第三章 師弟対決
「ギルーシュ、ただいま戻りました」
クリシュナー王国の譜代家臣であるノクト、ノワール兄妹に先導されて、ギルーシュは王城に入った。
案内された謁見の間には、三人の大人が待ち構えていた。
「二年間、一度も帰らず、一通の手紙すら寄越さなかった親不孝息子も、この大事にようやく帰ってきたというわけですか」
そうねちっこい声で嬲ってきたのは、妖艶なる魔女だった。
ギルーシュの母親ヒルデガルド。つまり、クリシュナー王国の王妃だ。出身は隣国ドラグレナの王女で、むろん、政略結婚である。
若いころはかなりのお転婆姫として知られていたらしい。魔法の達人で、戦場での武勇伝もある。
現在の年齢は四十代半ばのはずだが、とてもそうは見えない若々しさだ。俗にいう美魔女と呼ばれるタイプである。
真っ白な顔に、紫のアイシャドーと真っ赤な口紅を塗り、かなりの厚化粧をしているのは、おそらく顔色の悪さを誤魔化しているのだ。夫と最愛の息子を殺されて、世界の支配者から族滅させるなどという勧告を食らっていて、平静でいられるはずがない。
目には狂気が輝いており、毒々しい美しさだ。
喪服として黒い服を着ているせいで、より一層の魔女らしい雰囲気に拍車をかけていた。
「も、申し訳ありません。いろいろと忙しくて」
恐縮するしかない不肖の息子をしばし見やったヒルデガルドは、諦めたように軽く溜息をつく。
「まぁ、帰ってきただけよしとしましょう。あの人とカイエンはもう帰ってこないのですから」
「父上と兄上のことはなんといっていいか……無念です」
神妙な顔で弔辞を述べるギルーシュのもとに、四十がらみの男が豪快に笑いながら歩み寄り抱き着いてきた。
「わはは、ギルーシュ、いいタイミングで帰ってきた。二年ぶりか。でかくなったな。しかし、ちょっと痩せすぎじゃないか。もっとちゃんと肉を食え肉を」
筋骨たくましい体に革のコートを纏い、巨大なライフルを背負っている。無精髭を蓄えた不敵な面構えは、いかにも百戦錬磨の武闘派といった雰囲気を漂わせていた。
「叔父上。ご壮健そうでなによりです」
クリシュナー王国大公シュヴァルツ。ギルーシュの父親の実弟だ。大公というのは、王に次ぐ地位である。すなわち、国のナンバーツーだ。軍部の最高責任者でもある。
次男坊であり、家督の継げない身のギルーシュとしては、目標とすべき人物であり、実際に憧れるに足る存在であった。
十年前、帝国に臣従するときには、最後まで反対したという経緯もあり、クリシュナー王国きっての反帝国派と目されている。
「これで役者がそろったということじゃな」
そう応じたのは、矍鑠とした老人だ。背は高くない。柔和な笑みを浮かべているが、顔に刻まれた皺の幾本かは刀傷であり、注意深く観察すると瞳が笑ってないことに気づく。
「お爺様もお元気そうで」
「お家存亡の秋じゃ。楽隠居もしていられまいよ」
先代国王ガーネルフ。年齢は七十歳。知恵者として知られ、戦乱の時代にも、油断のならない人物としてさまざまな人に一目置かれていたらしい。太陽帝国が台頭してくると、降伏とともに家督を息子に譲って引退した。といっても、完全に引退したわけではなく、裏でいろいろと画策していたらしい。とにかく煮ても焼いても食えない曲者と評判だ。
「母上、叔父上、お爺様、みなさん、ご無事でよかった」
クリシュナー王家の三大幹部といったところだ。
当主と嫡子が同時に暗殺されるという未曽有の危機の中、クリシュナー王国に秩序を保たせたのは、彼らの存在あったればこそであろう。
ヒルデガルドは、ギルーシュの後ろに付き従っていた赤毛で筋肉隆々の大男に目をやる。いやでも目についたようだ。
「そちらは?」
「千武流の使い手で、バイアスといいます。わたしと義兄弟の契を結びました。彼が兄貴分となります」
「まぁ、あの有名な」
……いや、母上、絶対に知らないだろ、と思ったが、せっかくお世辞を言ってくれているのに、水を差すのも悪いので我慢した。
「そのような豪傑を連れてきたということは、あなたもやる気ということですね。まずはなにはさておき、ここに座りなさい」
ヒルデガルドが指し示したのは王座だ。
「えっ!?」
当惑するギルーシュに、ヒルデガルドは命じる。
「わらわに残った男子は、あなただけです。あなたが王位を継ぐのは当然でしょう」
「は、はい……」
叔父と祖父の顔をみる。二人が頷いたので、ギルーシュは戸惑いながらも、王座に付いた。
パチパチパチ。
ヒルデガルド、シュヴァルツ、ガーネルフ、ノクト、ノワールは拍手をはじめ、場の空気を読んだらしいバイアスも厚い掌を打ち合わせた。
「よし、これで準備は整ったな」
