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第二章 鬼の潜む森

「ギルーシュ、起きて!」

 深夜である。学生寮の私室にてギルーシュが独り安眠を貪っているところを、部屋の扉を慌ただしくノックされた。

 睡眠を邪魔されるのは愉快ではない。

 もし声の主が、スレイマンだったら無視していた。エトワールだったら居留守を使って逃げ出しただろう。しかし、その切迫した声がグレンダのものだったので、寝ぼけた頭を持て余しながらも寝台から抜け出し、なんとか扉を開ける。

 即座に隙間からオレンジ色の巻き毛をした薔薇の如き美女が、ニットのセーターに脚線にぴったりとしたタイトなズボンという私服で滑り込んできた。そして、ギルーシュの体を抱きしめる。

「よかった無事だったのね」

 セーターに包まれた大きな双乳を、胸板に押し付けられたギルーシュは驚く。

 部屋着のせいだろう。明らかにノーブラである。制服姿を眺めているだけでわかっていたことだが、素晴らしい巨乳の持ち主であることを、身を持って実感させてくれた。

「……え、なに、夜這い?」

 士官学校の副生徒会長。下級生の少女たちには「お姉さま」と呼び慕われる女が顔を上げたとき、その表情は非常につらそうで、スカイブルーの瞳は涙に濡れていた。

 どうも冗談に付き合ってくれる雰囲気ではなさそうだ。

「ごめん、なにかあったのか?」

「いえ、わたしのほうこそごめんなさい」

 ギルーシュの胸から離れたグレンダは、両手の人差し指で目元を拭う。

「時間が惜しいわ。急いで外出用の服に着替えて、その間に説明する」

「あ、ああ……」

 グレンダは非常に聡明で信頼できる女だ。そのいうことを聞いていれば、とりあえず間違いはないだろう。

 寝間着を脱ぎだすと、背を向けたグレンダは早口で語る。

「いい、心して聞きなさい。今日、帝宮であなたのお父さんクリシュナー王と、お兄さんカイエン殿下が謀叛の罪で殺されたわ」

「なっ!?」

 まったくの寝耳に水の情報に、聡いことでは定評のあるギルーシュもとっさに理解できなかった。

「気持ちはわかるわ。とにかく、いま……え!?」

 肉親を失ったギルーシュを慰めようと振り返ったグレンダは目が点になる。たまたまギルーシュが下着を脱いだところだったのだ。

「きゃッ! なんで素っ裸なのよ。変態っ!」

 清く正しい乙女が見てはいけないものを凝視してしまったグレンダは、血相を変えて叫ぶ。

 常に堂々としている彼女が取り乱すのは珍しい。ギルーシュのほうもたった今もたらされた、己が身に起きた深刻な情報に接した時よりも動揺してしまう。

「いや、おまえが着替えろっていったんだろうがっ! このエッチ」

「エ、エッチって……と、とにかく急いで、その汚い物をしまいなさいっ!」

 心外な評価に不満そうにしながらもグレンダは慌てて、再度背中を向けた。そして、なんとか落ち着いた声で説明を再開する。

「どうやら、皇帝陛下はクリシュナー王家の族滅を命じたらしいわ」

「族滅!?」

 謀叛の罪で一族郎党皆殺しということだ。

「学校にあなたを引き渡すように役人が来ている。それをいまスレイマンが対応して時間を稼いでくれているところよ。その間にあなたは落ち延びなさい」

「落ち延びろといわれてもな……あ、着替え終わったよ」

 あまりといえばあまりの突発事態に現実感がなく、ギルーシュはなんのプランもなかった。

 恐る恐る振り返ったグレンダは、狐につままれたような顔をしている同級生男子を見つめながら語る。

「スレイマンから伝言よ。いずれ俺が権力を持ったら、必ず呼び戻す。それまで身を潜めていろって」

「……。それはありがたい」

 目の前が真っ暗になったところに、希望の光を見せてもらった。

「だから、急いで庶民に紛れられる恰好をして。できるだけ金目のものを持ちなさい。かさばるものはダメよ」

「ああ」

 たいしたものはないが、貴金属類を革袋に突っ込む。

 そんな作業をしていると、扉を外からノックされた。

「西の出入り口は手薄だ。井戸の傍に馬を用意しておいた」

 低いがよくとおる声はガルムのものだ。スレイマンの指示で手配してくれたのだろう。

「わかった。ありがとう」

「……」

 いらえはなく、ガルムの気配は消えた。

 時間に余裕があるはずもない。脱出の目途がたったのなら、即座に実行すべきだ。

 ギルーシュとグレンダはただちに廊下にでた。

 胸元を揺らしながらグレンダは先行して、人がいないのを確認してから、ギルーシュを導く。

 ガルムの指示通り、西の出入り口から寄宿舎を出て井戸に向かう。そこには鞍の置かれた駿馬が一頭繋がれていた。

「わたしはここまでね。どこまでもついていってあげたいけど、わたしには当主としての責任があるから」

「ああ、当然だ。いろいろ世話になった。スレイマンのやつにもよろしく伝えておいてくれ」

