白虎王子の怖すぎる陰謀
「ティエン姫、引き返しましょうよ」
眉を吊り下げいさめようとするのは、垂れ目で丸顔の少年小姓。
名を、“雷”と書いてライと言うらしい。雷の日に生まれたからだそうだ。
「いくら婚約者の姫さまでも、招かれていない宴に勝手に参列されては、問題になります。もちろん、我が主人の王子は、簡単に怒るお方ではありませぬが、にしても…」
文句を垂れつつも、小雨が降る中でも、きちんと二頭の馬の手綱を握り、馬車を進める。
彼の実直な性格のためか、曲がり角でも揺れなく、滑らかに進んで行ける。
「わぁ快適、快適。ライ殿は、きっと御者の才能があるわ」
「ティエン姫、戻っていいですか? 私、本当に戻りますからね?」
顔色を伺ってこちらを振り向くライに対し、ダメです、と首を横に振った。
「私はもうじき、白虎王子の正妻になるのよ」
「いくら婚約者とはいえ…」
「ねえ、これがどんなに恐ろしいことか分かる?!」
ライは、はて、と言葉を詰まらせた。
「はぁ…正直申しまして、姫様におかれましても、十分過ぎるほどの縁組ですよ。我が主人はあの美貌に加え、知略にも富み、俊敏で心温かで…」
彼の純朴過ぎる眼を通して見れば、王子が俊敏で心温かな主人に違いないのだろう。
「一体、どこが恐ろしいのか、分かりかねます」
と、口を尖らせた。
「私は夫になるかもしれない人間のことを何も知らないのよ。知らないというのは、この世で一番恐ろしいこと!」
私は、前方に見える小さな林を指差し、あの林をご覧なさい、と促した。
「あそこで、弓兵の刺客が潜み、今か今かと私たちの頭を吹き飛ばそうと矢を構え狙っているの」
「え?!」
ライが驚き、手綱を持つ手が乱れた。馬がヒヒンと鳴いて、二頭が不規則な方を向き、馬車がぐらりと揺れた。
「いや、弓兵はだだの例えよ。実際にはいないから…」
「はい?!」
ライは、崩れた姿勢を正しつつ、ぽりぽりと頭を掻いた。面倒な娘に捕まってしまったと、困惑しているのだろう。
「でもね、もしあそこに弓兵が潜むと今知れば、私たちはどうする?」
「すぐに引き返し、別の道を探しますが…」
ライは、呼吸の乱れた馬を優しく撫で、手綱を握り直して再び元の速度で馬車を走らせつつ答えた。
「そう、それよ。知っていれば、別の道を探せる。でも、弓兵が潜むのを、知らずに進んだ場合どうなると思う?」
「知らないうちに、頭を撃ち抜かれる、でしょうか?」
ライの問いに、ええ、訳も分からずに死ぬだけです、と肯定する。
「ライは頭が良いのね。うちの家臣になって欲しいわ」
「ご、ご冗談を! このライは生涯、若様に尽くしまする!」
それにしても、考えれば考えるほどに、白虎王子との結婚はおかしい。
二十五を過ぎて、お妾さんもたくさんいると言うのに今更、将軍家の小娘を喜んで正妻に迎えようと言う姿勢自体、不自然極まりない。
そもそも、彼は楚国の人質王子である。楚国は強敵だ。他の六国の中で、最も領土が広く、底知れぬ国力を持つ大国だ。
秦国側は、さっさとこちらの王族子女と結びつけ、あわよくば同盟などを取り付けようと動いたはずであるのに、王子がそれを断り、正妻を娶っていなかったのは、“敢えて”だろう。
そして今度は、“敢えて”秦国の将軍家の娘である私を正妻に選んだ。
それも、私の母さまが実家の威光を振りかざし、強引に取り付けた婚姻だと思い、半ば諦めていたが、
どうやら、先ほどの様子では、白虎王子の方こそ“この結婚をどうしても成立させたい”と考えているように見えた。
この結婚には何か裏がある。
“天馬”と言うまぼろしの動物についても知っている様子だったし、あの人はただの人質王子ではない。
私の父は、“百年に一度の英雄”と名高く一目開かれる大将軍だ。
その名を聞けば敵将軍も震え上がるほどに武名は轟いているが、致命的なことに、頭の方はさほど良くない。
気づかぬうちに、あの得体の知れない白虎王子に利用されかねない。
結婚して、私の父や将軍家自体が、取り返しのつかないことになる前に、探りを入れておく必要がある。
本来は、貴族の出の母の役目だろうが、白虎王子との結婚に舞い上がっているので期待できず、自分でも何の威厳も無い小娘の身で頼りない
。だが、私は武将の娘だ。ここは勇気を振り絞って敵陣に乗り込んでいかねば(まだ白虎王子が敵と決まった訳ではないが)。
