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よくある話。  作者: 唐子
【本編】
5/22

五、旦那様

ついに、例のあの人登場。


「すまなかった」


 正座で絨毯に額をこすりつける。その姿は、正しく土下座と呼ばれるものでした。





 叔父様に仔細お話したわたくしは、少々気を楽にして、お姉様のお帰りを待つつもりでございました。

 お文を出した翌日の夕に、旦那様が訪ねていらっしゃるまでは。


 背広にお帽子、四角い革鞄という、まさにお仕事帰りのお姿でおとなわれた旦那様は、朝井さんもお通しした『躑躅の間』で、すすめたお席に着くこともなくその場で土下座を披露なさったのです。

 わたくしも、席を一緒にしてくれた叔父様も吃驚してしまいました。弟だけは、なぜか、冷めた目で見下ろしておりましたが。


「あの、旦那様?」

「私と、君の姉が、斯様な噂になっているとは、露ほども知らなかった。君にいらぬ心労を与えてしまった。本当に、誠に、申し訳なかった」

「え、と」

「叔父君の文で、目が覚めた。両親にも、事情通の友人にも確認した。まさか、あんな下衆な噂がさも真実のように広まっているとは」


 くぐもったお声は苦しげで、本当に、旦那様が、あの噂や風聞をご存じなく、悔恨の念を抱いていることが伝わってまいります。あら、まあ。


「遅すぎやしませんか」


 弟の冷え冷えとした声が、旦那様を刺しました。


「重ね重ね、申し訳ない。今後一切、このような不誠実になる行動は慎む。彼女に不安を与えないと約束する。だから、家に戻ってきてくれないだろうか」


 弟の声に怯むでもなく、真摯なお声でお顔を上げないまま、旦那様は言い募ります。

 一言一言発するたびに、弟の空気が冷え込んで、わたくしは気が気じゃありません。


「虫のいい話だ。姉は、この通り、傷ついている。無論、大姉上にも責任はありましょう。ですが、」

「ちょっと、君、口をつぐみなさい」

「しかし、叔父上!」

「事は夫婦の問題だよ。家同士の事はさておき、男女の仲に余計なくちばしを挟んで、いい結果になったためしはないからね」


 しみじみおっしゃって、激高する弟を宥める叔父様には、一体どのような修羅場があったのでしょう。ちょっと気になりますが。

 ぶすくれた弟は、一応いいつけは守り、口を開きませんでした。が、仇のように睨みつけることはやめませんでした。


 叔父様が顔を上げるよう告げ、旦那様がわたくしを見ました。久方ぶりに拝見したお顔は、少し痩せたようにも見え、胸が痛みます。

 でも、まっすぐに、正直に見つめてくるまなざしは、変わりないもの。そのまなざしに、緊張で体が固まります。

 どうにか笑みを作り、わたくしは旦那様の首元に視線を下げ、直視を避けて重い口を開きました。


「申し訳ございません」


 謝罪に、旦那様の肩がこわばったのがわかりました。


「――それは、私とやり直す気はない、ということか」

「それもございますが、まずは、そのように謝らせてしまったことに対して、謝罪を。どうぞ、椅子におかけください。そのままでは話し辛うございます」


 逡巡した旦那様は、わたくしの対面に着座なさいました。

 膝の上に重ねた手のひらが、すうと冷たくなってまいります。これから言うことを、弟や叔父様には聞かれたくないのですが、致し方ありませんね。自業自得ですもの。そのままひとつ頭を下げました。


「突然、実家に帰ったきりになって、申し訳ございませんでした。お義父様とお義母様に文を預けたので、委細お聞きになられていると思っていたのです。さぞ、驚かれたことでしょう」

