2話 老婆の館
ユーリアという少女は、両手でぬいぐるみを差しだした。
それをヨリシロにするつもりらしい。
「ぬいぐるみを?」
目を丸くする老婆に、若い女が答える。
「定番とされている指輪やペンダントよりも、幼い頃からいつも一緒だった物品を使用した方が、案外、成功してしまうものではないでしょうか。わたしがユーリアお嬢様に提案させていただきました」
老婆は黙ったまま歩きだし、床に描かれた大きな魔法陣を、クイッと顎で指し示した。
ユーリアは魔法陣の中央にぬいぐるみを乗せた。その頭部を優しく撫でてから、ぴょんと魔法陣からでる。ぬいぐるみを顧みて、両手を胸元に置いた。
黙っているユーリアに老婆が指示を送る。
「知ってのとおり、この魔法は特殊なため、決まった呪言などない。さあ、ヨリシロに向かって自由に語りかけるのだ」
「は……はい」
弱々しい返事だった。深呼吸のあと、ゆっくり目を閉じる。そしてぬいぐるみに話しかけた。
「お願い。今度こそ成功して。わたくしはあなたをお待ちしております。直ちにいらしてください。もしあなたがいらしてくだされば、わたくし……」
彼女はときどき薄目を開け、ちらちらと老婆のようすをうかがうのだった。どうやら集中できていないらしい。ぬいぐるみに語りかける言葉も詰まりがちになっていた。
「そこまで」と老婆が止めた。「時間の無駄だ。もう諦めなさい」
ユーリアも納得したようだ。ぎゅっと口を閉じ、こくりと首肯した。魔法陣の中に入り、ぬいぐるみを抱えあげる。
ぬいぐるみの目元が露で濡れていた。目の部分のガラスが冷えたためだろう。
「この子、泣いている……」
彼女はそういって、ぬいぐるみを魔法陣の中央に置き直した。
震えながらメイド服の若い女に尋ねる。
「ねえ、歌うのって駄目なのかな? もう一回やってみたい」
若い女は呆れ顔になった。
「何をおっしゃいますか。語りかける代わりに『歌う』なんてやり方、聞いたこともありません」
ユーリアがしょんぼりと背中を丸める。
しかし険しかった老婆の顔から笑みが零れるのだった。
「ほう、それは面白い。構うまい。試してみるのもよかろう」
「う、歌で……ですか?」若い女が驚愕している。
ユーリアは目を輝かせ、若い女に向いた。
「ほら、いいっておっしゃったわ」
「そのようですね。失礼いたしました」
ふたたび魔法陣からでたユーリアは、ぬいぐるみを見つめながら歌い始めた。
彼女の歌声が館内に響く。
緊張のためにずっと強張っていたユーリアの表情は、すっかり穏やかになっていた。優しく美しい歌声に、老婆も若い女も恍惚として聴き入っている。
そして奇跡が起きた。
ぬいぐるみが刹那に光ったのだ。
老婆も若い女もそれを見逃さなかった。
二人は自然と互いの顔を見合った。
「もしや、ユーリアお嬢様は成功されたのでしょうか?」
「そ、そのようだ。なんということだろう。ウィルハイザ家といえば、山神のみを召喚させるという珍しい家系。となると召喚したのは、まさしく山神ということになる。我も目にするのは初めてのことだ」
若い女はユーリアに歌をやめさせた。すぐさま魔法陣の中に入り、ぬいぐるみを拾いあげる。それを魔法陣の外で待つユーリアに手渡した。
「わたくし……」ユーリアが震えている。
「はい、ユーリアお嬢様。ご立派です。召喚に成功されました。このぬいぐるみは山神を宿しているのです」
「こんなこと嘘みたい」
ユーリアの両目から大粒の涙が零れ落ちた。
若い女も感涙に頬を濡らしている。
「嘘でも夢でもありません。現実のことですよ、ユーリアお嬢様。ウィルハイザ家として百四十九年ぶりの快挙です」
ユーリアはぬいぐるみを抱いた自分の姿を、部屋の奥にある大きな鏡に映した。
「ユーリアお嬢様、ここで山神を顕現させてみてはいかがですか」
しかし老婆がそれを拒むのだった。
「ならぬ。ここは女人以外は立ち入れない館なのだ。山神の顕現は帰ってからにしてもらおう」
「そうおっしゃいますと、山神は殿方なのでしょうか」
「わからぬ。だからこそ、ここでの顕現を禁止する」
ぬいぐるみに宿した山神を顕現させるのは、屋敷に帰ってからのこととなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
少女の優しく美しい歌声……。
シノにはこの歌声が聞こえないのだという。
おかしなことだ。こんなにはっきりと聞こえているのに。
風が吹いた。かなりの強風だ。
それでもシノはこの風を感じとれないらしい。
なんとも面妖なことだ。
うわっ!
急に息が苦しくなった。呼吸ができない。
さらには全身を覆う大気の圧迫感……。
死ぬ~~~~~。
いま見ているものすべてが、まるで紗がかかったように朧げになっていく。青い空も、地面の草木も、それから牛鬼の死骸も、もう認識することが難しい。
やがて、いっさいの光が消えた。
ただ風が吹き、歌声だけが聞こえていた。
風がオレを歌声のもとへと運んでいるような感覚。
光が戻った。
はっ! ここはどこだ?
さっきまで野外にいたはずだが、ここは屋内ではないか。
皺の深い老婆と二十歳前後の若い女が互いの顔を見ている。
見知らぬ少女が歌っていた。十七歳のオレより若干年下に見える顔立ちだ。
ずっと聞こえていたのは、コイツの歌声だったのか。
ここにいる彼女たちは誰なのだ。ああ、もう、いったい何がなんだか。
おい、お前たちは何者だ……と叫ぼうとした。
あれっ? しゃべれない。声がでない。どうしてだ。
体も動かないぞ。
若い女が少女に歌をやめさせ、こっちにやってきた。
オレを抱えあげる。
なんて巨大な女だ――このときはそう思っていた。
そしてオレの体は、少女に手渡された。
コイツも、でっけー。
「わたくし……」
「はい、ユーリアお嬢様。ご立派です。召喚に成功されました。このぬいぐるみは山神を宿しているのです」
大きな彼女たちがそんなことを話しているが、ぬいぐるみとか山神とかってなんのことだ?
少女はオレが動けないのをいいことに、抱き締める腕にぎゅっと力を入れた。向きが変わると、大きな鏡に自分たちが写った――。
え? これ、オレじゃねぇーじゃん。
少女が胸元に抱き締めていたのは、オレではなくぬいぐるみだった。