とにかく、私は決意を新たにしたのだった。
前で手綱を引き、律儀に馬車を走らせるライの小さな肩に、ポンと手を置いた。
「考えてみて。林に何が潜むか、事前に知っていれば対策が立てられるでしょ。だから私たちは、知らないことを知る必要があるのよ」
私は、軍略家風の気取った口調で言い放つ。
「はぁ、若様は、もしやとんでもないおてんば姫とご婚約あそばされたのでは…」
と、ライは呆れて、盛大にため息をついた。
「さあ、白虎王子について、調べに行きましょう。これは我が将軍家の一大事です」
「何をおっしゃる?! 私は若様の! 白虎王子の小姓であって、ティエン姫の家臣ではありませぬぞ!決して!」
「まあまあ。私と白虎王子と結婚したら同じことですし…」
などと言い合ううちに、王宮と見紛うほどの立派な邸宅が現れた。
高い崖に沿ってそびえる邸宅前は、金や銀で飾られた豪華な馬車がずらり並んでいた。身分の高い人々がこぞって参列しているのだろう。
そして、私たちは中へ入って、さらに驚くことになる。
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「これは…何でしょうか?!!」
ライは、大口を開け固まってしまった。頬がみるみる赤く染まる。
宴には、おびただしい数の着飾った客人が押し寄せていた。
ほとんど裸のような格好の踊り子が、くるくると、人並みをかき分け踊り、娼婦の美女たちが、酔った男の腕の中に収まっている。
中には、卑猥な体制で芸を披露する娼婦もいる。
それら乱痴気騒ぎを彩るため、宙には、大ぶりの牡丹の花びらが舞う。建物が吹き抜けに造られており、上階から花を舞い落とす演出が映える。ひらひらと花が泳いで見える。まるで別世界だ。
「ひ、姫様…! 帰りましょう。こんな場に若様の大切な許嫁を連れてきたとあっては、僕が叱られまする!」
と、ライは両手で顔を覆いつつも、人差し指と中指の隙間から娼婦たちの芸を覗きみている。
「アハハ、ライったらちゃっかりして」
豪華絢爛かついかがわしい宴であることは予想していたし、
(ここまでの具合ではなかったが)過去に一度、父の使いで訪れたこともあったのでその点に驚きはない。
しかし、私はある一点から目が離せなくなる。高い天井の屋敷内を闊歩するアレだ。
「ね、ねえ。あの動物は何だろう?! なんか、物凄い巨大なんだけど」
三階か、四階の上まで吹き抜けになっている程に天井は高いというのに、
その動物は窮屈そうだった。丸太のように太くて長い鼻を、くねくね動かし、林檎を十個、一気に砕いて食べている。
「まるで人がアリのように見えるわ」
それくらい動物が巨大だった。
蒼白色の、強固な皮膚を持ち、それでいて、酔った人が足元に抱きついたりしても、特に怒って踏み潰す様子も無い。ゆったりと構え、静かに動く。
私は、見るからに高位な貴族の老人に近づき、その動物の名前を尋ねた。
「アレは、象だ。先代の大王様が南方から連れてこさせた生き物だ」
象と言うらしい。
「戦争にも使っているのですか?」
「戦争で象を使う部隊もあると聞いている。ワシは戦争には行かぬゆえ知らないが」
貴族の老人も、周囲の女も皆一様に酔っているので、私を不審がる様子もなく答えてくれる。
「姫様、ここにいる男たちは危ないですよ、離れましょう。若様はこういう下品な場はお嫌いですので、ここにはいませぬ」
「あら、そうなの」
周囲を見渡してみるが、確かに酒と女に乱れるたくさんの男貴族たちの中に白虎王子の姿はなかった。
しかし、本当に白虎王子が“こういう下品な場は嫌い”であるなら、一体何の目的で来ているのだろう。
先ほど、王子は丞相のこの宴に“毎月お出でになる”とライは言っていた。確固たる目的があるはずだ。
上階を見やると、ひときわ贅沢に宝石があしらわれた正装の男がいる。初老くらいだ。
きらきらと、装飾の光で眩しい。最も護衛をたくさん連れているので、あの人が丞相だろう。
その丞相に付き従うようにして現れたのが、白虎王子だった。遠目からでも目立ち、女たちのうっとりした視線を集めている。
「白虎王子だ! なんて美しいんだろう」
「いいね、アタシはあんな男に一回でも抱かれてみたいもんだよ」
