ピカピカボロボロ
「美川さん、ぜひ吹奏楽部に入部しませんか」
翌朝の二年三組廊下側前から二番目。私の前の席——つまり出席番号が一つ前である美川さんの席——に張り付いた北野くんは、半ば懇願するように言った。
私はとっくに出し終わった教科書をまた探すふりをして、鞄に手を突っ込みながら耳を澄ます。美川さんは耳栓をしたままで、長い睫毛を瞬かせた。耳栓って、したことないけどどれくらい聞こえなくなるものなのかな。
じっと動かない美川さんに、北野くんは手を奇妙に動かしている。彼は焦ると手振りが大げさになるようだ。それなりに彼のこと、見てきたつもりだったけれど、最近知った。なぜなら、私の前で彼が緊張して焦ったりすることなんて、美川さんの話題が出たときだけだから。
「昨日、トランペットすごく上手だったからさ。——ね、村崎さん」
急に話を振られて、私は目を丸くした。美川さんの黒い瞳が私に向けられる。
昨日、声を掛けた私達に美川さんはほんの少し眉を顰めるだけで、私の褒め言葉にも「そう」としか言わなかった。よくもこんなにも冷めた中学生がいたものだ。
「うん、上手だった。今回のコンクール曲難しいから入ってくれたら正直嬉しいかも」
これは本心だった。トランペットパートにのし掛かる責任は重大だ。アルヴァマー序曲を聞き込むほど、不安になっていた。
「一人で吹くより、みんなで一緒に演奏する方がきっと楽しいよ」
北野くんが爽やかに微笑むと、美川さんは指先で髪を耳に掛けて左の耳栓をそっと外した。その仕草を北野くんの視線が面白いくらいに追いかけていて、私はなんだか、浅ましいと思った。誰が、とは言わないけれど。
「ほんと?」
「もちろん。——ね、村崎さん」
「え、ああ、うん」
なんだか利用されている気がするけれど頷いておく。こういう事が嫌味なく出来るから、彼は彼でいられるのだろう。
「それに、美川さんまだ部活どこも入ってないよね? うちの中学、全員部活入らなきゃいけないから、困ってたみたいだし」
それは初耳だ。三学期に入ったばかりの中途半端な時期に転校してきたから、部活については先送りにしていたのだろうか。ほとんど帰宅部状態になっている文芸部にでも入っておけばいいのに。八割が幽霊部員だから問題ないよ、あそこなら。
私は美川さんが吹奏楽部に入ることにはなんの異存もなかったけれど、北野くんが必死で勧誘していることに苛立っていた。
流石、美川さんのことは詳しいね。言いかけて、やめておく。
「わかった」
美川さんがぽつりと言った言葉に、耳を疑ったのは北野くんだった。自分で勧めたのに可笑しくて、私はこっそり笑った。
「ほ、ほんとに」
信じられない、と言わんばかりの北野くんに首肯して、美川さんは「あ」と声を上げた。
「でも今日は楽器持ってないから、来週でいい?」
「もちろん! 来週の月曜は一年生の本入部の日だし、ちょうどいいよ」
チャイムが鳴って、北野くんは「じゃあ先輩に言っとくね」と手を振ると自分の席に戻った。美川さんも何事も無かったように前を向く。
ヒロインは、ただ座っているだけで物語が舞い込んでくるんだな。私は見慣れてきた後頭部を見つめながら熱い息を吐き捨てた。ふとつまみ上げた、肩に届かない私の短い髪の先は、美川さんのとは比べものにならない程ぱさついていた。私が髪を伸ばしたって、あんな風にさらりと揺れて、耳に掛けるだけで男の子の視線を奪うことなんて、出来やしない。
いーち、にー、さーん、しー。
「美川さん、来週から、吹奏楽部、くるって」
幸のカウントに合わせて腹筋をしながら、私は途切れ途切れに口を開いた。
「ごー……え、まじで?」
「まじ、で」
「嘘でしょ、なんでよ」
「上手、いんだよ、美川さん」
「なにが?」
「ペット」
「まじで」
「まじ、だけど、ちゃんと、数えてる? 今何回?」
「あ、ごめん。とりあえず後二十回で」
しまった、話しかけるタイミング間違えた。
黙って残りを終わらして、無責任な事を言う幸のお陰で多めに腹筋をしたお腹をいたわりながら体を起す。
腹筋三十回二セット。土曜日の筋トレはいつもこれから始まる。机をどけた音楽室の床にタオルを敷いて、二人組になり交互に腹筋をするのだ。管楽器は腹筋が大切らしいけど、たぶん関係ない筈のパーカッションも道連れにされている。
体操服のジャージを履いた幸の足を押さえながら、私は遠くで腹筋に勤しむ北野くんを盗み見た。世の中、不公平なものだと思う。大勢に取り合われる彼のような人間もいれば、私のような誰にも相手にされない人間もいる。
ぼんやりしたまま幸は三十回の腹筋を終えて、次は二人同時に腕立て伏せをする。その次は、また足を押さえ合って交互に背筋。こういった所が、吹奏楽部が文化部だけど体育会系、と言われる部分だろうか。走り込みなんかはしない分、他の中学校の吹奏楽部よりゆるいみたいだけど。
