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ヒーローに恋した脇役


 夏休みになると、吹奏楽部は平日も土曜日と同じ八時から十三時までの練習時間になる。といってもそれはコンクールが終わるまでの話で、終われば存分に夏休みを満喫できる。

 私と美川さんはあれからずっとぎくしゃくしていて、朝の筋トレ以外でほとんど会話をしなくなった。それと同時に彼女の出席率も低下していって、私は罪悪感を抱くようになった。なのにどうしても私から歩み寄る気にならなくて、北野くんに心配されても突っぱねてしまった。

 後悔すればいいと思った。私なんかが怒ったって美川さんにはどうだっていいのかもしれないけど、それでも私にだって怒る権利くらいある。

 そうしてコンクールまで残り一週間になった七月の終わりの事だった。

 明日からコンクールまで毎日みんなで残って練習しよう、と北野くんは一、二年生に向けて提案した。

「受験で忙しい中頑張ってくれてる三年生のためにもさ、二年生と一年生で練習しようよ。もちろん用がある人は仕方ないし、強制じゃないけど」

 これには、ほとんどの人が賛同した。疲れる、と渋る人も「少しでいいから」と北野くんが一人一人説得すると笑って頷いた。

 強く正しく美しく、彼はいつもそうだった。だから彼の周りには人が集まって、彼の声はみんなの声になる。

 もちろん幸は喜んで同意して、毎日残るようになった。自分一人では渋るのに、大義名分があれば簡単に居残りくらいするようだ。

「なんかこういうの、久しぶりだね」

 コンビニで買ったソーダ味のアイスを顔の前で振って、幸が口を開いた。私も袋を破って同じ棒付きアイスを取り出す。ゴミを捨ててから、ゆっくりした歩調で焼けたコンクリートの上を並んで進む。

 幸と二人きりになるのは久しぶりだった。ほんの数ヶ月前までは私達、気が付けば二人で一緒にいたのに。たまたまが重なり合って、帰りが二人だけになった今日この瞬間まで、私は「久しぶり」だということを考えもしなかった。

「クラス離れちゃったもんね」

 言いながら私は、それが言い訳だとわかっていた。クラスが離れた、そんなの理由になんてならない。いくらだって会いに行けるし、それこそ放課後だって二人だけで寄り道するなんてしょっちゅうだった。だから私達が離れたのは、決してクラスだけじゃない。

 真昼の太陽は私が手にしているイチゴ味を溶かした。指先に付いた赤色をなめとって、私はソーダ味が食べたかったのだと思い知った。やっぱり私達、気が合うんだよ。でも、合わなくなったことにしたいんだ。

「理沙、最近上手くなったよね。特に後半、音量落ちなくなったし高音も出てる」

 幸はまた少しメイクの濃くなった顔で笑った。夏に合わせて高い位置で縛った巻き髪が揺れる。前の幸の方が私は好きだったな。伝えたら、不機嫌になるだろうか。

「ほんとに? 嬉しいなあ」

 私は美川さんのお陰だな、と言いかけた言葉を嚥下して、代わりに「ありがとう」を選び取った。幸の機嫌がいいのは、私が美川さんと話さなくなったからのような気がしていた。

