17
電車は山を切り裂くように緩やかに進んでいく。うむぅ、と肩のあたりで声が聞こえたかと思うと、俺に体重を預けて眠っていたユキオはゆっくりと頭を上げた。ぼうっとした瞳で周囲を見つめ、それから小さく欠伸を漏らした。
「・・・・・・ごめ、寝てた」
「もう少し寝てていいぞ。まだ着かないから」
「そ? もうだいぶ時間経ったと思うけど」
「そうでもない。お前が転寝してから十分も経ってない」
「んん? そぉ?」
「ああ」
ユキオは少し思索に耽るように目を閉じて、軽く首を回しながら瞼を開けた。それだけの動作であっさりと眠気を払い除け、起きるよ、と呟くように言った。
木漏れ日の差し込む車窓に目を移し、俺は懐かしい光景に目を細めた。
指定された場所は俺の生家に向かう道のりの半ばにある、穴場と言われる温泉郷である。雑誌にもテレビに取り上げられることのない、知る人ぞ知るという類の場所だ。俺は祖父の付き添いで幾度か足を運んだことがある。ただ、温泉郷でゆっくりと時間を過ごしたことはない。大体にして祖父がのんびりしている間、俺は温泉郷を取り囲む見た目よりもずっと険しい山々の奥深くから抜け出すために、祖父への恨み言を吐きながら山中を駆けていた。
ようやく祖父の下に着いたころには帰宅の日になっているのが常だった。今思い出しても、忌々しい記憶だ。
そんな俺を横目に、ユキオは予め買っていた駅弁を取り出して、おもむろに食べ始めた。この穏やかな電車の旅のあとは、少し面倒な山をそこそこ重い荷物を持って登ることになる。そのための栄養補給だとユキオはのたまった。
「そっれにしても、辺鄙なとこだね。私の田舎にもこういうところあるけど、こんなところに店を開いて採算ってとれるのかな?」
「取れるんだろ。他の場所は知らんが、少なくともここは道楽者の保養地だ。金を落とすやつは結構いる。お前の依頼主もそんな中の一人だろ」
「ん~・・・・・・・どうかな。解からないけど。・・・・・・ま、道楽じゃなかったら呼び出すのに高いお金を払わないよね」
からからと笑いながら、ユキオは食べ終わった駅弁を袋に戻して口を縛った。雑談を交わしている内に電車は目的地に着こうとしていた。
ユキオはバックパックから取り出した地図を一瞥した後、俺に放って寄越した。そこにはメモが挟まれていて、これから向かう温泉宿の名前が走り書きされていた。
「園翆楼・・・・・・」
「ああ、うん。指定された宿。古い宿らしいよ」
知ってるの?と、小首を傾げて問いかけてくるユキオに首を振ってみせる。祖父が使っていた温泉宿の名前は違っていた。
「加賀見家御用達の宿なんだって。あ、宿泊費は心配しなくていいよ。タダだから。依頼人が持ってくれるんだってさ」
「そこは心配してないよ。金は心配してない。たださ・・・・・・今更なんだが、ユキオの友達ってことは、同性の事を指してたんじゃないかってふと思ったんだが」
「え~? かもね」
「それ、同室ってことになるんじゃないか」
「・・・・・・・・・っ!」
ユキオは驚愕に歪んだ表情で俺のことを見据えた。・・・・・・こいつ、まったくそのことについて考えていなかったらしい。俺と一緒の大間抜けだ。俺は、笑おうと思ったのだが唇が引きつったようにつりあがっただけだった。
「あ、あー! そうだ、そうだよ! そうなっちゃうよね! や、さすがにもう一室部屋取るには予算が足りない!」
ぎゃわぁああああああ!!と、叫びながら頭を抱える大間抜け一。大間抜け二は頭を抱えながら空を見上げている。俺のことだ。一頻り、往来のど真ん中で――人っ子一人通りはしなかったが――もだえ苦しんだ後、間抜けどもは全てを諦めて朗らかに笑った。
ま、いっか・・・・・・と。
別に何が起こるわけでもない。若い男女だが、どうせ健全な精神とやらは彼方にぶっ飛ばした二人だ。何か間違いが起こる確率というのは、まぁ、ほとんどない、はずだ。ユキオは解からないが俺の方に起こすつもりはひとつたりともないのだし。
あっても血生臭いのは間違いない。
「さて、面倒なことは忘れて行きますか! 暗くなる前に着きたいし、依頼人待たせすぎるのもどうかと思うしね!」
「だなぁ」
二人して笑いながら、山道を登っていると上の方からのそのそと無精髭を生やした大きな男が歩いてきた。ここのどこかの宿の客かは解からないが、身形からして金を落とす道楽者という雰囲気はなく、どちらかといえば求道の修行者を思わせる容姿だった。
世界に疲れたような、それでも答えを探しているような、道に迷ったような空ろな瞳をしているのが酷く印象的だ。
ユキオもそれに気付いている。気付いていて哂っている。ちらちらと垣間見せる修羅の本性。真賀の性質も舌なめずりをするように首を擡げている。ぴりぴりとした空気が漂う中、俺たちは擦れ違った。何か起これ、何か起これと喚き立てる内側を宥めすかしながら・・・・・・それは川内も同じようだったらしく、ユキオの笑みが引き攣っている。
擦れ違って離れて行って、そこでようやくユキオははぁ、と息を吐き出した。
「わ、何あれ。ここ、あんなのがごろごろしてるの?」
「あんなやつ早々お目にかかれるわけないだろ。・・・・・・しっかし、よく何も起きなかったな」
「始めたら三つ巴になってたし。それは面白いかもしれないけど、ゆっくり楽しめないでしょ」
そう言って、川内は淫靡な笑みを浮かべた。俺は、そうか、と答えて、ふ、と息を吐き出した。
それにしても、と思う。あの男、どこかで見たことがあるような気がする。