「戸惑わなかったと言えば、嘘になる。両親は、私を叱責するばかりで、君の居所は一切吐かなかった」

「そのように朝井さんからお聞きしました。慈しみ深い対応に感謝いたします」

「両親は、君を気に入っているから」


 そうですね。旦那様は一粒種ですし、親戚も男子ばかりで、そういう意味ではわたくし、娘として義両親には花嫁修業時代から可愛がられております。

 だからこそ、その信頼を裏切ることも、心苦しく、自責の念に堪えないのですが。


 消沈して黙するわたくしを前に、旦那様は居住まいを正し、やっぱり真っすぐなまなざしでわたくしを見据えます。

 その眼を見かえすことが、わたくしにはできません。


「朝井から、君が、とてつもなく怒っていると聞いた」

「まあ。わたくし、怒ってなどおりません」

「しかし、君は、私とやり直す気はないのだろう?」

「ええ、そうですね」

「話し合いの余地もなし、と」

「話し合いで、解決することではございませんもの」

「私の妻は君だけだ」


 咄嗟になんと返したらよいのかわからなくなり、俯いてしまいました。

 一瞬で、胸の内に詰る言葉があふれます。醜い言葉。汚い言葉。ああ。

 うっかりこぼれないように、膝に置いた両手をぎゅうと握りこみました。

 言葉遊びのような探り合いに、旦那様が切り込みます。


「君は離縁したいと言う。離縁ののち、あれとまとまれと」

「……ええ」

「私とあれは、その、そういう関係にない。そんなこと考えたこともない」

「旦那様がおっしゃるなら、そうなのでしょうね」

「……信じられないのか」


 わたくしは微笑みます。


 いいえ、わたくしは、旦那様を……というよりも、姉を信じている。


 あの真っ直ぐなお姉様が、わたくしを裏切ってこそこそするなんて、ありえません。

 もし本当に旦那様と関係があるならば、真正面からわたくしと相対し、真っ向から仕掛けるでしょう。そして、結果がどうあれ持ち越すことはない。

 姉が姉である限り、わたくし達は信実、姉妹のままで在れる。

 その姉が、この一年、わたくしに対して姉としての態度を崩さなかったのだから、疚しいことなど本当に欠片もなかったのでしょう。

 だから、わたくしは、もたらされる下卑た噂にうんざりし、姉の誇りを汚そうとする周囲に怒りを覚え、気付きもしない旦那様に、残念な気持ちになったのです。

 我ながら薄情ですが、旦那様とお姉様じゃ、過ごしてきた時間も密度も、段違いですもの。どちらを贔屓にしてしまっても、致し方ないでしょう。


 わたくしの笑顔をどう勘違いしたのか、言い募ろうと口を開きかけた旦那様。


「わたくし、この一年」


 遮ってしまい、申し訳ありません。とても、失礼をしました。


「いえ、正確には、婚約期間から、六年。わたくしの時間は、旦那様を軸に回っておりました」


 でも、言わせてくださいまし。……これが最後かも、しれませんし。


「何をしている間も、旦那様を想って動いておりました。お料理中もお裁縫の最中も、お義母様から伯爵家のしきたりを教わっている時も、家のお付き合いの中でも、すべてが旦那様の、ひいてはお家の為の徳を積んでいるのだと」


