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第一話 いらっしゃいの卵スープ

 夜もすっかりふけた住宅街に、ややコソコソした動きの男が二人。

 猫背で寝癖をそのままにしたような髪型が目立ついかにも無精そうな眼鏡の男と、両手にそれぞれ大きなカバンを提げた若い男だ。

 街灯にぼんやりと照らし出された日本家屋を前に、若い男のほうは驚いたように口を半開きにしていた。


「……わたさん、本当にいいの? ここに住んでも」

「いいのいいの。この家、部屋だけはとにかくたくさんあるから。さ、上がって」


 わたさんと呼ばれた男――綿貫正彦はポケットから鍵を取り出すと、それを鍵穴に突っ込んだ。そしておもむろに、把手部分に指を添えて力を入れる。


「ちょっとだけガタが来てるからさ、鍵を開けるときとかけるとき、少し戸を持ち上げてやるのがコツなんだ。明日にでも、せいちゃんの分の合鍵も作っておくから」

「あ、はい」


 カラカラと戸を開けて、綿貫は「どうぞ」とせいちゃん――湯浅誠一郎を促した。誠一郎は少し緊張した様子で、三和土に足を踏み入れた。


「おじゃまします」

「そういうの、いいよ。今日からここで暮らすわけだからさ」

「本当に、ありがとうございます。……ここに暮らすのかあ」


 玄関に上がると綿貫が一歩先を歩き、家のあちこちの電気をつけていく。明るくなるにつれて家の中がきちんと見えるようになり、途端に親しみやすさを感じられたのか、誠一郎は噛みしめるように言った。


「何か、帰ってきたって感じがします。自分ちじゃなくて、親戚とかの家、ですけど」


 綿貫にざっと家の中を案内されながら、誠一郎は緊張を解きつつあった。家主である綿貫がくったりとした男で、この家から感じる雰囲気もくったりしているからだろう。


「ザ・昔の日本の家って感じだもんねぇ。ばあちゃんから相続したわけだから、おれにとってはばあちゃんちなんだけど」


 まずは一階の部屋、風呂、トイレ、台所。それから二階の部屋と洗濯室に使っているバルコニー付きの部屋を案内してもらうと、誠一郎はこの家に受け入れられつつあるのを感じていた。そういうところが、感覚として親戚の家に似ている。


「この大きな家に、わたさんはこれまでひとりで?」


 また一階に戻ってきて居間に腰を落ち着けたところで、誠一郎は尋ねた。聞くまでもなく綿貫がひとり暮らしなのはわかっているのだが、それにしたってこの家は持て余すだろうと思ったのだ。


「うん、ひとり。まあ、不便はないよ。元より寂しいって感情はあまり持ち合わせてないし。ご近所付き合いを抜きにすれば、マンションやアパートより気楽かな。ひとりが好きだからさ」

「それなら……なおさらどうして?」


 綿貫がひとりが好きというのも、何ら違和感がないことだ。これでパーティーが好きだとか、毎週末友人とバーベキューしますと言われたほうが、しっくりこないと感じただろう。

 だからこそ、誠一郎はこの男が自分を家に招いた理由がわからなかった。




「せいちゃん、それならうちに下宿したらいいよ!」


 困っていた誠一郎に綿貫がそう申し出てくれたのは、数日前のこと。

 綿貫は誠一郎のバイト先の定食屋の常連客で、会えばそこそこ会話をする仲だった。というより、誠一郎がまめに声をかけた結果懐かれたという感じだ。

 綿貫はいつもひとりでやってきて、静かに食事をして帰っていくタイプだ。食事を楽しんでいる様子ではあるが、どうにも人馴れしていないというか、落ち着かずコソコソしているのが気になって、それで声をかけるようになった。

 挨拶をし、天気の話をし、日替わりメニューのおすすめをするうちに安心してもらえるようになったのか、綿貫は誠一郎相手にはいくらか打ち解けてくれるようになった。

 何かの拍子に名前を知って、「わたさん」「せいちゃん」と呼び合うようになってからは、綿貫のおどおどした様子はあまり見られなくなった。

 こういった人間をいわゆるコミュ障というのだろうが、誠一郎は綿貫のこの、まるで人里に降りてきた化け狸のごとく不器用な感じが気に入って、自分よりずいぶんと年上にもかかわらず気にかけていた。

 だから、住んでいた格安アパートが老朽化および大家の代替わりによって立ち退きを余儀なくされた関係でバイトをやめなくてはならないとわかったとき、綿貫には話しておこうと思ったのだ。黙っていなくなるのも嫌だし、それはあまりにも寂しいから。


「ひ、引っ越しはわかるけど、バイトもやめなくちゃなの?」

「そうですね。次の候補の家、バイト先からも遠いですし、家賃高いからバイトも変えなくちゃなんで……」


 ショックを受けるだろうなとは思ってはいたが、事情を聞いた綿貫の動揺はかなりのものだった。注文の品を運んでいったときに伝えたのだが、果たしてこのあと料理を食べられるのかわからないくらい思いつめた様子だった。