威勢のいいシュヴァルツの言葉に、ギルーシュは困惑の声をかける。
「えーと、さっきからなにを言っておられるのですか?」
「むろん、弔い合戦です。決まっているでしょう」
母親の宣言にギルーシュは度肝を抜かれた。いや、道すがらノクトたちに状況は聴いていたのだが、まさかと思っていたのだ。
なにも知らない国民が決起を叫ぶならわかる。しかし、国の上層部は世界情勢を把握しているはずだ。
「いやいや、ちょ、ちょっとお待ちください。みなさんのお気持ちはよくわかります。しかし、帝国は十年前よりもさらに強大になっていますよ。その気になれば二十万の兵を動かせます。クリシュナーはいいところ一万でしょ。質を問わずに領民を根こそぎ動員したところで、五万人がやっとだ。勝敗は目に見えています。負ける戦をすることはない」
「帝国のほうがわらわたちを族滅させると言っているのですから、やるしかないでしょう」
久しぶりにあった母親の言葉に、期待されていなかった次男坊は努めて冷静さを装って反論する。
「たしかに皇帝陛下も一時の激情で、一族皆殺しなどと口走ったかもしれませんが、時間を経れば冷静になられるはずです。母上のお兄様であられるドラグレナ王に間に入っていただき、粘り強く交渉することで活路は開かれましょう。幸いわたしも皇太子スレイマン殿下の知己を得ています。このようにありとあらゆる伝手を使い」
「なにを生ぬるいことをっ! あなたは父と兄を殺されて悔しくはないのですかっ!」
「悔しいです! しかし、感情のままに勝てない戦をするわけにはいかないでしょう!」
母子の言い争いを聞いていたシュヴァルツとガーネルフは素早く目で会話をする。そして、仲裁するように祖父の声が割って入った。
「ギルーシュも長旅で疲れておるじゃろう。まずは風呂にでも入り、身支度を整えてくるといい。込み入った話はそれからでもよいじゃろう」
「っ!? ……そうですね。まずはその汚い身なりをなんとかなさい。王としての威厳にかかわります」
「わかりました」
たしかにお互い少し頭を冷やす必要があると感じたギルーシュは、母親の指示に従って王座から立った。
※
「すげぇな。これが王宮の浴場か」
池のような広々とした湯船は、泳げるほどだ。調度品であるライオン像の口からお湯のでるさまに感動したバイアスは、太い腕を突っ込んで遊んでいる。
王族の風呂らしい豪華な造りといえるが、ここまで広大な作りになっているのは、籠城したとき兵士たちに開放するためだ。
それと知っているギルーシュは、湯の中で肩を竦めた。
「まぁ、辺境のお山の大将だ。みんなこんな田舎に引きこもっているから、帝国の怖さが実感できないんだよなぁ」
やる気満々の母、叔父、祖父の顔を思い出して、ギルーシュは暗澹たる気持ちになる。
一通りはしゃいで満足したらしいバイアスは、湯に腰を下ろしながら笑った。
「ふっ、しかし、おまえが国王になるのか」
「……正直、考えたことがなかったな。家は兄さんが継ぐのがあたりまえだったし、兄さんが殺されたと聞いても、俺が継ぐという可能性を露とも思いつかなかった。いや、改めて考えると逃避していたんだろうなぁ」
母親の性格からして、他の選択肢はなかったのだろう。しかし、この状況で国王になっても、苦労ばかりで美味しいことはなにもなさそうである。
「あ、アニキ。申し訳ないんだけど、もう少し逗留してくれませんか? 扶持は用意させますんで」
「まぁ、乗りかかった船だ。おまえを見捨てはしないさ」
「ありがとうございます。助かります」
この城にいる人々は、クリシュナー王家に十分な忠誠心を持っているだろう。しかし、次男坊のうえ、ここ二年間も国元を留守にしていたギルーシュとは縁が薄い。間違いなく新王よりも、あの後見役三人を優先させることは目に見えている。
そんな中で、ギルーシュの存在を優先してくれる人物が独りでもいてくれるのはありがたい。
不意に脱衣所が騒がしくなった。
「姫様、いけません!」
侍女たちの悲鳴に続いて、ドタドタという足音とともに扉が開き、独りの少女が飛び込んできた。
「ギル兄ちゃん、お帰り~♪」
十代半ばと思える少女であった。身長はおそらくこの年代の少女としては平均的。体重も平均的であろう。
やたらヒラヒラした黄色の薄手の布を重ねたドレスを身に纏っている。健康的な肩や太腿を露出させ、膝までのニーソックス。足先の出たサンダルを履いていた。そして、なによりも特徴的なことに、頭髪を紫と赤の二色に染め分けている。
そんな奇天烈な装いの少女は、軽快に洗い場を駆けて来たかと思うと、湯船に浸かっていたギルーシュに向かって豪快にジャンプした。
「どわぁぁぁ」
ザブン!