「ええ、あとは裏庭から一気に駆け抜けなさい。あなたの幸運を祈っているわ。……あ、ちょっと待って」

 馬に乗ろうとしたギルーシュの頭を、不意に両手を伸ばして抱きかかえたグレンダは振り向かせる。そして、赤い唇を重ねてきた。

「っ!?」

 驚愕するギルーシュを他所に、濡れ光る唇を離したグレンダは至近距離で悪戯っぽく笑う。

「幸運のおまじないよ。処女の接吻には魔法があるってよくいうでしょ?」

「……ああ、効きそうだ」

 戸惑うギルーシュから、グレンダは離れない。互いの吐息のかかる距離でスカイブルーの瞳が凝視してくる。

「わたし、あなたのこと、昔から好きだったの。結構、アピールしていたから、わかっていたんでしょ?」

 目がばっちりと合っていて、絶対に嘘は許さない、といいたげだ。

「でも、キミのことをスレイマンが好きだったからね」

「男の友情ってやつ?」

「まぁ、そんなところだ」

 ここでようやくグレンダは、両腕を離した。そして、背を向けて、震える肩を竦める。

「ふっ、皇女殿下やジュリエッタよりも女としての魅力が落ちるから、と言われなかっただけマシね」

 エトワールはともかく、なんでここであの太腿女の名前がでてくるんだ、と違和感を覚えたが、それよりも女教師ヘレナとの関係をまったく気取られていなかったということに安堵する。

「スレイマンはいいやつだよ。俺が保証する」

「そんなのわかっているわよ。でも、あいつ皇帝になるでしょ。わたしは王家を継ぐ身だったし、入り婿になってくれる、どこか適当なところの次男坊が理想だったのよ。まぁ、こんなことになっちゃった以上、あなたはわたしの婿候補から脱落だけどね」

 振り返ったグレンダの顔はなんとも言えない泣き笑いであった。とりあえず、夜の闇のせいで涙は見えないことにする。

「そいつは残念」

 軽口のように応じたギルーシュだが、結構、本気で残念である。

 グレンダが美人で聡明な女性であることは、万人が認めるところだ。

 スレイマンが惚れるのもわかる。皇妃になっても、十分にその職責を果たせるだろう。

 ただ、能力とは別の問題で、彼女の場合は王家の一人娘という責任感が強すぎる。

 ギルーシュが彼女からの好意を察することができ、好ましく思いながらも友人としての一線を越えようとしなかったのは、スレイマンに遠慮したからだけではない。彼女と付き合ったら遊びでは済まないと判っていたからだ。

 間違いなく結婚という言葉が重くのしかかってくる。まだ学生である身としては、そこまでの覚悟を持てなかった。

 なによりもヘレナという、適当に遊ばせてくれる女教師と隠れて付き合っていたから、切実に恋人を持とうという意識になれなかったのである。

 グレンダは涙を見られまいとするかのように、ギルーシュの両肩に手をかけて向きを変えさせると背中を押した。

「さぁ、もう行って。グズクズしている時間はないわ」

「ああ。グレンダ、キミの幸運も祈っているよ」

 花冷えの中、ギルーシュは今度こそ馬に乗った。そして、夜の闇に紛れて、士官学校のキャンパスから脱出する。

(まずはどうやって帝都から逃げ出すか、だな)

 学校は帝都ティティスの中にあって、東の郊外に築かれていた。生徒たちを静かな環境で学ばせようという配慮であろう。

 大きな尖塔が幾つも立つ、この新造の帝都の総人口は約十万人と教えられている。いうまでもなくこの世界最大規模の都市だ。

 以前は名も無き貧しい漁村であったというが、先帝マクシミリアンが本拠地と定めてから急速に発展した。

 政治都市という目的上、交通の便に優れた構造になっている。それゆえに、必ずしも難攻不落の要害というわけではない。しかし、それを補う意味でも、正面玄関たる北側には弓矢や魔法といった攻撃をほぼ無力化する最新技術で築かれた城壁が築かれている。西と東には緑深い山々が連なり、天然の防壁の役割を果たしていた。南は多数の外洋船の出入りする入り江だ。そのうえ、街中の至るところから湧き水のでる暮らしやすい土地であった。

 広大なキャンパスの裏口から外にでたギルーシュは、とりあえず東の森に入り、獣道を進む。

 城門から出ようとしたら、当たり前に門番に止められるだろう。船に乗るのは手続きが面倒そうだし、海上で正体がばれたら逃げようがない。それよりも山道を通って都外に出たほうが安全だと判断したのだ。難所ではあるが、そこは気合いでなんとかする。

 帝都から出てしまえば、多少は安全なはずだ。そこで信頼できる護衛と道先案内人を雇う。あるいは行商に紛れて故郷クリシュナー領を目指すべきだろう。

 王族育ちで、学校でも上流階級の子弟子女に囲まれていたギルーシュは、市井の暮らしを知識としてしか知らない。

 そんな身でたった独り、追っ手から逃れながら長旅をするにはいろいろと無理を感じる。

「父上と兄上は殺されたという話だが、母上をはじめとした一族のみんなはどうなったのか……。あの母上がそう簡単に諦めるとは思えないんだが。お爺様や叔父上たちもいることだし……」

