第四章 世界を敵に回す
「先生、なにオドオドしているんですか? ここではもう俺たちのことを秘密にしなくていいんですよ」
緒戦の勝利に沸き立つクリシュナー王国であったが、すぐに帝国の主力軍が来襲することはわかっている。
その対策に追われるギルーシュであったが、予定戦場の視察に出向くついでにヘレナを伴い、逢瀬を楽しんだ。
城のすぐ近くにある丘を、ギルーシュに左手を引っ張られて歩くヘレナは、いたたまれないといいたげに身を縮めて、空いている右手で無意味にメガネを整えながら、あたりを伺っている。
「それはわかっているのだが、なんというか……。おまえとこうやって青空の下、人目を気にせず歩ける日が来るとは思っていなかったから……」
夢がかなって恥ずかしい、ということだろうか? 思わずギルーシュは哄笑してしまった。
「あはは、先生って、意外と乙女だよね」
年下の恋人にからかわれたヘレナは、顔を真っ赤にして反論する。
「う、うるさい。八歳も年下の男と付き合うだけで気苦労が絶えないのに、教師と生徒。まして、おまえみたいなとんでもない性悪小僧が相手だぞ」
士官学校の生徒たちの間では、おっかない女教師として知られていたヘレナなのだが、ギルーシュと二人っきりのときは妙に気弱になる。
「ひっどいなぁ。はじめてのときは先生から積極的に誘ってきたって記憶しているけどなぁ」
「くーーーっ」
「手を引かれるのが恥ずかしいなら、これでどうだ」
ギルーシュの左腕は、強引にヘレナの右腕を組む。
ヘレナは諦めたように身を預けて、丘を登った。
紅葉が色づきはじめており、デートには良い季節である。
ハイキング気分で丘を登り切ると、そこには古井戸があったので水を汲み、二人して喉を潤して一息ついた。それから陽だまりにあった可愛らしいコスモスの花の咲き乱れる草むらに腰を下ろす。
ヘレナに正座をしてもらい、その両膝の間にギルーシュは頭を預けて大の字になる。
「はぁ~、先生と二人っきりだと、ほんと安らぐ」
「まぁ、膝ぐらいいくらでも貸すけどな。ただ、これは意外と太腿が痺れるな」
人間の頭というのはなかなかに重たい。石のようだとまでは言わないまでも、スイカを膝に乗せられている感じなのだろう。
「そうか、なら、足を延ばして」
ギルーシュの指示に従って、ヘレナは花畑に尻を落とし、股を軽く開いた状態で、タイツに包まれた両足を前方に投げ出した。その股の間のミニスカートの上にギルーシュは後頭部を降ろす。
「これなら痺れないでしょ?」
「ああ、そうだな」
絶対の信頼を寄せる年上の恋人の温もりに包まれながら、ギルーシュは丘からの眺めを堪能した。
「いい見晴らしだ。ここなら城を一望できる。程よい広さで兵も置け、水場も近い。敵はここに本陣を置くな」
「そうね。間違いなくここだわ」
士官学校の教師は、生徒の答案に満点をつける。
「はぁ~、まさか俺が帝国に仇なす謀叛人として、討伐される立場になるとはね。半年前には想像もしなかったなぁ」
「そうね、スレイマンを支えて宰相になるっていっていたのにね」
「あまりにも劇的に変化しすぎて、いまだに夢をみている気分だ。朝、目を覚ましたら学園で授業があり、スレイマンとくだらないことで喧嘩をしている。そして、いかにみんなの目を誤魔化して先生との時間を作るかを考えるんだ。そんな平凡な日常……」
こんな愚痴をいえるのもここだけだ。ヘレナは黙って包み込んでくれる。
言っても詮無いことを口にしてしまった、と溜息をついたギルーシュは、現実の問題と向き合う。
「シュヴァルツ叔父さんの手の者からの情報によると、今度は皇帝の親征ということになったらしい。帝国傘下の四十九王国の王すべてに出陣命令がでている。予想される動員兵力は二十万だってさ」
「そう、多いわね」
ヘレナがあまりにも当たり前に相槌を打つので、その顔をギルーシュは伺ってしまう。
「先生は不安ではないの?」
「わたしはもうおまえを選んでしまったからな」
上司であるグレゴールや同僚の兵士たちを数多く戦死に追い込んだのだ。地獄に落ちる決意は出来ている。いまさら不安も後悔もない、ということだろう。
「しかし、おまえはもっと優等生だと思っていた。優等生というのは博打をしないものだ。なぜ世界を敵に回す決意をした」
「あはは、さすが先生は俺のことをよくわかっている。俺だってやりたくはなかったよ。でも、家族と友人、どちらかを選ばなくてはならないとなったら、家族を選ばざるを得ないでしょ?」
いまギルーシュが投げ出したら、待っているのは自分の命を取られるだけではなく、母や妹、そして、一族郎党の無残な最期だ。それとわかっているのだから、石に噛り付いても戦い抜くしかない。
「それに、改めて考えてみるとスレイマンを御輿に担ぐよりも、自分でやりたいようにやったほうが面白い。これに挑戦できる立場になれる人間というのはそうそういないだろうしね。せいぜい楽しまないと」
「ふっ、やはりおまえは優等生の仮面をかぶった不良だな」
「褒められたと思っておきますよ。そうとでも考えないとやっていられないという気分でもあるんですが……。先生には家族がいないって昔いっていたよね」
その情報を聞かされていたから、ヘレナは寝返ってくれるという確信を持てた。
もし彼女の親族が帝国に残っていたら、裏切者の家族ということで今頃、凄惨な目にあわされていることだろう。
「ああ、わたしの両親は、あの士官学校の前身である学校の教師だったのだが、二人とも戦禍に巻き込まれて早くに亡くなった。まぁ、その縁でわたしもあの学校の教員になることになったんだがな。肉親という意味では、兄がいるにはいるのだが、長い間、音信不通だ」
「え、お兄さんいたんだ?」
風に棚引く灰緑色の頭髪を右手で押さえながら、ヘレナは遠い目をした。
「兄は士官学校の一期生でな。リヒャルト将軍と同期で友人だった。二人がよく連れ立っていたのを覚えている。おまえとスレイマンの関係のようなものだな。友人であり、ライバル関係だったようだ。しかし、卒業後に明暗を分けた。順調に出世する将軍とは逆に、兄は上官と相性がよくなかったらしく、斬り殺して出奔。いまは傭兵として各地をさすらっているらしい」
たしかリヒャルト将軍は、先帝マクシミリアンの娘、現帝ツァウベルンの異母妹と結婚していたはずだ。
ヘレナの口ぶりから、ギルーシュはふと思った。
もしかしたら、ヘレナにとってリヒャルト将軍は憧れの人とか、初恋の男だったのではなかろうか。