ギルーシュはなんとか受け止めたが、二人まとめて湯船に倒れてしまった。
「あはは、やっぱりギル兄ちゃんだ」
お湯浸しになった少女は楽しげに笑い、小さな手でギルーシュの顔をペタペタと触る。
その顔をギルーシュはしげしげとみて、口を開いた。
「……。おまえ、アシュレイか」
「うん、そうだよ。ギル兄ちゃんのかわいい妹、アシュレイちゃんだよって。あ、もしかして、わからなかった? やっぱり、あたいが大人びたからわからなかったの? ねぇ、ねぇ、美人になったからわからなかった?」
ギルーシュの妹アシュレイは、三つ下だったから、現在は十五歳になったはずだ。
順当なら来年、ギルーシュの卒業と入れ替わりで、帝国の士官学校に留学する予定だった。
「い、いや、一発でわかったぞ。そんなことよりどうしたんだ、その恰好。特にその髪?」
アシュレイの髪は、兄と同じ明るい黒色だったはずだ。というよりも、紫と赤の二色髪など天然でありえるはずがない。
「ふふふ♪」
得意げに含み笑いを浮かべたアシュレイは、裸のギルーシュを跨ったまま立ち上がると、左手でさっと二色髪を払って気取ったポーズを決める。
「これくらい気合いいれた恰好しないと、都会もんに舐められるからね」
いや、そういう発想がすでに田舎者、と思ったが、辛うじて口に出すことは我慢した。というのも、声にならない動揺した喘ぎ声が聞こえてきたからだ。
「おま、おま、おまおまおまおまおまおま……」
「ん?」
不思議に思って視線を向けると、顔を真っ赤にしたバイアスが、逞しい右腕を震わせながらアシュレイを指し示している。
「ん? どうしたのだ。そちらのでっかいの」
困惑した顔のアシュレイは、両手を腰に当てて無意味に胸を張った。
ここに至ってバイアスが、いったいなにに驚いているのか、ようやくギルーシュにもわかった。
アシュレイはヒラヒラとしてやたらと露出の激しいドレスを纏っている。それがお湯を吸ったことにより、お子様体系に張り付いているのだ。
胸の膨らみは残念を通り越して、そもそもないが、すっかり透けてしまい、二つの突起まで丸見えである。
そのことにアシュレイ自身も気付いているだろうが、隠そうという気配はない。
まだ、性的なことに目覚めていない、ということもあるだろうが、これは王侯貴族の女性によくある感性だ。
例えば、皇女エトワールにもこういうところがあった。
なにせ生まれたときから、蝶よ花よと褒めたたえられ、多くの家臣たちにかしずかれて育ったのだ。他人に裸を見られることに慣れてしまっている。そのうえ、自分の容姿に絶対の自信を持っているから、恥ずかしくて隠す、という発想がない。
「あたいの顔になにか付いているのか?」
自覚のないアシュレイは、シースルー状態のまま近づく。
それにますます動転したバイアスは、湯あたりしたかのように真っ赤にした顔を左右に振り回していたかと思うと、そのままバチャンッと仰向けに倒れてしまった。
「あっ、アニキ、大丈夫っすか!?」
一騎当千を自任する千武流の開祖バイアス。いまだ負け知らずの武芸者は、幼女をまえに卒倒してしまった。
その後、アシュレイは侍女たちに連れられて出て行く。
残ったギルーシュは風呂から上がり、用意されていた真新しい衣装に身を包みながら爆笑してしまう。
「あはは、アニキも意外と純情だね」
「うるせぇ、相手はお姫様だぞ。普通は驚くだろ」
「あれがお姫様ってガラかなぁ」
ギルーシュからみると、女という範疇に入らない生き物だ。それなのに朴念仁を極めていたバイアスのあまりの動揺ぶりが面白くて笑いが止まらない。思わず節をつけて歌ってしまった。
「一騎当千の勇者を殺すに刃物はいらぬ~♪ 幼女の半裸があればいい~♪」
「俺に幼女趣味はねぇ!」
シャンッ!
不意に付き添っていた怜悧なる女騎士ノワールが、無表情に腰の刀を抜き、バイアスの逞しい顎の下に切っ先を添えた。
「姫様に不純な目を向けられるなど、いかに陛下のご友人といえどもただではすませませんよ」
おそらくノワールは、クリシュナー王国随一の女騎士だろう。しかし、帝国の暗殺部隊『骸衆』の襲撃をあっさり撃退してきたバイアスが、こうも簡単に不覚を取ったのは、それだけ動揺していた、という表れだ。
「……はい。すいません」
小さくなって謝るバイアスの姿に、ギルーシュはますます笑ってしまった。
「あはは、ノワール。その程度で許してやれ」
そんな小休止を終えたあと、ギルーシュは再び国の行方を左右する会談に臨んだ。
※
「さて、話の続きを、といいたいところですが……叔父上は?」
部外者は遠慮させるように、との指示があったので、バイアスとは入口で別れて会議室に入る。
室内にあった重厚で巨大な円卓に前王妃ヒルデガルドと隠居ガーネルフはついていたが、実戦部隊の長たるシュヴァルツの姿はなかった。
「もう来るじゃろ。飲み物でも飲んで待つとよい」
祖父の言に従って、空けられていた上座に着いたギルーシュは侍女に麦茶を頼む。
ちなみに半ば目を閉じたヒルデガルドの前には、手の付けられていない緑茶が置かれていた。ガーネルフは嬉しそうに巨大なフルーツパフェを長いスプーンで掬っている。
しばらくして、会議室の扉が勢いよく開け放たれた。
「待たせたな。首尾は上々だ」
荒々しく入室してきたシュヴァルツの体からは、血と硝煙の匂いが漂ってくる。
ただ事ではないことを察したギルーシュは、椅子を蹴って立ち上がった。
「叔父上、なにをやってこられたんですか?」
「な~に、俺たちに無礼なことを言っていた帝国の使節団五十人あまりが逗留中の宿舎に押し入って、皆殺しにしてやってきただけだ」
「……マジ?」
愕然としたギルーシュは真顔で聞き返してしまった。
まったく悪びれないシュヴァルツは、侍女にコーヒーを頼んでから逞しい肩を揺らして笑う。
「もちろん、大マジだ。完全に敵の意表をつけたからな。こちらの死傷者はなしだ。幸先はよしだな」
誇らしげな叔父から、テーブルについていた二人にギルーシュは視線を転じた。
(しまった! 油断したぁ!!!)
