内なるもの 外なるもの~私と私と私~
病室の白く閉ざされた空間のなか、私は、声のする方へ視線を放る。
「私の話が分かりますか?」
「……」
「声を出すのはまだ難しいでしょう。なんせ、あなたは重度の火傷を全身に負っている。生き延びたのは奇跡のようなものです。ですが、ひと月前、激しいビルの火災の中から救助されたときは、正直言って延命の確率は数%、と医師は私に零したものです。良くここまで回復したものです、あなたの生命力に敬意を表します」
私はその話の内容から、この低い声の主は、医師ではなく、あのビル火災の担当刑事だと分かり、少し安堵する。しかし、今日は何の用だろうか。
「しかし、あなたは、まだ、ご自身のことをなにも思い出せないのですね」
そのとおりだ。私は5日ほど前に意識を回復したものの、火事に遭ったことしか記憶にない。どう思い返しても、自分の正体が掴めないのだ。名前や居住地はもちろん、この包帯の下にかつてあった筈の、焼けただれてしまった元の容姿さえ。
「ですが、あなたのことが全国で報道されてから、これまで3通の手紙が署に届きました。その手紙は全てあなたが、それらの差出人の探し人なのではないかとの問い合わせでした」
その思わぬ報告に私は、喉を微かにひくつかせ、ちいさく息をのんだ。それを認めると、刑事は数瞬の間を置き、またその低い声を、四角い空間に響きわたらせる。
「あいにく、あなたの両手両足の指紋は焼き焦げてしまっていて、身元判定の決め手には不十分です。……なので、あなたの負担を軽減するために、私はその3人に直接会い、あなたのことについて語って貰いました……その時の音声がこのレコーダーに入っています。それを聞いてはくれませんか。このメッセージから、あなたが少しでも身元を思いだして貰えるきっかけを得られれば、それにこしたことはございません。なお、思い込みによる誤判断を、防ぐため、名前などの固有名詞は伏せて語って貰っています……ではスイッチを入れます」
そう言うと、刑事は手元のレコーダーを操作する。すると、少しの雑音の混ざった音声が、病室にゆっくりと流れ出す。
それから、私はベッドの上で身じろぎもできぬまま、ただひたすら、その3つのメッセージに耳を傾けた。
【メッセージ 1】
(年老いた女の声)
我が愛しき娘よ。私がこのお腹を痛めてこの世に産み落とし、あの忌まわしいビル火災の日までを共に生き、暮らし、過ごした、最愛の娘。あなたは、実直で純朴で、何より素直な私の愛娘です。
そうですとも、幼いころから、何事にも真面目に取り組むあなたは、私の自慢の子どもだったのです。特に、日曜日には率先して教会礼拝に通い、最前列の席からあなたが透き通った声が奏でる賛美歌は、まさに神の至言であり、私の生きる意味と希望そのものでした。
そして、私があなたを愛したように、あなたもまた私を至高の愛で慕ってくれました。
「恋人なんか作らないわ、純潔を守って、これからも、ずっとお母さんと一緒に暮らす」
台所に立ち、大豆をコトコトと煮込みながら、あなたは口癖のようにそう言っては私に微笑みかけた。そのたびに、私はあなたを授かった幸せを、改めて神に感謝したものです。
大人になってからも、あなたのその言葉は変わらず、ますます、あなたに対する私の誇りと信頼は揺らぎ無く、心に屹立するばかりでした。
そんな愛しいあなたが、行方をくらまして、もうひと月が経ちます。娘よ。どうか、私のことを思い出してください。そして、以前のように穏やかに、ふたりで、あの田舎町で暮らしてゆきましょう。
私たちはきっと、これからも上手くやれるはずです。愛する娘よ、あなたにどうぞ、神のご加護があらんことを。
【メッセージ 2】
(若い男の声)
僕の愛しい君、僕がこの世で一番愛しているフィアンセ。
元気でいてくれているか。早いものだ、君が僕のもとから姿を消してもう、ひと月になる。
