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居残りと三人きり

 強く、正しく、美しく。

 私がよく先生や先輩から注意されるのは、大きく分けてこの三つだった。音量やメリハリ、ピッチのずれや指使いの間違い、音符通りに吹くのにいっぱいいっぱいな演奏。この欠点をなくさないと、私はみんなに追いつけないのだと思う。

 コンクールに向けての練習は進み、トランペットで集まって合わせる時間が増えてきた。早くも完成度をどんどん高めているのはやっぱり美川さんで、高瀬くんがそれに食らいついている。坂上先輩はファーストの難易度に多少苦戦しているようだ。

 私はと言うと、一曲吹ききるスタミナさえ足りずにいた。最後のフレーズまで持たず、音は小さくなり息はぶれ、どうにか音を当てている状態だ。まさに私の欠点が露呈してしまっている。

「あああ駄目だあ」

 私は机の上に広げた楽譜に顔を埋めた。火照った頬に、楽譜が冷たく感じる。

 今日は金管が第一音楽室を使える日だから、机にもたれて休憩できる。去年は長めの休憩をとっていたが、今年は坂上先輩の方針で短い休憩を何度も挟むようになった。この方が効率がいいらしい。

 コンクールまではまだ二ヶ月ある。けれど夏になると体育祭のための練習も加わるから、今のうちにある程度は仕上げておかなければならない。この休憩が終わったら、トランペット全員での通し練習だ。今日は朝から吹いているから唇が痛い。

 土曜日は毎週、八時から十三時までの五時間程度練習がある。充分疲れるけれど、平日の朝練もないし、土曜はお昼までだし、日曜も休みだし、他校の吹奏楽部に比べれば少ないんだとか。

 横向きになった視界に、目を閉じて座っている美川さんがいた。

「美川さんはファーストなのに全然疲れないねえ、どうなってるの」

 ひりひりする唇で問いかけると、美川さんは薄く目を開けて、また瞼を下ろした。

「慣れ」

「それを言われたらどうしようもない」

「唇のトレーニングなら、リップスラー多めにやったらいい」

「そうなんだ」

 トランペットには、音階を変えるための装置が三つのバルブしかない。右手の指でこのバルブを押さえて音を変える他に、唇でも音の高低を変えられる。この、唇でスムーズに音を変える練習の事をリップスラー言った。

「音量がたもてないなら、ロングトーンに大きい音も増やしたら」

「へー、ありがとう」

 美川さんのアドバイスはためになる。訊いたことは必ず答えてくれるのだ。体を起こして楽譜の端にメモしておく。

 少しの沈黙の後で、美川さんはそれと、と瞼を持ち上げた。

「マウスピース、合ってないんじゃない」

「マッピに合う合わないとかあるの?」

 表情が乏しい美川さんの端正な顔に、呆れが浮かぶのを、私はしかと見た。

「……無知ですみません」

「この後時間あるなら、マウスピース選ぶの付き合ってあげる」

 それから彼女は、口の端で微かに笑った。




 美川さんと少し居残りして帰ると告げると、幸は一瞬顔を歪めて、じゃあねをため息みたいに吐き捨てた。幸はどうも、美川さんが好きではないようだ。ライバルだから当然か。

 吹奏楽部全体での練習は昼の一時で終わるけど、それ以降も顧問の先生が校内にいる間は個人練習をする事が出来る。コンクールや文化祭、演奏会などの前は居残りをする人も多いけれど今日のような普通の土曜は残っても数人で、誰も残らない日もあるくらいだ。