澄ました顔の母と、美味しそうにパフェを頬張る祖父を見下ろしつつ、ギルーシュは臍を噛む思いを味わった。
当然、帝国からの使者は、ギルーシュよりも早くクリシュナー城に到着していたわけだ。
おそらく、威圧を込めて完全武装の精鋭を率いてきていたのだろう。
それを表向き歓待しておきながら、騙し討ちで殺したのだ。こちらの損害がないということは、使節団が武装を解いて寛いでいるところを強襲したに違いない。
「うわぁ……」
ギルーシュは頭を抱えて、しゃがみ込みたくなった。
そこにヒルデガルドが、手つかずで冷めた緑茶よりも確実に冷たい声をかける。
「さて、ギルーシュ。ここからまだ和議の交渉などできると思いますか?」
「……無理です」
ギルーシュが和議などといいだしたから談合を一度中断し、結論を言わせるまえに可能性の芽を潰したのだ。
使者を斬っただけでも大問題なのに、五十人も殺害。数字でいえば簡単だが、四倍以上の残された家族は、クリシュナー王国を仇敵として思い定めたことだろう。もはや戦乱勃発は不可避だ。
(大人ってきたねぇ……)
まったく悪びれていない後見役の三人を、ギルーシュは怪物でもみるような気分で見やった。
「なら、腹をくくるしかないの」
「……はい」
巨大なパフェを食べ終わって満足したらしい祖父の確認に、椅子に座り直したギルーシュは静かに頷く。
戦闘後の高ぶりを押さえきれないのだろうシュヴァルツは、一息にコーヒーを呷ってから口を開く。
「そいつはよかった。旗頭におまえの存在は必要不可欠だからな」
「親の仇討ちという大義名分ですか?」
「それもあるがな。若いってのはそれだけで才能だ。子供をトップに立てていると、人々の耳目を集めることができる」
だからといって、勝てるものではないだろう。ギルーシュの不満と不安を見透かしたように空になったガラスの器に長いスプーンを放りながら、ガーネルフは語る。
「安心せい。太陽は中天を過ぎておる。あとは落ちていくだけじゃ」
「それはたしかに各地で反乱が起きているようですが……」
「太陽帝国はマクシミリアンの剛腕によって作られた急造国家だ。危ういバランスの中で誤魔化しながら、高すぎるまでに高く積み上げられてしまった積み木細工のようなものじゃ。ユラユラと揺れておる。あとは誰が突き崩すかだけじゃった。せっかく帝国のやつらが我らに大義名分という木槌をくれたのじゃ。その一突きになってやろうぞ」
祖父の見通しをパフェよりも甘く感じるギルーシュであったが、いまさらネガティブな意見をいっても仕方ない。それでも聞かずにはいられなかった。
「仮に帝国を倒せたとして、その後どうなるんです?」
「決まっておろう。おまえが皇帝になる。先んずれば人を制すじゃ。こたびの国難を乗り越えれば、クリシュナー家が天下を取れるぞ」
乱世の熱病に浮かされているような祖父に、ギルーシュは冷めた目で質問する。
「では、天下を取ってどのような世界を築きたいのですか?」
「そんなこと知るか。そのころにはわしは死んでおる。おまえが考えろ」
徹頭徹尾、戦争のことしか考えられない老人らしい。一応、他の二人にも意見を求めて視線を向ける。
「俺は戦争屋だからな。そういう難しいことはおまえに任す」
「わらわは、あの人とカイエンの仇が討てればそれでよい」
そんな理由で戦争するんだもんなぁ、とギルーシュは逃げ出したい気分になってきた。
「聞くところによるとおぬし、学校での成績は悪くなかったそうではないか。なんでも、あの小憎らしいグレゴールの秘蔵っ子と呼ばれておったとか。その手腕、期待しておるぞ」
祖父の無責任な煽てに、ギルーシュは首を振るう。
「まぁ、そういうことならよろしいでしょう。俺としても、やるからには勝つつもりでやります」
ようやくギルーシュも覚悟を決めた、と察した三人の大人は頷く。
「母上、叔父上、お爺様、最初に確認しておきましょう。俺が王となったからには、俺の独裁でやらせていただく。たとえお三方といえども、俺の命に背いたら、処罰いたしますよ」
船頭多くして船山に上る、の例えがあるとおり、合議制というのは戦時下においては、メリットよりもデメリットが多すぎる。
また、今回のようにギルーシュに隠れて、重要な決断をされたのではたまったものではない。
「承知しておりますわ」
「了解した。頼むぜ大将」
ヒルデガルドとシュヴァルツは、内心はともかく即座に了承した。ガーネルフはニヤリと人の悪い笑みを浮かべながら顎を撫でる。
「ギルーシュ、わしのことは少し豪華な捨て石と思っておけ。おまえの良いと思ったタイミングで、いつでも使い捨てろ」
「……それはありがたいです」
「うむ、良い返事じゃ。それでこそクリシュナーの男子というものぞ。ふぁっはっはっはっ」
嬉しそうに高笑いする祖父と、復讐に昏く燃えた母と、戦争に高ぶる叔父。
(思考法がほんと戦闘民族だし。スレイマンに野蛮人、田舎者と呼ばれたのわかるわ)
手綱を握るのは大変だ。三人とも少しでもギルーシュが手ぬるいと感じたら、それぞれ勝手に動くことだろう。
「戦う以上は、まずは籠城戦の準備です。確認ですが、武具兵糧の蓄えはどうなっているのですか?」
「それについては俺が案内しよう」
最高級幕僚会議を終えたギルーシュは、シュヴァルツの案内で蔵に向かった。
「さぁ、これでどうだ。仮に五万人の兵で籠城しても、半年かそこらは戦えよう」
「これは……」