ヘレナからみた、ギルーシュとスレイマン、グレンダとエトワールの関係は、ヘレナの兄とリヒャルト、ヘレナとリヒャルトの妻に見立てて感じられていたのではないだろうか。
あくまでも根拠のない空想である。いずれにせよ終わった話だし、女の過去を詮索するのは野暮だと感じたギルーシュは、とっさに脳裏に浮かんだ考えをなかったことにして、感嘆の声をあげる。
「それはすごい。度胸と腕っぷしのありそうなお兄さんだ。ぜひ連絡を取りたいな」
「まぁ、度胸があるといえば、あるのだろうが……」
今は一兵でも味方が欲しい、というギルーシュの心境を理解しながらも、ヘレナはあまりお勧めできない、といいたげな顔である。
「まぁ、糞度胸という意味では、うちの爺様もすごすぎるんだけどね」
「ガーネルフ殿か。策略家として鳴らした人だからな。なんといったのだ?」
「これはチャンスじゃな。こたびの戦をしのげれば帝国の権威は地に落ちる、だってさ」
ヘレナはいささか酢を飲んだような顔になる。
「一面の真理ではあるな」
「ったく簡単にいってくれるよね。二十万だよ。二十万。帝都の人口を上回る人間がやってくるんだ」
「しかし、おまえも勝てると思っているのだろ」
なんでも見透かしているかのような大人の女の意見に、ギルーシュは苦笑いをする。
「ああ、帝国の至宝たる大軍師グレゴールの戦死は、帝国の権威をいちじるしく傷つけた。それを回復するためのデモンストレーションなんだろうけど、二十万は大袈裟すぎるな」
太陽帝国の初代皇帝マクシミリアンは乱世の英雄であったが、治世の名君ではなかった。
さまざまな矛盾や理不尽を内包させた政治情勢を、その剛腕でねじ伏せていたにすぎない。亡くなると同時に、それらの問題が民衆の武装蜂起という形で顕現してしまう。
それを鎮圧するために狂奔するのが、二代目たる現在の皇帝ツァウベルンの仕事だった。
あまりにも反乱が多いので疑心暗鬼となり、大した証拠もなく、ギルーシュの父と兄を誅殺し、一族の皆殺しを命じてしまったのだ。
そのせいでギルーシュの蜂起となり、しかも、最初の討伐軍は大敗したのである。
各地の反乱軍が、いっそうの活性化を見せたのは言うまでもない。
事を収拾するためには、帝国の権威を誇示する必要を感じたのだろう。そのために、いまや反乱軍の希望の星となったギルーシュを討つ、と思い定めての行いなのだろうが……。
「たかだか辺境の王国一つ潰すのに、この大兵力はかえって足を引っ張る」
諸王国は、クリシュナー王国に対して、明日は我が身という、同情的な視線を送っている者も少なくない。
しかも、各地の一揆や反乱軍のために物資が欠乏している中で、無理をしてかき集めた兵士だ。士気が高くなるはずもなかった。
そのうえ、攻め滅ぼすのは所詮、一国だけだ。
砂金など鉱物資源が豊富でうま味があるといっても、分ける者が多くなれば一人当たりの取り分は減る。つまり、勝ったところで得られる利益は雀の涙なのだ。
それなのに、あの大軍師グレゴールですら失敗した攻めづらい土地を攻めるとなっては、被害の大きさは保証されたようなものである。
さらにいえば、大軍ゆえの油断や奢りもでるだろう。
圧倒的な大軍で囲むのだ。どうせ敵はすぐに降伏する。無理をすることはない、という甘えの心理が将兵の間に広がる。こうなっては、好んで死地に飛び込もうという者はほとんどいなくなってしまう。
一口に二十万人といっているが、この世界の大都市の人口としてもない規模の人間を動かすのだ。国庫の負担は大きいし、兵士たちの寝床や食事やトイレなどを用意するだけでも大変だ。これらの処理を間違うと疫病の原因になり自滅する。
さらにダメ押しとして、冬が近い。
山国のクリシュナー地方で、真冬に野営というのは、いかに万全の準備をしていたとて凍死者を出す危険がある。
「長駆遠征での短期決戦を企図した軍事作戦。これは歴史上の英雄たちが夢見て、よく失敗した、一番ヤバイ賭けだ。もし、校長が健在だったら、絶対に止めただろうね。いや、この形にしたくなかったから、自分で先発隊を率いてやってきたのかな?」
「……」
ヘレナは自分のかかわったことだけに論評を避けて、優しく微笑んだだけでなにもいわなかった。
「まぁ、クリシュナー城は山城で、難攻不落だ。帝国軍自慢の陸龍もこの地形では使えないし、まともな軍事専門家なら絶対に力攻めをしない」
二十万の兵に間断なく攻められたならば、いつかは陥落するだろう。しかし、いまの帝国にそこまでの力はない。
間違いなく各国の王たちは、なにかと理由をつけてサボタージュをするはずだ。
「まぁ、これが爺様の読みなんだけどね。そうそう計算通りにいくものかな? 悪く考え出したら胃の痛いことだらけだ」
「おまえの頭で考えなさい。おまえが上手くいくと答えを出したなら、必ず上手くいく」
根拠などないだろう励ましを受けて、ギルーシュは微笑する。
「ほんと先生には感謝しているんだよ。もし先生が味方してくれなかったら、校長に勝つ勝たない以前に、精神的にやばかった」
「わたしだって精神的にキツイわよ。今だってあなたのお母さんからのプレッシャーすごいんだから」
魔女のような母の顔を思い出して、ギルーシュは手を叩いて爆笑する。
「あはは、まぁ、嫁姑の仲が悪いのは、人類永遠のテーマだというから頑張ってください」
「わたしは嫁ではないぞ」
「あれ? それじゃ、先生、いや、ヘレナ、結婚しようか?」
あまりにもあっさりと求婚されたヘレナは、一瞬、嬉しそうな顔をしたが、即座に表情を引き締めた。
「……アホ。いまのおまえにとって結婚というのは極めて重要な政治的な意味を持つ。ちゃんとしかるべき姫君を選べ。わたしは日陰者で十分だ」
「もう先生は変なところで理性的だな。淫乱教師のくせに♪」
ギルーシュの軽口に、ヘレナはカチンときたようだ。
「あのな、おまえはよくわたしのことを淫乱教師呼ばわりするけどね。わたしにとってもおまえが初めての男だったんだぞ。必死に余裕ぶった演技していたけどな」
「うん、わかっていたよ。先生、ガチガチだったもんね。涙目になって痛そうなの必死に我慢していたし、破瓜の血のことを生理と言い張るベッタベタな言い訳もかわいかったなぁ~♪」
「こ、こいつ……っ!? おまえのそういうところがなっ!!!」
血相を変えたヘレナは、自分の下腹部に頭を載せている少年の顔に両手をやると、鼻を摘まんだり、頬を引っ張ったりし始めた。
