何がわかるの
二週間後の土曜日、北野くんは自分の楽器を持って音楽室へやってきた。
光り輝く新品のクラリネットに、みんなが集まって羨んだ。つい先日、楽器屋を訪ねてその値段の高さを目に焼き付けてきたばかりの私には、より輝いて見える。
美川さんにマウスピースを借りてから、かなり調子がいい。こんなに違う物かと思い知らされていた。買ったら返すと言ったはいいけど、トランペットのマウスピースはそこそこの物で五千円くらい。買えない程ではないけれど、決して安い値段ではない。トランペット本体ともなれば十万くらいになる。とはいえ、トランペットは小さいからか安価な商品も案外あって、数万円でも揃えられるようだ。数万円なら、お小遣いやお年玉を貯めたり誕生日やクリスマスといったイベント事を巧みに利用して親にねだれば、どうにかなる。私の父は一人娘の私に甘いから、きっとどうにでもなる。
チューバなどの大きな楽器は難しいだろうけど、フルートやクラリネットのような楽器なら同じように手が届く範囲にいる部員も多い筈だ。
ならばどうして買わない人の方が多いのか。反対に言えば、買う人はどうして買うのか。その答えはほぼこの一つに集約される。
「高校でも続けたいなと思って」
北野くんは羨ましがるみんなの前で頬を掻いた。
結局の所これなのだ。中学の三年間でやめるなら、楽器を買ったってもったいないだけ。「ずっと続ける」この言葉を誓約として言えないと親の説得にはなかなか成功しない。
部員数の多い所なら、買わざるをえない事もあるだろう。しかし五中吹奏楽部は紛れもなく弱小だ。ぼろぼろでも楽器は足りてるし、下手でもコンクールに出れる。
私も私なりに、真剣にトランペットをしているつもりだけれど、たぶん中学でやめてしまうのだと思う。自分の事なのに、誰かの将来を予言するみたいな感覚だった。
時計の針が八時を指すと坂上先輩が前に出て今日の練習メニューを発表する。昨日から宣言されていたけれど、今日はとうとうアルヴァマー序曲の初通し合奏だ。
坂上先輩ののんびりした「今日もがんばりましょう」を合図に、みんなが席を立ち机を端に寄せる。一年生も手慣れたもので、あっという間に筋トレのための体勢が整った。
私は美川さんと向かい合って床に腰を下ろす。流石の彼女も、部活中は耳栓を外している。休憩時間になるとポケットから取り出して着けてしまうこともあるけれど。
美川さんが入部してから、私の筋トレのペアは彼女になった。美川さんは度々欠席するから、その時は別の手の空いている子とする事になるけど。
最初は幸も一緒に三人でしていたけど、数回目で幸は違う子とするようになった。幸と美川さんを仲良くさせるのは無理があるようだ。ちゃんと話してみたら気が合いそうだと思うんだけどなあ。
手を頭に当てて、お腹にきゅっと力を込める。上体を起こすと、ぴたりと視線が重なった。美川さんの方が私より五センチも背が高いはずなのに、座高が低いことで。
「美川さんはさ、高校でも吹奏楽、するの?」
小声で数を数えていた美川さんの口が止まる。濃い睫毛が伏せられて、考え込んでしまった。美川さんは訊かれたことには必ず答える。だから彼女と会話する時のコツは、気にせずに待つことだ。
「三十回」
「あ、ちゃんと数えてくれてたんだ」
私は腹筋を止めて起き上がる。次は美川さんが寝転んだ。黒髪がタオルの上に広がって、絵のように美しい放射線を描く。
「吹ける場所があればどこでもいい」
ぽつりと、何かを諦めたように赤い唇から言葉がこぼれ落ちた。私はそれがまるで「寂しい」みたいに聞こえた。
——一人で吹くより、みんなで一緒に演奏する方がきっと楽しいよ。
あの日彼女の耳栓を外させた北野くんの言葉が、脳裏を過ぎる。
ねえ美川さん。「みんな」と吹くトランペットは楽しい? 浮かんだ問いを私が声にすることは無かった。
誰かが鼻歌で自分のパートを歌い出す。すると他の誰かがそれに歌声を重ねて、どんどんパートが増えていく。パーカッションの子も手拍子で加わって、帰り道はしょっちゅう、合唱大会だ。ファーストのメンバーが少ないからちょっとおかしな合奏になるけれど、私達はこの合唱が好きだった。楽器で歌うように吹くには実際に歌ってみればいいんだよ、と坂上先輩に言われた時はびっくりしたけれど、今となってはなんの恥じらいもなく熱唱できる。
「タカタカタン! ダン」
全員で最後の一節を叫んで、余韻で静かになったと思うと、一斉に笑い出す。
「後半の木管、声にされると面白すぎ」
