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よくある話。  作者: 唐子
【本編】
10/22

十、集結、或いは、旦那様


長いです。





 眉間にしわを寄せて、今にも泣きだしそうにくしゃりと歪めたお顔を見上げております。

 背中には弾力のある長椅子の座面。顔の横には旦那様の腕。髪も裾も乱れてしまって、はしたない。でも、動けない。

 互いの熱が伝わるほど、こんなに近いというのに。


 どうして、こんなことになってしまったの?





 覚悟したからといって、そう簡単に行動に移せるほど思い切りのいい性格ではございません。


 ゆうべの決意は、結局夕餉にお誘いするまでしかもたず、聞きたいことは聞けずじまい。情けない限りです。

 わたくしからお誘いした旦那様のご様子は、なんともうれしそうに綻んだ口元からお察しすることにしました。


 夕餉の席は、和やかに進みました。叔父様が、幼馴染の彼が訪ねてくる旨を申し伝えるまでは、ですが。


「仮にも当主代理の頭越しに、当人に話を通してしまったと、丁寧な詫び状を送ってくださってね。僕は気にしないんだけど、明日改めてお願いにいらっしゃるそうだから、君も立ち会ってくれるとうれしい」

「それは、もちろん。わたくしからもお願いいたします」

「君も、よければ立ち会って欲しい。話は聞いているかい?」

「……ええ。彼女から聞いています。我が家にも、彼から書状は届きました。家庭教師の件でしょうか」

「この子は、今はまだ、伯爵家の人間だ。いくら子爵家わがやが了承しても、君のお家に批判が寄っては元も子もないからね。君も、そこは納得しなさい」

「はい、叔父様」


 家庭教師について、お義父様お義母様にはわたくしからも文をしたためました。

 嫁の分際で、好き勝手している自覚はあります。

 義両親が不可というならそれに従うつもりでしたが、あの方々は『是』とおっしゃってくださいました。お義母様からは、少々厳しいお言葉もいただきましたが、それは心配からくる苦言で、本当にこの方々には頭が上がりません。


 旦那様の方をちらと見やると、先ほどと打って変わって、どこかぼんやりと上の空になり。

 わたくしはそんな旦那様を不審に思いながらも、何も言えないまま夕餉はお開きになりました。



 不安を残しつつ、翌日、午後。

 わたくしは叔父様の離れへ向かっておりました。

 上機嫌で後ろをついてくるのは、幼馴染の彼です。


 本邸の客間でなく叔父様の離れを場にしたのは、他家の内事だからという叔父様のお気遣いです。執筆や思索にふける叔父様のお邪魔をしないようにと、あそこはあまり、人気を寄せませんもので。

 女中から訪問の知らせを受け迎えに行けば、開口一番気の抜けた「たのもー」という言葉で、わたくしも力が抜けてしまいました。この人、一回はふざけないと死ぬ病気でもかかっているのかしら?


「そんな馬鹿な。いやね、少々懐かしい気持ちで浮かれてはいるんだよ。このお屋敷にうかがうのも、数年ぶりだ。あの柿の木なんか、あんなに大きくなかった」

「あら、そんなになりますか?」

「月日は百代の過客とは言ったものだね。あ、これ、後で食べようね」


 と言って差し出された包みの中は、見事な大玉の桃でした。

 箱の中にお行儀よく並んだそれは、全部で六つ。使用人の分はもう渡したから、これは僕らの取り分だよ、と笑う彼。馥郁たる甘やかな香り。

 新鮮な果物は滅多にない贅沢です。それをこんなにたくさん。わたくしも叔父様も、この季節これに目がないことを、覚えていたのでしょうか。


「今年は初めてですわ。うれしい。ありがとう」

「おや。それはいいところに持ってきたね。君はこれからの時期、水菓子で一回は腹を壊していたから、これも好きだろうとは思っていたけど」


 前言撤回。まったく、素直に感謝もさせてくれませんのね!