うず高く積まれた兵器食料の山を見上げて、ギルーシュは絶句してしまった。
(明らかに謀叛の用意をしていただろ。父上と兄上が斬られたのは、まんざら冤罪ってわけじゃないな)
ギルーシュの心理を読んだように、シュヴァルツは説明する。
「いずれ帝国のやつらとやることになると思ってな。やつらの目を盗んで、この十年コツコツと貯め込んでいたってわけだ」
それはつまり、十年前に帝国に臣従したときから、クリシュナーは謀叛の機会を窺ってきたということだ。
帝都に出向いて士官学校に入学し、皇太子と同級生となり、友誼を結んできたギルーシュにとって、それは認めたくない現実であった。
(スレイマン。悪いな。おまえの好意を完全に裏切っちまった)
この道を歩んだ先には、友との死闘が待っている、と見えてしまった瞬間である。
※
使者を斬ったのだから、クリシュナー王国とアヴァロン帝国との関係は完全に断交した。
これに一番慌てたのが、隣国ドラグレナの国王だ。
ドラグレナの国力は、クリシュナーに比べると半分といったところだが、古い友好国である。
ギルーシュの母親ヒルデガルドの実家で、現国王はヒルデガルドの実兄だ。
何度も使者を寄こして、それでも埒が明かないと察すると、なんと国王自らお忍びでやってきた。
「ヒルデガルド、気持ちはわかるが、冷静になれ。いま帝国に逆らうなど自殺行為以外の何物でもないぞ。使者を斬ってしまったのは問題だが、わしが命がけで仲裁してやる。わしは歴史あるクリシュナー家が滅びるのを見ていられないのだ」
誠心誠意、情理を尽くして母を説得しようとする伯父の姿に、ギルーシュは胸が熱くなる思いだった。しかし、ヒルデガルドは嫌悪もあらわに吐き捨てる。
「それは臆病者の逃げ口上です。そんな妥協をしてはたちまちのうちにすべてを奪われましょう。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。いま死中に活を求めぬのは、座して死を待つと同じです。兄上には肝がないのですか! 見るにたえぬというのなら、寝室で布団をかぶって震えていてください! 目障りです!」
ドラグレナ国王は、魔法剣の達人として知られ、戦場では自ら陣頭に立って三騎を斬って捨てたという武勇伝のある人物なのだが、妹に面罵されると、肩を落としてトボトボと帰路についた。
申し訳ない気分でいっぱいになったギルーシュは、城門まで見送る。
「ギルーシュ、わしも我が国も、クリシュナー王国には多大な恩がある。しかし、負けるとわかっている戦に、身を投じるわけにはいかぬ。悪いな」
「いえ、伯父上の立場では当然の判断です。しかし、大丈夫、俺は勝ちますよ。帝国軍を打ち破ったのちに、再びお会いしましょう。帝国を滅ぼす戦のときには、轡を並べてくれるのでしょ?」
「なにっ!? ……そうだな。楽しみにしている」
甥っ子の能天気極まる言動にドラグレナ国王は嚇怒しそうになったが、その後になにやら納得したような表情を浮かべて帰国していった。
そして、いよいよ帝国軍の討伐軍は出陣する。その情報は父方の叔父であるシュヴァルツの間諜よりもたらされた。
「兵数は八千。辺境の警備隊をかき集めてやってくるようだ。まずは様子見といったところだな。どうやら帝国のやつら、俺らが決起するとは考えていなかったようだ」
「まぁ、一般に組織というのは、どんなに巨大であってもトップとナンバーツーが同時に失われると崩壊する、と言われています。だから、当主と嫡子が同時に殺されたクリシュナーに、戦争を起こす力はないと高を括っていたんでしょうね」
「ああ、やつらの計算違いは、親父の存在を忘れていたことだ。こちらこそが真のナンバーツーだったわけだ。そして、その曲者ガーネルフの宿敵が討伐軍の総大将だそうだ」
叔父の言わんとした名前に、ギルーシュはさすがに驚く。
「大軍師グレゴール……ですか。でも、あの人はもう現役をひいて、いや、そうか」
すぐに裏の事情を察することができた。
おそらくグレゴール自身が志願したのだ。
たかだか辺境の一王国の謀反のために、隠居したかつての英雄を引っ張りださねばならないほど、帝国軍は人材不足ではないだろう。
このたびのギルーシュの謀叛を穏便に収められるのは自分しかないと、グレゴールは使命感に駆られたのだ。そして、老骨に鞭打ってやってくる。
「おまえの恩師と聞くが、どうだ。やれるか?」
「戦うと決めた以上はやりますよ。それに世話になった師匠を倒すのは恩返しというものでしょう」
平然と嘯いたギルーシュは、シュヴァルツの入手した討伐軍の内訳を確認する。
そして、半ば覚悟していた名前を見つけて、苦笑いしてしまった。
「これはこれは……。天は俺に味方しているな」
「ん? どういう意味だ」
「まぁ、俺に任せてください。今回の戦、完勝してみせますよ。ただちに軍議を開きましょう」
こうして、ギルーシュが即位して初めての御前会議は招集された。
※
初夏、雲一つない晴天。山国であるクリシュナー王国にあってはもっとも過ごしやすい季節。
身支度を整えた若き王が謁見の間に入ると、廷臣はズラリと整列していた。
隠居のガーネルフ、王太后のヒルデガルド、叔父のシュヴァルツ、シュヴァルツの息子で、ギルーシュの従兄にあたるウインザー。さらにギルーシュの妹であるアシュレイもあたりまえの顔をして列席している。彼らは親族衆だ。
家臣団の主な面子は、亡き兄の側近であったノクト、ノワール兄妹の他。新国王ギルーシュの側近バイアスを、客分という形でねじ込んだ。
