七、叔母
叔母様に相談だ。
梅雨の中休み、久方ぶりのお天気です。
わたくしは、麻布霞町の叔母のお家にお使いに来ております。
閑静な住宅地にある叔母様のお宅は、こぢんまりとしていながら瀟洒でゆったりとした空気の流れる、叔母様のお人柄そのままの邸宅です。
応接間に通され、畳のにおいと一緒に手ずから焙じられたお茶をいただき、今は紫陽花に埋め尽くされたお庭を見渡すと、ここだけ世間から隔離されたような、そんな錯覚がいたします。
「お疲れのようねえ」
長閑な心地に知らず大きな息を吐いてしまい、卓の向こうにお座りになった叔母様に笑われてしまいました。
気恥ずかしさを笑顔で誤魔化してしまいましょう。
今日、時候のご挨拶に伺った叔母様は、父のたった一人の実妹で、幼いころからわたくしたち姉弟をよく気づかってくださる、親しい方です。
女性の親族というのは不思議なもので、男性の親族にはない頼り甲斐といいましょうか、同性ゆえの気安さと甘え易い懐の大きさを示してくださいます。
もちろん、信用に足る方、という前提がありますが。……酷い親類も、おりましたもので。
「今、松矢の家にいらっしゃるのでしょう? あちらの皆様はお元気?」
「ええ。叔父様も、弟も、つつがなく過ごしております。お姉様は、すみません、今まだお帰りになられていないの」
あれから、大阪より『すぐ帰る』と返信が来たのは早かったのですが、帰路の途中、土砂災害という災難に見舞われまして。天災ばかりはどうしようもございませんもの。鉄道にも影響が出て、現地では随分混乱したようです。
無事と、彦根のあたりから引き返し、別の方法で帰路につく、という連絡があったっきりで、行方はようとして知れません……。
「ああ、あの子なら今、金沢にいるようよ」
さらっと仰った叔母様に瞠目してしまいました。
驚くわたくしに悪戯気に目を細めて、ころころ笑います。
「わざわざ、大阪まで戻ることないでしょう? 京には、頼れる身内がいるのですもの」
京の都には、叔母様の二人の子息がおります。
わたくしにとって従弟にあたるその子達は、京の中学校に進学し、親元を離れて暮らしているのです。弟とそう変わらない年齢で、わたくしなどは少々不安と労しい気持ちなのですけれど。
大叔父の一人が、年若い従弟達のお目付け役に同居しておりますので、羽目を外し過ぎるという心配はないでしょうが。
彼らととくに仲の良い弟の元には稀に手紙が届くらしく、日々愉快に楽しく過ごしているらしいと申しておりました。男の子の克己心とはたくましいものです。思考が逸れましたね。
突然の難なら、近くの親類を頼るのは至極当然です。
祖父の兄弟にあたる大叔父上は、どなたも信用に足る立派な方々で、頼り甲斐もあります。
でも、そこまでの足取りなら、わたくしでもわかります。どうして叔母様は、叔父様も知らないその先の、お姉様の今の所在をご存じなのでしょう?
首をかしげるわたくしにひとつ微笑み、噛んで含めるように話してゆかれます。
「よほど焦っていたのね。北回りにお船で進もうとしたみたい。でも途中でお仕事の依頼が来たから、先に片付けてるようね」
「叔母様、どうしてそこまでご存じなの?」
「うふふ。わたくしにも色々、伝手がございますのよ」
ちなみに、このお話を聞かせてくれたのは、梅枝の叔父上ですよ、と叔母様。
どうしてここで、もう一人の大叔父様が出ていらっしゃるのか、わたくしにはますますチンプンカンプンですわ。
祖父は三人兄弟で、子爵位を賜ったわたくしの祖父であり叔母様の父上を松矢、祖父のすぐ下を梅枝、末の弟を末竹と呼びます。
元はそれぞれの幼名であったその名を、元服の後も便利に使い、今ではそれぞれの血に連なる者の屋号のような扱いになっております。
ですから、叔母様がおっしゃる『梅枝の叔父上』は、祖父の弟の大叔父様で間違いないはずなのですが。
どうしてその方が、お姉様の所在をご存じなの?
