
「だからわからないだろうけど、人の命ってやつは重いんだ。イヤになるほどね」
死んでしまった兵士たちの家族の思いがある。大義のために息子は、夫は、父は亡くなったのではないのか? 途中で和議を結べるような簡単な理由で戦わされ、殺されたのか? それは無駄死というのではないのか? 死んだ者の家族への慰労金はどこから捻出すればいいのか? また、戦争というリスクを負ったのだ。勝って報酬は欲しい。ちゃんとした分け前を寄こさない君主などにだれが従うものか。敵の財産を奪えなかったというのなら、味方を潰してでも寄こせ、ということになる。
ギルーシュとスレイマンが情にほだされて強引な和議を結んだら、次に待っているのは、身内同士での殺し合いだ。それが見えているだけに、二人はいまさら鉾を収めるわけにはいかなかった。
「なんであんたたちはいつもこうなっちゃうのよ。わたしのいうことなんて聞きやしない」
理屈ではわかっていても、感情を納得させられないグレンダは泣き崩れてしまった。
(学校でもよくグレンダに怒られたな。残念ながらあのころとは違って、その正論を受け入れるわけにはいかない……)
自分にとってはもはや乗り越えてしまった壁であがく女を横目に、いささか白けた気分のギルーシュは向かいをみる。
「さて、スレイマン。我らの運命の女たるグレンダはこういっているが、どうする?」
「言うまでもないだろう。……戦場で決着をつけよう」
傲然と言い放ったスレイマンは席を立つ。それに合わせてギルーシュも席を立った。
「同感だ。戦争で勝ったほうが、未来とグレンダを手に入れる。それでいいだろ」
「ああ、次は戦場で会おう」
そんな男たちの別れの挨拶に、グレンダは両手でテーブルを叩いて激昂した。
「ふざけないでっ!!! 人を戦争の景品みたいに扱わないでよ! わたしはどちらが勝っても、どちらのものにもならないわよ!」
血の涙を流さんばかりの剣幕に、ギルーシュとスレイマンは鼻白んだ。
しかし、愛する女にフラれた男二人は、それ以上なにも語らずに身を翻し、それぞれの扉から部屋を出て行いこうとする。そのとき、思いもかけない珍客が飛び込んできた。
「待って!」
呼び止めたのは太陽の光を紡いだような美しい黄金の髪をした、妖精のような少女だった。淡いピンク色のドレスを着ている。
「っ! エトワール姫」
「エトワールっ!? おまえどうしてここに?」
ギルーシュはもちろん、スレイマンも妹の登場をまったく予想していなかったようだ。二人は呆然と立ち尽くす。
お転婆な皇女殿下は悪びれずに、ペロッと舌を出してみせた。
「わたくしがお願いしたの。グレンダお姉さまにこういう席を用意してって。そして、グレンダお姉さまが任せて、というからお任せしたんですけど、心配で覗いていましたの。で、雲行きが怪しいから、でてきちゃいました♪」
「……エトワール、ごめんなさい。わたしには無理だった」
独りテーブルに座っていたグレンダは、悄然と謝る。
「みたいですね。お兄ちゃんもギルーシュ先輩も意地っ張りだし。美女の涙でも、心を動かさないなんて、ほんと唐変木ですわ」
「なんとでもいえ。政治は女子供の情では動かん。さ、帰るぞ」
憤然としたスレイマンは妹の手を取ろうとしたが、エトワールはそれをさっと軽やかに躱した。
「わたくし、お兄ちゃんとギルーシュ先輩が戦わなくていい解決策を用意してきましたの」
「……」
言うだけいってみろ、といいたげにスレイマンは真顔で促す。
「わたくしがギルーシュ先輩のところに嫁ぎますわ。お兄ちゃんが皇帝で、ギルーシュ先輩が副帝なんてどうかしら? これですべてが平和に収まるでしょ」
「おまえまだそんなことをいっているのか。ギルーシュはおまえの父親の仇だぞ」
「お父様のことはわたくしも残念ですわ。でも、お父様はギルーシュ先輩のお父様やお兄様を殺害しているわけですし、御相子ということで水に流しますわ」
エトワールは軽やかに、ギルーシュのまえにやってくると小悪魔的に笑う。