「俺に政治のことはわからん」
とバイアスは嫌がったが、ギルーシュは拝み倒した。
「アニキはなにも発言しなくていいです。とにかく俺のいうことに賛成してください」
どんなに孤立しても必ず一人は味方してくれる、という安心感がありがたいのだ。
なにせ国家の重鎮をやっているような連中は、海千山千の古狸古狐なのがあたりまえである。みんな自分こそが国で一番頭がいいと思っているような自信家たちだ。
ギルーシュの一挙手一投足を観察して、揚げ足を取ることばかり考えているだろう。
特にシュヴァルツの息子であるウインザーは太い腕を組み、その双眸にはありありとした反骨心を浮かべていた。
剛勇で知られた人物で、人呼んで『鉄腕のウインザー』。
ギルーシュよりも三つ年上であり、亡き兄カイエンと同じ年。カイエンとは親しい友人というよりも、ライバル的な存在だったらしい。そのため、本来、王位を継ぐ立場ではなかったギルーシュにたいして、心穏やかざる意識を持っているのだろう。
国内の庄屋たちも集まっている。
挙兵することはみなすでに覚悟していることだろう。ただ、新国王の覚悟及び人物のほどを確認しようとしているのだ。
聴衆をまえに演説する必要に駆られたギルーシュは、ゆっくりと王座から立ち上がった。
「帝国はろくな証拠もなしに、我が父と兄を謀叛人として断罪し、あろうことか暗殺した。しかも、族滅させると放言したという。皇帝は勘違いしているといわざるを得ない。このクリシュナーの土地は、帝国に施されたものではない。我らの先祖が切り開き、勝ち取った土地だ。生きるために下げたくもない頭を下げてきたというのに、死ねと言われたのなら仕方がない。窮鼠は猫を噛む。予はこの地が、焦土となっても戦い抜く覚悟である」
まずは戦う理由を述べる。しかし、親の仇討ちでは、他人を動かすことはできない。それは所詮、個人の理由だからだ。
「しかし、心配はいらない。我々は勝つ。みなも知っている通り、予は二年間、帝都にいた。帝国の内部は腐っている。各地で反乱が相次ぎ、その鎮圧に翻弄されているのだ。皇帝は暗愚であり、悪戯に功臣を殺すことしか能がないバカである」
正直、そこまで酷いとは思っていなかった。しかし、敵がいかに悪であるか強調することで、みなの正義感を刺激する。
「予には夢がある。昨今の魔法の技術革新は驚くべきものだ。世界に鉄の道を敷き、物資や人を縦横に移動できるようにする。さすれば我が国の山の幸が遥か遠くで売りさばけるようになり、海の幸を食することもできるようになるだろう。この戦に勝てば、いまよりも格段に良い暮らしができるようになる。だから、予に力を貸して欲しい」
最後に未来への展望を語る。これがギルーシュの頭をひねって考えた扇動方法だった。
「うおお」
聴衆は歓声をあげながら拍手をしてくれた。ひとまずは成功したようだ。
元々、反帝国の機運の強い土地柄ゆえに、戦になることに表立って反対する者はいなかったということもあろう。ギルーシュは軽く安堵の溜息をついてから、傍らの叔父を指し示す。
「全軍の指揮統率は叔父上に一任します」
「任されよう」
シュヴァルツは力強く頷いた。
いわば軍師役をお願いしたわけだ。
年齢的にも、経験的にも、そして、やる気的にも、もっともふさわしい人選だろう。
「魔法使いたちの統括は母上に任せてよろしいですね」
「ああ、そうですね。わらわに任せなさい」
息子に頼られたヒルデガルドは、嫣然と微笑む。
魔法というのは、万能の技術だ。直接の戦力というだけではなく、後方支援などありとあらゆる場面で魔法は欠かせなかった。
それゆえに魔法使いたちは、エリート意識の強い連中が多い。トップの技量を認めないと、存分な力を発揮してくれないだろう。
その意味で、近隣諸国に魔女としての名声を知られたヒルデガルドは適任だ。
「お爺様には、徴兵した兵士の中でも、高齢者やご婦人、子供といった方々の指揮運用をお願いしたい」
「ふむ、まぁ、そんなところじゃろうな」
前線で戦わない者でも、武具を作ったり、柵や掘を築いたり、城壁の修理をしたり、食事を作ったり、と人手はいくらあっても足りない。
これらは専門の技術を要する部署であるから、人間味豊かなベテランに任せるに限る。
「はいはい」
末席のアシュレイが、元気いっぱいに右手をあげた。
軍議の席に出席しているのも場違いな少女である。一瞬無視しようかと思ったが、ガス抜きの意味を込めて促す。
「なんだ?」
「空軍はさ、あたいに任せてくんない。空を飛ぶの得意なんだよね~」
戦は遊びじゃないと一蹴したくなったが、ぐっと我慢して黒い長髪の女騎士をみる。
「ノワール、予はアシュレイの技量のほどを知らぬ。おまえからみてどうだ?」
「アシュレイさまの飛翔魔法の腕前は、国内に並ぶ者無きと存じ上げます」
「当然、あたいよりも峠をせめられるやつなんていないからね」
得意げな顔をするアシュレイが、なにを自慢しているのか、ギルーシュにはわからなかった。
のちに聞いたところによると、この妹殿は飛翔魔法を覚えてからというもの、夜な夜な人気のいなくなった峠の山道を箒に乗って暴走する、という遊びを友達と競っているらしい。
念のためヒルデガルドの顔をみるが、特に反対ではなさそうだ。
「よし、空軍はアシュレイに任す。存分に父上と兄上の仇を討て」
「やったー!」
