知人M
「ね、理沙って三組なんでしょ?」
個人練習が終わった後の小休憩、ユーフォニアムの羽田幸が私の所へ寄ってきた。柑橘系の甘酸っぱい香りがする。また香りを変えたようだ。
今日は金管が第一音楽室を使える日だった。五中には音楽室が横並びに二つあり、他に音楽関係の部活がないためにどちらも吹奏楽部が使うことが出来る。第二音楽室は打楽器を置いているからパーカッションが固定で使う事になっていて、第一音楽室が私たち管楽器の練習場所だ。
そうはいっても決して音楽室は広くなく手狭なため、金管楽器と木管楽器に別れて交互に使用することになっていた。第一音楽室を使えない日の管楽器の練習場所は、主に廊下や空き教室だ。
こうしてなにかと分割されるせいか、金管楽器を担当する部員たち、木管楽器を担当する部員たちは、それぞれが仲良くなりやすい。どこの吹奏楽部もそうなのかはわからないけれど、私たちの間ではどうも金管と木管は対立しがちだった。同じ管楽器だとはいえ、楽器の特性がまるで違うからかもしれない。私も例に漏れず、仲が良いのは金管の子が多かった。
幸とは仮入部の時から、金管のマウスピースしか鳴らせなかった者同士気が合った。
たいていの管楽器では口に当てる部分を取り外すことが出来て、その部分をマウスピースと言う。楽器本体をいきなり吹いてみるのではなく、まずはこのマウスピースを鳴らすことから始まるのだ。私はトランペットのマウスピースは一発で鳴らせたのに、木管楽器のマウスピースはどれ一つといってうんともすんとも言わせられなかった。比較的鳴らしやすいというアルトサックスでさえ息が通るスコーっという音しか出なくて、教えてくれていた先輩たちが困惑していたのをよく覚えている。
私は水筒の水を一口飲んで、手の甲で唇を拭った。
「幸は四組だっけ。体育は一緒かなあ」
「うんよろしく。――それより、三組ってあれでしょ? 北野くんもいるよね?」
ああ、なるほど。私はほんの少しうんざりしながら、この数日の複雑な感情を胸中で渦巻かせた。彼女が言う通り、二年生になった私のクラスには北野くんがいた。私はそれが嬉しい一方で、辛くもあったのだ。なぜなら、美川さんもまた同じクラスだから。それも、ちょうど私の前の席で。
「いるけど」
なるべくにさり気ない体で私が答えると、いいなあ、とため息みたいに言って幸は照れくさそうに笑った。それから、毛先を巻いたロングヘアを撫でつける。
去年の夏休みくらいから、幸は目に見えて女の子らしくなった。ぽつぽつとできるニキビを気にしてか、薄くファンデーションを塗り、色つきのリップクリームで唇をピンク色にして、毎日コテで髪を巻く。スカートも少し短くなった。もちろん化粧は禁止されているけれど、幸くらいの化粧なら先生もわざわざとがめたりしない。中学生の女の子は、案外「丁度いいおしゃれ」をわかっている。
恋をすれば女の子は綺麗になる、らしい。幸の恋の相手は北野くんだ。彼女は臆病者の私とは違う。美川さんの登場にも、怖じ気づいたりしなかった。
「私も三組がよかったなあ」
「――俺も三組だよ」
うらやましい? 首を傾げたのは噂の張本人、北野くんだった。私と幸の間にいつの間にか入り込み、顔を突き出している。
驚いて小さく悲鳴を上げる幸に、北野くんは丸っこい目を細めていたずらっぽい表情を浮かべた。
「羽田さん、村崎さんと仲いいもんね」
彼は幸が私と同じクラスになりたかったと思ったらしい。幸はほっとした表情で「もう」と彼の肩を軽く叩いた。その仕草が、酷く女っぽいと私は思った。
「どうしたの? 忘れ物?」
私が訊ねると、北野くんは眉を少し上げて手に持っている水筒を掲げた。
「思ったより暑かったから、水筒取りに来たんだ」