 不安を押し殺しながら、一刻も早く帰郷するために馬を歩ませる。

 防衛施設として利用されている山林だ。馬で進むのはしんどい。まして夜だ。馬が足を傷めないように最大限の注意を払わねばならない。

 昼間であったなら、若草の芽吹く美しい光景を楽しめたかもしれないが、星明りの下ではただの寂しくも不気味な山道だ。

 心細いが、眠気は襲ってこなかった。

 頭が異様に冴えている。興奮状態ということだろう。

(ん? これは読まれていたな)

 そろそろ帝都を出たかな、と思われたころである。ギルーシュの周りにいくつもの気配が現れた。

 一人や二人ではない。十人はいるだろう。

 とりあえず、馬を駆け足にしてみるも、まったく付かず離れず、全員、マシラのように森の中を追尾してくる。

 並の人間の動きではない。いわゆる忍者と呼ばれる連中であることは容易に想像がついた。

 クリシュナー一族に対する族滅命令を皇帝が発したのだとしたら、当然、帝国の誇る秘密工作部隊も動いているのだろう。となれば、これは悪名高い暗殺部隊『骸衆』に違いない。

 初代皇帝マクシミリアンの指示に従って、さまざまな暗殺劇を実行してきた連中だ。

 どうやら、学生たちの浅知恵など、プロにはお見通しだったらしい。

(ここまで仕掛けてこなかったのは、スレイマンの面子を立ててやった、ということかな)

 気高い皇太子は親友を逃がした、という自己満足を得ることができる。その後に亡くなったのなら、逃亡者の運と実力が足りなかったのだ、という慰めになるだろう。

(十対一か。これはきついな)

 キツイどころか、絶望的である。

 帝国中の俊英を集めた学校で優等生だったギルーシュは、並の兵士よりも戦えると自負している。

 しかし、残念ながら骸衆というのは並の使い手ではないだろう。歴戦の暗殺者を同時に十人も相手にして、勝てる道理はなかった。

(勝てないなら逃げるしかない。どうやれば逃げ切れる。どこで仕掛けてくる気だ?)

 緊張に汗を流しながら、闇深い山道をギルーシュは馬を歩ませる。

 ピ―――!

(鳥? いや、笛の音か)

 巨大なムササビが頭上を飛んだ。いや、人が降ってきた。

(きた!)

 覚悟していたギルーシュは腰剣を抜き放った。

 ガン!

 白い髑髏の仮面をつけた者が振り下ろしてきた苦無と中剣は激突して、夜闇に鮮やかな火花を散らした。

 空中にいる怪人は、踏ん張ることができずに弾かれる。

 ピ―――! ピ―――! ピ―――!

 笛の音が響くたびに、次から次へと樹木の上から怪人は降ってくる。それを振り払いながら進む。

 夜の山の中、笛の音が四方から聞こえてくる。

 つまり、彼らは笛の音で仲間と合図を送り合っているのだろう。連携のとれた行動だ。

(しかし、一人ひとりはそれほど強くないのか? よし! これなら突破できる!)

 士官学校の武芸実習のレベルは高かったということだろう。

 ちなみに武術部門一位のガルムには手も足もでなかったギルーシュだが、二位のナックラーグ相手なら、そこそこにいい勝負はできた。

 そんな経験を思い出し、少しばかり自信を持った直後だ。馬は前のめりにつんのめる。

「うわっ」

 馬の背から転がり落ちたところで、山道を横断するようにロープが張られていたことに気づいた。これに馬は前足を取られたのだ。

 つまり頭上から怪人たちが次々に斬りかかっては撃退されていたのは、この足元の罠から注意をそらすための布石だったのだろう。

(さすがプロ、やってくれる)

 足を痛めた馬を治療している時間はない。即座に馬を諦めたギルーシュは、そのまま獣道すらない森の中に身一つで分け入り駆けだした。

 多数対一で戦うのだ。広い場所で戦うなど自殺行為である。

 せめて障害物の多い場所にいれば、一対一の連続に持ち込めるかもしれない。

 一対十は勝てなくとも、一対一の十連勝ならば、起こりうる奇跡だろう。

 ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーッ!

 雑木林を必死に駆けるギルーシュを、無数の笛の音が追いかけてくる。

(振り切れないか)

 人の声はまったくしない。ただ笛の音だけが響き渡っている。なんとも不気味な威圧感だ。

 まるで人外の化け物に追いかけられている気分になる。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 夜の闇に覆われた道なき森の中を全力疾走するというのは、恐ろしく神経を使う。突如現れる枝を避け、足元にある木の根を飛び越えなくてはならないのだ。

 しかも、どこから敵の攻撃を受けるともしれない。

(立ち止まるな。足を動かせ。止まったら死ぬぞ)

 呼吸はあがり、激しく脈打つ心臓は限界を訴えている。萎えそうになる心を必死に鼓舞して駆けていた。しかし、いつしか意識は朦朧として、集中力は散漫になってしまう。そんな油断を敵は見逃してはくれない。

