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よい食事、良い睡眠。それらが満たされたら急に手持無沙汰になった。気付いたら、体を動かしていた。十キロのランニングに、各種補強運動。やったりやらなかったりしていたトレーニング。久々だったが、体は思ったよりも動いた。
心地よい汗を流して部屋に戻ると、和服姿の出雲が黙々と掃除をしていた。出雲がふと顔をあげて、ああ、おかえりなさい、と柔らかな微笑を浮かべた。
「掃除はしなくていいって言ったろう」
「暇だったの」
そう言いながら、出雲は俺にタオルを手渡してくる。それを受け取ってそのまま浴室に向かい、ざっとシャワーを浴びる。用意されていた部屋着に袖を通し、ジュースをもらってどっかりと腰を落としてから、順応している自分に気付いて愕然とした。
ここまで何の疑問なく出雲の奉仕を受け取っていた自分に驚きを隠せない。いやさ、訓練された出雲の動きが素晴らしすぎる。俺がやらなくてはいけないことを先回りをして片づけてしまっている。しかも、そつなく、俺に気付かせないほど自然にだ。・・・・・・恐るべし真賀の教育。俺はこっち方面は全然習得していないから、抵抗する術がない。
所詮家事歴一年のひよっこ。熟練者には勝てない。
「どうしたの?」
「いや・・・・・・自分の未熟さに呆れてる」
腐り怠惰に落ちても、日常生活はきっちりとこなしていた自信はあったのだが、蓋を開けてみればなんてことはない思い上がりも甚だしい限りであった、ということだ。
「・・・・・・お前は何でも出来るんだな」
「頑張ったもの」
真摯な瞳を向けられて、うっ、と呻く。今の俺を責められている気がしたのは、俺が出雲に気後れしているからだろうか。
「家事なんぞ覚えなくても、世話人ぐらいいたろうに」
「そうね。でも、あなたにはいないわ。だから、覚えたの。練習したし、勉強したのよ」
「当主がそう言ったのか。強制したのか」
「いいえ。私は私の意思で、やったの。兄様は別のをあなたに宛がうつもりだったのだけど、私が盗ったのよ。だって・・・・・・」
そこまで言って出雲は口籠った。恥ずかしそうに顔を伏せてから、ぽつぽつと小さな声で何かを言った。あまりよく聞こえなくて、聞き返そうと思ったのだが、出雲の態度を見て止めた。虎の親のいる巣穴に首を突っ込むつもりはないし、大事なことならそのうちまた言うだろう。
「しかし『別の』って・・・・・・ずいぶんな言い様だな」
まぁ、らしいといえばらしい。あれは、当主は、自分以外をよくそう見る傾向があった。とはいえ、それは卑下しているわけでも、見下しているわけでもなく、当主としての心構えの問題というだけに過ぎない。当主の判断基準は個ではなく、群だ。群にとって必要なこと、良いことをするのが当主、長である。そうなれば、『ある事情』から俺の血、俺の子供は喉から手が出るほど欲しいだろう。・・・・・・次のために。次の次のために。さらに先の戦いのために。
「・・・・・・・まぁいいさ。・・・そういえば出雲、お前、休みの日は俺のとこにいるけど、遊びにいったりはしないのか?」
「・・・・・・あまり興味ないわ」
「私服・・・・・・ってか、洋服は持ってないのか」
「ないわね。制服ぐらいかしら」
「・・・・・・・夜は外で食べるか。出かけよう。ちょっと遊びに行こうか」
「え?」
「嫌か?」
少し逡巡する出雲を見る。出かけたくないのだろうか。・・・・・・かくいう俺もあまり外出は好きじゃない。休日は大人しくしていたい。人混みはあまり好きじゃないから、買い物はあまり人がいない平日に済ませる派だ。
「嫌じゃない、けど・・・・・・いいの?」
「良いも何も、俺から出かけようって言ってるんだから」
とはいえ、無理強いするつもりはない。出かけたくないのならそれでいい。このまま部屋でごろごろとしているのだっていい。ゆっくりと微睡みながら本を読むのもいいな。そのままうたた寝して、一日が終わってもいい。
「あなたがいいのなら」
「ん。じゃあ、行くか」
手早く準備を整えて、外に出て出雲を待つ。何やら別に準備があるということで、自分の部屋に戻ったのだ。
大して待たずに出雲が外に出てきた。ただし、制服で。
「着替えたのか?」
「私一人なら、着物でもいいのだけど・・・・・・あなたは目立つの嫌いでしょう?」
「別に気にしなくてよかったんだが」
ぼりぼりと頭を掻きながら、じゃあ、行こうか、と出雲を促した。出雲は小さく頷いて、静かに俺の背中に続いた。
「どこに行くの?」
「ま、一通り回ろう。ここ近辺で買い物は一通り終わるからな、どんな店があるのか紹介がてら散歩でもしよう。欲しいものがあったら買ってやるよ。お前、どうせここ一週間、何も見て回ってないんだろう? 俺の世話ばかりしてるから」
「好きでやってることよ」
「・・・・・・俺が言うのもなんだけどさ、歳に見合ったことをやったほうがいいぞ」
あれやっておけばよかったとか、あれをしたかったとか、今なら、色々と思い浮かべることができる。視界が狭かった。それは同時に世界が狭いということ。歩ける世界も、語れる世界も、狭くて、しかしそれに気付くことが出来なかった。今も世界は狭いが、それでも前よりは広い。
「それが良いことならば」
「それには答えられないなぁ」
良いも悪いも、その人の価値基準でしかない。だから、それを無理強いすることもできない。
「良いか悪いかで判断しないほうがいいと思うけどな、俺は」
そう、と出雲の優しい声が聞こえた。俺は小さくため息をつく。何を言ってるんだろうな、と後悔を滲ませて呟いた。