「あはは、痛い痛い」
「って、こ、こら、うつ伏せになるな。お、おまえ、野外でなにするつもりだ、……バ・バカ者~♪」
口では文句をいいながらも逆らえないのは、年下の恋人を持ってしまった女のサガなのかもしれない。
※
秋が深まるとともに世界各地から続々と太陽帝国の大軍団は、クリシュナー地方を目指してやってきた。
それに合わせて、国内の住民を主要な城の中に避難させる。
いずれも峻険な山城だ。
力攻めで攻略しようとしたら、倍以上の戦死者がでることは目に見えているような城ばかりである。そのため帝国軍としては、包囲の兵だけを置いて本城を目指すことだろう。
そんな中、ひそかにクリシュナー城に入った者たちがいる。
ギルーシュの母親の実家であるドラグレナ王国は、家臣を十八人ばかり牢人にして、傭兵という形で援軍を派遣してくれたのだ。
二十人弱の人数とはいえ、この状況下では最大限の好意であろう。
「伯父上にはほんと、感謝しかないな」
世界を敵に回したかのような状況で、心情的には味方してくれる者がいると考えられるのは精神的にありがたかった。
「どうしたの?」
朗報に接したはずのギルーシュの顔が言葉とは裏腹に険しいのを、ヘレナが見とがめる。
「いや、堅固な要塞を内側から崩すために、援軍を装った偽兵を入れるのは定番の作戦だ。帝国にもその程度の知恵者はいるだろう。どこまで信用していいものかと思ってね」
「討ち取りますか」
副官のノクトがただちに提案してきた。
「いや、疑念だけで討つことはできない。とにかく母上を連れて会見に臨もう」
王太后と新国王が謁見の間に向かうと、十八人の騎士が控えていた。
「おお、姫様ご無沙汰しております」
「ロベルトですか。今生で再び相まみえるとは思っていませんでした。この危急のときに駆け付けてもらえて嬉しく思います」
ロベルトと呼ばれたのは四十がらみの男で、援軍の隊長格らしい。
ヒルデガルドがドラグレナ王国にいたころの従騎士だという。他の人々も、母と縁が深いらしい。
「我らも姫様と再会できて感激です。我ら一同、姫様のため命を投げ出す覚悟で参りました」
みな涙ながらに宣誓している。それは感動的な光景であり、ギルーシュにも胸に迫るものがあった。
(これが演技だとしたら、たいしたものだな)
信頼できる兵士は一人でも多く欲しかった。しかし、信頼すべきではないものを信じて、負けたのでは悔やんでも悔やみきれない。
バイアスなどの腕利きを次の間に控えさせているノクトは、合図を待っている。
疑念を抱えたギルーシュが口を開く前に、壮年の騎士たちの中で、一人場違いなほどに若い女が親しげに声をかけてきた。
「お久しぶりね、ギル君。本当に王様になっちゃったんだ」
「えっ」
クリーム色の豊かな頭髪をサイドポニーにくくり、丸顔の生真面目そうな顔立ち。ネイビーブルーのチューブトップ型のぴっちりとしたバトルドレスを纏っている。さらされた両肩はまろやかで、薄い布越しにも胸は大きく、腰は縊れ、尻はでかいことがわかる。そして、なによりも印象的なのが、ミニスカートから覗くむっちりと健康的な脚線美であろう。
(この焼肉にしたら大量の肉汁が溢れそうな太腿は……)
見覚えがあった。
「キミはジュリエッタか」
士官学校で同じクラスだった少女だ。親しいというほどではないが、クラスメイトとして親交はあり、スレイマンとの模擬戦のときにも協力してもらった。
制服ではなかったことで印象が違ったということもあるだろうが、学校を脱出した夜に、それらの人間関係をすべて失ったと思っていたギルーシュは意表を突かれて叫んでしまう。
「どうして君がっ!?」
「お父さんのお供よ」
ジュリエッタは後ろ手に親指で、援軍部隊の隊長をさす。
学友ではあったが、まさか親の代からの関係だったとは露知らなかったギルーシュは瞬きを繰り返す。
「いや、でも、君がくることはないだろ」
今回の援軍は、いわば決死隊である。ジュリエッタのような若い娘がやる仕事ではない。
「そ、それは……家は弟が継ぐし、お父さん一人だと心配だから、その……」
頬を染めた少女が口ごもってしまったので、代わりに周囲の騎士たちがはやし立てる。
「お嬢はどうしても付いてくるといってききませんで」
「恋する乙女にはだれも勝てませんって」
「王様、側室にひとついかがですか? 年の割にはいい体していて、なお成長の余地あり。お買い得でっせ」
同郷のオジサンたちの好き勝手な放言に、ムチムチの太腿を擦り合わせたジュリエッタは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ち、違うわよ。友達が困っているときには力になってあげたいのは普通のことでしょ」
「そ、そっか、ありがとう。来てくれて本当に嬉しいよ」
この和気藹々とした雰囲気では、後ろ黒い策略が企まれているということはないだろう。確信を持ったギルーシュは、握手を求める。
「なんでも命じて。わたしはそのために来たんだから」
ジュリエッタは恐る恐る、ギルーシュの手を握った。
「あらあら、うちの息子も隅に置けないわね」
白化粧の太后は表情を変えずにジロリと視線を向け、教え子との再会にヘレナは素知らぬ顔で喜んだ。
※
「では、俺はちょっと帝国のやつらと遊んでくるわ」
そう挨拶にきたのは、クリシュナー王国大公シュヴァルツの嫡子鉄腕のウインザーだ。
遠征軍の兵士たちは疲労が蓄積し、地理に不案内な者が大半である。その上、行軍中は道幅に合わせた隊列になっているので、数の力を発揮しづらい。
よって、そこを襲撃すれば、たとえ少数でも高確率で一方的な打撃を与えることができる。やらない手はない。
籠城作戦をとるクリシュナー王国軍としても特別部隊を編成し、その指揮をウインザーに任せることにした。
二十一歳と若く、武勇に優れた主戦派の筆頭格だ。だれもが異議のない人選であろう。
この作戦に、ヘレナも志願した。
「わたしは帝国軍の陣立てに詳しい。お役に立てるはずです」
裏切り者という負い目があったのだろう。手柄を立てて、ヒルデガルドに認められたいと考えたのかもしれない。
(無理する必要はないんだがなぁ)
と思わないでもなかったが、本人が言う通り、敵の情報に精通している者がいるとウインザーも作戦を立てやすいだろう。特に止める理由もないので許可した。