 キラリ。

 闇を切り裂いて飛来した苦無が一本、ギルーシュの背中に突き刺さる。たまらず前方に転ぶ。

 土が口に入ったのだろう。苦い。

 剣からも手を離してしまった。慌てて眼前に転がった剣に右手を伸ばす。しかし、その柄を見知らぬ足が踏みつけた。

「……」

 顔をあげると、白い髑髏をかたどった仮面の怪人を見つけた。

 一人ではない。うつ伏せに倒れたギルーシュの中心に、十人余りの怪人はぐるりと囲んで立っている。

 いずれも手に、禍々しい武器を構えていた。

「あはは、ここまでか……」

 ギルーシュの口元から無意味な微笑が漏れた。

(まるで悪夢をみているみたいだな。俺は地方の外様王家の気楽な次男坊。士官学校で将来の皇帝たるスレイマンと出会い友誼を育み、皇女エトワールに過激に言い寄られて逃げ回り、学園一の美女グレンダに秋波を送られ、女教師ヘレナと隠れて付き合う。将来の夢は歴史に残る名宰相。まさに夢は無限に広がっていた。それがこんな寂しい山奥で、顔も見えない怪人連中に追いかけまわされた挙句に殺されようとしている。これが夢なら切実に覚めたいぜ)

 ここから嬲り殺されるか、それともひと思いに殺してくれるかはわからない。しかし、自分の未来は決まった。

 諦めたギルーシュの顔に光が差す。

 どうやら夜が明けたらしい。

(この世の見納めが朝日ってのも悪くないか)

 背中の痛みに耐えながら、必死にのけぞったときである。

「おらぁぁぁぁぁ!」

 野太い叫びとともに、ギルーシュを囲んでいた怪人の一人が吹っ飛んだ。慌てて残りの怪人たちは距離を取る。

 そして、這いつくばるギルーシュを背に、一人の男が仁王立ちしていた。

「夜中にピーピーうるせぇと思って様子を見に来てみれば、面白れぇことやっているじゃねぇか!」

 若々しい声で粗野だが、力強く勇ましい啖呵だ。

(……だれだ?)

 確認しようと思ったが、顔は見えない。

 逞しく長い両脚、引き締まった尻、広い背中が見えただけだ。

(人生の最後にみるのが野郎の尻ってのは、勘弁だな)

 そう思ったギルーシュは、渾身の気力を振り絞って上体を起こすと、なんとか傍らにあった樹木に背を預けた姿で座る。

 そうすることでようやく視界が開けた。

 曙光が差す木々の中、ギルーシュの眼前に立つのは、驚くほどに背の高い男だった。身の丈はゆうに二メートルを超えるのではないだろうか。

 燃えるような赤毛をしている。

 纏うのは洗いざらしのランニングシャツと、短パンだ。

(おいおい、いまは春先だぞ。しかも、こんな早朝の森の中で、寒くないのか?)

 とツッコみたくなったが、この男の全身は筋肉隆々だ。それゆえに寒気を感じないのかもしれない。それどころか、盛り上がった分厚い肩からは白い湯気をあげている。

 おそらくここまで全力疾走してきたのだろう。

 右手には槍。いや、柄と刀身が同じぐらいの長さということは、長巻を持っている。

 長巻というのは、膂力によっぽどの自信がなければ扱いきれない武器だ。

(それにしてもすげぇ筋肉。手足も長くてバランスがいい。まるで戦神の像をみているみたいだ)

 少なくともギルーシュには見覚えのない後ろ姿だ。こんな存在感のある男と、一度でも出会っていたら忘れないだろう。

 骸衆の面々も、このイレギュラーな者の登場に戸惑っているようだ。

「多数対一の戦いならば、独りに味方するのが義侠心ある漢の取る行動だよな。それにてめぇらどうみても堅気じゃねぇよな。そんな妖しい仮面をつけているような奴らは悪者決定だ」

 雲をつくような赤毛の大男は、太い左腕で骸衆の面々を指さして一方的に決めつけた。

「千武流バイアス。義によって助太刀するぜぇぇぇ!!!」

 千武流というのは聞いたことはないが、おそらく名乗りからして、武術の一派なのだろう。

 ということは、たまたま武芸者が独り、山籠もりしながら稽古に励んでいた、といったところか。

 人間、あるものは使いたくなるものだ。腕っぷしに自信があれば、もめごとに首を突っ込みたくなるのだろう。

(いやはや、暑苦しい野郎だなぁ。正義感もあってまことに結構。この絶体絶命の場面で登場してくれるなんて、すげぇありがたいんだが、もう少し状況を考えようぜ)

 いくら腕が立ったとしても、数は力だ。十対一では勝負にならないだろう。たとえ一人二人を切り倒したところで、その間に他の連中に斬り刻まれる。

 ならば、この脳筋男の戦っている間に逃げるのが最善手か。そう思ったギルーシュであったが、疲労と背中の痛みで体をまったく動かせない。

 骸衆の面々にしても、標的はギルーシュだけだ。こんな目標外の煩い男は無視したいところだろう。しかし、仁王門のように立ち塞がれてしまってはしかたがない。邪魔者は排除するだけだ。

 ピ―!

