三、弟
白、薄紅、淡紅、薄紫、紫、緋色。
色とりどりの躑躅の庭を、客間の椅子にぼんやりと座ったまま、見るともなしに見ておりましたら、縁続きの廊下から親しい顔がのぞきました。
「小姉様、ただ今戻りました」
「お戻りなさいまし。今日は、お早かったのですね」
生真面目にこうべを垂れた弟に苦笑しながら、わたくしは幾分近づいたその頭をなぜました。
弟はぱっと顔を上げ、若干頬を上気させながら恨めし気に見下ろしてまいります。
「小姉様。僕はもう、小さな子供じゃないと、いつも言っています」
「いつも言い返しますが、習い性です。諦めなさいませ」
本当はなぜられるのがうれしいと、わたくしは知っておりますので、その恨めし気な目も痛くも痒くもありません。
だって、ほら。
「……もう。姉様には、敵いません」
お口がうれしそうに綻びかけてらっしゃるもの。隠しきれていませんよ、弟よ。
背伸びしたいお年頃なのはよぅく存じておりますが、五つ下の弟は、こういったまだまだ未熟な部分も、いとけなく、いとしく感じられます。
「どなたが、いらしていたのですか?」
客間ということで、客人が来たことは察していたのでしょう。弟は一番近い長椅子に身を寄せるように座り、小脇にかかえた制帽を置きました。
幾分キリリと寄せられた眉間に、弟が想像している人物じゃなくて申し訳ないなあなどと、いささか見当違いの感情が湧きだしてまいりました。おかしなことです。
「朝井さんがいらしてくださったのです。以前、お話ししたでしょう?旦那様の、留学時代の御学友です」
「………聞きましたね、そういえば。確か今は、帝大で病理学の研究をなさっているとか」
「その方です。思った方でなく、拍子抜けしましたか?」
「いいえ。より一層、後の楽しみができました」
そう言って微笑む顔が、まるで。
「よからぬ算段をしているときのお姉様にそっくりですよ」
「それは嫌です」
ぱっと表情を消してしまいました。器用なことです。
どうにも、この頃の弟は、姉に対して対抗心を抱いているようで、比べられることを嫌がります。
外務省の外交官として世界を駆け巡る父と、それに随行する母を持ち、わたくし共姉弟は、屋敷を預かる親類と使用人に囲まれて育ちました。
年も血も近しい者が姉弟のみという中で、互いを頼りにするのは自然なことでした。
聡明でしっかり者の姉。
幼くあどけなく庇護を必要とする弟。
わたくしは何をしても平凡な、つまらない身でしたが、それでも姉弟のために何かしら役に立ちたいと、自分なりに奮闘しておりました。
姉は……姉なりに、弟を可愛がっていたのです。わたくしにはそれが理解できました。
ただ、なんというか、姉の可愛がり方は、峻烈だったのです。
姉なりに、弟の行く末を案じたための鞭でした。つけ込ませぬよう、侮らせぬよう、高みに導く、そういう可愛がり方でした。
結果的に弟は姉に対し、猛烈な反骨心と、対抗心を抱いて成長しました。そこに尊敬が含まれるのは、さすが姉としか言いようがありません。
父親のように弟を可愛がった一方で、わたくしには甘い姉でした。
ただただ、わたくしは、姉の庇護の対象でした。
庇われ、震えながらも凛々しく背筋を伸ばす背中を、ずっと見て成長しました。
弟のように高みへ導く教育など、一切受けたことはございません。
ただ、その背を見て学びました。
それが弟には申し訳なく、姉が厳しい分、甘やかした分もあります。
どうにも、わたくしたちは、幼いうちより、意図せず父と母、飴と鞭を分担していたようなのです。
父親と鞭を姉が、母親と飴をわたくしが。
わたくしの無責任な甘やかしを、そのように受け入れてくれた弟と姉こそ、わたくしにとって何よりかえがたい『居場所』となりました。
鬼才俊英逸材を多く輩出する我が家で、わたくしだけが、平凡であったから。
すでに頭角を現していた姉と、姉についてめきめきと台頭していく弟に認められることは、幼いわたくしには、家族の一員であると、認められる思いだったのです。
卑屈な考えであることは存じております。
わたくしが平凡でも非凡でも、姉も弟も両親も、関係なく愛してくださっています。それも百も承知です。
ですが、幼いわたくしにとって、『家族の一員と胸を張れる“何か”がないこと』が、ことほど心苦しく、痛切な悩みだったことは確かなのです。
『………自分だけの一番を………』
ふすり。思わずもれてしまった思い出し笑いに、弟が顔を向けます。
「どうかなさいましたか?小姉様」
「いいえ。少し、昔を思い出しました。躑躅があまりに見事だからでしょうか」
「そういえば、僕に、躑躅の蜜の味を教えてくださったのは、小姉様でした」
「そうでしたか?」
「そうでしたよ。お行儀は悪いけれど、こういう風になら楽しく学べるでしょう、と。表から見えない部分の花を丸裸にしてしまって、ふたりで権じいに雷を食らいました」