「私は? どうかな?」

「え? ――ああ、幸も上手になったと思うよ」

 額に汗が滲む。イチゴ味が苦くなっていく。幸に対して重ねてきた嘘が今になって私の舌に呪いをかけている。誤魔化すようにアイスを囓るとガリガリとうるさかった。

 幸は眩しそうに空を見上げた。

「次の部長、北野くんになりそうだね」

 坂上先輩が引退した後、部長を誰が引き継ぐのかは、二年生の間では大きな話の種だった。候補の筆頭は北野くんだ。私は誰の予想にも挙げられないから関係ないけど。

「今までずっとトランペットの人が部長な事が多かったみたいだし、高瀬くんかもよ」

 高瀬くんは貴重な経験者なのもあり、先輩達に頼られることが多い。人望で選ぶなら北野くんだけど、実力で選ぶなら高瀬くんだろう。

「えー、北野くんがいいなあ。そしたら私、副部長やる」

 幸は歯を見せて笑った。可愛くて、ソーダ味が美味しそうで、ずるいと思った。

「でも、私も北野くん部長似合うと思う」

 なんていったって、彼は生まれながらの主人公だ。部長だってそつなくこなすだろう。

 私の意見に、幸は気をよくしたようだった。

「でしょ? 高瀬は無愛想だし部長って感じじゃないもん」

 食べ終えたアイスの棒を指揮棒よろしく振り回して、幸は四拍子を刻んだ。染みついたアルヴァマー序曲のテンポだ。

 のろのろ歩く私達のすぐ横を、ふいに同じ制服の男の子が早足で追い抜いた。幸の指揮は急速にテンポを落としていく。こういうの、なんていうんだっけ、リタルダンド? いや、リテヌートか。

 遠ざかっていく高瀬くんの背中を私達は見つめるしか出来なかった。どこかで鳴いているセミの声が、怖いくらいにうるさかった。




 北野くんが発案した居残り練習会は、連日予想以上に多くの人数を集めた。個人練習に打ち込む部員もいれば、仲良し同士で何度も合奏する部員もいる。普段の部活では味わえない自由さに、初日は面倒そうだった人も次第に進んで居残りをするようになった。練習の辛さで忘れかけていた楽器の楽しさを思い出してゆく時間のようだった。この一週間、一度も居残りに参加しなかった一、二年生は、たった一人だけだ。

 そうしてついに迎えたコンクール前日。普段より早く全体練習を終えた後のミーティングで、「今日は三年生も残ります」と坂上先輩が手を挙げた。これまでもちらほらと居残りをする人はいたけれど、三年生全員が残るというのは初めてのことだった。

 確実に結束が固まっている。音楽室は高揚感に包まれていた。今なら、大きなことを成し遂げられる気がした。もしコンクールが銅賞だったとしても、今日の思い出は色濃く残るだろう。

「美川さん、今日くらい残りなよ」

 和やかな雰囲気を切り裂くように、鋭い声色が響いた。ただ一人、鞄を持ちドアに向かおうとしていた美川さんの腕を幸が掴んでいた。

「放して」

 音楽室中の注目が二人に集まっている。面倒くさそうな美川さんと対照的に、幸の眼差しは真剣だった。

 北野くんが二人の間に入って眉尻を下げる。繋がったままの二人の腕をぽんと叩くけど、幸は放そうとしない。

「まあまあ、美川さんにも事情があるんだよ」

「じゃあその納得できる事情を言って見せてよ。みんなが頑張ろうって言ってるのに一人だけ何様のつもり?」

「帰りたいから帰るだけ。本来の練習時間は終わってるんだから問題ないじゃない」

「……強制じゃない、って最初に決めたんだからさ、しょうがないよ、ね?」

 北野くんが宥めると、幸は今にも泣き出しそうに唇を噛んだ。彼の優しい声色は、私にまでその剣先を向けていて、心臓を串刺しにされた心持ちだった。どうしてそんな風に言うの。北野くんが言ったら、幸にはどうしようもなくなるじゃない。

 幸が震える手を放す。今すぐ駆け寄って、手を握ってあげたいのに足が動かない。

「お前さ、美川だけ特別扱いするのやめろよ」

 沈黙を破ったのは高瀬くんだった。彼の鋭い視線は、北野くんに向けられていた。

 想定外の攻撃だったのか北野くんはたじろいだ。無敵だったはずのヒーローに敵が出現した瞬間だった。

「そいつ、夏休み入ってからしょっちゅうサボってるだろ。しかも一度も居残りに参加してない。練習中も目つぶってぼーっとしてるし。確かに上手いけど、吹奏楽って一人でやるもんじゃないんだよ。誰かを特別扱いするのは全体に迷惑だ」