「せいちゃんは、ここのバイトを続けたい?」


 のろのろとした様子ではあるものの食事を終えてから、会計をするときに綿貫はレジで誠一郎に尋ねてきた。


「はい。まあ、続けられるなら続けたいですね。ここ、まかないもうまいんで」


 どう答えればいいだろうかと悩んで、一番本音に近いことを口にした。本当はもっといろいろ考えているのだが、うまく伝えられそうになかったから。

 それを聞いて、綿貫は言ったのだ。だったら自分の家に来たらいいと。

 そして数日が経ち、今に至る。



「店長と奥さんが『綿貫さんのとこなら近いし安心だね』って言ってたんですけど、お知り合いなんですか?」


 誠一郎が住むところを確保してバイトを辞めずに済んたことに安堵する店主夫婦の様子を思い出して、ふと尋ねた。綿貫のところなら安心と言うからには、何かしらの根拠があるのだろう。


「親しいかと言われると難しいんだけど、知り合いではあるね。ばあちゃんと一緒に子供の頃から通ってるからね」

「なるほど」


 言われてみれば誠一郎がバイトを始めた当初から常連客だったわけだから、長く通っているのはわかりきっていたことだ。ただ、店主夫婦と綿貫が会話しているところなど見たことがなかったため、全幅の信頼を寄せる様子なのが気になったのだ。


「あの二人がおれのことを信頼してくれてるのはさ、単にグレずに大きくなったとか、ばあちゃん子だったとか、そういう部分だから。別に何か根拠があるわけじゃないよ。心配いらないってのは、否定することじゃないけど」


 綿貫がヘラヘラッと笑うのを見て、この人が自分に何か嫌なことをするのは考えられないなと誠一郎は思った。そんなふうに油断したからか、静かな居間に腹の虫の盛大な鳴き声が響き渡った。


「……すみません。まかない、しっかり食べたのにな」


 恥ずかしくなって誠一郎が言うと、綿貫はツボに入ったのか大笑いしていた。それからおもむろに台所へ向かうと冷蔵庫を開けた。


「まあ、若いしお腹空くよね。何か作ってあげよう」

「そんな……! 悪いです」

「いやぁ、大したものは作れないから安心してよ。お腹が満たされるスープを作るよ。簡単だから、ちょっと待ってて」


 そう言うと、綿貫は冷蔵庫から卵とシメジと油揚げを取り出した。

 綿貫は鍋に湯を沸かすと、そこに油抜きして刻んだ油揚げとシメジ、砂糖と塩をひとつまみ入れ、煮立たせていく。グツグツといい始めたところに醤油をひと回しと鶏ガラスープの顆粒を入れ、そこに溶き卵を流し入れて火を止めた。

 簡単なものであるのは見ていてわかるが、なかなか鮮やかな手つきだった。


「仕上げにゴマ油を垂らしたら、完成だよ」


 そう言って綿貫はお椀にスープをよそうと、そこにゴマ油を数滴垂らした。具材からして味噌汁が出来上がるとばかり思っていたが、運ばれてきたそれは紛れもなく中華スープだった。


「いただきます」


 湯気とともに立ち上ってくるゴマ油の香りに食欲をそそられ、誠一郎はお椀を両手に包み込んで息を吹きかけて冷ましながら、まずひと口すすってみた。

 香ばしい香りのあとに塩気と出汁のうまみが追いかけてきて、広がった。それから、スプーンで具材を口に運んで咀嚼してみると、卵のほどけるような食感とシメジの柔らかいながらもシャキッとした歯ごたえが心地よい。

 何より、油揚げが美味しかった。


「油揚げ、どんな感じかなって思ったんですけど、めっちゃうまい!」

「でしょ! 試しに入れてみたら美味しくてさ、スープにはわりと何にでも入れるんだ」

「噛んだらジュワッてスープが溢れてきて、油揚げ自体の味もあとから感じられて、食べごたえありますね」


 はじめは感想を述べる余裕が誠一郎だったが、食べ進めるうちに夢中になって、おかわりをする頃には食べることに専念していた。

 優しい味の中華スープは、バイト先からこの家まで歩いてくるときに冷えた体をじんわりと温め、落ち着かせた。

 空腹だけでなく、いつの間にか空いていた心の隙間まで埋めてくれるようなその味に、飲み干してから自然と溜め息がもれた。


「せいちゃん、落ち着いた?」


 誠一郎がスープを平らげると、綿貫はそれを満足そうに見ていた。

 空腹がなのか、心がなのか、彼の問いがどこにかかるのかわからなかったが、誠一郎はお愛想ではなく頷いた。


「はい! 満足です」


 綿貫が作ってくれた温かなスープは、これからの暮らしに対する安心感を与えてくれた。

 

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