「ダメっていってもダメですからね。わたくし、ギルーシュ先輩の押し掛け女房ってやつになりますわ。だから、グレンダお姉さまのことは諦めてください」
「……、あのですね」
一見、名案のようにも思えるが、その実、現実をわかっていない乙女の妄想を基盤とした決断である。
「姫様。自分独りが犠牲となって戦争を回避しようという、その高潔なる決意。わたしは感動しました」
「それじゃ」
顔を輝かせて身を乗り出すエトワールに向かって、ギルーシュは首を横に振るった。
「ですが、謹んでお断りいたします」
「なぜ? わたくしがグレンダお姉さまみたいに美人じゃないから? そんなにわたくしって先輩の好みではありませんの?」
大きな翠石の瞳に涙を溜めて見上げてくるエトワールに、ギルーシュは溜息混じりに語る。
「昔から姫様には過分なるご好意を寄せていただき、わたしは嬉しく名誉に思っています。ただ、そんな個人としての感情ではなく、政治家として不可能と言わざるを得ません。いま、姫様がクリシュナー王家に嫁いでも針の筵に座るだけのこと。嫁姑問題はすさまじいことになるでしょうし、家臣たちからの反発も予想される。下手したら毒殺されかねない。こんな危険な状態に、姫様が耐えられるとは思えないのです」
「あはは、大丈夫、わたくし、体は細いですけど、肝は図太いのですわよ。何度ギルーシュ先輩にフラれても諦めないこのタフさをみてくださいませ。それに嫁姑問題というのは、当初こそ、姑が強くとも、最終的には嫁が勝つ、それが世の相場というものですわ。子供さえ作ってしまえばこっちのもの。それに毒殺や暗殺なら、帝国のほうが本場ですから、対策はいくらでもたててごらんにいれます。さて、ほかになにか懸念事項でも?」
「……」
エトワールの立て板に水の反論に、思わずギルーシュは絶句してしまった。
「どうやら、先輩は納得してくださったご様子。あはは、めでたいですわ。これで戦争は回避されます」
「いや、しかし」
ギルーシュがなお抗弁しようとするまえに、スレイマンの怒声が響いた。
「悪ふざけが過ぎる! 父を殺されて、妹を差し出して和議を請う。そんな屈辱的な真似ができるか!」
「お兄様、面子よりも、戦の回避こそ優先させるべきですわ」
言外に、お兄様ではギルーシュに勝てない、と妹が主張しているように感じたスレイマンは、顔を真っ赤にして絶句した。それから怒気を飲み込み、首を静かに横に振う。
「いや、もう一つ戦争を止める方法がある。それは、この場でギルーシュ、おまえを斬ることだ」
「あ、結局、そうなるのね。短絡思考なおまえらしいよ」
ギルーシュの煽りに、スレイマンは腰剣に手をかけた。
「ここで貴様と会ったのは太陽神のお導きである。そのそっ首を斬り落として、この無益な戦乱に終止符を打つ」
「ああ、望むところだ」
ギルーシュもまた、柄を握った。
「ちょ、ちょっとっ!?」
事態の急転に驚いたグレンダは椅子から立ち、止めに入ろうとしたが、遅かった。
天下の覇権を欲する男たちは、同時に剣を抜いて斬りかかる。
カン! カン! カン!
刃鳴りの音が室内に鳴り響く。
「ギルーシュ、おまえとはいずれこうなる運命なのだと思っていた」
「そんなロマンチシズムに酔うから、おまえは俺に勝てないんだよ」
「言っていろ! 勝負とはここ一番、もっとも大事なときに勝てばいいのだ」
剣戟を交わしながら、スレイマンとギルーシュが罵倒しあっていると、突如、エトワールが泣き叫んだ。
「もうやめて! お願いだから喧嘩はやめて!!!」
なんとエトワールは、斬り合う男たちの刃の真ん中に身を投げ出してきた。
「なっ!?」
「くっ!?」
驚いたギルーシュとスレイマンは、慌てて剣を止めようとする。しかし、勢いが乗りすぎていて止まらない。せめて刀線をずらそうとして、バランスを崩す。
「危ない!」
エトワールの身を案じたグレンダは飛び込んできて、その軽い体を押した。
結果、ギルーシュとスレイマンとグレンダとエトワールは、体ごとぶつかって横転する。
ザクッ!