 いささか面倒臭そうな笛の音が聞こえた。

 とっとと始末してしまえ、という意訳をギルーシュの耳は聞いた気がする。

 白い仮面に黒衣の者たちは、すっと音もなく散開した。

「いいぜ。そうこなくちゃな。ん? 髑髏の仮面っていえば、そういやぁ、聞いたことあるぜ。てめぇら、皇帝お抱えの忍者どもだろう。それなら手加減はいらねぇな。武者修行の練習台としてはおあつらえ向きだ。全員ぶった斬ってやるから、かかってきな」

 長巻を頭上高く構えた容貌魁偉な大男の挑発に乗って、一人の骸衆が間合いを詰める。

「踏み込みがあめぇ!」

 ドン!!!

 大地を踏みつける地響きとともに、バイアスと名乗った武芸者は攻撃動作に移った。

(早いっ!?)

 集団で戦うのだ。一人で無理する必要はない。先陣を切った者は、すぐに退こうとしていた。しかし、それを許さぬ速度で長巻は降り注ぐ。

 素早さを身上としている忍者ならば避けるべきだろうが、とっさに苦無を眼前に掲げて受けた。

 しかし、長巻の勢いは止まらない。

 白い仮面に包まれている頭から黒装束の胴体を通って股間まで、真っ二つになった。

「っ!?」

 その光景には、人の死を見慣れているだろう骸衆の面々も度肝を抜かれたようだ。

 先頭の者を囮として、三人の者がバイアスの死角から切り付けようとしていたようだが、一瞬、棒立ちになっている。

 その隙を見逃さずバイアスは、長巻を横薙ぎに払う。

 ズバッ!

 骸骨の仮面をつけた三人の胴が、まとめて両断された。いや、間にあった立木まで何事もなく叩き斬られている。

 ドン……バサバサバサ

(マジかっ!?)

 人間と一緒に樹木も倒れていくという、あまりといえばあまりの光景にギルーシュは目を剥いてしまう。

 山籠もりをしていた武芸者なのだから、それなりに強いだろうとは予想していた。しかし、この男の膂力は常軌を逸している。

 ギルーシュは国王主催の武芸大会で優勝し、帝国一の勇者と認められたガルムを同級生として間近にみていた。

 双剣を使い、しなやかに力強く戦うガルムに対して、この長巻を使う大男は荒々しく、圧倒的に豪快だ。

 戦い方が違うから、一概にどちらが強いとは言えないが、おそらく勝るとも劣らぬ戦士だ。少なくともギルーシュの目にはそう映った。

 その後もバイアスは止まることなく、その巨体からは考えられない速度で動き回った。残りの六人も、邪魔な立木もろともに瞬く間に斬り伏せてしまう。最初の攻防で力量の差は歴然だったのだ。勝機なしと判断して逃げればいいものを、慌てた忍びたちはその決断を下す余裕を持てなかったらしい。

「これが骸衆の実力か。ふん、たいしたことないな」

 あたり一面、血の海となった切り開かれた森の中で、地獄の門番のような巨人はギルーシュに顔を向けてにっこりと笑った。スポーツマンらしい爽やかな笑顔だ。血飛沫が頬にかかっていなければ。

 印象的な赤毛に、明るい紅茶色の瞳。目鼻口は岩石から削り出したかのような印象だが、意外と若い。年のころは二十歳前後だろうか。ギルーシュよりは若干年上そうだ。

「おい、生きているか?」

「なんとか……」

 いささか気を呑まれたギルーシュの返事に、バイアスは残念そうな溜息をつく。

「やれやれ、こういう美味しい場面だ。美しいお姫様を期待したんだが、野郎だったか」

「それはご希望に添えず申し訳ない。ただ、俺の希望も言わせてもらえば、美しい姫騎士に助けてもらいたかったからお互いさまだ」

「おお、いうね」

 豪快に笑う豪傑に向かって、ギルーシュは座ったまま居住まいをただした。

「それはそれとして、礼は言わせてください。ありがとうございます。助かりました。俺はクリシュナー王家の次男でギルーシュといいます。帝国士官学校の生徒。いや、元生徒です」

 間違いなく現在は除籍処分の手続き中だろう。

「王族の坊ちゃんか」

「おそらくそれも元だな……」

「どれ傷をみせてみろ。治療してやる」

 武芸者にとって怪我は日常茶飯事なのだろう。バイアスは手際よくギルーシュの背中の傷を魔法治療してくれた。

「どうだ?」

「ああ、重ね重ね深謝します。これで動けます。で、さっそく提案なんですが、少し場所を移しませんか。ここにとどまったのでは、次の追っ手がきます」

「この程度のやつらなら何人きても問題ないが、無駄な殺生をすることはないな。いいぜ、ついてきな」

 血臭漂う場所から、バイアスの案内で森の中を移動する。

 そのでかい背中に続きながら、ギルーシュは思案した。

(この男、帝国の暗殺部隊と知って骸衆に立ち向かい、全員、情け容赦なく斬り殺してしまった。ということは、間違いなく帝国にいい感情を持っていないな。ならば敵の敵は味方という論理が成り立つ。信頼していいだろう。なんとか旅の仲間にしたいな)

