1話 はじまり ~ 凛とユーリア ~
この夏は奇妙なことばかり起きている。特にきょうなんて酷いものだ。たとえば西の山の噴煙といい、早朝に降った季節外れの雪といい、いま眼前に伏している巨大蜘蛛といい……。コイツ、蜘蛛のくせに体長三メートルはありそうだ。
ちなみにこの蜘蛛はもう生きてはいない。単なる死骸だ。コイツの正式名称は牛鬼というらしい。姿が蜘蛛なのに牛かよってツッコミたくなるが、そう呼ばれているのだから仕方がない。
エゾゼミの鳴く声が聞こえる。シダが葉に露を溜めている。
辺り一帯に淀む空気は不快なまでに湿を帯びているが、隣に立つ幼い女の子の顔だけは涼しげだった。
「ありがとうな。オレはお前に命を救われた」
礼をいうと、幼い女の子は口角を吊りあげた。
「その代わり、約束は守ってもらうから」
「もちろん好きにしてくれていい。憑依だってなんだってされてやるさ」
「よろしい」
小さな足がぴょんと跳ねる。
白くて細い両手を、オレの首の後ろに回し、正面から体にぶらさがった。
ほんの一瞬だけ、幼い女の子の顔が、年頃の娘のものに見えた。
改めて思った。やはりこの子は人間じゃないんだ。
「じゃ、このまま憑依するわ」
「いいとも。さあ、こい」
小さな体がオレの中に入ってくる。痛くはない。
ただ全身が熱くなった。
そしてオレたちは一体化した。
「聞こえるかしら」
女の子の姿はなく、ただ声だけがした。
「ああ、聞こえているとも。憑依成功ってわけだな」
「失敗などしないわ。いいこと? これからはいつも一緒よ」
後悔なんてなかった。もし彼女に助けてもらえなかったら、どうせ今頃は巨大蜘蛛――正確には牛鬼――に食われていたのだ。
「いいぜ。そんじゃさあ、名前を聞かせてくれないか」
「名前? わたしはシノ」
答える前に少し間があったが、幼い女の子はシノと名乗った。
「オレは綺堂凛だ」
「いわずとも知ってるわ」
オレの名を知っていることに驚愕した。
ちょっと怖くなったのも事実だ。
「そっか。知っていたのか。それは光栄だ」
こうしてオレはシノという小さな女の子を、この身に宿すことになった。
ただしこのときは、彼女の正体をまだ何もわかっていなかった。
どこからか歌が聞こえてきた。
近くには誰もいないはずだ。この体に憑依した女の子の声とも違う。
それにしても美しく優しそうな歌声だ。とても柔らかく心に響く。
この歌に呼ばれているような気がしてならなかった。
憑依したばかりのシノに尋ねてみる。
「この歌、どこから聞こえてくるのかなぁ?」
「何をいってるの。歌なんて聞こえないわ」
聞こえないのか?
しかしこれが空耳だとかありえない。ハッキリと聞こえているのだ。
歌声は徐々に大きくなってくる。
強風が吹いた。
「なんだよ、この風。すさまじいな。まるで台風がきたみたいだ」
「風なんかどこにも吹いていないじゃないの」とシノ。
おい、何いってる? オレの体が飛ばされそうだというのに。
どうも変だ。何かがおかしい。
うわっ!
