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ぎしり、と体が軋むのが解かる。
無茶な体勢で寝ていたせいだろうか、体が異様に痛んだ。ああ、これだから俺の体は、と嘆きながら、のっそりと体を起こして、体の各部をぐるぐると回す。柔軟体操とは言い難いが、それでもこれだけで体は充分な柔軟性を取り戻してくれる。凝りや違和感を覚えなくて済む程度には。
冷凍庫から保存していた米を取り出し、電子レンジに投げ込む。その間に湯を沸かし、身支度を整える。そのころにはとりあえず米は暖かくなっていて、湯も沸いている。丼に米を投げ込んで、お湯をかけて崩したものを一気に腹に落としてやれば、空腹は消える。ついでに卵を二つほど飲み込んで、ヨーグルトで締め。洗い物は殆どでないが栄養もあまりない。腹が満たされるだけで朝は充分だから、これでいいと思っている。
どうせ、今の人生はこれまでの余りだ。惰性でしかないものを大事にする謂れもない。俺自身の体も、心も、あと少しで腐れ落ちるだけなのだから。
携帯電話で時刻を確認してから、荷物を背負って部屋を出る。
眩しいくらいの太陽の光が俺を焼き尽くそうとしているかのようにも見えて、なんともいえない気分に襲われたが、それでも奨学金で通っているという事実が、大学への道へと足を動かしてくれる。苦労して入ったわけじゃないが、何もしないよりはずっとマシだから。
・・・・・・生家から離れた場所にある大学へ、俺は逃げるように進学した。意味はない意義もない。ただ働くという気分になれなかったから、それだけの理由だ。将来の自分に借金をして、束の間の自由と平穏を求めてのことだ。とはいえ、生家は一切の金銭を出してくれなかったので、下宿代は自分で稼いでいるから、労働をしていない、ということにはならないのだろうけれど。
その生活も一年続けば、慣れる。
腐敗は、止まらない。
淡々と日々を過ごす。やり過ごしていく。
いいねぇ、最高だ。
何もない。いい事じゃないか。平穏であること、平和であること、凪いでいること、無謬であることとは、そういうことだ。
「何で変な顔して歩いてるのさ。お巡りさんに捕まっちゃうよ」
「梓・・・俺、変な顔してたか?」
まぁ、ねと答えながら梓は俺の腕を取って密着する。梓の眼鏡の奥の瞳が愉しげに細められた。それを見ながら、外そうと思えば外せる腕を外すことはしなかった。ああ、断っておくと、梓・・・・・加斗梓は大学の同期生である。それ以上でも以下でもない、というわけではなく、数少ない友人である。
梓とはサークル選びの時に体育会系の勧誘に襲われている時に助けてもらって以来の仲だ。まぁ、そのあと梓の所属しているヲタサークルに入れられてしまったのだが、別に悪くはない。スポーツは好きじゃないし、本気になれないから。どちらにせよ、入るならば文科系と考えていて、あのままだと結局どこにも所属することはなかったろうから、結果は良し、だ。
「ん~、まぁ、アズマはいつも変顔してるけどね」
「芸みたいに言うのは止めろ」
「芸って・・・・・・まぁ、変顔は芸だよねぇ。んん、ツッコミに切れがないよ、しっかりしんしゃい」
「俺はお前の相方じゃない」
「夫婦漫才で売り出す予定じゃない。がんばろ?」
「そんな予定はねぇよ!」
「あははは、まぁ確かにそんな予定はないねぇ」
ぱ、とそこで梓は手を放した。気がつけば大学まで辿り着いていた。が、しかし別に梓は気恥ずかしくて離れたわけじゃないことを知っている。加斗梓は余り羞恥心を持っていないのか、表立ってそれをあらわすことはほとんどないから。
所属する学部が違うのだ。くっついていても、どうせあと数メートルで離れることになる。
「アズマ、予定は?」
「午前だけだ」
「部室に顔出す?」
「お前が来いって言うなら。今日はバイトもないから」
「おっけ。じゃ、来て」
「解かった」
「それじゃ、部室でね。ばーい」
「ああ」
頷いて、分かれて、それぞれの教室に向かった。
・・・・・・部室は混沌としていた。
何が悪いわけじゃない。誰も悪いわけじゃない。止める者がいなかったことが悪いのだ。そういえば、イベント明けだったはずだ。部室には、イベントの戦利品やら在庫やらが散乱していて、目も当てられない状態になっていた。
今回のイベントは失敗だったらしく、在庫が特に多いようだった。まぁ、あまり売れない弱小サークルだから、いつものことではあるのだが、これはひどい。きっと発注部数を間違えたのだろうと邪推せざるを得ない。
「お、おお。アズマくんじゃないか、久しぶりだねぇ」
「ああ、小此木さん、だいぶ弱ってますね」
