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よくある話。  作者: 唐子
【本編】
11/22

士、夢


夢の話。




 むせ返るような、金木犀の香気。


「見つけた」


 そう言って、木陰を覗きこむように身をかがめたお兄様。


 大きな金木犀の木陰にすっぽり隠れこんでいたわたくしは、びっくりしてしまって。


「しっぽが出てるよ、お嬢さん」


 指さすのは、日向に出ているわたくしの振袖の袂。

 お兄様は、長い手足を折りたたんで窮屈そうにわたくしの隣に腰掛ける。

 ああ、地べたに座っては、素敵な学生服が汚れてしまうのに。自分のことは棚に上げて、そんなふうに思ってしまって。


「お姉様のお隣にいなくていいのですか?」

「あれならまだ人垣に囲まれてる。あの中に入っていく気はないね」

「そうなのですか」

「君こそ、あちらに居なくていいのか?」


 なんともお返事しづらくて口ごもり、地面に目をやります。



 秋の園遊会でした。

 たしか、十にも満たない、そんな年。


 高く澄んだ青空。見事に色づいた紅葉。

 美しく整えられたお庭には、美味しそうなお料理と、着飾ってさざめく人々。その中心にいるお姉様や叔母様。

 子爵家所縁の者も多く呼ばれていて、さながら親族会のような。


 どなたかが「音楽を」と声を上げられ、「楽器の用意は一通り」と主催の女主人が応え、秋空に様々な音色が高く高く響いて。

 従叔父の一人が幽玄に龍笛を吹き、叔母様が軽妙に琴をつま弾かれ、お姉様が豊かにヴァイオリンを奏でられ。

 演奏を終えたお姉様を皆様が取り囲むのを尻目に、わたくしは、そっと、その場を離れて。


 人波を外れ、広く見事な庭園の中を、人気のない方へない方へ向かっていたら、ふ、と鼻をくすぐる甘い香りに誘われたのです。


 生垣の隙間をぬった先、庭の奥にひっそりあった、金木犀の大樹。


 秋も深い今、時季はずれな金木犀。

 辺りにむせかえるほどの香気だというのに、まったく人気も、喧噪も遠くて。

 ふらふらと根元に隠れるように膝を抱えれば、金木犀に抱かれたような心地がいたしました。

 そこにお兄様がいらしたのです。



「ここの金木犀の狂い咲きは、知る人ぞ知る、とっておきだそうだ」

「えっ!? わ、わたくし、勝手に入って……」

「構うことない。探し当てられた者だけが楽しめる、という趣向らしい。一種の遊戯だ。知らなければ、皆あちらの、見事な紅葉に目を奪われてしまうものだから」

「そうなのですか?」

「そう。だから、心配しなくていい」


 鷹揚にうなずくお兄様。ほっと息を吐くわたくし。

 そこに、遠くから、空気を震わせる絃の音。歌うように、高らかに、揚々と。お姉様の音です。


「あれもよくやる」


 ため息と一緒に吐き出したお言葉でしたが、そこには呆れと共に、隠しきれない親しみがありました。


「わたくしにも、なにか、お披露目できるような腕があればよかった」

「わざわざ見世物になることはない。出来る人間がやればいい」

「叔父様方も、叔母様も、お姉様も。人に誇れ、尊敬される才の方ばかりで。わたくしは、なにも持たないから、あの場にいるのは、少し……」


 みなさま絢爛なもみじのよう。

 黄色、赤、朱、紅、橙、どれをとっても同じ色形はなく、それでいて美しいとしかいいようのない紅葉。

 綾錦あやにしきのような、その見事さに、胸が詰まる。

 わたくしは、紅葉の中には入れないのだと、思い知っているから。


 わたくしに似合いなのは、せいぜい雑草くらいね。


 草履の横に、摘まれずに生き残った雑草。整えられた庭に、必要ないもの。


「君だって、いろいろ努力をしているだろう?」

「でも……だって、何をしても、お姉様には及ばなくて、情けない……」

「誰がそんなことを言った」


 厳しいお声に、肩が跳ねる。

 うつむいて眺めていた雑草からお兄様に目を向けると、お顔も厳しくなって、こわい。こんなお兄様、はじめて。

 怯えたわたくしに気がついたのか、ひとつ咳払い。それでいつものお兄様に戻ってしまうのだから、すごい。


「えと、教師の先生とか、師匠方……。出来の悪い方が目に付くのは、しようがないかと……」


 お姉様がわたくしの年には当たり前にできていたことがこなせないから、先生方の落胆は仕方ないこと。


「それに、自分でも情けないのです。お姉様に及ばなくても、恥ずかしくないようにしたいのに、出来なくて」


 期待通りの成果を上げられなくて、先生方を悲しませるのは、わたくしもつらい。


「……あれと比べる必要がどこにあるのか、僕にはわからないが」


 お兄様の困惑したお声。こんなこと言われたって、困りますよね。申し訳ありません。


「君が努力していないとは思わない」


 情けなくて、お兄様の磨き上げられた靴先を見つめていたら、そんな言葉が降り注いで。


「君は、もっと、自分を褒めてあげなさい」

「だって、お姉様は、なんでも優秀で……わたくしは、不出来で……」

「あれにだって、不得手もある。どうしたって得手が目立つが。あれも完璧じゃない。完璧な人間なんてどこにもいないし、本当は誰も求めていないんだ」

「どうして?」

「完璧は、目指すものではある。でも、本当に完璧な人間がいたとして、僕はそんな人と一緒にいたいとは思わないだろう」


 気が張るし、息が詰まるだろうからね。

 生真面目な顔でうなずかれるお兄様。


「だから、完璧な人になる必要なんて、ないんだ」

「……むずかしいです」


 いわんとするところを理解しようと、一生懸命頭を使いますが、やっぱりよくわかりません。

 完璧は目指す、でもなるものではない。正反対な行動が、どうして並び立つのでしょう?