君は僕のこのひと月の懊悩が想像できるだろうか。僕は、苦しみ抜いたよ。もちろん、いまだってそうだ。
君は僕との出逢いを覚えているかい。君は僕の取引先の会社の、受付嬢だった。忘れないよ、君に初めて会った日のことは。その目をそらせない君の美しさに、僕は心を奪われて、ぼんやりとしたあまり、その後の仕事でミスを連発し、課長にしこたま怒られたもんだ。だが、そのあと、おずおずと申し出た僕の愛の告白を君は、些か拍子抜けするほどあっさりと、受け入れてくれたね。僕は狂喜乱舞したものさ。
僕たちは、それから仲睦まじく一緒の時間を過ごした。可憐な君と、幾度も甘い接吻を重ねたよな。僕らは愛し合っていた。互いを尊敬し合い、慈しみ合っていた。
そしてそうだ、あのビル火災の数日前のことだ。僕は君にプロポーズしたんだ。すると、即座に君は、大粒のエメラルドが嵌め込まれた指輪を、嬉しそうに左手の薬指に煌めかせてみせたんだよ。あの瞬間を、僕は忘れやしない。否、一生忘れることはないだろう。
どうかあの喜びの続きを、僕にまた与えてはくれまいか。どうか君よ、僕のことを思い出してくれ。
君と添い遂げられる日を、僕はひたすらに、粘り強く、待ち続けている。
【メッセージ 3】
(年齢不詳の男による掠れ声)
私の愛しい、親愛なる、尊敬する、敬愛する、ご主人様。
お加減はいかがでいらっしゃいますか。ご主人様の、現在の痛ましい境遇を聞くに及び、従順な下僕でしかない私めは、なにもすることができませぬが、ただ、心を痛めて涙するのみでございます。
ですがご主人様、あなたは、暗闇の中にいた私めに、確かな愛を下さった。その慈愛に大きな恩を感じているからこそ、こうしてひと月の時が経とうとも、再び私めはご主人様のことを探し、求めて止まぬのです。
ご主人様と私の逢瀬は、出逢いから、すべて薄昏い空間のなかでありました。仄かな蝋燭の光のもと、私たちは何度も愛し合いましたね。ご主人様の愛は常に激情に満ちており、ときに私めには重く、また、限りない辱めをも強要するものでした。ですが、そのご主人様の私めに向ける荒々しい愛情は、他にかけがえのないものであり、また、ご主人様にとってもそうであったと、私めはいまでも信じて止まないのです。
どうかご主人様、哀れな下僕のことを思いだして下さいませ。そうしてくだされば、私めは、これまで以上の惜しみない愛をあなたに捧げるでしょう。
そして、永遠に、ご主人様の愛の生贄になる覚悟でおります。
「以上です。なにか、心当たりのあるメッセージは、ございましたか?」
暫くの後、私は静かに僅かに動く首を横に振る。わからない、との意志を告げるために。
わからない、というか、あまりにもその各メッセージに現された人物像がばらばらすぎて、私は戸惑わずにいられなかったのだ。そもそも、このなかに私に当てはまる人間はいるのだろうか。それとも、本当に、私はこの3人が求める人物の、どれかであるのだろうか。
やがて、私のそんな困惑を見透かしたように、刑事が口を開いた。
「……そうでしょう。これだけではあまりに曖昧すぎて、ご自身にも分かりかねることでしょう。今日のところは、これまでにしましょう、身体に障るといけませんから」
そう言うと、刑事は病室を去ろうと、私に一礼すると、ドアの方向に踵を返す。だが、彼はその身を廊下に滑り出させる寸前で歩を止め、思い出したように私に向き直った。
「そうだ、あなたの唯一の所持品……なにかの鍵は、いま、鑑識が何の鍵であるかを鑑定中です。これも火災による高温で溶けていて、鑑定は困難を極めていますが。そちらのほうで、なにか成果があがったら、また改めて伺います」
再び、刑事が病室を訪ねてきたのは、それから2週間後のことだった。窓の外では、激しい秋雨が窓に吹き付けている。
硝子窓から漏れた雨音が、ざ、ざーざ、ざーざ、と部屋に微かに響き渡っている。