怪訝なわたくしをひとしきり楽しんだ叔母様は、あっさり種明かししてくださいました。
「簡単です。叔父上からお手紙をいただきました。この度の依頼は、叔父上のご要請。今度、金沢で新しい病院を建てるとのこと。彼の地の有力者の力添えが欲しいそうです」
今頃ふたり、旧家老の御屋敷で山海の幸でもふるまわれているでしょうよ、というお言葉に、脱力してしまいました。
そうでした。お姉様、意外と食い気の方でしたわ……。つられたのかしら。つられたのでしょうね。
つい、顔を見合わせて苦笑してしまいます。
「叔母様は、ご機嫌はいかが?」
「変わり映えはしないわねぇ。あの子達が家を出て、張り合いがないったら」
今は御夫君とふたり、この家でお暮しの叔母様の、からりと笑われる様子に屈託はありません。
「義叔父上は、今日は?」
「お仕事で出ていますよ。――ああ。なるほど。今日の訪問は、そういう?」
小首をかしげる叔母様の察しの良さに、いつものことながらびっくりしてしまいます。
そう、今日は、叔母様のお輿入れについてお話を聞きたくて、伺ったのですもの。
わたくしと旦那様の婚姻は、大元をたどれば祖父の時代までさかのぼります。
幕末を背中を預けあいながら駆け抜けた祖父と、旦那様のお祖父様。
素性は、貧乏旗本と代々重職を担う直参御大身。
身分は違いましたが、御惟眞の後には、朋友と言って差支えのない友誼を築いておりました。
代が明け、勲功から両家は綬爵。我が家は子爵となり、あちらは伯爵様。江戸のころよりはお付き合いに障りはなくなり、両家はますます懇ろに。
そんな謂れでしたので、祖父同士の軽口で『両家の男女を娶わせる』なんていう口約束が成されるのも、まあ、よくある話。
父の世代では、叔母様がお輿入れしました。
お相手は、お義父様……今日の伯爵様の、腹違いの弟君。
これで約束は果たされたと、誰もが思ったことでしょう。どっこい、祖父達……とりわけ前の伯爵様は、これで終わりませんでした。
どうしても、朋友の子孫を、自身の直系に娶わせたかったらしいのです。
まさか、孫の代まで口約束が持ち越されるとは、誰も予想だにしていなかったに違いありません。
それから、旦那様がお生まれになり、姉が誕生し、続いてわたくしが生まれ。
親達は、お祖父様の意気込みはさておき、とりあえず交友はさせようと、たびたび遊ばせるようになりました。
以来、わたくし達は幼友達として育ち、今があります。
「それで、どういう話がききたいのかしら? 貴方達、わたくし達の時とは、事情も関係もまったく異なってるでしょう? わたくしの話が参考になればよろしいのですけれど」
語ってくださるつもりはあるようで、わたくしも居住まいを正します。
「…………叔母様、義叔父上と一緒になられて、幸せ?」
恐々、わたくしが問うたのは、そのようなことでした。
わたくしの問いに叔母様はびっくりしてしまわれて、すっと笑顔を仕舞われると、逆に問い質していらっしゃいました。
「その質問に応える前に、わたくしが問いましょう。貴女、どういうつもりで、そんな質問をなさるの?」
お声に厳しさを感じ、誤魔化しは悪手と踏みます。すぐ指を着き敬礼します。
「不躾な言葉を用いて申し訳ありません。叔母様達の夫婦生活を穿っているわけでも、いちゃもんをつけたいわけでもないのです。純粋にそのままの意味で質問いたしました」
「そう。謝罪は受けましょう。でも、どうなさったの? 貴女、普段は臆病が過ぎるほど慎重なのに、こんなに不用意な言葉を吐くなんて。らしくない」
心配そうにわたくしの顔を見つめる叔母様の言葉に、わたくし自身身がすくむ思いです。
不用意な発言など、一歩外に出れば格好の標的にされてもおかしくはありません。不躾な言動は品格を貶めるのです。この場で嗜めてくださった叔母様に感謝しなければ。
いつもなら身に染みて気を付けているというのに、自分で思うよりずっと、内心打ちのめされていたようですね。無意識に、叔母様に甘えていたのでしょうか。
気を引き締めて向き直ります。
「早耳な叔母様には、もうわたくしと旦那様の事なんて、筒抜けなのでしょうけど、聞いてくださる?」
「構いませんけど……深草の少将のごとく、毎夜通われているというのは、風の噂で聞きました。そこに至るまでも、まあ」