 うんうん考えるわたくしに、手がかりをくださるお兄様。


「君の中で、自分だけの一番を、見つければいい」


 お兄様のお言葉は、しんと胸にしみわたり。


「全部あれに追いつかなくてもいいだろう。ひとつずつ、出来ることから手をつけたって、それが自信につながるのなら、大いに結構。

 君はまず、自分で誇れる、自分だけの一番を見つけてごらん。時間も忘れて打ちこめる何かでも、ただ好きなことでもいい。君が好きなことは?」

「……お裁縫。お祖母様がてほどきしてくださったのです」


 お祖母様と手を動かしながらするおしゃべりも、一人で黙々針を進める作業も。

 ちょっと難しい工程も、完成をみた達成感も、わたくしには楽しいことでした。

 それになにより、繕いものが上手になれば、だれかが喜んでくれる。

 転んで破ったズボンの膝をなおしてあげた時の、弟の尊敬のまなざし。

 だれがどう見ても、へたくそな継ぎだったのに、怒られると涙ぐんでいたお顔を、ぱっと笑顔にして、ありがとうと言ってくれたかわいい子。

 知らずほころんでいた顔に、お兄様は語りかけます。


「ほら、もうひとつ、君は見つけている」

「でも、お裁縫は女子には必要なことで。やらなきゃいけないことでもあって。それに楽しくてしているだけです。それでいいの?」

「いいんだよ。あれのヴァイオリンなんか、好きこその最たるものじゃないか」


 わたくしの雑巾にした方がいいような繕いものと、お姉様の誰もが聞き惚れるヴァイオリンを並べてしまうのは、お兄様ぐらいです。


 おかしくてくすくす笑うと、遠くから割れんばかりの拍手と歓声が上がります。お姉様の演奏が終わったのでしょう。


 わたくし達はどちらともなく立ち上がり、元来た道を戻ります。

 もう少しで会場、というところで、お兄様がすっと腕がのばされて、あたたかい手のひらがわたくしの前髪をなでてゆきました。

 家族以外の殿方に髪に触れられるという事態に、わたくしは恥ずかしさでかちんと固まり。

 目の前には、珍しく愉快気に微笑むお兄様。


「君、これでは、どこに居たのかすぐに知られてしまうよ」


 指先につままれたのは、香気を放つ、小さなかわいらしい橙色の花。

 そういうお兄様にも、小さな花が降り積もっていて。

 ご指摘する前に、お兄様はお姉様方の輪にするりと紛れてしまわれて、歓談の声は一際高くなります。


「ご覧なさいな。伯爵家と、子爵家の……」

「お似合いねえ」

「ほんに、対雛のようにしくりとはまった」

「令嬢の方は、あの若齢ですでに外来語を操ると言うぞ」

「ヴァイオリンといい、まったく、あの家らしい多才さ。これからが楽しみねえ」

「わたくしの甥が若君と同窓なのですけれどね。先日あった剣道の学校対抗戦で、大将をお勤めになったとか」

「おお! いや、私も後輩を激励に参りましたがね。祖父君に似て、なかなか鋭い剣先で、打ち抜き銅など見事でしたな!」