 ニヤニヤ笑いの彼に腹立たしい思いを内心にしまって、離れに先導します。


 と、そこに、生垣の向こうから男女の話し声が聞こえてまいりました。

 使用人でしょうか? もしそうなら、注意しなければなりません。こんな誰が来るともわからない場所で、遠耳にも聞こえる大きさで話していては、規律に反します。言い争いに聞こえるのも、まずいです。諍いならば止めなければ。

 ちらと後ろを振り返ると、心得たように小さくうなづいて、桃をわたくしに渡します。いざとなったら止めに出てくれるようです。


 近づくにつれ大きくなる声はやはり言い合いで、でも、どこかで、聞いた声でもあり。


「君、もう、こんなことはやめろ」


 訝しんでいると、ふいにはっきり耳に届いたのは、よく知っている……夕べも聞いたばかりの声で。


「今更、貴方がそれを言うの? 遅いわ。止めるなら、貴方が私を洋行に誘った六年前に止めるべきだった」


 息を呑んだのは、斬り捨てるように鋭いその女性の声の主を、よく、知っていたからで。


 そっとうかがった生垣の先で言い争うのは、旦那様と、お姉様でした。



 その時、わたくしは、どんな顔をしていたのでしょう。

 思わず振り返り、幼馴染の彼を見上げます。一瞬あった視線と身振りで交わす質疑。


 帰宅を知っていた? いいや。

 今日の訪問は合せてじゃないの? いいや。

 何故こんなところで、こそこそと? 僕が知る由もない。

 突入するべき? いざとなったら僕が止めるから、もう少し聞いてみようじゃないか。


 堂々と立ち聞きを勧める彼の図太さに呆れましたが、確かに、この剣呑な空気は気になります。


 声が聞こえる距離の、身の丈以上の生垣に隠れ、そっとのぞきこむと、そこにはやはり、旦那様とお姉様。

 お姉様は背を向けていらっしゃいましたが、向かいあう旦那様のお顔は見えます。常にない厳しいお顔で、姉の手首をつかんでいる。さ、と血の気が引きました。


「そうだな。後悔している。正直、君を、侮っていた」

「ふふ。貴方、昔から、最後の踏み込みが甘いのですわ。一瞬の隙も、油断になりましてよ」

「どうして、自分から傷つきに行く。君なら、何を成しても、誰が相手でも、幸福になるのは容易いだろう。何故わかっていて、敢えて茨の道を行く」


 苦虫を潰したような旦那様の声にお姉様の肩が揺れ、そのままふらりと傾きました。旦那様の肩にお姉様の頭が寄せられます。

 息を呑んで下がろうとしたわたくしの背を、幼馴染の手のひらが支えます。まるで、逃げるなとでも言うように。


「――そんなの、私が訊きたい。何故、こんな、傷ついてまで、この思いを捨てきれないのか。……何故、女の身に生まれてきてしまったのかしら。男に生まれていれば、こんな思い、しなくて済んだのに。お側にいるだけで、お役に立つだけで、それだけで、満足できたのに」


 胸が絞られるようなそのお声は、泣いているようにも聞こえました。


「貴方ならわかるでしょう? この人じゃなきゃ駄目……そういう気持ち、誰よりも理解してくれたのは、貴方だったもの」

「……ああ。よく、わかる」


 眉間にしわを寄せ、手首をつかんでいた手をお姉様の肩に乗せ、旦那様はぐっと力を入れました。

 身を起こしたお姉様は、旦那様から一歩離れます。


「甘えたわ。ごめんなさい」

「ああ」

「私は、自分が情けない。もっと、強く、賢く、なればと……その一心で異国まで行ったのに、私は、まだ――」

「男の身としては、そこまで想われて、嫌な気分はしない」

「でも、私ではないのでしょう?」


 からかう口調なのに、声だけはいやに真剣で。

 旦那様から顔をそむけたおかげで、わたくし達にもその表情が見えました。何かに耐えるようにまぶたを伏せ唇を震わせて。


「妹が、あの子がうらやましい」


 膝が震えました。うらやましい? わたくしが?


「あの子は弱い。でも、その分柔らかいしたたかさがある。誰より優しくて、甘やかで、気配り上手で。柔らかくすべてを受け入れる強さがある。私にはない、あの柔らかさが、貴方にも魅力なのでしょう?」


 旦那様は何も言いません。わたくしは、お姉様の言葉が衝撃的で、放心しておりました。


 お姉様。いつも毅然として、わたくしと弟を守ってくださっていたお姉様。

 揺るぎないお姉様の、これは泣きごとです。どうして?