「フヘヘ、買ってもらうんだね」
「バーカ、あれと寝られんならこっちが金払うってんだ」
と、娼婦達に噂されている。
自らにねっとり絡む視線に気づいたのか、王子は巨漢の護衛兵の隣へ行き、その影に隠れるように、歩き始める。
見るからに屈強な護衛達と明るく談笑しつつ、一行はぞろぞろ歩いていたが、やがて丞相と王子の二人は、別の部屋に消えた。が、各所に護衛を立たせ、見張らせている。
「ライ、気づいた? 人の視線から隠れるように歩いてたよ」
私は、上階へ向かうため階段へ向かうことにした。
周囲の空気は酒臭い上、女の白粉が埃っぽく舞っていてむせ返りそうだったが、何とか人波をかき分けて行った。
「姫君、もう帰りましょう、ここは姫の来るところでは…。それに何だか怖そうな護衛兵が…」
と、ライも慌てて追って来る。
「あら、坊や良い顔してるね。お姉さんと遊ぼう」
と泥酔した女に何度となく巻きつかれるも、丁寧に振りほどき、鼻の下を伸ばしながらもぺこぺこと謝りながら歩いて付いてきた。
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そうして、私とライは三階の奥の部屋にたどり着いた。中に王子と丞相がいる。
表側には護衛兵が隙間なく並んでいるため、人目につかない裏口側の廊下で止まり、聞き耳を立てようとした。ところが、
屈強な体躯の護衛が二人残っており、只ならぬ様子で、
「失礼ですが、どなたかな?」
と、私たちに凄み近づいて来る。ライが、冷や汗をダラダラかいた手で、逃げましょう、と私の腕を掴む、声は、聞き取れぬほど震えている。
私は、縮み上がるライを庇うように前に立ち、自分の二倍の高さはある、長身の護衛兵をギロリと睨んだ。
「つまみ出すぞ」
と一方が良い、服の袖をまくって勢い込んだ。
私はすかさず、懐から“金の首飾り”やら“銀の短剣”やら珍しい宝物を取り出した。身につけていた、“ひすいの腕輪”も外し、まあまあ、と男たちを制す。
「いやですね。私は白虎王子の婚約者ですよ。あなた達が、休みなく働かれて疲れているでしょうから、たまには、褒美でもと労いにきただけですのに」
ふふ、と柔らかく笑って、宝物を二人の護衛兵に分けて与えた。
彼らは、いぶかしみつつも、持たされた宝物を値踏みし、売れば小さな家くらいは建つだろう貴重な品であることを理解すると、
「あ、ああ。まさか、婚約者の姫君とは知らず、失礼しました」
「で、では我々は、別の箇所を見張ります」
と、そそくさと表側へ去っていった。くすくすと笑い、
「ドキドキしたね」
と言うと、ライは青い顔でため息を吐く。
「…姫様の無鉄砲さが恐ろしいです」
そして、ようやく遠慮なく聞き耳を立てることが叶う。
私たちは、壁際にピタリとくっついた。中で、男二人の声が静かに響いている。
「楚国から兵士を送らせるには、危険が高すぎる。楚国からの国境付近では、大王派の秦国の精鋭兵が何万と見張っているのだぞ。楚国軍が王城を包囲する前に、大王が討伐軍を行かせてしまう」
と、初老男の強張った声が聞こえる。丞相だ。
ぶつぶつ文句を言いながらも、私と共に聞き耳を立てていたライは、あまりの内容に驚愕し、へたり込んでしまった。
音もなく、涙をぽろぽろと零している。
何と、時の丞相は、敵国である楚国を味方に付け、大王様の暗殺を企てていたのだ。
そしてそれは、今、この派手な宴の影に隠れ密談している相手・楚国の人質王子と共に画策しているに違いないのだ。
「ええ、だから僕は、あの動物を兵団に取り入れたら良いだろうと。何と言っても空が飛べるんです。空飛ぶ騎士兵団が、こっそり忍び寄り王城を包囲するまでですよ」
この間延びした、少年のような話し方は間違いなく白虎王子だ。
まるで夕飯の話題でも話すかのような調子で無邪気に話しているが、話す内容が謀反の計画なのだから、末恐ろしい。
「大王様に謀反を起こすのだぞ。失敗出来ない重大局面に、得体の知れぬ動物など使えるか」
「えへへ、何を恐れているのですか。騎馬兵を馬に乗せるのと同じ。天馬も馬ですからねぇ」
間違いなく、“天馬”のことを話している。大王への謀反の計画に、空飛ぶ馬を使うつもりなのだ。
「大体、その動物は秦国で武功を上げた“大将軍家”が、代々守り神の証として大王から賜るのだろう?」