紫と赤の二色髪の少女は、無邪気に両腕をあげて歓喜する。
「ノワール、おまえが副将につけ。アシュレイを頼むぞ」
「はい。命に代えましても」
国王の妹が、陣頭に立てば士気高揚に役立つだろう。戦術面などの指揮や運用は、優れた人物を副将に据えれば事足りる。
「ノクトは予の副官だ。予は国内のことにいささか疎い。補佐してくれ」
「承知いたしました」
一通りの部署を決めたところで、ギルーシュは一同を見渡す。
「では、みなのもの、よろしく頼む」
蝉の鳴き声をかき消す、勇ましい雄叫びがクリシュナー全土であがった。
※
「さて、これは前哨戦だ。この戦いに完勝できないようじゃ、俺たちに未来はない」
夏の盛り、大軍師グレゴールに率いられた帝国軍八千は、クリシュナー王国領に入った。
すでに万全の迎撃態勢を整えたギルーシュは、戦況のよく見える高台にて、ことの成り行きを見守る。
その左右には譜代の家臣ノクトと、兵法者のバイアスが侍立していた。
ギルーシュは、父親の甲冑を仕立て直して着用している。新たな甲冑を作っている時間はなかったのだ。とはいえ先王の遺産である。威容も機能も問題ない。
バイアスは普段着に、鉢巻と襷掛けをして長巻を持っている。ギルーシュとしては国宝級の武具を下賜しようとしたのだが、下手に慣れない装備を身に付けると、足枷になると拒否された。武芸の達人になると、魔法の一種である闘気を全身に纏うから、これで十分なのだという。
迎撃するクリシュナー軍は一万人。国民を総動員すれば五万人も可能だが、それは女子供や老人まで合わせての数だ。通常の軍隊としての強さを計算できるのはこの一万人だけだ。
逆に帝国軍は、いま派遣されているのが八千人というだけで、最終的には二十万人もの大増援もありえる。
クリシュナー軍の戦略目標としては、帝国軍本隊の到着前に完勝して弾みをつけることだ。
逆にグレゴールの戦略目標としては、本隊の派遣されるまえに、なんとか跳ねっ返りの馬鹿弟子を降伏させ、ことを穏便に収めること。それが叶わぬ場合でも、橋頭保を確保しておけばいい。
よって野戦が発生する条件は整った。
クリシュナー地方は山岳地帯であり、大軍の運用が難しい。戦術家たちの腕の見せ所だ。
太陽帝国創業の功臣の中でも随一に数えられ、大軍師と称えられるグレゴールと、その愛弟子の対決である。
十対八という戦力差は、師匠と弟子の格の差を考えれば、ちょうどいいハンデかもしれない。
物見高い者たちは、そんなことを考えながら見学していることだろう。
「よし、いくぞ」
ギルーシュからの合図を受けてクリシュナー軍の先陣を切ったのは、重鎮シュヴァルツの嫡男ウインザーだった。
このギルーシュに反抗的な従兄は、二十人ばかりの私兵と共に、鉄腕の異名に相応しい巨大な段平を翳して斬り込んだ。
そして、一方的に大暴れすると、独りの死傷者もなく退却してみせる。
「お見事! やっぱり強いな、ウインザー従兄さんは」
思わずギルーシュが感嘆してしまうほどに、水際立った活躍だ。
勝ち逃げさせるか、と帝国軍は追おうとするが、おそらく総大将たるグレゴールの指示だろう。追撃の足は止まる。
「よし、予定の地点で敵は止まりました」
歓喜の声をあげたのは、ノクトだった。
「焼き払いなさい」
クリシュナー家の誇る魔女ヒルデガルド率いる魔法部隊は、真っ赤に焼けた大岩を山の斜面から次々と転がり落とす。
軍隊というのは、そう簡単に動いたり止まったりできない。無理やり止まれの指示を出された直後だけに、動けなかった。
密集していただけに、少なくない兵士が大岩に押し潰される。
「空戦隊、いっくよー」
箒に乗ったアシュレイの無邪気な攻撃命令に従って、大鳥に跨ったノワールをはじめとした、さまざまなモンスターに跨った兵士たちは舞い上がる。
そして、空から油を撒いた。当然、火をつけるためだ。
先ほど投入された焼けた大岩を火元として、あたりは火の海となる。
帝国軍の空戦隊も迎撃のために、空に舞い上がり、華やかな空中戦が始まった。
地上ではウインザーが戻ってきて挑発したものだから、頭に血が登った帝国軍の勇士たちは果敢に突撃する。それに押されたウインザーは即座に撤退した。
「ちょろちょろとこざかしい。逃がすものか!」
二度目ということもあって帝国軍は止まれなかった。隘路に誘い込まれる。
そこにはガーネルフの指示によって、さまざまな罠が設置されていた。
落とし穴やマキビシ、仕掛け矢といったこざかしい罠の数々に、帝国軍の兵士は立ち往生してしまう。その背後からシュヴァルツ率いる主力部隊は襲い掛かった。
この部隊の出現の仕方は、帝国軍からしてみればおかしい。突撃に参加しなかった後続部隊が交戦して、足止めするなり、あるいは伝令を走らすなどして注意を喚起することぐらいできたはずなのだ。
それがなかったから、背後から強襲されるという最悪の形での一方的な展開となった。
帝国兵士たちは浮足だって敗走してしまう。……崖に向かって。
それほど深い段差ではなかったが、完全武装の人間はちょっとした段差を落ちただけで大きな衝撃を受ける。
崖に落ちなかった者も押し競饅頭状態となっていて、良い的だ。
「すごい。陛下の用意した策に、敵は悉く面白いように嵌る」
興奮をあらわにしたノクトの呟きに、もはや勝敗の決した戦場を見下ろしながらギルーシュは寂しそうな顔で応える。
「校長。いや、グレゴールは人格者で、知識も実戦経験も豊富な人だ。しかし、所詮は参謀なんだよ」
