うるさい
静かな場所を求めて私と美川さんはさまよい歩き、二年三組の教室に辿り着いた。セミの鳴き声も吹奏楽部の練習する音も運動部のかけ声も、窓を閉めても聞こえてくるから決して静かではないけれど、慣れてる分マシだと美川さんが言うからここにした。
暑すぎるからクーラーを付けてやろうとボタンを押す。補習期間だからか夏休みなのにスイッチが入り、自分で押したのにびっくりしてしまった。
廊下側後ろから二番目の席に座る。美川さんはその前の席。いつもと違うのは、私の目に映るのが後頭部じゃないことだ。
「やっぱり綺麗な顔してるよなあ」
「なに、急に」
「北野くん、美川さんのどこに惚れたんだろって。やっぱ顔?」
「さあ、そうなんじゃない」
自分で言うんだ。
私は頬杖を付いた。数週間ぶりに足を踏み入れた教室は、普段と違う匂いがした。
「結局北野くんも、顔で選ぶんだ」
「わりに凡庸な人なんだと思った?」
「ぼんよう?」
「普通ってこと。大したことない人なんだって、思ったんでしょ」
そうなのかもしれない。北野くんはわりに凡庸な人。私は凡庸な人に好かれることすら出来ないつまんない人。
クーラーの風が火照った肌の上を滑る。冷えてきた脳が、悲しみを都合よく解釈していく。
「どうして夏が苦手なの?」
美川さんは私の問いに、そっと目を伏せた。
「うるさいから」
「セミが嫌いなの?」
「それもだけど、全部うるさい。私、聞こえるの」
「……もしかして幽霊的な」
「幽霊は聞こえない」
「じゃあ何が」
「全部。見たものも感じたものも、全部聞こえる。私にとって見ることは、聞くことでもあるの。生き物の感情も、わかりやすいものなら聞こえる」
「……ほんとに?」
「嘘は汚いから嫌い」
私は慎重に言葉を拾っていった。そうだ、美川さんは決して嘘を吐かない。訊かれたことには必ず答える。
「それっていつから?」
「ずっと。小さい頃は、みんなそうなんだと思ってた」
閉ざされたままの美川さんの瞼が僅かに震えていた。こうしてすぐに目を閉じるのは、聞きたくないことを聞かないため?
「じゃあずっと耳栓をしてるのは、そのせいなの?」
「耳栓で聞こえなくなるのは、本当にただの音だけだけどね。医者は共感覚の一種じゃないかって」
遠くの音楽室から聞こえていた楽器の音が止んで、しばらくすると合奏が始まった。右手の指がもはや癖のように動いてしまう。
「こういう音は、どう聞こえるの?」
美川さんは顎を摘まんで口をぱくぱくさせた。どうやら言葉を探しているようだった。
「楽器の音に包まれて、中にもうひとつ音がある感じ。それがたくさん重なるから、うるさい時はほんとうにうるさい。特に今日の合奏なんて最悪だった。緊張と不安がごちゃごちゃに混ざって、頭が痛くなった」
目を閉じて、私は耳を澄ませてみた。美川さんの言っていることは、私には到底理解できない。私の凡庸な耳では彼女の苦悩に共感できなかった。
「でも、今のこれはちょっとだけ綺麗。いつもこんな風に吹けばいいのに」
瞼を持ち上げると、いつの間にか目を開けていた美川さんと視線が交差した。
「北野くんのこと、どう思ってるの?」
気が付いた時には口から飛び出していた。美川さんは小さく笑った。
「あの人は綺麗でうるさいことが少ないから、嫌いじゃない」
「じゃあ私は」
「村崎さんは顔もうるさいし声にもすぐ雑音が混じるし言ってることと表情があべこべで不協和音ばっかだし――」
美川さんはふと口を噤んで、席を立った。
「もう十分納得したでしょ。私帰るから」
そう言うと、彼女はさらりと教室を出ていった。
あんまり急で、私はすっかり取り残された。美川さんがちゃんと答えないのは初めてだった。
私達が出ていった後の音楽室で、どよめく部員をすぐに纏めて練習を始めさせたのは坂上先輩だった。と教えてくれたのは高瀬くんだ。
コンクール本番まであともう少し。直前練習も終え、後は移動して舞台袖で本番を待つのみだった。
私は緊張の色が見えない頼もしい高瀬くんの横顔を見上げた。
「緊張、してなさそうだね」
「トランペットは緊張を吸う気がするから、しないようにしてる」
「自分でコントロール出来るのがすごいよ」
すっかり感心して私は俯いた。彼は本当にしっかりしている。私は何もわかっていなかった。誰のことも、わかってなかったのだ。
「ごめんね」
「……なにが」
「なんでもないけど、私高瀬くんも部長、向いてると思うよ」
「へえ」
「コンクールに対して一番真剣だったの、たぶん高瀬くんだから」
高瀬くんはトランペットを胸の前に引き寄せた。真似してみたら、トランペットに鼓動が伝わった。
「俺、銀賞狙う気なんかなかったからな」
「え? うそ」
「今年、金賞取る気なんだよ、俺は」
細められた彼の目が見つめる先は、坂上先輩だった。見たことある男の子の表情だ。ああ、なるほど。へえ。なるほどね。
私達は舞台袖に移動して、息を潜めた。前の学校の演奏が私達より上手いのか下手なのかも、私にはよくわからない。少し遠くにある美川さんの後頭部は、相変わらず微動だにしない。
あんなにたくさん練習しても、本番はたった一度だけ。
前の学校への拍手がホールいっぱいに広がる。鳴り止むのを合図に私達は急いで準備をして、指揮の顧問の先生を見る。指揮棒が上がる。大きくお腹で息を吸う。弾けるように軽やかに、アルヴァマー序曲が始まる。
華やかな管楽器の音色が目の前に広がるみたいになって、少し遅れて鼓膜の奥へ流れ込んでくる。
力強いパーカッションは溝落ちの真ん中で響いてくるようで、押し出されるみたいに私の音が飛んでゆく。
音の洪水の中で一際目立つ、美しい音色がある。視界の隅っこで、目を閉じている美川さんの姿が見える。彼女はいつもそうだった。合奏の時から、指揮棒が下がった瞬間目を閉じていた。指揮を見なくったって誰よりも正確に合わせられるからみんな何も言えなかった。
一体どんなに、苦しみながら彼女はここに座っているんだろう。ねえ美川さん、みんなと吹くトランペットは、楽しい? きっとどうしようもないくらい、うるさいんだろうな。でもね、私の音階すらまともに聞き分けれない耳ではなんとなく、最近の美川さんの音色はイキイキして聞こえたんだよ。なんて言ったら、きっとまた「うるさい」って顔を顰めるんだろうな。
ーーその時、私は美川さんの瞼が僅かに持ち上がりすっと細められたような、そんな気がした。