「貸し切りだ!」

 がらんとした音楽室を見渡して、私は腰に手を当てた。人が居ないといつもより広く見える。こりゃあ、練習しがいがあるってもんである。

「残念、俺もいるよ」

「うあああ!」

 可愛げのない悲鳴を上げた私に、いつの間にか背後にいた北野くんはケラケラ笑った。ツボに入ったらしくなかなか笑い止まない。そういえば、彼は居残りの常連だった。

 ドアが開いて、「ちょっとまってて」と言い残しどこかへ行っていた美川さんが戻ってきた。手に折りたたんだタオルを持っている。

「あ、美川さんも居残り?」

 やっと静かになった北野くんが訊くと、美川さんは頷いて私の所へ寄ってきた。

 手近なテーブルにタオルを置いて、開いてみせる。そこに並んでいたのはたくさんのトランペット用マウスピースだった。

「学校にあった誰も使ってないものと、私が昔使ってたの、洗ってきた」

「わ、ありがとう」

「へえ。こうやって並べると結構違うんだね」

 北野くんはしげしげとマウスピースを眺めた。木管のマウスピースとは作りが全く違うから面白いのだろうか。

 私も一番端のマウスピースを手に取ってみる。

「これって、どう違うの?」

「一般的に言われてるのは、リムが小さいと高音が出しやすくて、大きいと大きい音が出しやすいとか、浅いカップは高音域と硬い音が得意で、深いカップは中低音と柔らかい音が得意、とか」

 私と北野くんは顔を見合わせた。どうしよう、よくわかんない。

 詳しく聞いたところによると、口を付ける丸い部分をリムといい、そのすぐ下の膨らんでいる所がカップというらしい。美川さんの話をざっくり纏めると、大きいマウスピースは中低音が出しやすく太く柔らかい音が特徴だが持久力が必要で、小さいマウスピースは高音が出しやすく鋭く硬質な音が特徴だがコントロールが難しい、ということだ。初心者は大抵大きめのもので始めて、そこから自分に合ったマウスピースを探していくのだという。一年吹いているが始めて知った。

 人によって合うものは違うから、結局の所「吹いてしっくりくればいい」らしい。

「一番苦手なところ、吹いてみて」

 私は少し悩んで、中間部明けの盛り上がり部分を吹くことにした。いつも息が続かなくなる部分だ。

 メトロノームをセットして、トランペットを構える。北野くんと美川さんの二人に聞かれながらの演奏は、やけに緊張する。

 私が五本のマウスピースを試している間、美川さんはずっと目を閉じていた。

「どうだった?」

 すっかりマウスピース選びに付き合ってくれている北野くんが首を傾げる。美川さんと話せる機会だからだろうか。すぐそんな風に考えてしまう自分の脳は卑屈だなあと、少しだけ切なくなる。

「うーん、これもう一回吹いていい?」

 私は二番目に試したマウスピースをまたつけて、今度は冒頭部分を吹いてみた。ゆったりした中間部も。——これ、吹きやすいかも。

 私が一番しっくりきたのは、前に使っていたのよりリムが小さくカップの深いものだった。

 ふと、美川さんが目を開けた。美しいアーモンド型の目がぱちりと瞬いて、私を見つめる。女の私でも、綺麗だなあと重う。

「それ、あげる」

「これ美川さんのなの? 悪いよ」

「もう使わないから。もっといいのが欲しくなったらお店で試奏して自分で買って」

「でも高いでしょ、これ」

「いらないならいいけど」

 私は口元に手を当てた。いらない訳ではない。むしろ欲しい。上手になりたいし、足を引っ張りたくない。

「じゃあ、私が自分で買うまで貸してくれる? 買ったらすぐに返すよ」

 ありがたいのは本当だけど、美川さんの真意がわからなかった。どうして私なんかにここまでしてくれるのだろう。学校にあるものの中から選ばせればいいのに。彼女は謎が多い。