ほとんどということですね。叔母様の情報網であるからして、正確性はお墨付きです。
難しいお顔の叔母様に、私の思うところをお伝えします。
「それで合っていますわ。でも、その……ここのところ、旦那様には申し訳ないのだけど、それが苦痛で……」
「毎日通われるというのも、結構な重圧よねえ。『どうだ、これだけしてやってるんだぞ、だから許せ』って無言で押しつけられてるようなものだもの」
「あ、叔母様もそう思われる? よかった、わたくしだけではないのね……」
叔母様の所感にほ、と息を吐いて同意します。叔母様もそう思われるということは、そこから先をお話しても平気でしょう。
「それに、旦那様、とても言葉を尽くされるようになってしまわれて……」
「というと?」
「『ああ』『うん』だけで成り立っていた会話が逆転しそうな勢いで、歯の浮くような言葉をさらっと混ぜてくるのです」
「あ、ああー……」
「とてもまじめに、真剣におっしゃっているのがわかってしまうだけに、そんなこと仰らないでくださいとも言えず」
「それは、お気の毒ね。お互いに」
「ええ、ええ……そうなのです」
どこか遠くを見るような叔母様はしみじみと共感してくださっているご様子。義叔父上も、決して口がお上手な方ではないですものね。
受け取る準備のされてない言葉は、どんなにうれしく思っても、その場限りの言葉でしかないのです。
そんな言葉を言い募らせている罪悪感。羞恥心もそろそろ擦り切れてしまいそうです。
更に言えば、このごろ周囲も変化しつつあります。
平日はお仕事帰りに、休日はだいたい午後から、ほぼ毎日子爵邸に通うようになった旦那様。
残業や出張などで来られないときには、ちょっとした贈り物をつけて律儀に手紙で断ってまで、休まずに。
別段お話が弾むわけでもないというのに。ほんの十分二十分ほどの時間をわたくしと過ごすため、お仕事帰りの疲れた体をわざわざ遠回りしてまでいらっしゃる。
それが一週間、二週間、ひと月も続けば、旦那様の本気など周知の事実となりました。
わたくしの事情は、既に邸内では知れ渡っております。ですが、客観的に見て、現在どちらが誠意を尽くしているかなど明白。
一部の使用人などは、非難する目でわたくしを見るようになりました。主に既婚の男性と、年若い女中です。
男性は、一時の気まぐれを責め立てられ、妻に対して拝み倒しているている現状に対する同情が主に。
女中達は、精悍な男振りの旦那様が、実直に愛を囁いているという状況に酔い、頑ななわたくしに対して呆れと嫉妬を主に。
確かに、旦那様は、見込みのある殿方なのでしょう。
帝国大学を卒業後洋行し、現在はお義父様と同じ内務省にお勤めで、伯爵家の次代でもあられる。
三か国語を修められた頭脳は明晰ですし、謹厳実直なお勤めぶりは世間に疎いわたくしの耳にも届くほど。
無骨ながら若い女中に見惚れられるほどには精悍な顔付きに、わたくしより一尺近く高い上背は、学生時代に鍛えた剣道のおかげか立派なものです。
わたくしより九つ、お姉様より七つ年は離れていますが、子供と侮られた記憶はございません。そんな誠心をお持ちの方です。
公正に見て、旦那様はとても上等な部類の殿方だと思われます。
そんな殿方が、分別のある夫としての行動をおとりになられている。
そして、謝罪と誠意を見せ続けている相手を拒否し続けているわたくしは、夫の過ちを許さない烈女、狭量で悋気な女、そんな風に見えているのです。
叔父様や弟は今でもわたくしの味方です。
ですが、邸内の人間全員が味方かと言えば、当然ですがそうではありません。
そうして日に日にふさぎ込むようになり、それでも旦那様は来られ、悪循環。正直、これは予想していませんでした。
憂慮にふけって沈思した頭を切り替えるように、ふるりと頭を振ります。
「わたくしたち、家の都合で婚約となり、想いを通わせることなく夫婦になったでしょう?」
「貴女から見たら、そうなのでしょうね」
「これは内緒ですけれど。わたくし、旦那様は元々あこがれのお兄様でしたから、婚約は正直嬉しかったのです」
「あら」
口元に手をやって、驚きを表される叔母様。そんなに意外でしたでしょうか?