「刑事さん……」
「おや、声が出るようになりましたか」
刑事は僅かに微笑んで私を見た。私も目を動かし、彼に視線を投げた。
見れば、その手には、白い袋が握られている。
「あの鍵の正体が分かりました。火災のあったビルから4駅ほど離れたターミナル駅の、ロッカーの鍵でした」
そう言いながら、刑事は白い袋から、ゆっくりと何かを取り出し、ベッド脇のサイドテーブルに並べて見せた。
やがて、テーブルの上に置かれたのは、次の三つの品物であった。
ページの色褪せたポケットサイズの聖書
エメラルドらしき緑の石が嵌まった指輪
そしてなにやら淫靡な赤紫色のプラスチック製のカード
「これがロッカーの中に入っていた、あなたの所持品のすべてです」
「……これが、私の……持ち物」
「はい。カードは、さるSM倶楽部の会員証です」
そしてだ、刑事はこともなげに、重大な情報をさらりと付け加えて見せた。
「あなたには黙っていましたが、メッセージを寄こした3人が申し出た探し人の名前は、皆同じだったのですよ」
「え……?」
「井上亜由美。3人は口を揃えるように、“井上亜由美を探している”と、そう言いました」
私は思わず呆けたように呟いた。
「……井上亜由美……」
「はい、おそらく、それがあなたの名前です」
「つまり、あの3人の全く異なるメッセージから導き出される人物は、同一人物であり、それが、私であるということ……?」
「……そういうことに、なりますな……」
刑事はテーブルに視線を投げた、俯き加減の姿勢のまま、静かに呟いた。まるで独り言のように。
「ですが、私も信じがたかったのです。名前が同じでも、ここまで人物像が乖離していると、あなたが本当に井上亜由美なのかと。あまりにも同一人物にしては、印象が異なりすぎる。だが。今日、このロッカーの中の所持品を見て、漸く納得できました、あなたは、井上亜由美であると」
ざーざ、ざーざーざー。
雨粒が硝子を叩く音がやけに耳障りだ。私は震える声で言葉を放った。
「そんな……私はいったい、何者なのですか? 多重人格ってやつ?」
すると刑事は苦笑しながら、私の顔に視線を戻した。
「多重人格、そんな大げさなものではありませんよ。ただ、あなたは……井上亜由美という人間は、実に多様性に富んだ人間であった、と。それだけのことです」
「それだけ……」
「そう、それだけのことです。特に珍しいことでは、ありませんよ。世間ではままあることです」
気が付けば、刑事が病室を出て行ってから、かなりの時間が経過していた。
秋雨はまだ降り止む様子はない。
その間、私は、井上亜由美という人間……私という人間について、慌ただしく思考を巡らせていた。
なんということだろう、記憶を無くした末、私を待ち構えていた「私」は、あまりにも多面性に満ちた人間だった。
ある場面では、従順に、敬虔深く。
ある場面では、可憐に、恋の炎に心を燃やす。
ある場面では、淫靡な激情を、欲望のまま他者に叩きつける。
私とは、いったい。私とは、いったい……? 何者なの……?
私は自分に、震えた。
感覚など失われた腕の代わりに、心臓に鳥肌が粟立つ様が、脳内に浮かぶ。
発狂しそうだ。
……だが、それはよくあることなのだと、刑事は言った。
……考えてみれば、そうなのかもしれない。さまざまな矛盾も理不尽も内包してこその、人間、なのかもしれない。それをそれと知って、皆が皆、知らぬ振りをして、生きている。それが、世間、なのかもしれない。
しかし、それを外側からこのようなかたちで見せつけられてしまったとき、これから、私は、内なる「私たち」とどう付き合って生きていけば良いのだろうか。
多様性という名の私の欺瞞は、焔で灼かれて、どろりと溶けた身体から溢れだしてしまった。
それを見てしまえば。
知らぬ振りは、もうできないじゃない。
閉じられた白い空間の中で、未だ、私の答えは見つからない。