 もともと信頼できて腕の立つ護衛と道先案内人が欲しいと考えていたのだ。ならば、街でその手の傭兵を探すよりも、いまこの男を雇ってしまうのが手っ取り早い。

(まったくこんな強い漢が市井に隠れているのか。世界ってのは広いな。しかし、庶民の中には、王侯貴族というだけでアレルギー反応を示す者がいるという。特に無頼系の人物は反体制的な思想を持つ者が多いと聞く。どうやったら、懐に入ることができるかな)

 ギルーシュの脳裏で打算の算盤が弾かれているところに、バイアスは足を止めた。

「ここならいいだろう。水もある。飲めるぞ」

 川の源泉のような清らかな水辺であった。ギルーシュはさっそく両手で掬って水を飲んだ。

「はぁ、美味い♪ 生き返る~~~♪」

 まさに五臓六腑に染みわたる。

 こうして一息ついたところで、倒れていた大木に腰を下ろしていたバイアスに向かって、同じように倒れ木に腰を下ろしたギルーシュは語り掛けた。

「バイアスさん。あなたはわたしの命の恩人です。これからアニキと呼んでいいですか?」

「はぁ?」

 唐突な提案に意表をつかれたのだろう。バイアスは戸惑った顔になった。

「親しみを込めて、アニキと呼びたいと思ったんですよ。ダメですか?」

「いや、ダメってわけじゃないんだが……」

 頬を染めたバイアスの目が泳ぐ。

(よし、脈ありだ。この手の体育会系の野郎は、アニキと呼ばれ頼られることに悦びを見出す)

 とりあえず第一手は成功と見て取ったギルーシュは、追い打ちに入る。

「それじゃいいですね。アニキ」

「ああ」

「ありがとうございます。それから大したお礼を出せなくて心苦しいですが、これを受け取ってください」

 ギルーシュは部屋を出る時に、財産を全部入れた袋をそのままバイアスに押し付けた。

「よせよ。別に金が欲しくてやったわけではないぜ」

「そういわず、アニキ、ぜひ受け取ってください。命を救って貰った正当な謝礼です」

「そ、そうか。……悪いな」

 金銭はいくら持っていても悪いものではない。遠慮しながらも受け取ったバイアスは、袋の中を覗いて絶句する。

「俺には貴金属の目利きなんてわからねぇが、これぜんぶ本物だったら、とんでもないぞ」

「わたしの命の値段ですから。それが俺の全財産です」

「おいおい」

 驚いて袋を突き返そうとしたバイアスに、ギルーシュは悪びれずに応じる。

「ですから、アニキにはぜひクリシュナー地方にまで連れていってもらいたいのです」

「つまり、俺を傭兵として雇いたいってことか?」

「いえ、お礼はお礼です。その金は受け取ってください。クリシュナー地方にまで連れていってもらいたい、というのはアニキの義侠心に甘えているんです」

 傭兵として雇いたいといっても、断られる危険がある。しかし、このバイアスという人物は、困った人を見捨てられる性格ではないだろう、と見て取った。

 それに独り山籠もりをしているようでは、火急の用事もなさそうだ。

「俺が断ったらどうなるんだ?」

「それまででしょう。わたしにはあの骸衆の追っ手がかかっていることがわかりました。わたし独りではどのみち助かりません」

 お手上げと両手を広げてみせるギルーシュを、バイアスはニコリともせずに見つめる。

「俺を信用する理由は?」

「アニキを信じるというのは大前提ですよ。もしアニキに裏切られたら、それまでです。アニキに刃を向けられたら、わたしでは太刀打ちできないですからね」

「ったく、調子のいい野郎だな」

 命も財産も差し出して抱き着いてくるかのようなギルーシュの手口に、バイアスは苦笑してしまった。

「それじゃ」

「しかたねぇ、わぁったよ。クリシュナー地方まで面倒みてやらぁ」

「ありがとうございます。アニキ、助かります」

 とりあえずは賭けに勝ったということで、ギルーシュは満面の笑みになる。

「ただし、敬語はやめろ。尻がむず痒くなってくる」

「了解。あぁ、アニキのような人と出会えて本当によかった。独りで心細かったんだよねぇ」

 直後にギルーシュの腹の虫がなった。

 若く健康な体である。その上、死ぬほど運動させられたのだ。空腹になるのも当然である。それでもいささかバツが悪く赤面するギルーシュを見て、バイアスは破顔した。

「なんだ、腹が減ったのか。まぁ、朝飯の時間だしな。少し待っていろ」

 やおら立ち上がったバイアスはなにやら、森の中を散策しはじめた。どうやら食べ物を探しにいってくれたらしい。

 それが終わるのを待つ間、ギルーシュは夜中に、グレンダに叩き起こされてからはじめて、ゆっくりと思索する時間を得られた。

(兄貴か……)

 このたび殺されたという、実の兄カイエンに対して、ギルーシュはあまり思い入れを持っていなかった。というのも、王侯貴族の家庭である。庶民のように毎日顔を合わせるという関係ではなかったのだから仕方がない。

 第一、家督を継ぐ嫡男と、予備に過ぎない次男では待遇に天地ほどの差があった。

 そのことに嫉妬する気持ちを持っていなかったわけではないが、そういうものだ、と子供のころから刷り込まれている。

 だからこそ、帝国の官僚として身を立てようと必死に努力していたのだ。

 ギルーシュの中での兄のイメージは、才気煥発というタイプではないが、温厚篤実な人となり。少なくとも謀叛を疑われて、殺されるような最期を迎える人とは思わなかった。

(主体は親父だろうな。まだ乱世の夢を引きづっていたのか)