しみじみ思い返す弟に、いよいよわたくしの笑いは納まりません。
クスクス笑うわたくしを、本日二度目の恨めし気な目で見つめてきます。
「身に付きましたか?」
「嫌というほど。おかげで、甘い話には裏があると学びました」
「実践ほど、身につく学習はございません。しかし、あれは、わたくしも二度目だったのです」
「二度目、ですか?」
「ええ。躑躅の蜜の味をわたくしに教えてくださったのは、旦那様なのです」
驚かれると、少々得意になりますね。少しお話しましょう。
何物にもなれず、我が身の不徳を嘆くばかりの幼い子どもだったわたくし。
子どもの身丈など隠れてしまうほど大きな躑躅の裏で泣くわたくしを見つけた旦那様は、きっと、泣く子どものあやし方をご存じなかったのでしょう。
近くにしゃがみ、躑躅の花をむしって真似てみろとばかりに吸い付いて。
花の蜜が斯くも甘いと知ったわたくしの驚きに、笑ってみせてくれたのでした。
「御惟眞の話は知っていますね?旦那様のお爺様とわたくし共のお爺様が、幕府と朝廷のかけはしにならんと活動し、その功績から両家は綬爵いたしました」
「はい。及んでおります」
「お爺様方は、その死線をくぐる難事の際、身をひそめるために山駆けも行ったそうで。山中生き延びるために、食せる植物にはそれは詳しくなったそうです。知識は決して無駄にはならない。それがどんなに無駄とも思えるものでも。その教訓として、お爺様から直々に教えを賜ったと聞きました」
そうそう山中に躑躅はないでしょうが、お爺様のお心掛けが素敵だった。
学ぶことに意味はあるのだと、何も成せないくじけかけたわたくしの心に火がともった。
『こうして、泣いている子を泣き止ませることができたのだから、まあ確かに無駄ではなかった』
そう言って、薄紅の躑躅を髪に指してくださったお兄様。
あこがれないわけ、ないでしょう。
「それで、見えない場所全部花を散らして、ふたりで権じいに怒られました。今となっては、愉快な思い出です」
「そうですか……」
「可愛い弟を慰めることもできましたし、確かに、知識は無駄ではありません」
「小姉様も、実践で覚えられたのですね」
「そうです。わたくしたち、おそろいね」
クスクス、秘密めいて笑いあいます。こんなに打ち解けた時間は、どれくらいぶりでしょう……。
「小姉様」
ふ、と陰った心を察してか、弟が何気なくわたくしの手を取ります。いつの間に、わたくしよりも大きく、固くなったのでしょう。
あたたかさに自然、心も綻び、弟の優しさと心遣いと成長に、深く感動いたしました。
本当に、いつの間に、姉を甘やかせるだけの度量を身に着けていたのでしょう?
甘やかしてくれるというなら、甘えるのもまた、姉の度量です。
「もし、このまま、わたくしがずっとこの家にいることになったら、貴方お嫌かしら?」
すると弟は目をぱちくりさせて、すっと男らしくなりつつある顔を引き締めて、つなげた手を小さく握りました。
「僕は、姉様がずっとずっとお側にいてくださるのなら、とてもとてもうれしいけれど?」
完璧! わたくしの弟は、とても素敵な殿方に成長しつつあるようです。
「そんなうれしがらせを言ってくださるなんて、お上手になりましたね」
微笑み、つなげていない方の手のひらを弟の頬に添えました。弟は甘えるようにすり寄り、「でしょう?」とばかりに目を細めます。
「大姉上と二人なんて、本当に気が重いんですよ。小姉様が来てくれて、僕がどんなに心強かったと思う? この一年大変だったんだから」
「そんなにでしたか?」
「押し出しが強いったら。異国に行って、かろうじてあった慎みだとか体面だとかがスッパリ消え去ったんです、きっと」
「入れ違いに演奏旅行に行ってしまわれたから、ゆっくり話せなかったのだけど。そう。たくさん話せて、よかったですね?」
にっこり笑って突っつけば、きゅうっと眉間にしわを寄せてしかめ面。あらまあ。
でも、わたくしは知っているのです。
父のように姉を慕っている弟は、いつか超えてみせると反抗期な反面、姉に強くあこがれているのです。
「明日は、お庭に出てみましょうか。久しぶりに、躑躅の蜜を吸いましょう?」
「小姉様、今度は丸裸にしないでくださいね。権じいも、もうだいぶ年なんですから」
「まぁ、憎たらしいこと。同じ過ちは繰り返しません」
「どうでしょう?二度あることは三度あると言いますよ」
「まあまあ、さっきまでの殊勝さはどこにお出かけになったの?」
「さあ。でも、姉様」
「なあに?」
お茶を用意してもらおうとベルに手を伸ばせば、神妙な声。
「僕は、小姉様一人抱えて生きていくくらいの甲斐性は、身に着けるつもりですよ」
今はまだ、子どもですけどね。微笑んだ顔は、記憶よりずっとずっと、大人のものでした。
本当に、弟の成長には目を瞠るばかりです。負けては、いられませんね。