二、友人
「その、……お暇なのですね?」
「言わないでくれ……」
つい苦笑とともに漏れ出てしまった本音で、お客様は黄昏るように長椅子に突っ伏してしまわれました。あらあらまあまあ。
旦那様の友人である朝井さんが、わたくしが身を寄せる実家子爵邸に訪れたのは、旦那様と一方的なお別れをしてから約一月後の、躑躅の咲き乱れる季節のことでした。
子爵邸は、わたくしが幼い時分、火事で半焼し、流行の和洋折衷の邸宅に建て替えられました。
中でも、躑躅の時期には頻繁に使用される『躑躅の間』は、洋風の設えに、面した庭は段々に植えられた躑躅の大木で、季節には視界一面躑躅の花という、なんとも豪勢な客室です。
そちらにお通しし、茶菓のおもてなしをふるまって、さあ本題は、といったところでの失言でした。大変申し訳ございません。
「俺だってさー、実験実験実験実験……また実験の果てにやぁっっと帰って寝れるってときに泣きつかれてさー、いくら功績があるとはいえ、新婚夫婦のケンカの仲裁とか、何やってんだろって思うよほんとに!!」
「その、いつも旦那様がお世話になっております?」
「ほんとだね!」
功績がなにやら気になりますが、旦那様がご迷惑をおかけしたことには、わたくしにも責任の一端があります。
なんと詫びようか気をめぐらせていると、むっくり起き上って片手を振られました。
「いや、いいんだ。君に罪はない。どぅおおおおおおおっせ、あのむっつりが無体を強いたんだろう。そうに決まっている。あの手の寡黙な奴は、言葉も思いも積もり積もって圧がかかってときおり妙な方向に突っ走ってくんだ。大陸プレートのつなぎのように。知ってる。で、君、あれに何されたんだい?」
滔々話される言葉に、よく舌が絡まりませんねと感心していたら、ズバリと本題に入られました。さすがは気鋭の学者様ですね。
少し頬に手を当て、視線を宙にさ迷わせ、考えます。まあ、言ってしまっても構いませんでしょう。
「旦那様に『愛してる』とささやかれましたので」
がぶう、と妙な音が聞こえたので目を向ければ、朝井さんはお茶でむせてらっしゃいました。そばに控えていた使用人が、あわてて手ぬぐいを渡します。そうですね。この部屋の調度、少々考えたくないほどには贅を凝らしております。
使用人が雑巾やら追加の手ぬぐいやら換えのお茶やらを用意して、ようやくまた静謐が戻ってまいりました。
「初っ端から飛ばすね」
「然様ですか?しかし、本当にこれですべてなのですが」
わたくしも朝井さんも、困った顔で笑ってしまいました。
鬼が出るか蛇が出るか。警戒した朝井さんは、新しく用意した茶菓に手をつけられませんでした。ここのお菓子、おいしいのですけれど……。
そういえば、とわたくしは口を開きます。
「義父上と義母上宛に文をしたためておきましたので、もう少しお早いお越しかと思っておりましたわ」
「うん、なんかね。ご両親、『自力で連れ戻せ』って厳命で、居場所も何も一切合財押し隠してたらしいんだよ」
お舅様お姑様の言動に驚くわたくしでした。そのようなことになってしまったのですか。
一応自力で探せるところは探してたらしいんだけど、と明後日を見る朝井さんは、本当に正直な方です。
「大方、宛てもなく往生していたところを見かねた、というところでしょうか?朝井さんもご多忙の身でしょうに、重ね重ね申し訳ございません」
「……はは。さすが御令室。よくわかっていらっしゃる」
苦笑される朝井さんは、きっと、わたくしの居所なんて考えるまでもなくご存じだったのでしょうね。
そも、一般的な良家の子女の行動範囲は狭いのです。身を寄せられてせいぜい実家、婚家、女学校の旧友、こんなところでしょう。
女学校時代の交友なんて、聞かせたことも聞かれたこともないのだから旦那様が知りようもないですし、婚家にいないのだから、すなわち残るは実家しかないというのに。