じゃあね、と爽やかに手を振り、北野くんは音楽室を後にした。彼はクラリネットだから、今日は廊下で練習するのだろう。この天気なら、廊下はきっと暑いんだろうな。
「はー、びっくりしたあ」
幸は嬉しそうに胸を押さえながら、ユーフォニアムの集合場所に向かった。私も水筒を置いてトランペットを持ち上げる。
北野くんが中学に進学して吹奏楽部を選んだことは、同じ小学校出身の生徒の多くに驚きを与えた。目立つ人だから、きっと何らかの運動部に入ると思っていたのだ。
どうして、と聞かれた北野くんは、「全くやったこと無い事を始めたかったんだ」と言って「それにカッコいいし」と笑った。
クラリネットでも、彼は才能を発揮した。めきめきと上達して、今では三年生にもひけを取らない程になった、木管だけど金管ともパーカッションとも仲がよく、先輩からも先生からも好かれている。彼が入部するまで一学年に一人いるかいないかだった男子部員も、私達の学年では四人になった。もちろん女子生徒もたくさん入部し、顧問の先生に「ここ数年で一番大人数の学年だ」といわしめた。
北野くんはたった一人で、吹奏楽部に活気をもたらして見せたのだ。私はそれが、同じ小学校出身としてほんの少し誇らしかった。
「ペットさん集合してください」
トランペットのパートリーダーで、部長も務める坂上先輩が声を上げた。
集まったメンバーは四人。三年生が二人に、二年生が二人だ。もうすぐここに一年生が入ってくる。
「アルヴァマー序曲のパート割を発表します」
坂上先輩の声は高く柔らかくのんびりとしていたけれど、私は緊張した。アルヴァマー序曲はついさっき発表された今年のコンクール曲だ。私にとって、二度目のコンクール。
校内比で活気が出て来たといっても、五中吹奏楽部が弱小である事には変わりない。コンクールも、ここ数年はずっと銅賞だという。
夏から秋にかけて行われる中学の吹奏楽コンクールは、地域によっても様々だが、主に二種類の組に分けられている。課題曲と自由曲の二曲を演奏し、勝ち進めば全国大会へ出場できるA組と、自由曲一曲だけを演奏し、賞を貰って終わるB組だ。小編成の団体が参加するのは後者で、つまり私達第五中学校吹奏楽部が参加するのはB組だった。B組では、金銀銅の中から必ずどれかの賞が貰える。銅賞は、一番低い賞だった。
今年こそは銀に輝きたい。人数が増えてきた事もあって、私達はこの目標に向けて結束を高めていた。
坂上先輩が手にしたメモを読み上げる。
「ファーストは、私と高瀬くん。セカンドが知子と一年生。サードが、理沙ちゃんと一年生。変更が出てくるかもしれないけど、とりあえずこれで。知子と理沙ちゃん、一年生と一緒で大変だけど頑張って」
私は笑顔を作って、元気よくはい、と答えた。
私の家は中学校から少し遠い。徒歩で三十分近くかかり、帰り道は途中でみんなを見送っていって、最後には一人になる。自転車通学は禁止されているから毎日の登下校は面倒だけど、一人で歩く夕方の道は嫌いじゃない。スニーカーで踏むコンクリートが、ほんのすこーし、オレンジ色になるのだ。
ふと、中学生にしては背の高い後ろ姿が目に入った。暗いグレーのセーターに、大きなスクールバッグ、ちょっと茶色っぽい髪。
「北野くんだ」
思わず声に出てしまった。後ろ姿がこちらを顧みる。夕日が彼のちょうど頭の位置に重なって、私は眩しくて手を翳した。
「わ、村崎さん」
見張られた胡桃色の目が、私を映したと思うと三日月を描く。声変わりを終えた彼の声は、周りよりも一足早く低くなっていた。
北野くんは立ち止まって、私が追いつくのを待ってくれた。自分で声を掛けたのに気恥ずかしくなって、私は彼の目を上手く見れなくなる。どうして北野くんがこの道にいるんだろう。
「村崎さん、この辺に住んでるの?」
「ううん。もう少し先だよ」