 だって、わたくしは、ものにもつかない凡人で、お姉様は才能にあふれた、綺羅の人で。どうして、お姉様が、わたくしを羨むことがあるの?


 暫時伏せた目を、ひとたび開いたお姉様の眼差しは、きりりと引き締めた、ひたむきなもので。

 背後でわたくしを支える彼が、にわかに高揚した気配が伝わってまいりました。背に添えられた手のひらが熱いもので。


「私は、あの子のようにはなれない。どうしたって、私は私にしかなれない」

「それで、いい。誰も、誰かの代りになんか、なれない」

「ふふ。こういう時ばかり、調子のいいことを」

「君は強欲だ。あれもこれもと手を広げ過ぎなんだ」

「女は欲張りなものよ。でも、そうね。手に入れられそうで、入らない。だから、ずっと、追いかけてしまうのかもしれないわ」

「待て、まだ話は――」


 ひらりと身を返そうとしたお姉様の腕を、旦那様がつかもうと手を伸ばし――いや、やめて。


 どさり。

 思いのほか、その音は周囲に響きました。わたくしの腕から落ちた桃。六つの眼差しがわたくしに刺さります。


 驚きに瞠られたお姉様と旦那様の目。やってしまったとでも言いたげな幼馴染の溜息。

 叫びそうになった言葉を飲み込み、両手で口元を抑えたわたくしが一歩下がると、幼馴染の彼にぶつかりました。彼は、よろめいたわたくしの体を支えるように両手を肩に添え。その瞬間の旦那様のお顔を、おそらくわたくしは一生忘れないでしょう。