「……けど、美川さんは夏が苦手なんだって。仕方ないだろ」

「仕方ないかどうかは、お前が決めることじゃないんだよ。お前は美川に好かれたいだけ。俺たちはお前の恋愛のために部活やってるんじゃない」

 北野くんは呆然として立ち尽くした。静まりかえっていた音楽室がざわめきだす。

「うるさい」

 俯いていた美川さんが呟いた。両耳を手で覆って、走り出す。そのすぐ後を、表情を取り戻した北野くんが追いかける。私は幸と高瀬くんを交互に見て、スカートの裾を握りしめた。

 どよめく部員達の合間を縫って、音楽室から抜け出す。辺りには美川さんと北野くんの姿は見えなくて、足音に耳を澄ませて後を追う。自分じゃないみたいだった。




 階段の途中で私が追いついた時には、北野くんはとっくに美川さんを捕まえて話をしていた。入っていけずにしゃがんで隠れている間に、話は高瀬くんの発言の事に移った。

 ちゃんと自分の口で言いたいんだ、と言う北野くんの声は震えていた。

「ずっと好きだったんだ」

 ヒーローがヒロインに告白している。なんて絵になる光景だろう。私は胸はいっぱいになりすぎたら次は空っぽになっちゃうんだな、と静かな心で思った。

 早く立ち去らなくちゃ。私の涙腺がもたない。わかっていたつもりだった。わかったうえで、あらかじめ一線を引いておいたつもりだった。なのに壁に張り付いて立ち上がろうとした私の足は、また動かなくなった。

「ごめんなさい」

 美川さんの大人びた声は、小さいのによく通る。少し上の階段で立ち聞きしている私の耳にでさえ、届くくらいに。

 美川さんが北野くんの告白を断った? どうして? 

 目の前で起きた出来事に、私は半ば唖然としていた。

「そっか、俺こそごめんね。……また明日」

 北野くんが階段を上ってくる気配がする。私は急いで階段を駆け上がり、廊下の影に隠れた。北野くんの足音が通り過ぎたのを確認してから、また走り出す。

 階段を降りて、下駄箱に向かう。そこには、靴を履き替えて歩き出す美川さんのすらりとした後ろ姿があった。

 彼女はゆったりとこちらを振り返った。長い睫毛に縁取られた目がしきりに瞬きをする。

「何か用?」

 自分で追いかけたのに追い込まれた様な感覚がして、私は唾を飲み込んだ。

 なんで振ったの? 北野くんの何が駄目なの? 人気者を振るのって、気分がいいの? どの疑問も声にならなかった。

「応援してたのに」

「応援?」

「美川さんと北野くんのこと、私応援してたのに」

 美川さんは僅かに眉根を寄せた。

「どうして?」

「だって、北野くんは、憧れの人だから」

 私がどんな顔をして言ったのかはわからない。でも美川さんは整った顔を迷惑そうに歪ませて、息を吐いた。

「なら、応援なんかしないで邪魔でもすれば」

――邪魔?

 次は私が顔を顰める番だった。邪魔だなんて、

「そんな、だって、そんなことしたら――、悪役に、なっちゃう……」

 私は知人Mでいい。悪役にも、ライバルにも、なりたくない。負けるくらいなら、脇役がいい。

「邪魔する奴は悪役だ、って北野くんが言ったの?」

 美川さんは意外そうにしていて、私は耐えられずに俯いた。上履きは、あのとりとりじゃんけんの日みたいに汚れていた。

 楽器の音が聞こえだした。一番大きな音は、坂上先輩のトランペットだ。三十三人を引っ張って、難しいファーストを頑張ってきた部長の音だ。明日のために、みんな練習してきたんだ。

 私は隙あらば帰ろうとする美川さんの細い手首を掴んだ。こんなに世界も私の顔も手のひらだって熱いのに、彼女の手首は悔しいくらい冷たかった。

 美川さんはうんざりした様子で、掴まれていない方の手で片耳を塞ぐ。

「泣かないでよ、うるさいなあ」

「やだ、私が納得するまで泣き止まないし放さない」

「子どもみたいなこと言わないで」

「美川さんが言ったんじゃん」

 一歩引いた安全な位置にいるの、やめてみろって。



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