「そうですよぉ。僕の白虎や、あなたの妃の生家が譲り受けた象のように、先代の大王様がある将軍家の功労に対し動物舎ごと贈っています」
「数は? 少なすぎては、いくら空を飛べると言う利があっても戦力にならない」
「元は数体ですが、天馬を譲られたとある将軍家はこれを繁殖させています。ばっちりです!その数、数千体にまで増えているはずですよ、ふふ、拝むのが楽しみです」
「数千か…。期待できそうだが、その将軍家から手に入れる算段はつきそうか?」
思わず大きく息を吸った。叫びそうになり、両手で口を抑えた。
“将軍家”は秦国内でもいくつかあるが、大王様から直々に、貴重な宝(この場合は天馬)を与えられるほどの武功ある大きな家となると限られており………
「だから僕は結婚するんじゃないですかぁ」
白虎王子との結婚のおける矛盾の原因が、今明らかになった。そして、私も存在を気にしていた“天馬”は、我が家が代々所有しているという。驚かずにはいられない。
「何だって?! 天馬を預かる将軍家に年頃の娘がいるのか?!」
丞相も、白虎王子の計画に驚いている様子だ。
「ええ、十五歳の娘の婿養子にと話を持ちかけられました。願っても無い好機ですよねぇ」
恐ろしい話だ。まず、私の父が所有する空飛ぶ馬を、婿養子に入った白虎王子が手に入れる。
そして白虎王子は天馬を敵国・楚の兵に使わせ、こっそり王城を包囲させる。その上で、孤立無援になった秦国大王を暗殺した後に、おそらくは楚王の皇子である白虎王子がしれっと王位に就き、秦国を乗っ取ってしまおうという計画だ。
民が気づいたときには、すでに秦国は楚国の一部になっており、大王様は殺され、あの人質王子が新しく王の座に就いているだろう。とんでもない人質王子だ。
しかし、大変なことになった。
私の父、および祖父の代から続く我々の将軍家は知らず知らずの内に謀反の片棒を担がされようとしていたのだ。
「その計画だと、早めに天馬を手にせねばなるまい。上手く行くのか?」
「肝心なのがそこですよねぇ。一度結婚して様子を見る必要がありそうです」
「将軍を手懐けるのに時間がかかるか?」
「いえ、問題は義父ではなく、妻の方ですよ」
「十五歳の小娘など、お前の手にかかれば容易いだろう」
フハハ、と丞相が下品に笑う。それがですねぇ、と王子が切りだす。
「僕も姫は若年だと聞いていたので、油断していましたが、一筋縄ではいかなさそうというか…」
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
夕方の王子との会話はまずかった。
天馬を使って大王暗殺および国の乗っ取りまで企んでいる彼に、“天馬について知りませんか”などと聞けば、警戒されるに決まっているではないか。
ところが、
「なかなか僕好みの“いい女”なんですよねぇ」
「へ?!」
思わず、間抜けな声が漏れた。隣にいるライは、全身でわなわなと震え、白い歯はガタガタ言っている。
「ちょっと、姫! 気づかれたらどうするんですか」
と、目が溶けそうな勢いで涙を流し、周囲を警戒している。
ここまで聞いた上で見つかれば、盗み聞きが咎められるだけで済む話ではない。
というか、今見つかれば、間違いなくライ共々殺されるだろう。彼らの方も国家反逆罪で処刑され、首を晒される危険を犯し、計画を立てているのだから。
「護衛兵長、外の様子に問題はないか?」
丞相が、衛兵長に尋ねている。
「はっ。問題ないはずですが、今一度周囲を確認させます」
早く逃げる必要がありそうだ。
しかし、私たちは下の階に降りる階段の反対側の、裏側にいる。下へ降りるには、先ほど買収した衛兵だけでなく、別の衛兵がいる箇所も通る必要がある。
「ど、どうしましょう」
ライも、そのことに気づき青ざめている。もう一度買収しようにも、手持ちの金品はさっきので全部だ。
「ああ、もっと後先考えて行動すればよかった、困ったわ」
私は自分の突発的な行動を悔いた。
「ほんとうですよ。私は何度も注意しましたからね…」
恨めしそうに言われる。確かに怨まれても仕方のないことをしてしまった。
「お前たちは裏側を確認しろ」
「はっ!」
衛兵達の威勢良い声が響く。複数の足音がこちらへ向かっている。
(どうしよう…逃げ場はないの?!)