ギルーシュは城内に避難する領民たちの陣頭指揮を執らなくてはならない。家や財産を捨てて城に籠もらされるのだ。みな不安だし、気も立つ。さまざまなゴタゴタが多発することは確実だ。それらを可能な限り大過なく鎮めるためには、国王が顔を出すに限る。
出撃したウインザーの手兵は約百五十人。クリシュナー王国の最精鋭部隊だ。これにてゲリラ戦を仕掛ける。
例えば、木の陰から矢を射かけたり、行軍路に落とし穴を掘っておいたり、橋の綱に切れ込みを入れておいたり、川の中から槍を突きだしたり、崖の上から石を投げたり、立木を倒したり、空き家の囲炉裏に爆弾をしかけたり、井戸に毒を投げ込んでおいたり、農民に紛れて毒入りの酒を献上したり、輸送馬車に火矢を射かけたり、した。
そんな泥臭い奇襲や罠の連続によって戦死させた兵の数は六人、負傷者は百倍にのぼった。しかし、そんな実質的な被害ではなく、いつどこからクリシュナー兵がどんな狡猾な方法で仕掛けてくるかわからないという緊張感を帝国軍全体に持たせた意味のほうが大きい。つまり、帝国の兵士たちは戦うまえから、精神的な疲労を感じてしまったのだ。
「この南からくる部隊は少しマズイな。金色の剣獅子なんて派手な軍旗を掲げているだけあって、ありゃ、精鋭だわ」
奇襲に失敗して逃げ帰った兵士の報告に、ウインザーの司令部にアドヴァイザーとして同行していたヘレナの顔色は変わった。
「その旗印は皇太子スレイマンですっ!?」
教え子の登場に動揺を隠せないヘレナとは逆に、それを聞いたウインザーは勇み立った。
「面白い。帝国期待の御曹司がいかほどのものか、いっちょ試してやろう」
スレイマン率いる兵は約五千人。これを百五十人で打ち破ることは、事実上不可能だ。よって、ウインザーも考えていない。戦略目標は、あくまでも嫌がらせだ。少しばかり皇太子を脅してやろうと、ウインザーは自ら崖の上に伏せた。
「放て!」
ウインザーの号令一下、百本あまりの弓矢が放たれた。しかし、すべて空中で弾かれてしまう。
魔法防壁が完璧だと、遠距離からの弓矢はまったくの無意味となるのだ。直後に、倍以上の応射を浴びせられた。
「ち、仕方ない。撤退だ。みなバラバラに逃げろ」
もともとまともにやったら勝てる兵力差ではない。一撃離脱は既定路線だ。
崖の上から遠距離攻撃を仕掛けたのも、逃げることを想定してのことである。しかし、このときは完全に読まれていたようで、猛然とした追撃を受けてしまった。
中でも一人の戦士が、崖をまるで階段を駆け上るかのように凄まじい速度で登ってくる。
「なっ!?」
魔法の助力があれば可能なのだろうが、本人の身体能力も凄まじい。
褐色に日焼けした肌。青い短髪。精悍さを極めた顔立ち。全身バネのようなしなやかな筋肉。体にぴったりとした青い光沢のあるバトルスーツを纏い、腰の後ろには二本の短い曲刀を佩く。
「ガルム!?」
その正体を知ったヘレナは戦慄した。
学生の身分で、皇帝主催の武術大会で優勝した男だ。教師として、大勢の生徒をみてきたヘレナは、いかにガルムの身体能力が桁外れであるかを承知している。
ダークサファイアの瞳で射竦められたように動けなくなったヘレナは、必死に馬首を返して逃げようとしたが、遅かった。
あっという間に、青き狼に行く手を阻まれる。
「よぉ、センセ、久しぶり」
軽い挨拶とともに、ガルムは右の曲刀を閃かせた。
バサ!
馬の手綱を握っていたヘレナの左腕が、小手から両断されていた。
「キャ―――ッ」
自分がこんなにも女らしい悲鳴をあげられる存在だということを、ヘレナはこのときまで知らなかった。
※
「最後の最後にちょっとあやがついたね。……まぁ、毎回、上手くいくというものでもないか」
存分にゲリラ戦を展開したウインザーは、スレイマン襲撃の失敗を潮時として、本城に逃げ帰ってきた。
「すまん」
「いや、謝ることはない。十分すぎる成果だよ。それにウインザー従兄さんでダメだったのなら、他のだれがやっても上手くいくはずがない」
ウインザーから襲撃失敗の報告を受けても、ギルーシュは特に気にしなかった。
あくまでも嫌がらせ目的の作戦だ。少しでもダメージを与え、敵の将兵に精神的な負荷をかけることが目的なのであって、勝とうと負けようと、その後の戦況にたいした影響はない。
それよりも、このとき城内では思いがけない事態が発生していたのだ。
待つほどもなく、医者がやってきて厳かに告げる。
「……ご臨終です」
クリシュナー王家未曽有の緊急時、籠城戦が始まる直前に先々代の国王にして、ギルーシュの祖父ガーネルフは心臓発作で急死した。いわゆる老衰である。
「あちゃー、いずれこういう日がくるとは覚悟していたが、このタイミングで逝くか」
いまや一人残った息子であるシュヴァルツは、痛恨といいたげに額を押さえた。
決戦を目前にしてクリシュナー王国は、精神的支柱というべき存在を失ったのだ。
とはいえ、いまさらやめるわけにはいかない。粛々と籠城戦の準備は進められる。同時に帝国軍もまた怒涛のようにやってきて、クリシュナー城の周りを囲んでいく。
城壁の上に登ってあたりを見回したギルーシュは、他人事のように感嘆してしまった。
「これが二十万の大軍か。見渡す限り、敵兵だらけだ。まるで各国の王旗の見本市だね。お、イザーク将軍やリヒャルト将軍の旗もある。懐かしいな」
覚悟していたとはいえ、城兵たちの中に不安は広がった。
それを各部署の隊長たちが叱咤激励している。
「なにも心配することはねぇ。戦は数じゃねぇんだ。気合いだ気合い」
そんな声を微笑ましく聞きながら、ギルーシュは敵軍の動きを観察して回る。のんきな顔をしているのは、兵士たちに対する半ば演技だ。
やがて、帝国軍の一部が城壁の正面門の、かなり近い位置にやってきた。
矢が届くか届かないかの場所で止まると、なにやら台座を用意している。
そして、兵士の一人が大音声を張り上げた。
「クリシュナー地方の僭王ギルーシュに告げる!」
帝国はギルーシュの王位相続を承認していない。よって、ギルーシュは王を騙る犯罪人ということになる。
「貴様は帝国の安寧、世界の太平を乱す愚か者である。ただちに前非を悔いて投降せよ。貴様の父と兄は、その罪にふさわしい罰を受けたに過ぎない。それを逆恨みするなど、天道に唾する行いである」
言いたい放題にいってくれているが、要するに宣戦布告。形式を整えているのだ。
「また悪人の甘言にのって城に入ってしまった軽率なる者たちよ。ただちに悪人たちの首級を持って投降せよ。さすればその者だけは助けてやろう」