息が苦しくなった。呼吸ができない。
大気が全身を激しく圧迫している。
死ぬ~~~~~。
視界からいっさいの光が消えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
石畳の大通りを白馬車が走る。左右のアカシア並木はどこまでも続いていた。
左手に古びた建物が見えた。近くに三台の馬車が停車している。黒馬車が二台と青馬車が一台。白馬車は少しだけ離れたところに停まった。その白馬車からおりてきたのは、メイド服の若い女と、白いワンピースの少女だ。
若い女が背筋をぴんと伸ばしているのとは対照的に、少女は怯えるように背中を小さく丸めていた。その目は何かを目撃したらしい。
「ふぇっ」
白いワンピースの少女はそんな声を発し、アカシアの木の陰に隠れてしまった。メイド服の若い女が、そのようすを見て溜息をつく。
古びた建物からでてくる者たちがいた。三人組の少女だ。彼女たちは容姿にまだあどけなさを残しているが、いずれの笑顔も気品を湛えていた。
ワンピースの少女が木陰に隠れたのは、どうやら彼女たちに関係がありそうだ。
三人組が黒や青の馬車に向かって歩いていく。ワンピースの少女は彼女たちが通り過ぎていくのを、じっと身を潜めながら待っていた。
メイド服の若い女が三人組に会釈すると、それぞれの口から「ごきげんよう」と返ってきた。そのうちの一人が木陰に隠れた少女を見咎める。
「あら、ユーリア様も。ごきげんよう」
白いワンピースの少女はユーリアという名前らしい。
「ご、ごきげん……よう」
ユーリアは小声で挨拶を返すと、突然走りだし、メイド服の若い女の背中にまた隠れてしまうのだった。
彼女を背にした若い女が三人組に尋ねる。
「皆様もここへはお勉強にいらしたのですか?」
得意げな顔で返答するのは、金髪たて巻きロールの少女だ。
「さようよ。本日、三百十六音節もの長い呪言を、一気に暗記してしまったわ。あとはその音節一つ一つに魂を乗せられさえすれば、いよいよ大魔法の実現となるはずね」
その隣で、銀髪ストレートの少女が相槌をうつ。
ここから少女たち三人の仲間内で、くだらない褒め合いが始まるのだった――。
「さすがはシャナレミア様。わたくしの場合、百音節以上の呪言でしたら十七ほど暗記しておりますが、三百音節以上のものはまだございませんわ!」
「あら、百音節以上の呪言を十七も覚えられれば、称賛されるべきことと存じましてよ、ビウメラ様」
「まあ。シャナレミア様に褒めていただけますと、うれしゅうございます」
「ロランビージャ様も、昨日は学校の魔法科の授業で、ミチニーカ先生に褒められていらっしゃいましたね」
「ですが、わたくしなどは……(云々)」
「それはそれは。皆様、お勉強熱心ですこと」と若い女。彼女の微笑には辟易感が垣間見えていた。
三人の少女たちはそれぞれの馬車に乗り、轣轆の音とともに去っていった。
ユーリアとメイド服の若い女が、古びた建物の前に立つ。玄関のドアをノックして中に入った。
奥には老婆が座っていた。彼女は大きな鼻を持ち、顔じゅうに深い皺がある。しかし聡明そうな瞳からは、ただならぬオーラを発していた。
ユーリアの表情は緊張したように強張っていた。彼女がその老婆を苦手としているのは一目瞭然だ。
「残念だが本日はもう閉館とする。明日きてもらおうか」
老婆は冷たく二人を追い返そうとするが、メイド服の若い女は食いさがった。
「そこをなんとかお願い申しあげます。きょうはユーリアお嬢様が珍しくやる気になっておりますので」
老婆の鋭い視線がユーリアを射抜く。
するとユーリアはいっそうガチガチになってしまうのだった。
老婆が鼻で笑う。
「ふん、強大魔法の呪言でも覚えたいのか。さきほどの子供たちにもいったことだが、長い呪言なんぞ覚えても、それが使えなければ努力は無駄になるだけだ。悪いことはいわない。若い時期は家や学校で基礎魔法の習得に励むがいい」
若い女は頭をふった。
「今回は呪言を覚えるために参ったのではございません。きっとユーリアお嬢様も呪言には興味ないと存じます。例の魔法をまた試させていただきたいのです」
「例の? ふむ、アレか。だが、つい二ヶ月前に失敗したばかりではないか。短期間で何が変われるというのだ」
「しかし……ユーリアお嬢様には時間がないのです」
「ウィルハイザ家とは面倒なものだな」老婆はそういって、考え込むように目を閉じた。小さく息を吐いてから、ふたたび目を開ける。「必死になるのも無理はなかろう。では、ヨリシロとなるものは持ってきているのか」
「感謝いたします」
若い女が頭をさげると、ユーリアもそれに倣った。