「え、遠いんだね。大変じゃない?」
「ちょっとね」
ゆっくり歩き出しながら、私は高鳴っていた鼓動がぎゅっと押さえつけられた気がした。
北野くんは何も知らない。私がどこに住んでいるかも、どんな道を歩いているかも。幼稚園の時から、同じ所に通っているのに。
「北野くんの家、反対方向じゃなかったっけ」
私が訊くと、彼は困った表情で襟足を掻いた。
「ちょっとね」
「……ふうん」
興味のない顔をして、私は前を向いた。夕焼け空の隅っこが、ピンク色をしていた。
「コンクールの曲、決まったね」
「北野くんは、ファースト?」
「うん。頑張らないと」
力強く頷いて、北野くんは拳を握った。クラリネットも四人だ。将来性を考えても、彼がファーストを吹くのは当然だろう。トランペットでは高瀬くんがファーストを任されたのと、同じ様に。
トランペットやクラリネットは、主旋律を吹くことが多い楽器だ。目立つ分、責任は重大で、その中でもファーストはメロディの中心になる事が多い。音を外したり出来ない大事なパートだから、上手な人が吹くのが当然。ファースト、セカンド、サードの順に高音域を担当しなくてはいけないから、きちんと高い音が出る人が吹いて当然。当然なのだ。
私は手渡された譜面の、3という文字を思い出していた。
「私、今年もサードだったなあ」
サードが嫌いな訳じゃない。サードだって大切なパートだし、坂上先輩が私に任せてくれたのだ。
人数が少ないから、五中吹奏楽部は未経験の一年生もコンクールに参加する。けれどもちろん、たった三ヶ月程度では吹けない所も多く、実際の所は一年生はあまり戦力として数えていない。だから実質、私がトランペットのサードを一人で担うのだ。そう考えれば、悔しい事なんて何もない。
でも、楽譜を渡される度に、書いてある数字は3か4。たった一度だけ、経験として吹かせて貰ったセカンドがあるけど、それ以外はずっとサードかフォースだった。
「村崎さんは低音が上手なんだね」
北野くんが言って、私は呆気にとられてしまった。違うよ、高音が下手なだけ。否定したい筈の言葉が喉に引っかかって出てこなくて、あははと笑った。
私の反応なんてお構いなしに、北野くんは続ける。
「トランペット、みんな上手いからあの曲になったんだろうなあ」
「アルヴァマー序曲?」
「うん。クラリネットも負けないようにしないと」
アルヴァマー序曲は、中学校のコンクール定番曲だ。わかりやすく軽快な格好いい曲で、最初から最後まで、トランペットが目立つ所が多い。部長で演奏も上手い坂上先輩と、今の吹奏楽部員で唯一小学校でも吹奏楽をやっていた、という高瀬くんの二人を上手く使った選曲なのかもしれない。
「あ、俺こっちに用があるから」
北野くんは十字路で足を止め、骨っぽい指先で右を指さした。確か、真っ直ぐ進むと河川敷がある方向だ。
「何しに行くの?」
「……ちょっと気になることがあって」
「それ、聞いちゃいけないやつ?」
「引かない?」
「え、引くような話なの?」
私は眉を顰めて後退った。
「村崎さん引くの早いよ」
「もう引いたから、どうぞ」
信号が赤に変わった。足止めをくらった北野くんは、きょろりと目を泳がせて、それから髪をくしゃっと握った。
「いや、その、美川さんがさ」
美川さん。私はここ数日眺めている後頭部を脳裏に浮かべた。前の席だけど、一度も会話したことがない。
「どうしたの、美川さん」
「こないだ、楽器のケースを持ってこっちの方行くの見かけたんだ。その時は用事があって、声かけられなかったんだけど気になって」
「楽器……」
「こっち、河川敷だから、もしかして練習してるのかなって」
私は何とも言えず苦いものを口に含んだ。北野くんが美川さんにご執心だとは知っているけれど、流石にこれは、どうなんだろう。