つまり、帝国軍はクリシュナー城に籠もった兵士たちに、反乱を起こすように示唆しているのだ。
予想された作戦ではある。
天嶮を利用して作られたクリシュナー城をみては、だれも力攻めをしようとは思わないだろう。それよりも、大軍をみせることによっての位攻め。裏切り者を誘発させるのは現実的な作戦だ。
「よくみるがいい。これが愚かにも帝国を裏切りし、売女の末路だ」
その声に続いて、一本の長槍が持ち上げられた。
先端には生首一つが刺さっている。
灰緑色の頭髪を直視したギルーシュは、全身の血の気が失せる音を聞いた。
己が目で見たものが信じられず、慌ててあたりを伺う。
「せ、先生は?」
「……」
「ヘレナ先生は帰城していないのか?」
ここに至って、ギルーシュは最愛の女性の姿を見ていないことに気づいた。
領内に帝国軍の侵入を許してからというもの、雑事に追われてそれどころではなかったのだ。
「帝国騎士の地位にありながら、邪淫に溺れて敵に内通した愚者の成れの果てをみて。貴様らの近い将来を予想せよ」
「あははっ」
あたりいったいから、帝国軍の嘲笑が聞こえてくる。
寒風吹きすさぶ中、高々と掲げられた槍先に、物言わぬ美女の首級。それを直視していたギルーシュは、視界が暗くなっていくのを感じた。貧血だろうか。激しい嘔吐感に襲われて倒れそうになったところを、後ろから支えられる。バイアスの太く安心感のある腕だ。
「……大丈夫か?」
「ああ、戦争やってれば人は死ぬ。だれが死ぬかわからない。覚悟していたことだ」
そう答えたギルーシュの顔は、真っ青である。全身から冷たいぬめるような汗が噴き出している。いかに日ごろ飄々とした少年でも、今回ばかりは笑えない。
「悪い。部屋で休む。アニキ、だれも通さないでくれ」
バイアスにそう言い残したギルーシュは自室に引きこもる。
その日を境に謀叛軍の首魁たる少年は、城内の兵士にすら姿を見せなくなってしまった。
「出撃は許さない。迎撃だけしていろ」
予め定まっていた命令とはいえ、この消極策に城内の士気は目に見えて下がった。
もともと絶対的に不利な戦局だというのに、後見人であった祖父ガーネルフ、恋人であったヘレナの死というダブルパンチは、未熟な少年王の心を砕いたようだ。
トップの心が折れてしまった状況では、兵士たちも不安になる。
「今回の戦は始まりから誤算ばかりだ」
「ギルーシュさまは頭がいいとはいえ、お若いからな。逆境に弱い」
寄ると触ると兵士たちは嘆く。
息子の傷心を理解してか、珍しくヒルデガルドはなにもいわず、籠城戦の指揮はシュヴァルツが努めた。
城主の部屋の扉の前には、バイアスがさながら仁王像のように立っていたから、何人といえども近づけない。
国王が公の席に姿を見せなくなって一週間ほど経ったとき、妹のアシュレイは恐る恐る面会を求めた。しかし、にべもなく拒否されてしまう。
それでも諦めきれなかったアシュレイは、部屋の外から大声で呼びかける。
「ギル兄ちゃん、ギル兄ちゃん。御飯は食べたほうがいいよ。そこのでっかいやつ邪魔。どいて。お兄ちゃんに会わせて!」
「……」
肩を怒らせたアシュレイと石像のようなバイアスは、しばし無言のにらめっこをする。
見かねた女騎士ノワールが仲裁に入った。
「姫様、陛下にご迷惑です。もういきましょう。バイアス。これは姫様からの心づくしです。あとで陛下にお渡しください」
兄を励まそうと、慣れない手で焼いただろう不格好なパンが手渡される。
そんなやり取りはもちろん、城内で噂になった。
「せめてガーネルフさまがご健在であったならば……」
いよいよダメだ、という諦めムードが城内に流れていることは、城外にも伝わったようだ。
いずれ落城は時間の問題。わざわざ攻め入って無駄な死傷者を出すことはない、という判断で帝国軍全体には無理攻めを控える雰囲気が広がった。
そんな停滞した時間が二週間も流れたとき、変化は城外から起こる。
「おい、ギルーシュ。エライ別嬪さんがおまえのことを呼んでいるぞ。なんでも士官学校時代の友達だそうだ。顔ぐらい見せてやったらどうだ?」
叔父シュヴァルツからの呼び出しを受けて、ギルーシュは久しぶりに部屋をでた。
その顔はやつれきっている。籠城開始から今日まで、満足な食事をとっていないことが一目でわかる醜態であった。
まともに独りで歩くことも叶わず、バイアスに肩を抱かれて歩く。
「うわ、ダメだこりゃ」
兵士たちの蔑みの視線の中、ふらふらしながら城門の上にたどり着いたギルーシュは、城縁に両手をついて顔を出す。
その眼下では、赤い鎧に身を包んだ華やかな薔薇の如き女武者が白馬に乗って城門の前を行き来していた。
オレンジ色の豊かな巻き毛を兜からあふれさせている。その凛々しき姿はまさに戦乙女だ。
「やぁ、グレンダ。なにかようかい?」
マリーローズ王国の女王グレンダは、旧友の存在を見とがめると、その憔悴した顔をみて、軽く目を瞠った。しかし、すぐに表情を引き締めて、眉を吊り上げる。
「ギルーシュ、あなたはなにをしているの?」
「……」
「校長先生を殺して、担任教師を殺して、一族を巻き込んで、国民全部を道連れにして死ぬわけ? わたしは、スレイマンは、こんなことをさせるためにあんたを逃がしたわけではないわ! 友を裏切り、恩師を殺した。人として恥を知りなさい! この上はさらなる恥の上塗りとならぬよう、最善の手を一刻も早く打ちなさい!」
叫んでいるうちに感情が高ぶってきたのだろう。涙声となったグレンダは、言い捨てると同時に馬首を返し、指で目元を拭った。
「……副生徒会長さまは、相変わらず手厳しいな」
なにも言い返せなかったギルーシュは、小さく笑う。
「ギルーシュ……」
追い詰められた王の周りには、シュヴァルツ、ヒルデガルド、ウインザーといった幹部たちが集まっていた。
どうやら、いまの弱々しい呼びかけは、ヒルデガルドのものだったらしい。普段の権高を絵に描いたような母の声とは思えぬものだ。
「ドラグレナの伯父上に和議の仲介を頼もう」
「それがいいでしょう」
身も心も打ちのめされた息子の提案に、ヒルデガルドは諦めた表情で同意する。
「ちょっとまてよ!」
そういって進み出たウインザーは、ギルーシュの襟元を掴んで締め上げた。
「てめぇ、吐いた唾を飲むのか! 国土が焦土となっても、父親や兄貴の仇を討つといったのはどこの誰だ!」
「……」
ギルーシュがなにもいわずに顔をそむけると、カッとなったウインザーの右の拳が頬をぶん殴った。
