忘れてはいけないけれど、そもそも知らないことだらけ
黒くて厚い机が並ぶ。前のクラスが十分に換気をしなかったからだろうか、少し焦げ臭い。汚れたカーテンを開くと、冷たい空気が流れ込む。
チャイムが鳴ると、学生たちは定められた席についた。黒板の前で先生がチョークを取る。
メチル基、水酸基、描かれた官能基に胸が高鳴る。
「久しぶりの実験だから、わくわくするね」
隣の席の香菜が囁いた。ボクは頷きながら、先生の説明に耳を傾ける。
「うわぁー、くせー」
茶褐色の瓶を開けた男子が、眉間に皺を寄せている。摘まんだ鼻の回りを手で扇ぎ、漂う臭気を払っていた。
「おいおい、しっかり最後まで聞きなさい。今日の実験は、テストにも出るから、目的や方法をしっかり勉強するんだぞ」
白衣の先生が、目を光らせる中で、いよいよ作業開始の火蓋が落とされた。
まずは先生の用意した赤褐色の液体を試験管に注ぐ。これは、
「ヨウ素液。ヨウ素をヨウ化カリウム水溶液に溶かしたもの」
「へえ、詳しいね」
感心している香菜をおいて、
「予習すれば当たり前の知識さ」
黙々と作業をこなすボクは、茶褐色の瓶から、無色透明な液体を吸いとった。さっきは他の男子生徒が「くせー」と叫んでいたけれど、ボクはこの臭いを嫌いではない。
「それは何かしら」
「アセトンだよ、香菜はそんなことも知らないのか」
呆れるボクに、悪戯っぽく舌を出す香菜の間の抜けたところが憎めない。
試験管の中で液体同士が混じり合うと、底に黄色い沈降物が生じた。
本日の実験のテーマは「ヨードホルム反応」、定性分析を学ぶにはお誂えむきだ。
片付けを済ませたボクらは、授業が終わるまで時間があったので、先生の補足を聞くともなしに聞いていた。
「色が変わって面白かった、だけでは駄目だぞ。ちゃんと知識を身につけないと。何事にも一歩踏み込んで」
生徒たちは実験が終わってレポートを書いていたり、雑談に花を咲かせていたり、好き勝手様々だった。
肩をすくめた先生はおもむろに、
「ようし、エタノールとアセトンはやったけど、こいつはどうだ」
チョークを走らせた後の黒板には酢酸が描かれた。
「そこに水酸基があるからヨードホルム反応は起きません」
ボクは即答する。
「おっ、流石だな。良く勉強してる。じゃあこれは?」
炭素が三つの骨格の真ん中、枝分かれした水酸基がついている。その化学式はすなわち、
「2-プロパノールですか。それは反応に陽性です」
「そうだ、その通り。イソプロピルアルコールとも呼ぶ」
先生がIPAの文字を添える。
「凄いね、何でも知ってるんだ。先生より賢いんじゃない」
香菜が肘でつついてきた。教室が爆笑の渦で満たされる。
「そしてこれは数滴あれば、この教室にいる君たち全員を殺すことができる」
ざわめいていた生徒らは、水を打ったように静まり返った。
誰もが黒板の前に佇む先生に視線を注ぐ。
「先生、聖職者が嘘はいけませんよ」
ボクの知る限りプロパノールは殺傷力の高い、極めて危険な物理的性質を有するはずがない。
「すまない、今のは少し誇張してしまった。厳密には原料になるんだ」
「一体どういうことですか」
ボクの詰問口調にも、先生の柔和な表情は崩れない。しかし声色は冷たく落ち着き払って、
「田中さんのお家は農家だったよね」
「は、はい、そうです」
ふいに指名された香菜が動揺してボクを見る。
「実は肥料に含まれる窒素は、爆薬の原料になるんだ」
トリニトロトルエン、美しき骨格とは裏腹に、大量殺戮の兵器になり得る。
「そして同じく肥料にはリンが含まれる」
先生のこの台詞でようやくボクは悟った。
「サリン、ですか」
カーテンをはためかせ、冷たい空気が教室を包む。
「あれは先生が大学生のころだった。当時電車通学していてね」
誰一人として、先生から目をそらす生徒はいない。みんな固唾を飲んで話の続きを待っている。
「徹夜で実験してな、翌朝アパートに帰ろうとしたんだが、鍵を忘れたことに途中で気がついたんだ。だから面倒くさいなって思いながらも研究室に戻ってさ。そしたら親が涙を流して電話してきて、よかった、無事でよかった、って」
もしもあの日、鍵を忘れなかったら、教卓の前の先生はいなかったかも知れない。そう考えただけで、背筋が凍りつく。
「先生は、君たちが化学を正しく学んで、大切なことに役立てられることを願ってる。そのために、この命が残されたと思ってる」
テレビで特集されるサリンで多くの人々が被害を受けたことをボクは知っていた。それはとても許されることではないし、決して忘れてはいけない。
これまではどこか他人事にしていた自分がいた。それでは駄目だ。もう一歩踏み込まなくては。(了)
駅というフレーズが私を誘ったのは、忌まわしき事件でした




