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吹奏楽と陸上

 私はアルヴァマー序曲の楽譜と睨めっこしながら、頭を抱えた。

「またサードかあ、とか言ってすみませんでした」

 楽譜を貰った当日から薄々勘づいてはいたし、それでも騙し騙し、どうにかなると楽観視していたんだけど。

「これ、ほんとにトランペットの楽譜かよ」

 唸るように楽譜に向かって悪態をついて、私はのろのろとトランペットを手に取った。

 楽譜に並ぶのはびっくりするほどの連符につぐ連符。一小節に音符がこれでもかと詰め込まれている。

 コンクールで演奏される曲って、どれもこんなものなのだろうか。去年は吹けるとこだけ、と大目に見て貰っていたからよくわかってなかったのかもしれない。

 そもそも私は、楽譜を見てもメロディを理解できない。この一年間でどうにか音階と記号はぱっとみて大体判断できるようになったけれど、音符が並んでいるのをみただけで演奏できる人の脳はどうなっているのやらさっぱりだ。だからとにかく、曲を聞き込んで楽譜と照らし合わせてどうにかメロディを推測するか、先輩達に教えて貰うしかない。

 基礎練習後の休憩時間が終わると曲練習の時間だ。新入生の楽器決めは無事終了し、坂上先輩に新入部員を一人紹介された。この子は、坂上先輩と一緒にこれから基礎練習をするらしい。美川さんが入ったから、人数調整で一人なのかな。私は緊張した面持ちの一年生に笑いかけた。

 さて、今日のトランペットメンバーにはもう一つ、決めなくはならないことがある。

「坂上先輩、美川さんのパートどうしますか?」

 私が訊ねると、坂上先輩は腕を組んだ。

「経験者なんだよね? 人数のバランス的にとりあえずセカンドかなあ。一年生にはサードに入って貰うことにして。理沙ちゃん一年生の曲練始まったらよろしくね」

「わかりました」

 坂上先輩の指示を、今度はしっかり飲み込めた。一年生を私が面倒見る。それはなんだか、信頼されているような気がして悪くない。結局のところ、内心でいくらぐだぐだと文句を言ったって、私は北野くんの「低音が上手なんだね」をお守りにしている。我ながら、簡単な女だと思う。

 そうと決まれば、セカンドの楽譜をコピーしてこなければならない。動こうとする私を止めたのは、高瀬くんの掠れた声だった。

「待って下さい。たぶんそいつ、俺より上手いです。俺がセカンドの方がいいかと」

「え、そうなの?」

 目をぱちくりさせる坂上先輩には何も言わず、高瀬くんは美川さんの方を向いた。美川さんは顔色一つ変えずに高瀬くんの眼差しを受け止める。

「美川、アルヴァマー吹いたことある?」

「ある」

「いつ? パートは?」

「小学校の時。ファースト」

 驚かされたのは私だった。こんな曲のファーストを小学生の時に吹いたんだ。

 高瀬くんは眉を寄せて、自分の楽譜を美川さんに突きつけた。美川さんほどの美貌を持ってしても、高瀬くんの無骨さは直らないようだ。

「これ、楽譜。最初のとこ吹いてみろよ」

 美川さんはちらりと楽譜を見て、頷くとトランペットを構えて瞼を閉じた。

 彼女の音が鳴り出した瞬間、雑談や練習をしていた部員たちの目と耳が、美川さんただ一人に向けられた。静かになった渡り廊下に、彼女が奏でるトランペットの音だけが鳴り響く。

 ファンファーレのような冒頭部を吹き終えた美川さんが目を開ける。彼女の目に、私達の顔はどんなに滑稽に映っただろう。

 坂上先輩の拍手の音が、私達を現実に帰してくれた。渡り廊下に音が戻ってくる。

「確かに上手! でも高瀬くんも上手だし、私がセカンドになった方がいいんじゃないかなあ」

「駄目です。先輩は部長でパートリーダーなんですから、ファーストでみんなを引っ張って下さい」

 毅然とした態度で高瀬くんが言って、坂上先輩は「はあい」と引き下がった。

「えーと、じゃあ美川さんファーストでいい?」

「私はどのパートでも構いません」

「よし、決定!」

 わざとだろうか、坂上先輩は明るく笑った。空気が少し軽くなる。

「俺、楽譜コピーしてきます。ついでに一年生の分も」

 高瀬くんは垂れた目で美川さんを一瞥すると、すぐに背を向けて廊下を歩いて行った。真面目で無愛想な人だなと思っていたけど、美川さんに対してこんなにはっきり物をいえる事に、私は少し感心していた。綺麗で変わり者の美川さんに対して、みんな距離を置いている。とりわけ男の子はそれが顕著で、臆せず話しかけるのは北野くんくらいだ。

 私もトランペットの一員として、チームのために頑張ろう。後輩の為にも、雰囲気をよくしていきたい。私に出来ることは、きっとそれくらいだ。

 空き教室でアルヴァマー序曲をみんなで聞くというので、私は声を掛けてくれた幸と一緒に渡り廊下を後にした。背後から、澄んだトランペットの音色が聞こえる。どうしたら、こんなに綺麗な音が出るんだろう。