 あこがれのお兄様でした。

 いずれ本当の義兄になるのが待ち遠しく、ちょっぴり切なくなるほどに。

 幼き日、不徳の身に希望を灯すお言葉をいくつも賜りました。お姉様とは違った頼もしさを教えてくだった。

 ころりと転がり落ちてきた婚約に戸惑いました。でもそれ以上に、うれしかった。

 あこがれのまま、どなたかに嫁ぐいずれかまで、心に秘めておく、淡い思い出にしかならないと、そう思っていたのに。


 だから、この方に尽くして生きていくのだと。

 婚約の決まった日、幼いながらにそう誓ったのです。


 姉のように上手くやれる自信など、微塵もございませんでした。出来ることを、なりふり構わずこなしていくしかありませんでした。

 少しずつ、少しずつ、旦那様のためにできることを増やして。少しずつ、少しずつ、想いはふり積もって。


「この一年、旦那様、わたくしと過ごした時間を、覚えておいでですか?」


 ああ、旦那様。とても、正直者でいらっしゃる。だんまりですね。

 そうですね、数えるほどの休日は、ほとんどお出かけになられておいででしたものね。


「共に過ごす時間だけが、夫婦のすべてだとは、わたくしももちろん考えておりません。毎日遅くまで、お勤めに励んでいらっしゃったことも、重々承知でございます。ただ、これなら、嫁いでからより、留学されていたころの方がずっと、旦那様のお心を身近に感じていられましたわ」


 ひと月に一度は必ずくださったお手紙には、旦那様の誠心がこもったお言葉しかありませんでした。

 学問の進み具合、新しくできたご友人、異国の美しい風景。身の回りの些細なことも、わたくしを気遣うお言葉も、真正直な感想でもって書かれていた。今でもわたくしの宝物です。

 目を伏せ、細く息を吐きました。


「甘いことを申している自覚はございます。わたくしの心内など、家同士の縁組には無用です。こんな、子供の駄々のような感情なんて捨て去って、家に尽くすのが孝行。わかっております。でも、駄目ですね。わたくし、もう、大人ですのに」


 嫁したからには、成人公人としてのふるまいが求められます。

 だから、わたくしのこのふるまいは、正しく子供の癇癪でしかない。わかっているのです。


「――すまない。私には、それの何が問題なのかわからない。夫婦になったんだ。心寄せあうのは、当然じゃないのか?」


 ああ、旦那様。

 貴方が、それを、仰るの?


 ふつふつと、腹の底から湧き上がるような、この感情に名前を付けるとしたら、何なのでしょう。

 旦那様はそんなわたくしに気付かず、まだ首をかしげて言葉を募ります。


「こう言うのもなんだが、婚儀からまだ一年だ。互いを知るには、もう少し、時間をかけても問題ないとは思えないだろうか? これからは、周囲の声にも耳を傾ける。今後、けして君に不愉快な思いはさせない。あれとの距離も考え直す。だから、どうか、家に戻ってきてくれないだろうか?」


 単刀直入な言葉は、正直でした。正直な分だけ、真っ直ぐ刺さります。


「すでに、そういう問題ではないのです」


 固い声音がついて出ました。ああ、わたくし、ここまで明かすつもりは、なかったのに。


「旦那様とお別れしたい理由は、第一は醜聞でしたが、今は、もう、それだけではないのです。噂に翻弄されるのも、大好きなお姉様と旦那様の悪評が蔓延することも、わたくしには苦痛でしたが、でも、なにより……」


 わたくしは、間違った。


「わたくし、もう、旦那様の何を信じたらよいのか、わからないのです」


 欲張ってしまったのです。

 旦那様の、心まで隅々、欲しくなった。欲深で、愚かなわたくし。


「なぜ、姉の方が、旦那様のご予定をご存じなのでしょう? なぜ、姉の方が、旦那様と休暇をお過ごしなのでしょう? なぜ、わたくしは、そこに呼んでいただけないのでしょう? 説明していただけないのでしょう。旦那様自らのお口から、一言説明があれば、わたくしはそれで納得いたしました。でも、そんなことは、一度たりともなかった。心寄せあうための時間を、旦那様はすべて、別のことに費やしておられた。

 家が決めた縁組です。婚約期間は身近におりませんでした。覚悟は致しておりました。ですが、婚儀から一年目で、これでは、あんまりではないのでしょうか。わたくしは、もう」