ぶっ飛んだギルーシュは受け身もとれずに石床に這う。そして、独りで立ち上がる力もない。
「ちっ、話になんねぇ」
そう吐き捨てたウインザーは、苛立たしげな足音とともに立ち去った。
「ギル兄ちゃん……」
ボロボロになっている兄を見下ろして、アシュレイは滂沱の涙を流してすすり泣く。
動けないギルーシュのもとにジュリエッタが駆け寄って、頬をハンカチで拭い、再びバイアスに連れられて部屋に戻った。
この一連の騒動は、城内はもちろん、城外にまで知れ渡ったようだ。
「やれやれ終わったな……」
籠城兵は諦めの、攻城兵は安堵の溜息をつく。
クリシュナー城の城門から王太后ヒルデガルドの使者ロベルトが出て、ドラグレナ国王の陣に入ったことを誰も咎めなかった。
ドラグレナ国王から、皇帝に和議の意思が打診される。
どうやら、困難な攻城戦をしなくて良さそうだということで、帝国軍の兵士たちの間で安堵が広がった。
一方で、皇帝から突き付けられた降伏条件は厳しいものだ。
ギルーシュは当然として、主戦派で知られたヒルデガルド、シュヴァルツ、ウインザー親子など王家の親族と、重臣十人もの首級を要求してきた。さらには城に籠った者たちは、財産の持ち出しの禁止。
「これでは城に籠った者は、この冬を越せなくなります。全員死ねと命じているのと同じではありませんか。なんとか国王の首一つで収めていただきたい」
「もともとクリシュナー王家の族滅は決まっていたこと。それをこのような大事となったのだ。さらに厳しくなるのは当然だろう」
強気な帝国軍にも、弱みがないわけではない。そろそろ雪が降りそうだったのだ。
山国の雪は深い。下手をすると道が塞がれて、帰るに帰れないことになりかねなかった。
そのため早く帰陣したい各国の王の意見を受けて、皇帝は妥協する。
「皇帝陛下の格別の慈悲をもって、城に籠った者は、荷車一つぶんの財産の持ち出しを許可する、……か」
一週間もの粘り強い交渉の末に引きだせた譲歩がこれであった。
「これで慈悲ねぇ」
ロベルトから届けられた母方の伯父の手紙を眺めて、ギルーシュは呆れてしまう。
「どれだけ皇帝に目の仇にされているんだ? うちは」
「しかし、だいたい煮詰まったな。これ以上の妥協は引き出せそうもない」
どこか楽しげなシュヴァルツの言葉を、底冷えする声でヒルデガルドが引き継ぐ。
「そうですね。ここが潮時でしょう」
「ああ決裂だ」
手紙を頭上高く翳したギルーシュは、ビリビリと引き裂いた。
「叔父上、兵士たちの様子は?」
「いつでも戦える準備を整えてあるよ」
「それじゃ、本日、夜襲を行う」
あっさりとしたギルーシュの言葉に、みな頷く。
「あれ? だれも驚いていないね」
意外そうな顔をするギルーシュに、従兄のウインザーは吠えた。
「ったりめぇだ。あんな見え見えの演技に付き合ってやったんだ。感謝して一番、美味しいところを寄こせよ」
ヘレナの生首を見せられてから部屋に引き籠って絶食していたギルーシュは、ボロボロになった惨めな姿をさらしたあとで再び部屋に籠ると、今度はちゃんと食事を摂って、適度な運動をし、体調を整えていたのである。
その間、傍らにあって献身的に世話をしたのがジュリエッタだ。
「おまえが帝国の大軍師グレゴールの秘蔵っ子などではなく、乱世の梟雄ガーネルフの孫なのだということがよくわかったよ。まさに勝つためには手段を選ばぬ。そして、この城に籠っている奴らはみな、あのクソ爺に振り回されることに慣れちまっているんだよ」
シュヴァルツの哄笑に、重臣たちも同意する。ギルーシュは肩を竦めた。
「はは、皇帝さまが毛嫌いしたくなるのもわかるね。ほんと危ない一族だ」
「あはは、違いない」
みなと朗らかに笑ったあと、表情を引き締めたギルーシュは改めて命令を下す。
「先鋒は俺が努める。全軍の指揮は叔父上にお願いしたい」
「承ろう」
大仰に一礼するシュヴァルツを横目に、ギルーシュは傍らの大男に目を向ける。
「ウインザー従兄さんには別動隊を任せる。従兄さんの活躍がこの作戦の肝だ」
「よし、任せておけ!」
不敵な笑みを浮かべたウインザーは、力強く両の拳をぶつけてみせた。
「いいか、乾坤一擲だ。今夜の襲撃に失敗したら、文字通りクリシュナー家は終わる。いや、クリシュナー地方そのものが死に絶えるぞ。その覚悟を胸に刻み、ひそかに、そして、速やかに用意せよ」
必要な指示を終えたギルーシュは、武装を固めて会議室から出る。そして、城壁の上から、帝国軍の布陣をみた。
本格的な戦闘のないままにだらだらとした長陣を敷いているのだ。野営の兵士たちは弛緩しきっている。
今夜は一段と冷えると、勝利の前祝として酒を飲んでしまっている者もいるようだ。
「もう勝った気でいるみたいだな」
ギルーシュの目は炯々と光りながらも、冷めきっていた。
見ていると寒気がする表情というのがまさにこれだろう。
そして、振り返る。
そこには城兵たちが集まっていた。みなが一言欲しいと待っていることを察したギルーシュは、武器を翳す。
「みんな、いままでよく耐えてくれた。今夜決める。これより夜襲を行って、我らが美しい故郷からゴミ虫どもを追っ払う。狙うは皇帝の首級だ」
「おおぉぉぉ!!!」
みな武器を掲げて、勇ましい雄叫びをあげる。
「門を開けろ!」
一ヵ月以上に渡って固く閉じられていた城門は、ゆっくりと押し開かれていく。
出撃する兵士たちにはヒルデガルドの指揮下の魔法使いたちによる祝福を授けられた。
出し惜しみをしているときではない。力増強、体力増強、耐魔増強などなど、ありったけのバフ魔法がかけられた。
「継続回復魔法」
魔法宝珠付きの杖を掲げ、ギルーシュに補助魔法をかけたのはジュリエッタだ。
ギルーシュの周囲には彼女の他に、一騎当千を自認する兵法者バイアスと、譜代の家臣であり、亡き兄の側近であったノクトが控えている。
三人の協力がなければ、今夜までのギルーシュの演技は不可能だった。
「ギル君への補助魔法はわたしが絶対に切らしませんから」
「ああ、ありがとう。助かる」
礼を言いながら、ギルーシュは同級生の足元をみる。
(しかし、こいつ、冬の夜に生足を出して寒くないのかね。太腿があんなに太いと温度を感じないのか)
おそらく魔法障壁を張っていて、本当の素足ではないとは思う。
(いや、でも、戦場でこの露出はまずいだろ。自慢の脚に傷がついたら、ショックを受けるのはこいつなわけだし……。余計なお世話だが、注意したほうがいいのか?)