 美川さんが吹奏楽部に馴染むための橋渡しになろう。そのためにどうするかは、追々考えよう。そう思っていたけれど、チャンスはすぐにやってきた。

 みんなと別れた後の帰り道。いつもなら一人で歩くこの道に、後ろを歩く人の気配がある。私達のグループの後ろを一人で歩いていた人物は、今日から吹奏楽部に入部した美川さんその人だ。

 私は歩くスピードを緩めて、首だけで振り返る。美川さんは俯いていて、髪の間から覗く耳にはやっぱり耳栓がある。

「美川さん」

 反応は無いけれど、横に並ぶ。

「美川さんも家、こっちなの?」

「そうだけど」

「わ、聞こえてるんだ」

 美川さんは私がいる右側の耳栓だけをとって面を上げた。白い指先でぐにぐにと耳栓を潰す。

「気休めだから、こんなの」

「そういうもんなんだ」

「無音は無音で、怖いもの」

 私はふうんと相づちを打って、前を向いた。何故彼女が耳栓なんてしているのか、不思議と訊こうとは思わなかった。

 なんだか意外だったのだ。分厚い壁を纏っていつも独りでいる彼女が、こんなに普通に話すなんて。

 私は北野くんの言葉を思い出した。私が美川さんと友達になったら北野くんが安心する。そんな大事な役割には、あんまりつきたくないな。

「小学生の時にアルヴァマー序曲のファースト吹いてたなんてすごいね。私なんかあの曲、サードでも難しすぎて心折れそうなのに」

「アルヴァマー序曲は吹奏楽では入門の曲」

「うそ、そうなの?」

「難しい部分もあるけど全体的にはそこまで難易度高くないもの」

「はあ。そうなのかあ」

 でも確かに、キャッチーで楽しい曲だから、入門には向いてるのかもしれない。

「美川さんって、どうしてトランペット始めたの? なんとなくイメージではフルートとかの方が似合いそう」

 なんといっても、学校一の美少女だ。彼女が楽器をやってる、と聞いた人は、大抵ピアノかバイオリンあたりのしとやかな楽器を思い浮かべるだろう。トランペットの力強いイメージとはあまり結びつかない。

「大きい音が出るから。自分の音しか聞こえなくなるくらいの大きい音」

 向かい風が吹いて、美川さんは髪を押さえた。その右手の小指は、第一関節と第二関節の間がへこんでいた。

 想定外の返答に私が言い淀んでいると、美川さんは嘆息してまた耳栓を付けてしまった。

「そんな顔しないで。うるさい」

 私は反射的に自分の顔をぺたぺた触った。地味な顔だと言われたことはあっても、うるさいと言われたのは初めてだった。




 美川さんが吹奏楽部に入部した日を境に、私は彼女に度々話しかけるようになった。基本的にはグループの子達と一緒にいるけれど、短い休憩時間や授業中の暇な時間に自然と声を掛けるようになり、部活の帰り道も二人になると、五分ほどの短い時間をくだらない会話と共に過ごした。グループに誘おうかとも思ったけれど、グループの子達も美川さんも望んでいないようだったからやめておいた。

 するとしばらくして、彼女は私が口を開くとすぐに耳栓を片方外すようになった。私はそのことに少しだけ、得意になっていた。

 どこかで彼女の美しい孤独を羨望していたのかもしれない。私はみんなの顔色を窺っているのに、いつだって窺われる側に居続ける美川さんが、羨ましかった。その美川さんに自分だけが近付いている気がして、彼女を彩る一部になれているような気がして、いた。

「ねえ、美川さんは運動とかするの?」

「しない」

「だろうねえ」

「わかってるなら聞かないでよ」

 美川さんはほっそりした眉を寄せた。彼女が運動をしないのは分かっている。まだ数回だけど、体育の授業はほとんど見学していたから。

 今日の体育はハードル走で、珍しく美川さんも参加していた。参加しない時とする時の違いがさっぱりわからない。

「聞こえないの」

「なにが?」

 私の疑問を悟ったのか、美川さんの方から話しかけてきた。今はタイム測定中で、出席番号順に二列に並ばせられているから隣同士だ。

 ピィ。笛が鳴って列が動いたので私たちもそれに続く。

「先生の注意とか。だから危ないスポーツは出来ないの」

「美川さん耳いいじゃん」

「体育はうるさすぎて駄目」

「ふうん」

 私は少しずつ美川さんのことがわかり始めていた。うるさいことが苦手なのに吹奏楽は好きで、無口なのに意外と何でも話してくれる。明確な答えが返ってくることが不思議と心地よかった。

 また笛が鳴って私たちの順番が来た。位置について、用意。

 笛の音を合図に駆け出す。大股に走り低いハードルを跳び越えるとあっという間にゴールに辿り着いた。

 振り返ると、美川さんはまだずいぶん後ろにいた。本当に運動駄目なんだなあ。勝手になんでも出来ると思っていたから意外な欠点だった。

「お疲れ様」

 苦しそうに息を荒くする美川さんに言ってみると、彼女は恨めし気に私を見た。

「村崎さん早すぎ」

「美川さんが遅いだけだと思うけど」

「うるさい」

 列に戻るために並んで歩きながら、私は美川さんの赤い顔を見やって笑った。

「私、陸上部に入りたかったんだ」

 思えば、私がこのことを人に打ち明けたのは初めてだった。なんで言っちゃったんだろう。美川さんならこう言ってくれるって、信じてたからかもしれない。

「入ればよかったじゃない」

 まったくその通り。私は一人、深く頷いた。


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