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先手必勝、と思ったわけではないし、堪えが利かなかったわけではない。ただ、鳴瀬恵贈の後手に回るのを嫌がった結果、俺は走り出していた。
不意打ち気味に鳴瀬恵贈の内懐に潜り込んで、首に手を回したところまでは、はっきり覚えている。その直後に体が浮き上がり、奇妙な回転を加えられて地面に放られていた。どういう技術で投げられたのか解からないまま、俺は地面を転がっていた。
それに刺激されて、鳴瀬源蔵と戦った時のことを思い出す。鳴瀬源蔵は投げ技の達者だった。慣れない技に少しばかり苦戦した。恵贈はそれよりも数段上の能力を見せ付けてくる。源蔵の時は少なくとも自分がどのように投げられたのか理解できる素地があった。今は、ない。
「頭から落としたつもりなんだがな・・・・・・身が軽いようだ」
「・・・・・・・・」
ふ、と息を吐き出して、地面を擦るように走る。遠間から脛を刈るように蹴りを打つ。それを嫌がるように鳴瀬恵贈は僅かに後ろに下がるだけでそれを回避する。それを追うように体を跳ね上げ、鳴瀬恵贈の鼻っ柱に向かって右掌を打つと同時に左手で鳴瀬恵贈の膝を取る。このまま引き倒してしまうつもりだったが、鳴瀬恵贈は倒れることなく、そして怯む事もせずに右掌を受けた。鼻ではなく僅かに顎を引いて額で。そしてそのまま俺の腕が絡みついた膝を気にすることなく、俺の右腕の、伸びきった肘を絡めとるように取った。
寒気を感じ、すぐさま膝を掴んでいた手を外して、鳴瀬恵贈の腹に拳を叩き込んだ。
うむ、と僅かに呻いたものの鳴瀬恵贈は腕を放すようなことはしなかった。
直後、俺の体が空を舞った。いや、正確には鳴瀬恵贈の投げの動きに合わせて飛んだのだが、そんなことは百も承知だというように、俺の体を振り回し、地面に叩き付けた。右肘が悲鳴を上げるのを覚悟で俺は体を無理矢理調整して、脳天ではなく背中から落ちた。肺から空気が出ると同時に右腕に激痛が走った。
「あが、あああああああああああああああああっ!」
正面でにたりと嗤う鳴瀬恵贈の無防備な股間に向かって、足を押し込むような蹴りを放つ。おっと、と鳴瀬恵贈は、俺の腕を放して距離を取った。
腕は、折れていなかった。ただ、少し関節がずれてしまったようで、非常に動かし辛い。俺は、肘関節を握り潰すようにして、ずれてしまった関節を戻した。
「頑丈な体だ。機転もいい」
ごきり、と拳を鳴らして鳴瀬恵贈が間合いをつめてくる。
俺はそれを迎え撃つ。
鳴瀬恵贈の拳はそれほど重くはない。それが補助的な役割でしかないことを示すように軽く・・・・・・だが速い。星川昴のような重さも川内ユキオのように全てを切り裂くような鋭さもない。鳴瀬恵贈に、それは必要ないのだ。ほんの少しの間隙。それさえあれば。鳴瀬恵贈は人を投げ、殺す。その為に頑強に鍛え上げられた体があり、強靭な精神がある。
ほんの少し、右腕が痛んだ瞬間の間隙を縫って、鳴瀬恵贈の手が俺の方を鷲掴みにする。そのまま地面から引っこ抜くように俺の体が瞬間持ち上がり、地面に叩き落された。額から、俺は地面に叩きつけられた。
「・・・・・・むっ」
鳴瀬恵贈は何かいぶかしむかのような声を上げた。俺は、それを聞きながら地面に額を擦りつけながら体を捻った。俺の肩を掴む鳴瀬恵贈の手首をがっちりと掴み、彼の腕自体を体全体で拘束する。
「お前・・・・・・」
がくん、と鳴瀬恵贈が何かに引っ張られるように膝を突き、そのまま地面に向かって顔面からダイブした。ぱっと、赤い血の華が咲く。それは俺の額から溢れていて視界を塞がんとするように流れ落ちていく。それでも俺は舌打ちをする。
狙っていた結果を得られていない。鳴瀬恵贈は自分から、己が傷つくのも厭わずに地面に飛び込んだのだ。抵抗してくれていれば、腕一本取れたのに。
俺の足首に何かが触れる。解かる。鳴瀬恵贈の指だ。それが俺の足首を破壊しようと蠢こうとしている。俺は腕から体を放し、不安定だと解かっていながらその顔面を踏みつけた。ばき、と足裏に鼻を折った感触が伝わってくる。だが、鳴瀬恵贈はそれを無視するように前に這うように進み出た。首に迷うことなく手が伸び、俺の首を締め上げた。指が首の薄い皮膚を突き破り、中に入ってくる。強烈な異物感に震えた。
「かっ、ぁあああっ!!」
我武者羅に右腕を動かし、鳴瀬恵贈の手を払い除ける。咽喉の皮膚の表層が彼の指に引っかかり、ぶちりと音を立てて切れた。それは、無視する。間近に鳴瀬恵贈の顔があって、防御もままならない状況が生起している中で痛みに呻いている暇も呆然とする理由もない。
まっすぐ腕を突き出し、その左目を、熊手に開いた親指で貫いた。それでも鳴瀬恵贈は怯まなかった。目を貫いた俺の腕を取り体を回した。鳴瀬恵贈の眼球が俺の親指に突き刺さったまま引き抜かれ、俺の腕からごきり、という音が体内に響いた。悲鳴を上げる間も無く、俺の体がふわりと浮かぶ。鳴瀬恵贈はまだ俺の腕を放していない。天頂が視界に移りこんだ瞬間、加速し遠くへと消えていった。
後頭部から凄まじい音が響いたように感じた。
意識が遠くなり、体から力が抜けた。後頭部から何かが流れ出していくのが解かった。それが、生きるために大事な何かだということも、解かる。解かるが、何も出来なかった。鳴瀬恵贈が俺を見下ろして、そのまま立ち去ろうとしているのが、伝わってきた。離れていく。敵が、俺の敵が・・・・・・・
「・・・・・・おい、それで動くか。死ぬぞ」
鳴瀬恵贈の笑みが引き攣っている。そう見える。後頭部からも、額からもだらだらと血を流したままでいる俺は、鳴瀬恵贈にはどう見えているのだろうか。笑みが自然と浮かんだ。俺は、まだ、生きている。俺はまだ、俺の敵の前に立っていられる。死がひたひたと背中に這いよっているのは解かっている。けれど、それがどうしたというのだろう。
俺は今、満足しようとしている。生きていて良かったと心の底から思っている。だって、まだ、戦える。俺は、まだ戦える。命の袋小路に俺は立たされていて、それが酷く恐ろしいと思っているのは変わらない。だが、そんなことはどうでもいいとも、思っている。今はただ、この戦いを続けたい、そう心底から願っている。
「く、はははははっ! 真賀、それが本性か!」
虚ろな瞳に感情がありありと浮かんでいる。様々な感情をごちゃ混ぜにして、けれど眼底の奥に浮かび上がっているのは間違いのない狂喜だった。
きっと、俺も、そう、なっている、はずだ。