ギルーシュの手に嫌な手応えがあった。同時に頭をぶつけたようで軽く脳震盪を感じる。
慌てて床から身を起こしたギルーシュは、自らの刀身をみて絶句した。
切っ先から赤い液体が滴っている。それも大量に。
「……あっ」
絨毯の上に腰を下ろしたエトワールは、自らの両手を見下ろして愕然としていた。細い十指の間から血が流れている。
「エトワール。怪我をしたのか!?」
慌てたスレイマンは駆け寄る。
兄の心配を他所に、全身を鮮血に染めたエトワールは一点を見つめたままいやいやと細い首を左右に振るう。その視線の先を追った男たちは目を瞠った。
独りグレンダはうつ伏せに倒れていたのだ。その周りに大きな血の池が広がっていく。
「キャ―――ッ!!!」
思い出したようにエトワールは、絹を裂くような悲鳴を上げた。
「グレンダっ!?」
血糊の付いた剣を手放したギルーシュは、這うようにしてオレンジ色の髪をした美姫の下に駆けつけると、仰向けにして抱き抱える。
「はぁ……、ぜぇ……、はぁ……、ぜぇ……ギルーシュ、わたしは……ゴホ、ゲホゲホ」
苦しげに喘鳴を上げるグレンダの口唇からは、大量の吐血をしている。肺にも血が入ってしまっているようだ。
「話すな! いま魔法で治療してやる。くっ」
傷の手当をしようとして、ギルーシュは絶句した。
グレンダの赤いドレスに包まれた豊満な双乳の間に、大穴が開いていたのだ。間違いなく、心の臓を貫かれている。臓器の復元には極めて高度な魔法技術が必要だ。このような場所で素人がどうこうできるレベルの怪我ではない。それとわかっても、ギルーシュは治療魔法をかける。抜本的な回復は見込めなくとも、痛みだけは和らげることができるのではないだろうか、と考えたのだ。
「……わたし、はぁはぁ……死にたく、ない。はぁはぁ……まだ、死ねないの。わたしが、ゴホッ……、こ、こんなところで、死んだら……」
絶望するギルーシュの顔を見つめながら、必死の形相になったグレンダは血塗られた右手をあげると頬に添えてきた。
悠久とも思える一瞬のあと、荒い呼吸が止まり、スカイブルーの瞳はぐっといったん大きく見開かれてから焦点を失う。そして、ギルーシュの頬に添えられていた繊手は力なく床に落ちた。
「まさか、死んだのか?」
錯乱状態の妹を抱きしめたままのスレイマンが確認してくる。それに頬を、そして全身を朱に染めたギルーシュは素直に答えることができなかった。
「う、嘘だ。俺は……こんなつもりは……」
意図したわけではない。単に運が悪かった、としか言えない偶発的な出来事である。
ギルーシュの持った刀剣の切れ味はあまりにもよく、たまたまその切っ先にグレンダの体が入り込んでしまっただけだ。
正直なところ、ギルーシュも、スレイマンも、本気でここで決着を付けようと考えていたわけではない。
殴り合いの喧嘩の延長上というのだろうか。互いの友情を確かめる最後の戯れであった。それがこんな惨事を招くとは……。
自分のしでかしてしまった事の重大さに恐れおののいたギルーシュは、急速に体温を失って薔薇のように散りゆく女体から手を離してしまった。そして、腰を抜かして距離を取る。
「ギルーシュ、貴様っ!?」
激高したスレイマンの咆哮を合図にしたかのように、部屋の二つの扉は同時に開いた。
「陛下っ!?」
「これは……!!!」
スレイマンの背後の扉からはガルムやナックラーグといった親衛隊と思しき兵士たち、ギルーシュの背後の扉からはバイアスとノワールとゴドーが飛び込んできた。
おそらく、刃鳴りの音と、エトワールの悲鳴で緊急事態と判断したのだろう。
そして、室内の惨状に仰天した。
まさか、ギルーシュとスレイマン。世に宿敵とされる二人が、ここにいるとは思わなかっただろうし、城主たる女主人は血の海に沈んでいるのだ。
「お嬢様ぁぁぁ!!!」
血相を変えたゴドーは、とにもかくにも横たわる主君のもとに駆け寄る。
一方で、双剣を持ったガルムと長巻を持ったバイアスは、互いにもっとも危険な相手と判断して飛び掛かる。
ガン! ガン! ガン!
常人ならば一撃必殺の荒々しい応酬が、血臭漂う狭い室内に響き渡る。
その戦音で、なんとかギルーシュは正気を取り戻した。
「アニキ、退け」
「退けと言われても、こいつはそう簡単に……くっ」
逃がしてくれる相手ではない。言外の意味を察したノワールは、暖炉に向かって魔法をぶち込んだ。
ブワー!!!
灰と炎が室内を覆おう。
「よし、帰るぞ」
「はい」
ギルーシュの叫びに、ノワールは余計な詮索をせずに素早く応じた。
「ったく、なんなんだよ」
バイアスはボヤキながらも付いてくる。
ガルムは追撃をしてこなかった。おそらくスレイマンが止めたのだろう。
(決着は戦場で、ってことだな)
廊下を駆け抜けたクリシュナー王家の主従は中庭にでると、待たせてあった大鳥に跨って満点の星空に向かって飛びあがる。
ノワールの背に抱き着きながら瀟洒な城を見下ろしたギルーシュは、慨嘆せずにはいられなかった。
「交渉は失敗。これでマリーローズ家は敵に回ったな」
来る前にいろいろと想定してはいたのだが、そのすべてを上回る最悪の結果であった。