「あ、ちがう、ちがうよ、その、違うんだって」
私がどんな表情をしているのかは私にはわからないけど、北野くんはやけに焦った様子で手を振っている。
青に変わった信号を見上げて、私は北野くんより先に歩き出した。慌てて北野くんが後を追いかけてくる。
「村崎さんちこっちなの?」
「ううん」
北野くんは怪訝そうに私の顔を覗き込む。間近で見る彼の顔に、ほとんど反射的に目を逸らした。
「私も気になるから」
「え?」
「美川さん。私も、友達になりたいの。せっかく同じクラスになったから」
言い終えて、横目で見た北野くんはすっかり面食らっていた。何度か瞬きしてから、目を輝かせて口元を綻ばせる。
「そっか、確かに俺より、村崎さんの方が美川さんと仲良くなれそうだなあ。女の子同士の方が上手くいくだろうし」
北野くんは男の子には珍しく、「女の子」という言葉を使う。ごく自然に言いのけるのがどこか大人っぽくて、私は彼が口にする「女の子」が好きだった。
河川敷に向かう道は緩やかな傾斜になっていた。足が遅くなる私に、北野くんは歩幅を合わせて歩いた。
北野くんが私と二人で並んでいる。北野くんが微笑みを浮かべている気配がする。北野くんの息がほんの少し浅くなっていく。北野くんが北野くんが北野くんが。
私は横にいる北野くんの事で頭がいっぱいで、それを勘づかれないように必死で目線だけをあちこちに向ける。視覚以外の意識を右隣に集中させて、一緒に歩く彼の姿を表情を眼差しを、必死に思い浮かべる。
そんな私の横で、北野くんは私のこと何てきっとこれっぽっちも、意識していない。頭の中に居るのは、たぶん美川さん。わざわざ部活終わりに遠回りをしてまで、仲良くなりたい人物。
立ち止まれば、彼は私を見てくれるだろうか。転んでみせれば、手を貸してくれるだろうか。好きだと言えば、私のことを考えてくれるだろうか。
私は小さく頭を振った。私は知人Mでいい。彼の心になんの爪痕も残さないような告白なんて、虚しいだけだ。
二人きりになれた事を喜んでいるのは私だけで、この事実が私をどうしようもなく悲しくさせた。
ほんとうに私は、彼の人生の端役なんだなあ。知人Mという役柄を、私は自分で選んだようなつもりで、最初から他に選べるような役柄すらなかった事に、今更気が付いた。
北野くんの影が私のそれと重なっている。
「美川さんっていつも一人だから、気になってたんだ。村崎さんが友達になってくれたら俺もなんだか安心する」
「……なんだ、そりゃ」
私は力なく笑って、それを坂道のせいにした。北野くんが私の反応に首を傾げるのが、影の動きでわかった。
言葉は武装だ。北野くんはその純真さを固い鎧にして、正論を楯に真っ正面から人を斬りつける。彼のナイフの切っ先は、私の脆い鎧の隙間を縫って、急所だけをそっと切り裂く。
どうしてこんなに、彼はいつでも、「正しい」んだろ。美川さんと友達になりたい、なんて出任せに決まってるじゃない。私が付いてきた理由が、そんなに立派な訳ないじゃない。この人は何も知らない。知ろうとしないから、知る必要がないから。それから私が、何も教えていないから。
トランペットの音色が坂の向こうから聞こえてくる。柔らかくて正確な、真っ直ぐな音。なんの曲でもないただのスケール練習なのに、伸びやかでまるで歌声のようだった。
北野くんが駆け出す。私は彼と揃わなくなった足並みに、必死になってその後を追う。
辿り着いた堤防で北野くんは急に立ち止まった。視線の先にあるのは、トランペットを構えた美川さんの姿だった。
風で乱れた黒髪。鼻筋の通った横顔。制服から伸びる華奢な手足。金色のトランペットが夕陽を反射して、きらきらと眩しかった。
私ははっとして、北野くんを見上げた。そして、来なければよかったと、思った。