「ん? ああ、金がなくてねぇ」
在庫の山を掻き分けながら、髪の長い、鳶色の瞳の少女が顔を出した。異国の血を思わせるが、体型はきっちりと小柄な日本人。発育はまぁまぁ。梓よりは圧倒的に下だが。小此木悠美はやつれた顔をしていて、足元が覚束無いようで、途中で戦利品につまずいてこけそうになったので、仕方なく抱き止めた。妹を連想させる背丈と重さ。
「飯、食ってないんですか?」
「赤字が・・・・・・」
「・・・・・・飯、食いに行きましょうか」
「あ、いや、でも、お金・・・・・・」
「奢りますよ」
「んん・・・・・・・だが」
「・・・・・・」
これ以上弁論してもしょうがない、と思ったので小此木さんを抱き上げて、具体的にはお姫様抱っこして部室の外に連れ出す。どうせ、外は学生街。飯は破格に安く量もかなりある。小柄な彼女の体の栄養と食欲を満たしたところで、たいした額にならないのは実証済み、である。
梓め、これが解かっていて、俺を呼びつけたな。いつも利用している定食屋に小此木さんを担ぎ込むと、店員のおばちゃんが変な顔をした。・・・・・・それは年頃の娘をお姫様抱っこしてきたことに対するものではなく、またか、というものではあったが。
「小此木さん、いつものでいいですか?」
「うぅ、すまない・・・・・・」
と、言うことで、とりあえず腹に溜まる丼ものを注文する。ついでに俺も頼む。運ばれてきたお冷やで唇を湿らせてから、小此木さんを見るとお冷やをがぶ飲みしていた。そんなに余裕ないか、この人は。
「何日食ってないんですか?」
「一週間、だな・・・・・・」
「そんなに赤字だったんですか」
「ん・・・・・・まぁな。部数を間違えてしまってな・・・・・・」
・・・・・・さもありなん。妙なところでどじっ娘スキルを遺憾なく発揮されたようだ。
「両親に助けを求められなかったし、他にもいろいろと支払いが重なってなぁ・・・・・・」
しみじみとそんなことを言うが、かなり危なっかしいことをしている自覚はあるのだろうか。一週間飯抜きはかなり危ない。水は飲んでいたようだが、それだけだろう。せめて塩があれば・・・・・・と、思わないでもない。
「アズマくん・・・・・・本当にすまない」
「いいですよ、どうせ飯時です。ついでですよ、ついで」
そう、ついでだ。梓の思惑に乗っただけだ。金銭の余裕はさほどないが、飯代を出すくらいはあるのだ。それぐらいの見栄を張れるぐらいには。
小此木さんは運ばれてきたカツ丼を年頃の女性とは思えないは速度で掻き込んだ。体に良い食べ方ではないが、そこを指摘するのは野暮と言うもので、俺も同じように食事を終えた。満腹になったのか、ぼーっとしている小此木さんの口回りをナプキンで拭ってやる。
「いやぁ、久し振りに水以外で腹一杯だ」
「そりゃあ良かったです」
事のついでにデザートも注文して、それを突っつきながら、談笑、というか小此木さんの愚痴を聞いていると梓が合流してきて、三人というか小此木さんと梓の会話を聞く穏やかな時間が訪れる。記憶にも残らないような話だが、だからこそ穏やかでいられて、平穏を実感できる。
店を出て、部室で他のメンバーも絡めて次回のイベントがどうこう言っているのを小耳にしていると、あっという間に時間が過ぎていく。
・・・・・・気付けば、薄暗い道を帰路に着いていた。梓たちと別れての、独りの道。暗闇に恐怖を覚えるような歳ではないから、味気のない道程だ。
だから、変なことがあれば気付く。
住んでいるアパートを睨み付けるように制服を着た少女が仁王立ちしていた。街灯に照らされて、長くきらきらと輝くような黒髪を結わえていて、発育は梓以下小此木さん以上で、強いて言えば平均的。
そんな少女が、憮然と、敵でも見るようにアパートを見据えている光景は異常だ。周囲に人気がなく、かつ人があまり入っていないアパートだから、まだ騒ぎになっていないだけだろう、たぶん。
誰かが何かやらかしたのかもしれない。そんな風に事件を起こすようなのが、このアパートには住んでいる。
触らぬ神に祟りなし。関わらなければ、火傷することもなかろう。
そう思いながら、少女の前を横切る。アパートに入るにはどうしても少女に顔を晒さなければならない。それが解って少女はそこに陣取っているのだろう。狙われた奴は災難だな。
「・・・・・・っ!?」
腕を捕まれて、反射的に少女を見る。見てしまう。見覚えのある顔立ちに息を飲む。
「真賀、雷。・・・・・・見付けた」
「・・・・・・誰だ」
「私は、貴方の嫁。とりあえず、そういうことになってるわ」
俺が喚く前に、少女は俺の部屋を指差し、とりあえず中に入りましょうか、と威厳を持って言い放った。