「ごめんなさいね。だって貴女、家同士の婚姻って頑なに言い張っていたものだから、てっきり」
「てっきり?」
「この婚姻に不満があったのだとばかり」
これにはわたくしもびっくりしてしまいました。
婚約自体には、不満など欠片も抱いたことはありません。そう見えていたということでしょうか。それは、由々しき事態です。
「どこをとってそう思われたのですか?」
「だって貴女、婚約が定まってからも、祝言の前後も、ちっとも嬉しそうではなかったでしょう? いつも厳しいお顔で、張りつめていたもの」
「それは……だって、お姉様の後釜なんですもの。お姉様ほどとまではいかなくても、少しでも満足していただけるように気を張っていたのです。婚約も祝言も、ちゃんと嬉しかったですわ」
「うん?」
今度は、にっこりしたまま固まってしまわれました。え、わたくし、変なことを言ったかしら?
「なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえたけれど、話が逸れたから戻すわ。で? 嬉しくて?」
「はぁ。そう、旦那様と夫婦になるのは嬉しくて。でも、旦那様はそうではないので、出来得る限り歩み寄れるよう、尽くしていこうと、そう思っていたのです」
言葉を重ねる度に叔母様の笑顔がはがれていったのですけれど、わたくし何かまた、失言してしまったのでしょうか? いつも柔和なお顔が無表情ですと怖いです。
「そ、そこで、先達として、ご教示を賜りたかったのです。婚約時代はありましたか? そのころの仲はどうでした? 今の円満の秘訣は? つまるところ、くさくさした気分でしたので、おしどり夫婦の仲睦まじいお話が聞きたいだけなのです」
ちょっと茶化して笑えば、叔母様は真顔から苦笑をこぼされました。言外の「困った子ね」というお声が、今にも聞こえてきそうですね。
少し無理のある言い分ですが、この場は丸め込まれてくださるご様子です。
同じような成り立ちから婚姻を結んだ叔母様方が、どうやって今のような関係を築いてこられたのか、興味があるのは本当なので。
「そうねえ、婚約時代……婚約時代……。わたくし達、いがみあってばかりでしたよ」
「えっ」
びっくりして素っ頓狂な声が出てしまいました。
「十四……十五だったかしら。女学校から帰ったら、父上が突然『明日、許嫁が会いに来るから、支度しておくように』って。聞いてなくて、びっくりしたわ」
「それは……お祖父様……」
「父上がぼんやりさんなのは承知でしたけど、娘の婚約者を『言い忘れてた』で済ますなんてね。あんまりびっくりしてしまって、思わず手にしてた練習用の薙刀で、父上の脛をはらっていたわよね」
「渾身の振りも突きもしゃらっと避けられるんだから、父上は嫌味な人ですわぁ」と、にこにこ笑ってさも当然のようにおっしゃるけど、一般的には、人はびっくりしても薙刀は出さないと思いますわ。あ、でも、お姉様がそうです。家系なのでしょうか。いつかわたくしも振るうようになるのでしょうか? ……ちょっと想像がつきませんね。賢く沈黙してますと、「まだ一度も父上から一本とれたことないんですのよねえ」とのんびり腹を立てておられます。
藪をつつくこともないので、お話を戻しましょう。
「その時お会いしたのが、初対面ですの?」
「そうですよ。わたくしは寝耳に水でしたし、あちらはあちらで厄介事を抱えての顔合わせでしたからね。
それに、旦那様は、ああでしょう? 初対面でお人柄を深く知れるような気易い性質の方ではないですし、お若かったのもあって、少々人を食ったところもありましたし。盛大に遣り合って、その日は喧嘩別れしましたね。今でも覚えてますよ」