「世の中、不公平だよね」
うつ伏せになった私の背中に、幸の小さな声が降ってきた。
「あんなに美人で、楽器まで出来るんだ」
あんまり消え入りそうな声だから、私は聞こえなかったことにした。
全員が背筋を終えると、坂上先輩がメトロノームを中央に置いた。部員たちは仰向けに寝転がって天井を見つめる。60に合わせられたメトロノームが一秒を刻んでいる。どくどくとうるさい私の心臓よりも少し遅いこの音に集中して、ゆっくり深呼吸をした。
体を横たえると、人は自然と腹式呼吸になる。腹式呼吸は管楽器の基本だ。これが出来ないと、豊かな音が鳴らせない。
「じゃあまずは十秒から、いきまーす。——一、二」
坂上先輩の号令に合わせて、心の中でカウントをする。三で大きく息を吸って、四で止めて、次の音で口をすぼめて息を吐く。十秒間でお腹が空っぽになるように、息の量を調整しながら、真っ直ぐに。
防音が施された白い天井を眺めながら、私の脳は同じ記憶ばかりを繰り返し再生した。トランペットを吹く美川さんの横顔を見つめる北野くんの目は、知らない人のような熱っぽさを含んでいた。
同じ楽器、吹いてるのにな。
月曜日、美川さんは約束通りにトランペットを持って登校してきて、北野くんと共に放課後の音楽室にも現れた。
本入部にやってきた一年生は九人。美川さんは自分の楽器も持っている経験者だからトランペットで決定として、一年生は皆未経験だから楽器を決めなくてはならない。
パートリーダーと一年生だけが第一音楽室で楽器決めをすることになり、他の二、三年生は第二音楽室と廊下、理科室へそれぞれ楽器ごとに散らばった。同じクラスだというのもあって、私は坂上先輩に美川さんへの対応を一任されてしまった。
トランペットの練習場所は渡り廊下だった。あちこちに置かれたメトロノームが鳴りだして、ロングトーンの音が廊下中に響き渡る。美川さんはぴかぴかのトランペットを手に、私の横で立っている。さて、どうしたらいいんだろ。
クラスは違えど、同い年の同じ楽器で吹奏楽歴も長い高瀬くんに助けを求めようと視線を送る。しかし彼はぷい、と校庭の方を向いてしまった。なんて冷たい人だ。高瀬くんだって、美川さんみたいな美人と話せるきっかけになって嬉しいだろうに。
「あー、えっと、美川さんって、前の中学校でも吹奏楽部だったの?」
楽器の音にかき消されないように、私は美川さんの耳元に顔を寄せた。こんなことになるなんて、つい数日前まで想像もしていなかった。
美川さんは小さく頷く。
「じゃあ、ちょっと前の学校と違うかもしれないけど、うちではまず、四十五分の個人基礎練時間があって、そのあとパートで集まってみんなで十分くらい基礎練するの。その後はちょっと休憩して、曲の個人練。後は日によって、パートで合わせたり、金管だけで合わせたり、同じとこ吹くメンバーで合わせたり。今は曲練始めたばっかりだから、全体合奏はまだ先だと思うよ。あとは、えっと、こういう時計ないとこで練習する日も多いから、時計持ってると便利かも」
「わかった」
私が捻りだした説明を、美川さんはあっさりと理解してマウスピースを構えた。マウスピースまでもがぴかぴか輝いている。
とりあえず仕事は全うできた。私は気を取り直して自分の練習を始めることにした。いくつも傷が付いたマウスピースに息を吹き込む。
五中吹奏楽部員のうち、自分の楽器を持っているのはほんの僅かだ。ほとんどの部員が学校の楽器を借りていて、私もその一人。ずっと同じ楽器を部員が入れ替わる度に受け継いでいくため、もちろんどんどん古くなって、傷やへこみだらけになる。楽器は決して安いものではないから、めったなことでは吹奏楽部のために学校がお金をかけてくれることはない。二・三年に一度、なにか新しいものが入ってくるかこないかくらいだ。
いいな、自分の楽器。
私はマウスピースを思いっきり鳴らして、校庭を眺めた。渡り廊下は運動部の練習が見られるから比較的楽しく、練習場所の中では隠れた人気がある。
新入部員を迎えた運動部も、気合いが入っているようだ。私は校庭の隅でタイムを計測しているらしい陸上部の一年生を目で追った。
走ることは、たぶん好きだった。でもそれはただの好みのお話で、特別に足が速い訳では、ない。だから陸上部には入らなかった。私より才能がある人があそこにはきっと沢山いる。あそこ以外の所にだって、それこそ数え切れないくらいに。数少ない取り柄が取り柄でもなんでもなくなるのが怖くて、私は挑むことすらしなかった。そうしてもしかしたら陸上部のエースになれたかもしれない可能性だけを抱えて生きる事を選んだ。
横から鳴りだした澄んだ音色を聞きながら、ふと疑問が浮かび上がった。じゃあ吹奏楽は、私にとってなんなんだ?