30
人気のない場所まで移動して、俺は包帯を外した。肩も目も傷跡がむき出しになった部分に指をもぐりこませる。止まっていた血が溢れ出して、俺の体力を奪っていく。
「・・・・・何やってんだ?」
俺は続きがしたいのであって、仕切り直したいわけではない。だから。朝の状態に戻しただけだ。そうでないと、続きじゃない。俺が望んだものじゃなくなってしまう。それでは意味がない。「証明」にならない。
鴻上洋一郎は怪訝そうにしながらも、刃を抜いた。
ぴりぴりと空気が皮膚に突き刺さってくるのが解る。
それは、稽古の時には感じられなかった感覚で、どこか、くすぐったいものだった。遊びの前の雰囲気というのはこういうものなのかもしれない。俺は、誰かと遊んだことなんてないけど。町の学校に行かされるとき、神社に帰る道を歩いていると、子供たちが笑って駆け巡っているのが見えた。楽しそう、というのはああいうことを言うのだろうと、思ったものだ。
でも、それは俺には関係ないことで、あまり興味もないことだった。
けれど、今は興味がある。
みんなと遊べば楽しいかもしれない。
稽古も修練も関係なく、ただ何もかも関係ないところで誰かと一緒にいるのは楽しいかもしれない。
・・・・・・でも、それは俺にとって、地獄なのかもしれない。だって、今、こうして楽しいかもしれないと思っていながら、目の前の存在を叩き潰したくてしょうがない。
こんな気持ちは初めてで、本当にそう思っているのかも解からない。
だから。確かめるのだ。
俺は、愚直にまっすぐ鴻上洋一郎との距離を詰めた。笑いながら、鴻上洋一郎は蹴りを打った。それを受け流して、肘を突き出し、後方に下がった。ひゅん、と俺がいた空間に刃が落ちて、それから目もつかぬほど早く連続して打ち振るわれた。
袈裟、逆袈裟、突き、薙ぎ払い、それらは緩く速く急所を的確狙ったかと思えばそうでない場所を浅く裂いていく。
薄く、血の軌跡が手足に、肩に頬に刻まれていく。
痛い。
浅く切られただけなのに、とても痛い。今まで感じたことのない痛みに、声が漏れそうだ。足が震えそうだ。冷や汗がどっと流れているのが解るし、血が流れて体力が消えているのも解る。血で潰れた死角から放たれる刃を実感する度に足が遠く後ろへ飛びそうになる。そうすればどれだけ楽だろうかと思う。でもそれでは、この時間が終わってしまう。
こんなに。
こんなに愉しいのに。
勿体無い。終わらせたくない。嫌だ、いやだいやだいやだいやだ! 永遠に続け。悠久に終わるな!
俺はそう思っているのに、鴻上洋一郎はそう思っていない。それが、悲しい。彼の顔には今や、ありありとした焦りが浮かんでいる。なんでそんなに焦っているんだ。追い詰めているのはお前の方なのに。
刃の軌跡を避けて、その手に蹴りを打つ。呻きながら、鴻上洋一郎は後ろに退いていく。それを追いかけて距離を詰める。
ふっ、と息を吐き出しながら刃が突き出される。それを回避して、さらに踏み込み、拳が届く瞬間、返された刃が逆袈裟に俺を裂いた。
ぱっと、血の華が咲く。
怖い、と思う。けれど、それよりも愉しい。愉しくてしょうがない。
「何なんだお前! なんでそんなに傷だらけで笑ってられる!?」
笑ってる?
俺が?
距離をとって叫ぶ鴻上洋一郎の言葉を確かめるために口元に手を置く。口角が吊り上り、感じたことのない形になっている。・・・・・・ああ、これが笑う感覚なのか。筋肉が引きつるみたいで少し窮屈だが、俺は笑っている。覚えた。これが笑うだ。
拳をぐっと握りしめて、俺は喉を震わせた。
高く、高く空まで届くように。誰かに届けと、声を張り上げた。
びりびりと空気を震わせているのが解る。誰がどれだけ理解してくれたかは知らない。伸びきった声がどこまでも余韻を引いていく。
不快だった腹の底の感覚が全て取り払われたように感じた。
その代り、全身の感覚がはっきりと伝わってきた。痛み、出血の感覚、打撲、その他諸々の感覚。世界が一気に広がったように感じた。空気の流れ、町の音、人の営み、目の前の少年の動悸。焦り、不安、恐怖。関係ないと思っていたものが身近に感じられる。
弓を引き絞るように体を緊張させ、一気に脱力する。
まっすぐ、矢が放たれるように、前進する。大地を踏み抜く足裏の感覚が心地よい、傷を撫でる風の感覚がくすぐったい。血がまっすぐ後ろに流れていく。血の軌跡の先に俺の姿がどんどんと押し出されていく。鴻上洋一郎は呻きながら、刃を突き出した。
その刃先に、強烈な恐怖を覚える。
腹の底から湧き上がってくる強烈な不快感は、これだった。恐怖。恐怖、恐怖、死の恐怖。今は解かる。鴻上洋一郎はとても怖い存在だ。それが持つ武器はとてもとても怖いものだ。だが、それを押しのけて前に出ていくものがある。
歓喜。
こんなに強い人がいる。俺はこんなに強くて怖い人と戦うことができる。嬉しい! 愉しい! 喜びが全身を貫いて、更に加速させていく。
俺は戦っているっ!
それが嬉しい。誰に強制された戦いじゃない。俺は俺の意思で戦いに赴いている。
刃の軌跡に合わせて、掌を突き出す。ずぶり、と刃が掌の肉に食い込み、さらに奥まで突き進んでいく。そのまま俺を貫こうとするように、鴻上洋一郎は吠えた。ここで決めなければ、負ける、そう思っているかのような気迫だった。
俺はそれを喜んで受け入れる。まっすぐ突き進む。がっしりと鴻上洋一郎の手を掴んでその動きを止めた。
「くっ・・・・・・」
「・・・・・・俺の距離だ」
ひた、と腹に掌を乗せる。
足で大地を掴む。そこから僅かの回転が始まり、腰を経由し、手の末端に至るころに最大の力と衝撃力が完成され、鴻上洋一郎の腹の内に『通る』
呻いて、鴻上洋一郎の頭が下がる。腹に膝を入れ、首の後ろから手を回して顎を掴み、空中で回転させるように投げ捨てる。どぉん、と強烈な音が響き渡った。
ピクリとも動かなくなった鴻上洋一郎を見下ろしながら、掌から刃を抜き、俺は薄らと浮かび上がる夕暮れの月に向かって咆哮した。