「ごめんね。朴念仁なんだよ、あいつ。君の姉君を基準に考えるなって、口を酸っぱくして言ったんだけど」
「お姉様は、一人でどこにでも行かれてしまわれる方ですもの。途方に暮れるのも無理はありませんわ」
現に、今だって姉は演奏旅行で九州まで一人、旅をしている。楽団のお仲間とご一緒していると聞いていますが、それにしたってちょっと周りでは見ない行動力です。
「アレもさー、一応反省はしてるんだよ。でっかい図体縮こめて情けない限りでさ」
「反省したとおっしゃるなら、ご自身がお迎えにいらしたらどうなのでしょう?」
わたくしは所在も明らかにし、逃げも隠れもしておりません。
いくらでも迎えに、チラとでも顔を出しに来られる距離ですのに、あの方はいらっしゃらない。
「あー、なんかね。想像の君に怯えてるみたい。何言われても、受け入れる覚悟はあるけど、滅多刺しにされそうだから、とりあえず俺を斥候に送り込んで様子見、というかむにゃむにゃ……」
「まあ。わたくしの手には、懐刀もナイフも包丁もございませんのに?」
「そうだな。君は何も持っていない。でも、だからこそ、奴は怖いんだよ、きっと」
また困ったように笑う朝井さん。
こういうの、殿方の矜持、とでもいうのでしょうか。わたくしには及びもつかない領域です。
ただわたくしに言えるのは、この『殿方の矜持』。
わたくしの神経を、ことごとく逆なでております。
殿方には、解らないのでしょうか?
傷つく度胸も覚悟もなく、他人任せにされることが、どれだけわたくしの女としての自尊心を、傷つけているか。
「理由はわかんないけど、早いとこ戻ってやってくんないかな。今ならアレも怒ってないし、スルッと戻れるんじゃない?」
「ええ、ええ。そうでしょう。あの方は、怒らないでしょうね。わかります。わかりますわ」
一言一言、区切ってお答えすれば、朝井さんは驚いたように目を丸くされてお口を閉ざしました。わたくしの様子が常と違うことに、お気づきになられたのでしょう。
昂ぶりかけた内側をなだめ、努めて冷静に、言葉を吐きだします。考えなさい、わたくし。
「たとえ、今、戻ったとして」
ゆっくりと、お茶の入った湯呑のふちを、人差し指でなぞります。
お行儀が悪いし無作法ですが、ゆれる緑のきれいな水色にだんだん落ち着いてまいりました。
「あの方は、激高することも、長期間、家を空けた理由を問い質すこともなく、ただ、日常にわたくしを据え置くことを許容するでしょう」
そこにあった、わたくしの気持ちなど、なかったことにして。
「そうして、また、何事もなかったように、日常が始まるのです」
簡単に想像がつきます。
また、あの一人ぼっちの家で、外からのうわさに翻弄される日々。
「反省の原因も察していない現状では、わたくしのしたことなんて、無駄なのでしょうね」
自嘲気にくちびるをあげてみせれば、朝井さんは圧倒されたように身を引かれました。
目蓋をとじ、開けた瞬間には、いつものわたくしの微笑みで笑いかけます。
「ご安心を、朝井さん。元々この『帰省』は期限付きなのです」
「はっ?」
瞠目する朝井さんに畳みかけます。
「義父上義母上宛の文にも、そう説明してあるのです。『旦那様との暮らしに思うところあり、一、二か月ほど頭を冷やしたく候』と。義父上義母上は許可してくださいました」
「へっ?!」
初耳とばかりに唖然とする朝井さんに向かって微笑み、小卓に置いたベルを鳴らしますと、すぐに使用人がやってまいりました。
「お客様がお帰りです。ご案内してさしあげて」
「はい、お嬢様」
ふらりと立ち上がった朝井さんは、じっとわたくしを見下ろします。
「あー……もしかして、君、かなり、怒ってる?」
「まあ」
驚きで目を見張り、咄嗟に手のひらで隠した口元には、こらえきれない笑みが浮かんでしまいました。
わたくしを見た朝井さんはぎょっと身をすくめます。
「朝井さん。そのご質問は、『いいえ』ですわ」
そんなものは通り越し、今はただただ、虚しい。
悲しい。