 旦那様の何を信じたらいいのかわからないまま、側にいられない。


 わたくしの言葉が客間にぽつんと落ちて、沈黙に包まれました。

 誰も何も言いません。今わたくしの身の内に満ちているのは、怒りでもなんでもなく、悲しみと、それを上回る虚脱感です。


 期待しなければよかったのです。身の程をわきまえれば。

 最初から、わたくしのものではなかった。

 ただ、お側にいられるだけで、満たされていればよかったのに。


「――私の言動が、君から信頼を奪ったということか」

「そういうこと、ですわね」

「取り返すことは、できないのだろうか」


 神妙なお言葉に、どうすれば伝わるのか、沈思してしまいました。

 言いあぐね、一拍、二拍。欄間の松の透かし彫りの、一本一本繊細な葉に目を向けて、言いかけて止めることを繰り返し、端を切ります。


「……信頼は、砂山に似ております。毎日、こつこつ、些細なことの積み重ね。降り積もったそれを、人が信頼と呼ぶまでに、子供遊びの小山ほどの大きさになるか、前も見えないほどの大山となるかは、それぞれとしか申せません」


 ――けど、わたくしが旦那様に募らせた信頼は、この一年で、旦那様自身が蹴散らしてしまわれたのです。


 だんまりとしてしまわれた旦那様。ああ、生意気な口を利いてしまった。少々の後悔が湧きます。


「――わかった」


 確乎たるお声に、ぎゅうと目をつむりました。この上、わたくしは、まだ――。


「これから、毎日、君に会いに来よう」

「……………………………………はい?」


 わたくしの口から、間の抜けた声がもれ。

 旦那様は、決然と言い切りました。訳が分かりません。訳がわかりません。


「私は、君との結婚を続けていく意思がある。だから、君が、再び信じてくれるようになるまで、私は君に会いに通い続けよう」


 唖然として、知らず伏せていた顔を上げると、まったく動じておられない様子で、旦那様はわたくしを見つめておりました。

 わたくしの言葉を理解されていないのでしょうか? それとも、わたくしの思うところに意味などない、ということでしょうか?

 これだけ言葉を重ねて、この発言は、あんまりじゃないですか。


「……まだ、そんなことをおっしゃるの?」


 諦念が濃くにじむ呟きに自嘲してしまいました。

 そんなわたくしを、旦那様は烈しい視線で捕えます。厳しいお顔に、心臓が跳ねました。こんなお顔、見たことがありません。


「君こそ、覚悟するがいい」


 深いお声が宣言します。


「私は、もう、我慢するのをやめた。思うところは、伝えなければ伝わらない。よくわかった」


 しみじみ……しみじみ? 自らに言い聞かせるようなお言葉。

 我慢? 思うところ? わたくしは、なにか、見落としていたのでしょうか?


「君がどう思おうが、私はもう、私の気持ちを隠さないことに決めた。

 君が好きだ。愛している。いとおしい。だから、離縁はしない。絶対しない。私は諦めない」


 焼け付くような眼差しのまま、男臭く口の端を持ち上げて笑い、断言。

 そして、見送りは結構、明日から覚悟したまえ、と客間から退室した背中を、わたくしはただただ、呆然と見送ってしまいました。


 あれは、本当に、旦那様……?


 叔父様が愉快気に含み笑いをし、弟は憎々しげに口端をひん曲げます。

 数泊遅れて、心臓がどこどこうるさく鳴り、顔中に熱が集まってまいりました。


「え、と……、はい?」

「うん。どうやら、彼は、諦めないようだねえ」

「え? ……ん? え、あれって、そういう? え、どういうことなんですの?」

「図々しい。小姉様、会うことはないです。来たら追い返しておしまいなさい。僕が許します」

「貴方、あの方にずいぶん辛辣ですね?」

「僕、これでも怒っているんです」

「大事な姉二人が傷つけられたんだ。怒りもするよねえ」

「叔父上お黙り下さい」


 叔父上と弟の軽口を聞きながら、理解の追いつかない頭で、旦那様が言い置いていった言葉を反芻します。


 そして火照る頭をどうにか宥め、「これは夢ね」と無理矢理納得することで、その夜はようやく、眠りにつくことができました。


 どうしたって、旦那様は、悩ましい存在には変わらないのです。







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