ファッションに拘りのある女に角が立たない忠告するにはどうしたらいいか、と場違いな思案をしていると、ノクトが声をかけてきた。
「いよいよですね。この一戦ですべてが決まります」
我に返ったギルーシュは、いささか困った顔をしていたジュリエッタの脚からようやく目を逸らし、これからのことに思いを馳せる。
「ああ、これで勝てなければ、すべてが終わりだ。勝てばすべてが始まる。おまえはこれからより忙しくなるぞ」
ノクトは実にできた補佐役だった。
ジュリエッタがいつのまにかギルーシュの傍仕えになっていたのも、気心が知れたものが近くにいたほうがいいだろうと、ノクトが配慮してくれたからのようだ。
若くして忠誠心豊か、文武にも秀でて礼儀正しい彼は、間違いなくクリシュナー政権の重鎮として、今後もこき使われることだろう。
「ええ、歴史に残る一夜といたしましょう」
「ああ、そうだな」
そして、門が開いた。
「いくぞぉぉぉぉ!!!」
ギルーシュは雄叫びをあげると同時に、先頭を切って駆けだした。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
若き国王の決死の覚悟を見たクリシュナー王国軍は、その末端の兵士に至るまでみな死に物狂いで突撃を敢行する。
今夜、このときのために、我慢に我慢を重ねていたのだ。さながら満月のように引き絞られた弓から離れた矢のようであった。
雄叫びを聞き、城兵が出撃してくることを予想していたのだろう。帝国軍の一部隊は整然と迎撃してきた。しかし、それを鎧袖一触で蹴散らす。
覚悟の差がありすぎたのだ。
クリシュナー王国軍は、そのまま皇帝の座所を目指して進軍する。しかし、当然ながらそこはもっとも防御力が高い場所だ。
柵がめぐらされ、空堀が掘られ、逆茂木が配されている。
その後ろから帝国軍は、長槍を振るい、弓矢の雨を降らせてくるのだ。突破することは容易ではない。
「おうおう、最後の足掻きか」
皇帝ツァウベルンとその取り巻きたちは、高台から余裕の表情で酒を片手に観戦していた。
「なるほど、どうせ死ぬなら、敵陣に斬り込んで死ぬ、か。尚武の家に相応しい最期だな。せいぜい派手に殺してやれ」
反対にギルーシュは必死である。自ら陣頭に立ち、鉞を持って柵を砕く。
「ここで退いたら、おまえら全員、家族も含めて飢え死にだ。どうせ死ぬなら、敵陣に飛び込んで、一人でも多く殺して死ね」
秀才肌で冷徹なイメージのあった少年王の苛烈な激に応えて、血走った目の将兵は、矢が刺さろうと、刃が刺さろうとかまわず必死に進む。まさに死兵の群れだ。
「ヒーリング! ヒーリング! ヒーリング!」
ギルーシュの後ろからは、ジュリエッタが魔法石付きの杖を翳して、必死に回復魔法を連打している。
その激戦の上空、宵闇に塗れてアシュレイ率いる飛行部隊がひそかに進んだ。
夜間飛行というのは距離感がつかめず、乱気流などに巻き込まれて自滅する危険がある。そのため普通は控えるものだ。あえてやったのは、切羽つまってのやむを得ぬ判断と、地の利への自信からである。
「この辺でいいかな? やっちゃって」
「はい。投下します」
ノワールの指揮で、魔法具が敵陣に投げ込まれる。
反射的に爆弾の類かと、帝国軍の兵士たちは飛びのいた。しかし、爆発はしない。
一瞬の間を置いて、城壁の上から、凄まじい魔法光が放たれる。
「爆ぜよ、天神の光撃!」
ズドォォォォォォォォォン!!!
城の櫓の上から夜の闇を切り裂く白光の太い線が放射された。
今夜、このときのためにヒルデガルド率いる魔法兵たちは、集団大魔法を用意していたのだ。
アシュレイたちが投げ込んだのは、その目標となる目印だったのである。
ただし、人間は焼け死んではいない。
帝国軍の魔法兵たちも無能ではなく、とっさに耐魔を発動したのだ。しかし、完璧とはいかなかった。人間以外のもの、つまり柵や逆茂木は蒸発してしまい、帝国軍の防御陣は無力化された。戦いはいっきに肉弾戦へと移行する。
「敵は怯んだ。今だ、進め!」
「あのような魔法、連発できるものではない。恐れず戦え!」
鉾と鉾、槍と槍、刀剣と刀剣、盾と盾、兜と兜がぶつかり合うような激闘となった。
気合いの差もあってクリシュナー軍は押しているが、帝国軍にはまだまだ余裕がある。
兵力は圧倒的に帝国軍が有利なのだから、いずれ逆転すると考えているのだ。
そんなことはギルーシュも百も承知している。
(よし、予想通り諸王国軍は動いていないな。やはり動くのは陽が昇ってからだ。それまでにケリをつける)
山城であるクリシュナー城の周りもまた山である。二十万人もの大人数が、自由に動けるような敷地的な余裕はない。
移動できる道は限られており、各々の軍が勝手に動こうものなら大渋滞に陥ってしまう。まして、夜戦である。同士討ちの危険もあった。
諸王は、それを悟って自重したということもあるだろうが、より大きな理由として、帝国に対する忠誠心が低いのだ。だれも窮鼠となった死兵と戦いたいとは思わないだろう。
皇太子スレイマンは父親のために動くだろうが、皇帝と皇太子の陣地は城を挟んで対極にあり、遥かに離れている。
これは万が一、なにか不慮の事態が起きた時、二人が同時に亡くならないための組織としての知恵だ。
以上のような理由で、帝国軍二十万とはいえ、そのほとんどは遊軍と化していた。
とはいえ、時間との勝負だ。
いかに死に物狂いのクリシュナー軍といえども、人間の体力は有限である。いずれは力尽きるだろう。そんな未来予想を立てていた帝国軍に、想定外のことがおこる。
突如、皇帝の座所の真っただ中に、巨大な段平を持った敵兵が出現したのだ。
「クリシュナー王国大公シュヴァルツが嫡子ウインザー見参!!! 皇帝陛下が首級、いただきに上がったぁぁぁ!!!」
鉄腕のウインザー率いる精鋭部隊は、古井戸の中から現れたのだ。
これに度肝を抜かれた帝国軍は、大混乱に陥る。
鉱山国であるクリシュナー王国では、鉱夫も大勢いた。彼らに古井戸の下に通じる横穴を掘らせたのだ。
これはギルーシュの祖父ガーネルフから託された策である。
クリシュナー城を攻めるとき、敵は必ずこの丘に本営を置く。だから、この井戸を使って奇襲すれば、大将首を討てる、と。
(もしかして、お爺様は敵の油断を誘うために、あえてあの時期に死んだ? 薬でも飲めば死期を調節することは可能だろう)
考えすぎだとは思うが、あまりにも絶妙なタイミングでの自然死であった。そして、あの怪物のような祖父ならば、それくらいのことをやりそうな気もする。
とにかく、このウインザーの出現によって、帝国軍の本営は機能不全に陥った。
さらにウインザーとその手下たちは、口々に好き勝手なことを叫んだ。
「ドラグレナ王国が寝返ったぞ」