 驚き。怒り。悲しみ。それらすべてを煮詰めたら、きっとああいうお顔になるのだ、と。


 わたくしは、急に恐ろしく、後ろめたく、いたたまれなくなって、身をよじって駆け出しました。

 背後から「あ!」「追いなさい、この馬鹿!」などという声が聞こえ、一心不乱に部屋を目指すのでした。



 逃亡はあっけなく終わりました。

 自室の扉に手をかけたところで、旦那様に追いつかれ、勢いのまま部屋になだれ込みます。

 逃げないよう扉を閉められ、わたくしに近づく旦那様。逃げ退るわたくし。歩み寄る旦那様。また後ずさるわたくし。

 距離を保ちながら留まり、剣呑な眼差しの旦那様から視線を逸らせず、見つめあいます。……野生動物と出くわした時の対処法ですわ、これ。


「何故、逃げる?」

「お顔が怖いからです」

「普段からこの顔だ」

「いえ、いつもより、眉間のしわが多いですわ。目も据わっております」

「そんなことはない」

「あの、旦那様」

「なんだ」

「何か……怒っていらっしゃる?」


 また、だんまりですの? ……なんだか、じわじわ腹立たしさが湧いてきました。


「お姉様と、何のお話をなさっていらっしゃったの?」

「……私の口からは、説明できない」

「では、質問を変えますわ。今日、お姉様とお会いしたのは偶然?」

「……いいや」

「ゆうべの時点で、ご存じだったと?」

「いや。今朝早く、連絡があった」

「今の状況で、隠れてお姉様とお会いすることをわたくしがどう思うか、一瞬でも考えませんでしたか?」

「君こそ」

「え?」


 言いあぐね、ぐっと唇を引き結んでむずかしいお顔の旦那様。また、これです。先日からの挙動不審。

 これまでのわたくしなら、ここで無理矢理にでも納得しました。でも今は、聞きたい。歯の浮くような言葉はいただいても、本当に大事なことは言葉にしてもらっていない。

 わたくしは、旦那様の本心が知りたい。

 なんでもいいから。旦那様の心内を、言葉にして欲しい。


「……おっしゃってくださいまし。先日から、何か、わたくしにおっしゃりたいことがあるのでしょう?」

「……」

「旦那様」

「……君の、噂を、聞いた」

「噂、ですか?」

「元婚約者と密会していた、と。手を取り合い、涙を流し、それは哀切な情景だったと、ご親切な・・・・人間が忠告に来てくれた」

「それは」

「いや、いい。わかっている。彼のことは昔からよく知っているし、先日の話は君から聞いていた。この噂が、誤解と偏見によるものだとも」


 ざ、と血の気が下がりました。

 人気のないパーラーでした。しかし、完全に人目に付かない場所ではありませんでした。迂闊な自分を呪います。

 それが共感を喜ぶ涙でも、傍目には涙は涙です。幼馴染の感極まった行動も、例え一瞬で放したとしても、状況がわからなければ男女の逢瀬に過ぎない。

 動揺し、弁明しようと開いた口を旦那様は押しとどめます。


「しかし、痛いほど身に染みた。噂は、それがどんなものであれ、当事者の耳に入れるべきではない。例え軽口でも、真心のものでも」


 皮肉げに笑われて、どう返したらいいのか、わかりません。

 気まずい沈黙がその場に落ちます。

 身じろぎもできず、旦那様を見るしかないわたくし。うつむきがちに佇む旦那様。


「君は、毎回、こんな思いを……」

「え?」


 旦那様の囁く声が耳に届きます。次の言を静かに待ちますと、長い沈黙の後、ぽつりと一言。


「……すまなかった」


 瞠目してしまいました。

 それは、本当に、心底、後悔しているような、そんな声音で。

 以前いただいた謝罪より、数段重く聞こえるその言葉を、わたくしは。


「思い上がっていた。飲み込んだ言葉の中にこそ、君の真実はあったのに。こんな、たった一度の、偽りまみれの噂ですら耐えがたいというのに……君はこれを一年も?」


 ハッと息を呑みました。

 まっすぐ見つめてくる視線に、様々な感情が蘇ります。


 噂を持ち込む人間に、噓吐きと罵倒してもし足りないというのに、迂闊に反論もできない。

 どのように反応しても、裏で何を言われているかわからない恐怖。

 己の些細な行動が周囲に及ぼす影響。

 謹んでも聞こえてくる無分別な噂、心無い声。


 次第に身動きも声も上げられなくなる。


 この一年、味わい翻弄された感情。


 凍ってしまったように動かない唇を、何とか開きます。


「……先日から、おっしゃりたかった事は、それですか?」

「ああ」

「不愉快な、思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」

「出鱈目であると知っている。気にすることはない、と言っても、君は気にするんだろうな」

「……」

「私が君を好いていると、君が信じられないのも納得できる。こんな事をしていた私は、君に不誠実だった。謝るべきは私だ」


 苦く笑う旦那様に、深く頭を下げました。重ねた指先が震えるのを、抑えるように握りこみます。

 ふ、と気配を感じ、固くつむった目を開くと、旦那様の足先が飛び込んできました。あまりの近さにぎょっと身を反らしましたら、旦那様の腕が追い掛けてきます。

 それにさらに驚いて後ずさると、そこにあった長椅子にひっかけて、倒れ込んでしまいました。……後に思い返すに、わたくし、とろくさいですわね。


「う……」


 衝撃に唸り、顔にかかった髪を払い、後頭部を覆うあたたかい手のひらに気付き、目を開けると。

 とても、とても、近しい距離で、旦那様のお顔を見上げることになりました。

 咄嗟に抱きこんで下さったようで、おかげで肘掛けに頭を打たなくて済みましたが、かわりに身動きが取れません。とっとっと、と速い鼓動に、旦那様も驚いたことが伝わります。さて、困りました。裾と衿を直しつつ、旦那様を押し返します。


「あの、旦那様、ありがとうございました。もう大丈夫ですので……」

「――私は」


 低くつぶやかれた声が、耳を震わせました。

 小さく跳ねた肩に、埋めるように旦那様の頭がもたれてきて、そのままのしかかられます。

 腕で支えられているので、重くはありませんが、いかんせん近いです。熱いですし、昼日中でこの距離ははしたない。


「私は、君のことを、何一つ理解していなかった」


 羞恥に混乱するわたくしの内心など知らず、旦那様は、そんなことをおっしゃって。

 わたくしは、旦那様の腕の中で固まってしまって。


「いつまでも木陰にひそんで泣いている君だと、思い込んでいた。小さな君と、今の君の差異に、私は気がつかなかった。……気がつかないで、のうのうと、君を守っている気になっていたんだな」