「あそこすっごく大変なんだから!」
笑いすぎて目元に涙を溜めた幸が言うと、息切れしたクラリネットやサックスのメンバーが口を揃えて抗議した。
「あと一ヶ月で指回るようになるか不安だなあ」
「二年生であそこ完璧に出来てるのって北野くんだけだよね」
「へえ、そうなんだ」
やっぱりすごいな、北野くんは。私はなぜか自分が褒められたみたいに鼻高々になった。
「北野くんしょっちゅう居残りして頑張ってるもんなあ」
「……美川さんと、ね」
幸の一言で、みんなが黙り込む。彼女が北野くんを好きだというのは、吹奏楽部二年生の間では周知の事実だった。知らないのは本人も含む男子部員だけ。応援するよ、と盛り上がっていたのに、ここ最近は触れないようになっている。原因は間違いなく、美川さんだ。
私は背後を顧みて、美川さんがいないことに胸を撫で下ろした。
「でも北野くんが居残りするのは一年生の時からじゃない」
「理沙は一緒に残る日もあるもんね。美川さんと仲いいみたいだし」
幸の言う通り、私はあの日以来北野くんと美川さんと三人で居残りをするようになっていた。美川さんが練習に来た日は必ずといっていいほど残って、一緒にお昼を食べて夕方近くまで。北野くんと二人きりには、わざとならないようにしていた。
「それは……美川さん上手だから教えて貰ってるんだよ。クラスも一緒だし家近いし」
ふうん、と幸は巻いた毛先を触った。
私は努めて、脳天気な顔と声を作る。
「こんど幸も一緒に残ろうよ。何吹いてもいいから、居残りって結構楽しいよ」
前半はほとんど嘘だけど後半は本音だ。部活中は先輩や先生の手前下手なことは出来ないけれど、居残り練習の時は好きな曲を好きなように吹いても誰にも咎められない。と言っても、私は特にレパートリーがある訳では無いけど。一方で美川さんは色んな曲を吹ける。楽譜を見ただけで演奏することも出来るから、音楽室にある楽譜を引っ張り出してきては美川さんに吹いて貰う。これがなかなかどうして、面白いのだ。
「美川さんがいない日なら」
幸が言う。いつの間にか私たち以外は顧問の先生の恋愛事情について噂をしている。そっちに混ざりたいのに、幸の機嫌が回復しない。
ああ面倒だ。私は心の奥で思った。これだからライバルは面倒なんだ。勝ち目のないような戦いに挑んでいるのは自分じゃないか。だって美川さんは。
頭に浮かんだ考えがあんまり醜くて、私は口を閉ざした。強く、正しく、美しく。私自身にも、足りてない。
「どうして本ばっか読んでるの?」
動かない後頭部に、ため息と疑問をぶつけてみる。
授業の合間にある十分休憩は、多くの生徒にとってお喋りの時間だ。誰かの机に集まって他愛も無い事を話し合う。話している内容が面白いとか、面白くないとか、そんなことはどうだっていい。お喋りは私達が一番手軽かつ素早く出来るコミュニケーションツールだ。そこに合理性なんて必要ない。だから平気で色んな話が出来る。無邪気に好きな人の話をしたすぐ後に残酷な悪口だってあっさり飛び交う。中学生なんてそんなもんなんだ。みんな自分たちの歪さに気付いてる。気付いたうえで、大人になれないでいる。
幸の感情は幸のせいで、美川さんのせいじゃない。でも美川さんにだって足りてない部分があるんじゃないかと思うのだ。
美川さんは気だるげに振り返って、耳栓を片方外した。
「文字は雑音じゃないから」
「雑音?」
「勝手に耳に入ってくる邪魔な音のこと」
「それくらいわかるよ。……文字以外は雑音ってこと?」
「ものによるけど、うるさいのはうるさい」
じゃあみんなとお喋りしないのは、みんながうるさいから?
私が呆れて肩を竦めると、美川さんの眉間に皺が寄る。
「うるさい顔しないで」
うるさいうるさいって、そっちこそうるさいよ。そういう、自分は普通の中学生とは違うんです、みたいなそぶりをするから周りと上手くいかないんじゃない。
彼女の態度は、美人ゆえの怠慢だ。美人だから、それだけで色んなことが許されるから。
私は言いたいのを我慢して額に手を当てた。
「美川さんさ、たまにはみんなと喋ったりしてみたら? 静かにお喋りする人だっているし」
笑いかけてみせたのに、美川さんは呆れたように嘆息してまた耳栓をつけてしまった。
「村崎さんは一歩引いた安全な位置にいるの、たまにはやめてみたら」
私が意味を咀嚼する前に、彼女は背を向けて本を開いた。
頬が熱くなってゆくのがわかる。何か言い返したくて言葉を探したけれど、何一つ声に出せなかった。何がわかるの。美川さんなんかに私の何が。