「帝大も確実だと聞きますわ」

「本当に、完璧な縁組もあったものねえ」


 生垣の影で立ちすくんだまま、そのにぎやかな人だかりを遠巻きにしていたわたくしの耳に、様々な声。ひそひそ、ひそひそ。


「そういえば、子爵家の、妹君の方もいらっしゃっているのでしょう?」

「姿が見えないが……」

「大人しやかな子ですもの。どこぞに隠れでもしているのでは?」

「子爵家由縁の方々がそろって演奏なさったのですもの。あの子だけ何もしないというのは」

「でも、聞いたところによると、何をしても姉君に敵わないのでしょう?」

「とりたてて目立つ素養をお見受けしませんもの」

「君、そんな風に言うものじゃないよ」

「そうですよ。姉君が、あのお年にして完成されているのです。拙くても、いっそ子供らしくて可愛げがあるというものですよ」


 ひそひそ、くすくす。ひそひそ、くすくす。



 ――お兄様。わたくしに、できるのでしょうか。


 わたくしだけの一番を見つければ、このような心無いたわごとも、気にしなくなるのでしょうか。

 いたたまれなくて、なさけなくて、このまま消えてしまいたい。そんな思いも、いずれはなくなるのでしょうか。


 名を呼ばれ、俯いていた顔をはっと仰ぎます。


 輝かんばかりの笑顔で手招きをなさるお姉様。その隣にたたずむお兄様。

 鮮やかなもみじを背負い、小春日和の陽光が、きらきら射して。まるで一幅の絵画のよう。


 鼻の奥に残る、甘やかな金木犀の香り。


 願うなら、どうか。



 この美しい光景が、壊れてしまいませんように。





 ちりんと響く、風鈴の音。

 指の下からするりと布を抜く感触がして、ふわりと意識が浮上します。

 ああ、いけない。そうです、針仕事を、していたのです。

 でも、窓から入る風が心地よくて、目が開きません。


 さらりと髪を梳く指先。

 短く詰んだ爪。硬くなった指先。しなやかでほっそりした指。

 この指を知っています。

 何度もなでる手に、無意識にすり寄りますと、笑う気配がします。


「――夢の、つづきを、見ているのかしら……」

「まあ、どんな夢?」


 ふふ、と微笑む吐息。


「もみじ、きれいで……きんもくせいの、いいかおりの……」

「まあ。今は夏よ?」


 ゆっくり目蓋を開けると、悪戯気に細めた目と合って、案の定と笑います。でももしかして、これも夢の続きかしら?

 寝ぼけていいるのがわかったのか、今度は声に出して笑われました。


「おはよう、寝坊助さん。ただいま帰ったわ」

「おねぼうでは、ありませんわ。おもどりなさいまし、お姉様」


 子どもみたいに舌っ足らずになってしまったのは、見逃してくださいましな。






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