 自嘲するようにくつりと笑い、その振動がわたくしにも伝わります。

 ……旦那様が、そのように思ってらっしゃったなんて。

 どおりで、接し方が幼いころと変わらないはずです。それ自体に怒りはわきません。なにせ九つも離れておりますし。いえ、少々、イラッとはしますが。目くじたらを立てるほどではございません。ええ。木陰で泣いていたのが、たとえ十に満たない年までだったとしても。ええ。……旦那様、わたくしをいくつだとお思いなのでしょう……。


「――時間を、置こう」


 息を、呑みました。


「君が、実家に戻った気持ちも、少し理解できた。今、側にいたら、君を決定的に傷つけてしまいそうで……私はそれが怖い」


 ぽとりと落とされた言葉に、どれだけの感情が秘められているのでしょう。お顔が見えない分、よく伝わるような気がいたしました。

 後悔、懺悔、自嘲。そこに見え隠れする激情を、『嫉妬』と名付けてもよいのでしょうか。


 旦那様の嫉妬に身の内を駆け巡ったのは、喜びよりも前に、自己嫌悪でした。

 意図せずとも、自分がされて嫌なことをやりかえした形です。

 だというのに、旦那様は、この上まだわたくしを、優先させようとなさっておいでで。

 矮小な自分を思い知るようで、ひどく、恥ずかしい。


「君は、考えたことがあるだろうか? 私は、何度も考えていた。留学中、君から手紙が届くたび『この子と夫婦になる。朝起きて一番に目にするのはこの子で、家に帰ればこの子が待っている。出迎えてくれる。それだけで、一日を頑張れる』そんな風に。君は、私との生活を、望んでくれたことが、あっただろうか?」


 もちろん。

 その言葉は、ついに発せませんでした。

 旦那様の望みが、あんまりささやかで、当然のことで。

 それは、わたくしにとって、想像するまでもない当たり前の日常です。この一年繰り返し、埋没していた、なんてことのない日常。

 旦那様の望みが、そんなささやかな所で留まっていたとしたら、わたくし共には大きな意識の差異があります。


 どんな夫婦になりたいか。叔母様にお会いしてから考えていた、わたくしの理想。

 わたくしだけでは駄目なのです。そうです。わたくしと、旦那様。夫婦の事なのだから、ふたりで考えなくてはいけなかったのに。


 ぐっと力の入った腕に、抱擁を予想して、目をつむります。

 しかしその腕は、わたくしを抱きしめることなく、離れてゆかれました。

 長椅子の傍らにたたずんだ旦那様を、茫然と仰ぎます。


「君の姉の事情は、君の姉に訊いてくれ。私は、その説明をしていい立場にいない。……これが今の私にできる、精一杯の誠実だ。納得しがたいだろうが」

「旦那様?」

「君が好きだ。気持ちに変わりはない。しかし、頭を冷やしたい」


 すまない。そう一言おいて、退室された旦那様を追う気力は、わたくしには残されておりませんでした。


 長椅子の上に転がったまま、天井を見上げます。

 時間を置くというのは、いつまでなのでしょう。旦那様が冷静になるまで? それとも、わたくしの気が変わり、戻ると申すまででしょうか。わかりません。旦那様の望みも、わたくしは知らなかった。

 旦那様は、この一年の生活に満足していらっしゃったの? ご自分に不満がないから、わたくしも不満はないと思われたのかしら? だとしたら思い違いもいいところですし、わたくしは旦那様を理解していないにもほどがある。

 残されていった謎の誠実は、結局のところお姉様にうかがえという助言なのでしょう。説明できない立場とはなんなのでしょう。ご自身の事なのに。

 誰も彼も、思わせぶりで、秘密ばかり。

 でも、嘘はつかれていない。それがわかるのが、辛い。


「どうしたらよいのかしら、お姉様……」


 どうぞ、わたくしを答えに導いて。

 幼いころよくした相談のように。笑って大丈夫と抱きしめて。


 そんな日はもう来ないかもしれないけれど。


 猶予期間は、終わってしまった。

 次に刃物を握りあう相手は、決まってしまった。





 お姉様は、わたくしが自室で呆然としている間にお会いすることなくまたお出かけになられ、その日は遅くまでお帰りになりませんでした。

 わたくしは腹を立てたらいいのか、一時出来た猶予に安心したらいいのかわからないまま、まんじりと時間だけが過ぎていくのでした。








 お姉様の帰還。



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