マクシミリアンという偉大な英雄の下で、軍事作戦を立案してこそ輝く才能だった。
いわば、太陽の光を受けて輝く恒星に過ぎなかったのだ。総大将をすべきではなかった。
特にスレイマンのいうところの、勝つためには汚い手を平気で使う、というタイプの敵には、もっとも相性が悪かったのだ。
純粋に用兵の才を競ったのなら、経験の差からギルーシュは勝てなかっただろう。しかし、ギルーシュはそんなことをする気はなかったのだ。
(俺は大軍師グレゴールの秘蔵っ子ではなく、戦争バカのクリシュナー家の秘蔵っ子なんだよなぁ)
自分という存在を改めて認識したギルーシュは、直属軍を率いて場所を移動した。
そして、待ち構えていたところに、火と煙に追われた帝国軍の兵士たちは現れる。
彼らに必死に守り抱えられている老人こそ、ギルーシュの待ち人であった。
「やっぱり、ここに出ちゃいましたね。校長」
「はぁ、はぁ、はぁ……ギルーシュっ!?」
老体にはつらい運動だったのだろう。老紳士の髪は乱れ、肩で息をしている。
グレゴールの長い戦歴の中でも、ここまで一方的な大敗の経験はないはずだ。なにが失策だったのか、自分でもわかっていないだろう。
愛弟子をまえに、血走った目を向けてきた。かつての慈愛に満ちた眼差しとは対極にある眼差しにいささか傷つきながら、ギルーシュは訴える。
「勝敗は決しました。降伏してください」
「断る!」
背筋を伸ばしたグレゴールの迷わぬ返事を聞いて、ギルーシュは頷く。質問するまえから予想された答えだったからだ。
主君の合図を受けて、ノクトは弓箭隊に命じる。
「放て」
二百張りの弓から、一斉に矢は放たれた。
ここに至るまでの戦闘で、帝国軍兵士たちの魔法防壁は、すでに消滅していたらしく、矢は次々と突き刺さり、みなバタバタと倒れていく。
そして、グレゴールの眉間にも入った。
「センセイ―――ッ!」
「おのれ、ギルーシュ。この恩知らずめ! おまえだけはゆるさん!」
グレゴールを最期まで護っていたのは、弟子や教え子といった個人的な恩義のある者たちなのだろう。ギルーシュの顔を見知っていた者も多いようで、体に矢が刺さったまま決死の形相で切り込んでくる。
みな怒気と激情に突き動かされて、致命傷を受けても足を進めた。
しかし、だれ一人としてギルーシュには届かない。
バサッ!
無言のまま進み出たバイアスの振るった長巻で一掃されたのだ。
「……」
無念の表情で倒れている敵兵たちを見下ろしたギルーシュは、軽く息を飲んでからノクトに命じる。
「残存の敵兵に勧告せよ。総大将グレゴールは討ち取った。勝敗は決したのだ。これ以上の戦闘に意味はない。降伏しろとね。味方にも徹底させよ。降伏した者を決して傷つけてはいけない。負傷した者は敵味方問わず助けてやるのだ。我々の振る舞いを他国はみているぞ。ここで非道な行いをすれば、味方してくれる者はいなくなり、最終的には我々の滅亡へとつながる。愚かな真似はするな、とね」
「はっ」
軍規を徹底させているところに、主力軍の指揮をしていたシュヴァルツが、ギルーシュのもとにやってきた。そして、倒れているグレゴールをみて頷く。
「完勝だ。すべておまえの言う通りになったな」
「ええ」
そこに箒に跨ったアシュレイが下りてきた。
「兄ちゃん、あたいの活躍どうだった?」
「ああ、ばっちりだ」
二色髪を撫でてやると、アシュレイはまるで猫のように嬉しそうに破顔する。
「しかし、帝国創業の大軍師様にしては、ずいぶんと呆気なかったな」
完勝は喜ばしくとも、あまりの手ごたえのなさにシュヴァルツは不思議そうに小首を傾げた。
「兵力に勝り、地の利があり、敵の情報も筒抜けならこうなりますよ」
「ん? どういうことだ」
そこに伝令が駆け込んできた。
「降伏した敵兵の代表をお連れしました」
両手首を縛られて現れたのは、年のころは二十代後半で、灰緑色の髪をボブカットにし、縁なしメガネをかけた女騎士であった。
「先生。ご苦労さま」
莞爾と笑ったギルーシュは捕虜の下に歩み寄り、自らその戒めを解いてやる。
そして、抱きしめると唇にキスをした。
「わぉっ!?」
大きな目をさらに大きくしたアシュレイは、口元を手で覆う。
「ケガはありませんでしたか?」
「ええ、わたしはなんとか」
ギルーシュが捕虜の女性を気遣っていると、戸惑うクリシュナー兵たちを代表してシュヴァルツは質問する。
「お取込み中申し訳ないのだが、そちらのご婦人は何者だい?」
「俺の学生時代の担任教師だったヘレナ先生。ついでに言えば俺の恋人。彼女が内通していたから、今回の戦いは楽勝だったんだよ」
「ひゅ~、やるねぇ」
シュヴァルツは口笛を吹く。
生徒と教師の恋愛は、秘密を守るために最大限の注意を払わないといけない。そのため、ギルーシュとヘレナは、二人の間でだけ通じる符丁を作っていたのだ。
それを使って戦前から連絡を取り合っていたから、帝国軍の作戦情報はギルーシュにだだ漏れであり、さらには実戦の最中にもヘレナの独自判断で利敵行為を繰り返していた。そのため帝国軍はすべての面で後れを取るはめに陥ったのだ。
今回の不可解なまでの完勝の種明かしに、みなが盛り上がっているときである。
「ほぉ~、教師の分際で生徒に手を出したわけですか、その小娘。父兄としては詳しく説明を求めたいですわね」
いつの間にかやってきていたヒルデガルドの陰々たる声を聞き、ギルーシュとヘレナは震えあがった。