 気が付くと横から甘い香りがしていた。いつの間にか、北野くんがクリームパンを咥えている。私はお腹を押さえた。そうだ、お昼ご飯を食べてない。

 物欲しそうな視線になってしまっていたのか、北野くんは目をぱちぱちさせるとコンビニの袋からメロンパンを取り出した。

「食べる?」

「いや、人様の昼食を横取りするわけには」

 北野くんは笑って、今日は遅くまで残る気ないからいーよ、とメロンパンを放った。

 受け取ったメロンパンをしばし見つめて、「半分こしようか」と言うと、美川さんは心底怪訝そうな顔をした。




 結局それから私たちは三時過ぎまで居残りをして、一緒に学校を後にした。改めて聞くとやっぱり美川さんは上手で、私がリクエストした曲をいとも簡単に吹いてくれた。彼女が聞いたことのあって難しすぎないものなら、楽譜が無くても真似をして演奏出来るらしい。アルヴァマー序曲のサードもお手本で吹いてくれて、正直にすごく勉強になった。

「じゃあ、俺こっちだから」

 校門の前で北野くんが笑って手を挙げた。その笑顔がどこか寂しそうで、私は思わず「ばいばい」を飲み込んだ。私と二人だったら、絶対見せない顔だ。

「美川さん、私たちもこっちから帰ろうよ」

 私が言うと、美川さんは小首を傾げた。

「どうして?」

「美川さんこの辺のことまだあんまり知らないでしょ。こっちから回ったら美味しいたい焼き屋さんがあるから、寄って帰らない? 今日のお礼に奢るよ」

 この提案にソワソワしたのは北野くんだった。ぜひ感謝してね、北野くん。

 美川さんは難しそうな表情を浮かべて、やがて頷いた。その耳には耳栓がない。

「北野くんの家、近所だよね。一緒に行こうよ」

 自分のためだったら言えない台詞だった。北野くんのためなら言えるのだから、私っておかしいのかもしれない。

 私たちは三人並んで歩き出した。私を中心に、ヒーローとヒロインが横並び。知人Mに、こんな日が来るなんてなあ。

 たい焼き屋の前にあるベンチに腰を下ろす。気を遣って、美川さんを真ん中にしてあげた。

 私と美川さんはあんこで、北野くんはカスタードクリーム。さっきもクリームパン食べてたじゃないかと指摘したら彼は全く別物だと力説したけれど、美川さんをこっちの味方につけると黙った。この人って、こんなに単純だったんだなあ。あんなに遠くに感じていた筈の北野くんが、身近になってゆく。

「誰かと寄り道して帰るなんて、久しぶり」

 美川さんが呟いて、私は瞬きをした。考えてみればどうして彼女は友達を作ろうとしないのだろう。寡黙で愛想無しではあるけれど、美人で物知りだし案外話しやすい。未だにクラスでも部活でも私と北野くんくらいしかあんまり話さないみたいだけど、なんでだろう。

「美川さんにはお世話になってるし、また色々案内するよ」

 たい焼きに頭からかぶりつくと、あんこが少し塩っぱかった。

 私、何をしているんだろう。自分の心と言動が、ちぐはぐな気がした。

「前の学校でも吹奏楽やってたんだっけ」

 次に口開いたのは北野くんだった。私たちが三人で話すことは、吹奏楽のことか美川さんのことのほとんどどちらか。

 何が好きなの、どこに住んでるの、何に興味があるの、家族は兄弟は。北野くんは私には全く訊いたことのない質問を次々と美川さんに投げつける。なんだか少し、馬鹿馬鹿しくなるくらいに。

「すぐやめたけど」

 美川さんは尻尾からたい焼きをかじって、足をぷらぷらと揺らした。彼女にも意外と子どもっぽい所があるのだと私は最近知った。

 どうしてやめたの、とは北野くんは訊ねなかった。

「じゃあその後は前みたいに河川敷とかで吹いてたの?」

「そう」

「トランペット好きなんだねぇ」

 小さく美川さんが頷く。

 二人のやり取りを聞きながら、私は感心していた。

 北野くんは上手に人の心の柔らかいところを避ける。その避け続けた先に、何があるのかなんて考えもせずに。

 彼らが付き合ったら、きっと上手くいくだろう。上手くいくのに、噛み合わなくなる日がくる。そんな気がして、私は上手くいかなければいいとも、上手くいけばいいとも、真逆のことを同時に思った。


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