てっきり、前の伯爵さまの勢いのまま、おふたりは幼いころから婚約していたのだと思っていました。
幼いころから昵懇だと誤解するほどには、今の叔母様と義叔父上は、琴瑟和合の理想の夫婦で通っております。
これは、俄然興味が湧いてまいりました。
「叔母様、それで義叔父上と、どうやって親しくなっていきましたの?」
「少々、込み入った問題が当時持ち上がっていて。わたくしは、というかわたくし達の婚約は、それに巻き込まれた形だったのですけれど。しょうがないから、わたくしも旦那様も、協力して解決できるように動くしかなくて。その段階で、徐々にお人柄を知っていったんだったわ、確か」
「困難をおふたりで乗り越えて、近づいていかれたの? 素敵です」
「そんな上等なものじゃなかったのだけど。そうね。情けない所も、駄目な部分も、大方その時晒してしまったから、過度の期待も理想もなくなったのは確かね」
「期待、しないんですの?」
一つ唸って、腕を組んで熟慮の体制に張ってしまわれた叔母様。
「どう言ったらいいかしら。わたくしの理想を、あの方に押しつけなくなった、と言うか……。あの方は聖人君子なんかじゃなくて、年相応に悩んで、足掻いている、どこにでもいる殿方だと納得したというか。うぅん……」
「叔母様?」
「……等身大のあの方を、わたくし、好いてしまったのよね」
心ともなくこぼれ落ちたお言葉の、熱烈さにわたくしの頬にも熱が集まってしまいましたが。
浮かされたように、訥々言葉を紡ぐ叔母様のお顔を見て、ますます熱くなりました。なんて、なんて。
「駄目なところがあっていいの。わたくしもそんなたいそうな人間ではないし、駄目なところなんか、わたくしの方がきっとずっと多いわ。取り繕ったお顔も、人好きのしない性格も、必要で身に着けたあの方の武装だというなら、それでいいの。わたくしの前でなら、素顔でいられるというのなら、わたくしは、それで」
はた、と言葉をとぎらせて、我に返った叔母様は、真っ赤に火照ってしまわれました。
続く言葉も想像がつきました。だって、あんな、いとしげなお顔をされたら。
「い、一番の要は、素直であることですね」
「素直、ですか?」
どうにか立て直し、でもわずかに動揺をにじませた叔母様は、生真面目に続けます。
「そうです。必要な嘘も方便もあるでしょう。相手に素直になれないこともあるでしょう。でも、自分にまで素直になれなくなったらいけません。それは、内側から腐っていくのと同じことです」
「腐る……」
「自分の感情に嘘を吐いてはいけません。誤魔化して納得してはいけません。そのままだと、自分の本当の気持ちさえ、見失ってしまうからです」
「……実感のこもったお言葉ですね」
「経験ですよ。わたくしも、自分の気持ちを誤魔化したことがあります。あれは、最低でした。以来、わたくし、自分にも相手にも素直でいることにしています」
「確かに。叔母様、基本は明け透けなお方ですものね」
やろうと思えばどこまでも、本意の読めない会話もできる方ですけど、普段は開けっ広げの気持ちの良い方です。心安い人だけと定めているのかもしれませんが。
「これが、結構楽なんですよ。気持ちにも体にも健やかで」
そう言って微笑まれた叔母様に、使用人が義叔父上の帰宅を知らせます。
中座を断る言葉に快諾すると、いそいそ立ち上がる叔母様がとても可愛らしく見えてまいりました。
長く夫婦を続けていても、夫の帰宅をこうして素直に喜ぶことができるのは、とても素敵なことのように思えます。
磊落なお義父様とは打って変わり、義叔父上は粛として端正な方です。少し、旦那様に似通ったところがあります。
幼いころのわたくしは、その義叔父上の、冷たい氷が解けるような微笑みを見るのが好きでした。温和で朗らかな叔母様と一緒のところを見ると、冬から春に移り変わった喜びと同じものを感じるのです。