 ギルーシュの実家は、乱世の群雄の一つであった。過去には帝国相手に、煮え湯を飲ませた経験もある。

 上手く立ち回って傘下に入ったが、決して牙が抜かれていなかったことは、ギルーシュにもわかっていた。

(いまの帝国に逆らって勝てるはずがない。頭を下げるなら徹底的に下げるべきなんだ。中途半端は身を亡ぼす。でもまぁ、うちの国民は気が荒いからな。国王が暗殺されたなんて知ったら沸騰するぞ。これを押さえるのは大変だ)

 故郷にたどり着けたとしても、頭の痛い問題が山積していることは容易に想像がつく。

「いっそ、このままだれも知らない土地に逃げるってのも手か……」

 それが最善な気もする。しかし、それをやって残った家族まで皆殺しにされたなどという情報に接した日には、寝覚めが悪すぎるだろう。

(とにかく今は一刻も早く、家に帰るしかない。なにかを考えるには判断材料が少なすぎる)

 悶々としているうちにバイアスが戻ってきた。そして、風呂敷を広げると、青々とした草がどっさりと入っている。

「さぁ、食え」

「なに、これ?」

 先が茶色くて白い茎の植物を摘まみ上げて、ギルーシュは絶句した。

「つくしんぼだ」

「……スギナか。食べられるの?」

 どうしていいものかと硬直しているギルーシュの向かいで、無造作に太い腕を伸ばしたバイアスは草を自ら口に放り込み、ムシャムシャと咀嚼してみせた。

 手本を見せられたギルーシュもまた、恐る恐る手に取った草を口に入れる。そして、奥歯で噛んだ。

 グジュル……。

 なんとも形容しがたい苦みとえぐみが口内に広がる。たまらず悶絶したギルーシュは、川の清流で口を漱ぐ。

「マ、マズ、マズいなんてもんじゃないんだけどっ!?」

 血相を変えて抗議するギルーシュに、バイアスは表情を変えずに応じる。

「ああ、不味いな。しかし、毒はない。腹は膨れるぞ」

「……」

 ギルーシュは愕然とした。自分の立場を否応なく思い知らされたのだ。

 いまのこの状況で、食事に味を求めるのは贅沢というものだろう。

 覚悟を決めたギルーシュは、雑草にしか見えない山菜を鷲掴みにして、口いっぱいに頬張った。そして、ムシャムシャと噛み砕き、飲み込む。

「うわ、マズーーー! 意識が飛びそうなほどマズーーー! 世の中にこんなにマズいものがあるとは想像もしなかった! でも、腹が膨れて幸せーーー!」

 涙目になったギルーシュの自棄を起こした叫びに、見守っていたバイアスは苦笑する。

「口先だけの苦労知らずな坊ちゃんにみえて、意外と根性あるな」

 バイアスのほうでも、ギルーシュの人となりを見極めようと観察しているのだろう。

「任せてくれ。俺はなんとしても生き延びる。そして、アニキを信用すると決めた以上は、徹底的に従うよ。あ、そういえば、アニキの千武流というのは初めて聞いたけど、どちらの流派?」

「まぁ、そうだろうよ。俺が作った流派だからな」

「……っ!?」

 予想外の答えに硬直するギルーシュに、バイアスは得意げに胸を張る。

「つまり、俺が流祖ってわけだ。千人の武勇に匹敵する。すなわち、一騎当千という意味だ。どうだ、かっこいいだろう」

「そ、そいつはすごい……」

 いささか頬に汗を流しながら、ギルーシュはなんとか調子を合わせる。

 しかし、内心では、この男に賭けたのは失敗だったかも。と少し後悔した。

 結果論として、ギルーシュにとって、バイアスと名乗る武芸者との出会いは、まさに天祐であった。

 故郷までの旅の間、何度も命を救われたのだ。

 どんな達人でも、寝ているところ、トイレにいるところ、風呂に入っているところ、女とやっているところを狙えば勝てる、と言われることだが、バイアスにはそれらの隙すらなかった。

 宿場町の旅籠で、飯を食っていたときである。不意にバイアスが命じた。

「その汁はやめとけ」

「ん、了解」

 文字通りバイアスを全面的に信頼しているギルーシュは、素直に汁物には手を付けなかった。

 食事が終わったころ、膳を下げに来た老婆はあからさまに動揺する。

「毒か。まぁ、その老い先短い命まで取ろうとは思わないが、飯代はまけてもらおう」

 バイアスは金を払わずに店を出て、その後ろをギルーシュは続く。

「アニキ、毒が入っているなんてよくわかったね」

「まぁ、なんとなくだ」

 理屈ではなくわかってしまうらしい。

 道中、骸衆は手を変え品を変えさまざまな手段で幾度も仕掛けてきたが、すべてこの調子で撃退してしまうのだ。

(ほんと、アニキとあえて良かった)

 当初は味方に引き込む方便として、アニキと呼びだしたわけだが、旅が終わるころには心から信頼するようになっていた。

(強くて、注意力に優れ、義侠心もある。これが本物の武芸者ってやつなのか? アニキになら尻の穴を差し出してもいいや……って、いやまてまてまてまてまて。いま俺、なに血迷ったこと考えた!?)

