四、叔父
ここから新作になります。
展望の話。
「離縁したいのです」
叔父様は神妙なお顔でわたくしに向き直りました。
本邸の奥、満天星の小路を抜けた先に、その離れはあります。
叔父様は敷地内にあるその離れを主な拠点にしてらっしゃいます。
本邸にももちろんお部屋はあるのですが、論文や思索には向かないとのことで、お部屋より自分の巣としている離れにいらっしゃることが多いのです。
叔父様などと呼んではおりますが、正確に申せば父の従弟……わたくしからみれば従叔父という方で、四十前ながら法律学者として帝大に職を奉じていらっしゃる駿傑です。
わたくし達姉弟にとっては厳しくも優しい保護者でもあります。多少、身内に甘い方ではありますが。
子爵家当主の父が不在の間、そのお仕事の代理を果たしてくださる親類は数名おりますが、現在本邸に住まうのは、彼の叔父様だけでした。
そんな学者先生であり当主代理の叔父様は、当然お忙しい方なので、事前に面会を求めたところ、今日のこの時間を作ってくださったというわけです。
あたたかな風の入る気持ちの良い書斎で、クッションを敷いた椅子をすすめられ、向き合うように座します。
机の引き出しから干菓子の入った小箱を取り出されて、懐かしい気持ちになりました。幼いころから、叔父様はこうして、よく私たち姉弟に小さなお菓子を手渡してくれたものです。
遠回しに言って時間を無駄にするより、率直なわたくしの希望を申し上げましたところ、叔父様は、書類や分厚い書物に埋まった机の上で指を組み、ちょっと困ったお顔で笑われました。さて、腕の見せ所ですね。悟られないよう、気を引き締めます。
「離縁、と言うより、挿げ替えたいのです。あの方の妻という立場を、わたくしと、お姉様で」
「どういうことだい?」
怪訝に首をかしげる叔父様に、かすかに笑ってみせます。
「そのままの意味ですわ。始めの通り、あの方の婚約者、妻は、お姉様だと知らしめてしまいたいのです。きっと、今なら、間に合いますわ」
「……何のために、と、聞くのは、野暮なんだろうね」
「穿たないでくださいませ。これは、愚考ではありますが、わたくしなりの熟慮の末の決断であり、望みなのです」
ふう、と沈痛な溜息を吐かれて、叔父様はくるりと椅子を回します。
「君と彼の縁組が、まだ周知ではないというのは、確かだ。僕にも、彼とあの子の婚儀は何時かという質問が、いまだくるくらいだから」
きっと、いろいろ叔父様のお耳にも入っているのでしょう。申し訳なさと情けなさに、そっと目を伏せました。
「わたくし共の婚儀は身内のみのものでしたし……今となっては、幸いというべきでしょうか」
「そんな風に言うもんじゃない」
「事実ですわ」
言い切りますと、叔父様はお口をへの字に曲げて指で顎をこすります。
「君のやり方だと、君の戸籍にも、彼の戸籍にも傷は残る。君があの家で暮らし、伯爵家の名代や奥方の連れとして、引き立てられていた姿を見かけている者も、事実を知る者も、少ないかもしれないが、絶対いる。それでも、君はその決断をして構わないと言うのかい?」
大人の目線で、叔父様は問いかけます。もちろん、言われたことは既に、何度も何度も吟味にかけた事項です。それでも、わたくしは。
「申し訳なく、思います。多くの方にご迷惑をおかけすると知りながら、それでも、わたくしなりに考えたのです。どうすれば、皆が幸せになるのか。そりゃあ一時は混乱するでしょうが……これが一番だと思いますわ」
「君の幸せはどうなる」
叔父様の優しさから出たお言葉に、思わず微笑んでしまいました。
「…………疲れたのです」
声は、自分で思ったよりも、すっかりやつれておりました。
「自分で思っていたよりも、わたくしは弱かった。疲れてしまったのです。これ以上は……」
わたくしの言葉に、叔父様は眉間の皺をますます深くして、指でもみほぐすようにしてから、また一つ大きな溜息をお吐きになられました。
「―――そうか、わかった。あちらのお家には、文書を送るよ。でも、詳細を詰めるのは、あの子の帰りを待ってからだ。いいね?」
叔父様のお言葉に、ふ、っと方から力が抜ける思いが致しました。自分が考えるよりも、体は緊張していたようです。
「お姉様は、いつお帰りですか?」
「二日前に、大阪にいると葉書が届いた。電報を打とう。時機が合えば、そう待つこともない」
「ありがとう、ございます。家の義務も満足に果たせない、不出来な娘で、申し訳なく存じます」
「君はいつもそう言うがね」
ふてくされたようなお声に、俯きがちになってしまった面を上げます。
「不出来なものか。君は、君にしかできないことを、いつも精一杯こなしてくれた。僕の自慢の姪の一人だよ」
眉を下げた叔父様は、本当にそう思ってくださっているのでしょう。微笑みからは慈愛しか感じず、わたくしは胸があたたかくなりました。
「叔父様……」
「僕が書斎や研究室に缶詰の時なんて、君、本当によく世話を焼いてくれて。僕はよく笑われたものだよ。『これじゃ、どっちが大人かわかりゃしない』って」
おどけるように仰る叔父様に、わたくしもこの家で暮らしていた日々を思い出し、自然に笑みがこぼれました。
「叔父様、すぐに寝食を忘れて没頭されるんですもの。いつ倒れるか、冷や冷やして、目が離せませんでしたわ」
「やぁ、面目ない。今日の僕が在るのも、君の協力があってこそだよ」
「お上手ですね」
ひとしきり笑い合い、一息つくと、叔父様は伏し目がちに、真面目な当主代理のお顔で淡々と語り出しました。
「我慢強い君が、もう駄目だと思うなら、本当にもう駄目なんだろう」
「……ええ」
「出来得る限り、君の望み通りになるよう僕も努めよう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「落ち着くまで、いつまでもいてくれて構わない。安心しなさい。ここは君の家だよ」
「ありがとう、ございます」
わたくしの我儘でしかない要望です。
それなのに、弟も叔父様も、出戻りを忌避することなく迎えてくださる。なんて、優しい人達なのだろう。
いつまでも、なんて甘えていられない。できる限り早く身を立てなければ、申し訳が立ちません。
「この縁組は、家と家の縁を結ぶものだったが……」
自立の手段に思いを馳せていましたら、ぽつりと叔父様がこぼされました。
「君を、不幸にするためのものじゃなかった」
「はい」
「だから君は、これからの幸せを考えなさい」
「……はい」
「君はまだ若い。そして誰に恥じない美しい淑女だ。崇拝者だって、きっとすぐに現れるだろうさ」
「まあ、叔父様ったら」
茶目っ気たっぷりに片目をつむって、わたくしを笑わせてくれた叔父様は、やはり優しくて、素敵な人なのでした。