私は、周囲に視線を巡らせた。突き当りの角に、格子窓がある。
木彫りで家紋や花模様が彫られた、趣向を凝らした設計の格子窓だ。
一見すれば頑丈だが、丞相家の家紋が上手いこと余白が多い模様になっているため、一人ずつが抜けられるくらいの空洞が出来ている。
幸いにも、私は同年代の子女と比べても華奢であるし、ライも痩せ型だ。私よりは上背があるが、若いから気合ですり抜けられるだろう。
「あそこから脱出しよう」
小声で言う。足音は迫っている。急がなければ、捕まって殺されてしまう。
私が殺されれば、天馬を目当てにした結婚は無くなるだろうが、白虎王子達は別の方法で謀反の計画を練り直すだけだ。
私が生きて帰って、父さまの名誉のためにも、秦国のためにも、どうにか事を収めねば。
「あの下は崖ですよ?!」
ライは狼狽えたが、私は衣の裾をたくし上げ、構わず窓によじ登った。
「わあッ、姫さまがそんな格好するものではありませぬ」
私は、静かにして、と小声で制した。
「いい? ライ。あなたなら出来るわ。壁を伝って、崖に落ちないように下へ降りよう」
「姫君、そんな無茶な…」
しかし、ライも、すぐそこまで迫る護衛兵の気配に、もはやそれしか逃げ道が無いことを悟ると、観念して私に続き格子に脚をかけた。
「そこに誰かいるのか?!」
「今、何者かの声が聞こえた。突き当りを探せ!!」
「はっ!」
物音を察知した護衛兵数人が、廊下の突き当りへ辿り着いたときには、なんとか私たちは格子窓の外側へと出られていた。
両手両足で、雨に濡れた壁にしがみつき、虫のようにへばりつく不格好だが、殺されるよりマシだ。
ライは、下を見やると、悲鳴をあげた。
「ひえええええ…やっぱりこちら側は断崖絶壁じゃないですか…落ちたら死にますよ?!」
「落ちなきゃ死なないでしょ」
「で、でももし落ちたら…! うわあああん怖いよ。まだやり残したことがあるのに…! 私の死は姫のせいですからねッ。呪いますよ?! 末代まで呪いますからね?!」
そう、ライの言う通り、私たちはもし足を踏みはずそうものなら、崖の底に落ちて死ぬ。
そして、それは無鉄砲にも宴へ飛び込んできた私の責任だ。
「まあ、一歩ずつ下へ降りれば大丈夫。掛け声でもかけ合おうか」
と明るく言ってみるも、足がすくんだ。
一階の外に降りられても、建物自体が断崖絶壁に立っている。
今私たちは裏門の方面にいるので、降りた後、崖に落ちないよう半歩分の足場を伝い、正門の方まで戻らなければならない。
「また呑気なことをッ」
と、ライが力んだ瞬間に、右足を踏み外した。
「わあッ!」
ぐらりと体の均衡が崩れる。
「危ないッ!!!」
私が叫んだと同時に、足場を失ったライが上から落ちる…と、そう思ったとき、耳の奥でさっきのライの言葉が聞こえていた。
『まだやり残したことがあるのに…!』
責任を取らねば。勝手な都合で巻き込んだ、何の関係もない少年を殺すわけにはいかない。
そして、ゆっくりと落ちてくるライの丸っこい背中に、抱きついた。
その重さで、私も体を崩す。崖に向かって、塊になった私たちは落ちるだろう、と予想された。
冷たい雨が全身を伝う中、ライの丸っこい小さな頭を守る様に腕を回す。
ゾクゾクと全身を激しい寒気が走る。鳥肌が立つ。大きく息を吸い込み、目を瞑った。
(ああ、もうダメだ、落ちる落ちる落ちる………!!!)
と、そう覚悟した時だった。
(なんだろう、この恐怖感。前にも感じたことがある様な…)
と、嵐の様に全身を襲う恐怖感に対し、妙な懐かしさを覚えた。確実に、同じ恐怖を前にも経験していると思った。
(あの時だ…あの前に住んでいた高層マンションから落ちて…あれ “マンション”って何だっけ?!)
そして、私はライに被さったまま崖へ向かって落ちていくのだが、その間に理解しがたい走馬灯を見ることになる。