そんな叔母様夫婦は、だから、わたくしの理想の夫婦像のひとつなのです。
ほどなく戻られた叔母様に辞去を申し出、引きとめるお誘いにまた来る約束をして、玄関まで参ります。その道すがら。
「もっと早く、叔母様に相談すればよかった気がします」
「流れの渦中にいる内は、なかなか外まで気が向かないものですよ。それに、貴女、昔から内にため込んでしまうから」
「そうかしら?」
「そうですよ。今日の訪問を勧めたのは、梅枝の従弟殿?」
叔父様を、叔母様はそう呼びます。実際、勧めてくださったのは本当でしたので、うなづきました。
日に日にふさぎ込むわたくしの気分転換に、と今日の訪問を使い立ててくださった叔父様は、本当によく気がついて、お優しい。これでどうして独り身なのか、不思議なことです。
「ああ、やっぱり。あの人もお人好しねえ。人の事ばかりじゃなくて、いい加減腹をくくればよろしいのに」
「え? 叔父様にそんなご縁が?」
「え?」
ぽかんとしてわたくしの顔をまじまじ見つめる叔母様。え、なんなんですの?
暫時見やった後、何事か納得したようにうなずいて、なんとも優しいお顔で微笑まれました。
「ほら、ええ、従弟殿は、大人ですから。色々あるのですよ、きっと。ええ」
「叔母様、わたくし、叔父様には幸せになって欲しいのです。ご存じなら教えて。……やっぱり、わたくし共が居たから、叔父様は想う方と結ばれないのでしょうか?」
「いえいえいえいえ。それだけは絶対、ありえませんわ。従弟殿は、嘘がつけないでしょう? あの人の発言に繕ったところがあったと思って?」
首をくるくる振ります。叔父様は、少々損なほど、正直者で通っております。
青年のころからわたくしたち姉弟の面倒をみてくださった叔父様。忙しくしていても、必ず気にかけていてくださいました。あの日々が嘘だったとは思いません。
「でしょう? まぁ、自分から言い出すまでは、貴女は放っておいてあげなさいな。殿方って、意外に打たれ弱いものよ?」
「はぁ……」
「従弟殿に限らないけれど。殿方はともしたら、女より臆病で、繊細で、ロマンチストだから」
「え、義叔父上も?」
「そうよ? 貴女のあの人だって、変わらないわよ、きっと」
そうでしょうか。
言われてみると、わたくしは、旦那様の弱い部分を見たことがあったでしょうか?
今日の叔母様との会話だけで、わたくしには見えていなかったことが、たくさんあったように思われます。
見てわかっていたつもりになっていた事の中に、大切なものが紛れ込んでいたような。
でも、教えていただくだけではいけないのでしょう。
きっと、自分で見つけなければ、わたくしが知りたいことはいつまでもわからないままなのです。
そして、そのためには、更に傷つく覚悟をしなければならない。もう一歩踏み出す、その勇気が、まだ。
途中、義叔父上がわざわざ出てきてくださいました。相変わらず、年齢不詳無愛想なご面相です。
ご挨拶すると、小さいころのようにひとつ頭を撫でられました。
昔からこうして義叔父上は、ぎこちなくも目をかけてくださります。「まあまあ、この子ももう小さな子じゃないんですよ」と笑う叔母様も含めて、わたくしはやっぱり、このお二人は理想だな、と思うのです。
玄関で叔母様と義叔父上にご挨拶し、外に向かいますと、背中に叔母様から一言。
「両成敗ですよ」
振り返れば、怪訝に妻を見下ろす義叔父上と、にっこり微笑む叔母様。
まったくなかなかどうして、食えないお人です。
ターニングポイントとなる叔母様との会話。
本日の活動報告に、この後の叔母様と義叔父上の小話を載せてます。
よろしければあわせてどうぞ。