 我に返ったギルーシュは、激しい自己嫌悪に陥った。

(男は嫌だ! 男は嫌だ! 男は嫌だ! ここのところむさ苦しい野郎と二人っきりだったから、つい錯乱してしまった。クソ、一生の不覚。ああ、ヘレナ先生どうしているかなぁ。学校をでるときに挨拶もできなかったもんなぁ。やっぱり俺のこと心配してくれているのかなぁ。ああ、先生に会いたい。先生に会いたい。先生のおっきなおっぱいに会いたい)

 おぞましい心の動きを追い払おうと、教育者としては厳しくとも、ギルーシュと二人っきりのときはアマアマだった年上の恋人のことを思い出しているところに、バイアスの声がかかる。

「おい、なにしている。いくぞ」

「はい。アニキ、いまいく」

 バイアスと並んで街道を歩きながら、ギルーシュは小首を傾げる。

「しかし、庶民の暮らしというのは、意外と静かだな。もっと猥雑な活気にあふれているものだとばかり思っていた」

 街道を行き来する人が存外に少ない。通りかかった村や街は、どこも閑散としている。

「帝都ならそうだな。しかし、ちょっと地方にいくとどこもこんなものだぞ」

「ふむ、つまり政治が悪い?」

「さてな。そういうことは俺にはわからん」

 バイアスのそっけない応えとは他所に、ギルーシュとしては考え込まずにはいられなかった。

(そういえば、グレンダの領地でも一揆が起きそうだったといっていたな)

 グレンダの家は譜代だ。外様に比べればずいぶんと優遇されているはずである。その領内で一揆が起るほどに生活が困窮しているとなると、外様の領地はどうなっているか推して知るべし、といったところだろう。

 先帝マクシミリアンの治世は、大規模な戦役と公共事業の連続であった。それに比べれば現帝ツァウベルンの治世はずいぶんとマシなはずである。少なくとも外戦はなくなったのだ。それなのに各地の反乱は増加の一途をたどっている。

 皮肉な見方をするのなら、先帝の治世では、庶民は反乱を起こす余裕がないほどに酷使されていたのに対して、今帝の世になり、反乱を起こせる程度の生活的な余裕ができた、ということなのかもしれない。

 とにかく、民衆反乱が起きれば、鎮圧するための軍隊は投入される。

 兵隊に働き手を取られては、生産力は低下してしまう。それは民の不満をさらに募らせ、新たな反乱を誘発させた。それを鎮圧するためにさらなる徴兵がされるというわけだ。そんな悪循環に陥っているのではあるまいか。

(帝国は図体がでかいから、細部に手が回らないんだろうなぁ。新興国家だから、人材も足りないだろうし……)

 自分の命を狙われている状況とはいえ、先日まで帝国の廷臣になるつもりだったのだ。ついつい帝国の立場に立って考えてしまう。

 いろいろと思索しながら歩いていると、不意にバイアスの足が止まった。

「おい、見えたぞ。あれがおまえの故郷か?」

 慌てて顔をあげると、一面の山肌がみえた。

 ギルーシュの故郷クリシュナーは、帝国領の中でも北の山岳地帯にある。

 十年前までは独立国として列強の一角を誇っていたが、太陽帝国の圧力に屈して傘下に入った。

 帝国配下の五十王国の中にあって席次は上から三番目とされているが、黄金などが採掘されることで、実質国力はトップなのではないか、とも言われている。

 辺境で戦争ばかりしてきた一族で、スレイマンに野蛮人と呼ばれる所以だ。

 二年ぶりの帰郷に、いささか懐かしさを感じて立ち尽くしていると、山城から騎馬と大鳥に跨った騎士がそれぞれ一騎ずつでてきた。明らかにギルーシュたちを目標にしている。

「あれは……?」

「大丈夫。俺の知人だ」

 待っていると、空と陸から近づいてきた二騎はほぼ同時にギルーシュのまえにたどり着いた。

「やはりギルーシュさまでしたか。よくご無事で」

 騎馬から降り、生真面目に拝跪したのは黒髪の男騎士だ。

「もしやと思い駆けつけました。本当によくお戻りくださいました」

 大鳥から降り立った長い黒髪の美しい女騎士は、涙ながらにギルーシュの顔を見つめる。

「ノクト、ノワール、おまえたちは無事だったか」

 騎馬できたのが兄のノクトで二十四歳。大鳥できたのが妹のノワールで二十歳だ。この兄妹はクリシュナー王家の譜代の重鎮の子供であり、ギルーシュの亡き兄の腹心たちだ。

 所詮は次男坊であるギルーシュは、兄ほどに彼らと親しくはなかったとはいえ、それでも交流はあった。

 久闊を叙する間もなく、ノクトは厳しい顔で言上する。

「急ぎご登城くださいませ。ご母堂さまも喜ばれましょう。決起の準備は整いましてございます」


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