「マリーローズの裏切りだ。勝った。クリシュナーの勝利だ」
「勝ったっ! 勝ったっ! 勝ったっ!」
ドラグレナ王国とクリシュナー王国は歴史的な同盟国である。今回も家臣を牢人させて、傭兵として援軍を入れたとかいう疑惑を持たれているだけではなく、和議の斡旋のためにも尽力した。
マリーローズの若く美しい女王とギルーシュは親しいご学友だったということは、先の城壁を挟んでのやり取りで有名になっていた。
女という生き物は感情で動くから、理屈で説明のつかない行動をする。そんな偏見が人々の心の隙をつく。
なによりも、絶対にありえない場所に忽然として現れた敵兵が、内通者の存在を示す動かぬ証拠のように思えて、皇帝の周りは疑心暗鬼となって右往左往してしまう。
後ろが混乱したことで、ただでさえ押され気味であった最前線は崩壊した。
ギルーシュたち先鋒隊は、皇帝の防御陣を真正面からぶち抜くことに成功したのだ。
「皇帝はどこだっ!? 必ず皇帝を見つけ出して、その首級をあげろっ!!!」
ギルーシュとウインザーは、声を嗄らして皇帝の行方を追った。そして、ついに馬に乗ろうとしている騎士の存在を見つける。
混戦の中、皇帝としての身分を隠そうとしたのだろう。マントなど、華美な装飾品を外していたが、ギルーシュは見間違えなかった。
「いたぞ! あれが皇帝ツァウベルンだ。戦乱の元凶を決して逃がすなっ!!!」
士官学校の入学式のときに挨拶にきていたし、さまざまな行事で顔をみている。スレイマンの家に招待され、テーブルを囲んで食事を共にしたこともあった。
ギルーシュの指し示した方向に、猛り狂った兵士たちは殺到する。
このとき陣頭を駆けたのは、ずっとギルーシュの傍らで護衛していたバイアスだった。
皇帝の親衛隊と思しき人々は必死に立ち塞がる。それを長巻でバッタバッタと薙ぎ払っていく。
その常軌を逸した剛勇ぶりに、皇帝の取り巻きたちは戦慄した。
「陛下、お逃げください!」
皇帝を背にした親衛隊長と思しき中年男は、腰剣を抜き放つと決死の形相で迎え撃つ。
「邪魔だぁぁぁ!!!」
野獣の如き雄叫びとともに振るわれたバイアスの一撃は、立ちふさがる騎士の胴を断ち切った。
「ひっ」
血塗られた長巻を掲げた巨人に詰め寄られて、さすがの皇帝も引きつった悲鳴をあげる。
しかし、なにもかも蹴散らすかに思われた鬼神の進撃は、得物を振り上げたところで、いったん止まった。
「行かせぬ!」
なんと胴体を両断されながらも親衛隊長は、両腕でバイアスの太い右足に抱き着いたのだ。
「ぬ」
うめき声を漏らしたバイアスは、半死の敵兵を引きずって歩を進めた。そして、長巻を振り下ろす。
「陛下―――っ」
バサァァァァァ!
簡易な鎧をきた壮年の男を左肩から右腰にかけて斬り下ろし、さらに馬首まで両断していた。
赤い飛沫を浴びながら間合いを詰めたバイアスは、そのまま首を掻き切る。
「千武流の武芸者バイアス。皇帝ツァウベルンの御首級をあげたぞぉぉぉ!!!」
大男が生首を掲げて朗々と名乗りをあげたとき、戦場には一種、言いようのない静けさが流れた。
戦場で総大将が戦死するということは、滅多にない。まして二十万の兵を率いたる皇帝だ。
みな半信半疑といった様子で、情報の真偽を確かめるように固唾を飲む。
そして、少しの時間差を持って、クリシュナー軍の兵士たちの間から歓喜が、帝国軍の兵士たちの間から悲鳴があがった。
まるで天地が割れるように、帝国軍は崩壊する。
ドラグレナ王国軍は真っ先に兵を返し、これを呼び水として他の諸王国軍も我先に退却を始めた。
「勝った……、はぁ……、はぁ……、はぁ……」
精根振り絞っての、のるかそるかの博打だった。
曙光が射すなか、ギルーシュは大地に大の字になって、呼吸を整える。
ギルーシュだけではない。ジュリエッタも誰もかれもが、まともに立っていられない。
ここで帝国軍が反撃に転じていたら覆滅されていただろうが、帝国軍の兵士たちの士気が崩壊している。
津波のように撤退していく帝国軍の中にあって、最後まで陣地に踏みとどまったのは皇太子スレイマンの軍団だった。
徴兵された末端の者たちは逃散しているが、中核たる直属の騎士たちは隊列を組み、堂々と退却していく。
「おのれ、小憎らしい。白昼の行軍などさせるな。皇太子の首級も挙げよ」
そう激怒したのは、ギルーシュの側近役を務めていたノクトである。
彼も疲れていただろうが、戦った兵士たちの間を駆け回って、損害のほどを調べていたのだ。
普段は冷静な男なのだが、戦勝に高揚していたのだろうか。あるいは新参者のバイアスが、皇帝の首級を上げるという歴史に残る偉業をあげた直後だけに、無意識のうちに功を焦ったか。
「いや、欲を掻き過ぎだ」
ノクトが疲れ切った兵士たちを叱咤して追撃戦をしようとしているのをみて、ギルーシュは中止を命じようしたのだが、間に合わなかった。
「この一戦で帝国は終わりだ!」
即席の追撃軍は、したたかな逆撃を食らってしまう。
そればかりか、蒼き髪の戦士が野生の狼を思わせる鋭さで一騎駆けに斬り込んできたかと思うと、指揮を執っていたノクトに襲い掛かった。
スパン!
曙光の降り注ぐ青空に、将来有望だった若き騎士の頭が舞う。
その光景を、ギルーシュは眺望していた。事態を悟って溜息がでる。
「またガルムか」
恋人に続いて、側近まで同じ男に斬られたことになる。
追撃軍の足は完全に止まり、王太子軍は粛々と撤退していく。
ともかくも、皇帝を討ち取り、未曽有の大軍を撃退した奇跡の大逆転勝利だ。
気を取り直したギルーシュは、血刀を翳して叫ぶ。
「みなのもの。よく戦ってくれた。我らが武勇、天下に鳴り響こう。太陽はこれより沈む。我らの時代の夜明けだ」
「うおおおおおぉぉぉぉ、ギルーシュ陛下ばんざい」
凄まじい熱狂に、クリシュナー地方は沸き立った。
※
粉のような初雪が舞う中、ギルーシュは黙々と門前に掲げられていた長槍を下ろす。
「遅くなってごめんなさい。先生にはいつも迷惑をかけてしまうね……」
三十日間も寒風に干されてしまい、生前の面影など欠片もなくなってしまった首級をじっと見つめる。
(帝国を滅ぼす個人的な動機ができてしまったなぁ)
ギルーシュが帝国と戦う理由は、極論すれば、皇帝に「おまえたち一家を生かしておけない」と言われたからだ。自分と家族の身の安全と財産を守れるならば、どこかで講和したい、という気持ちはあった。
しかし、それも過去の話だ。
「ギル君……」
いたたまれないといった表情のジュリエッタが冷たくなった手を握ってきた。それをギルーシュは払いのける。
もはや帝国とは同じ天を仰げない。
「なにも恩返しできないけど……仇は取るよ」
ギルーシュは愛した女性の首級を、この戦で亡くなった兵士たちと同じように丁寧に埋葬させた。