表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神の箱庭~気高き白と、罪と罰  作者: たてはのこう
6/6

第四部後半~エピローグ

◇月光花


 夕食を終えた後、暇を持て余した俺は夜の散歩に出た。いよいよ明日がこの旅の終着点と思えばこそ、体も心も落ち着かなかった。

 食事の席でスミ子の口から創造主の居場所がアマツミハラという天上の世界であること、そしてそこへはこの館にあるドアの一つから魔法の力で行けることが語られた。久しぶりに使う、とのことで扉は魔女ノエルが調整してくれている。今はだから明日に向け最後の準備時間ということになる。

 もっともここまできてしまえばもう、これといって準備するものなどない。必要があるとすれば、それは創造主との交渉が決裂した場合に備え、剣を交える覚悟を決めるくらいのものだろう。間違いなく戦うことになるだろうと、魔女ノエルからは言われている。

 皆は今頃、何をして過ごしているだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていた俺に背後から声がかけられた。

「幸せいっぱいの顔でジークさん、どこへ行くんですか?」

 俺は足を止めた。誰だと言いかけたが、自分を「ジークさん」と呼ぶのは一人だけだ。月の光が標となって俺を導く先には、樹齢数百年はあろうかという大木の切り株。いつからいたものだろう、そこに、小さな紙切れを手に腰掛ける魔女の存在を見つけた。気づけば夕食の席から姿を消していて、どこにいたものかと思いきや、こんな所にいたのだ。

「そんなだらしない顔じゃ救えるものも救えませんよ」

 振り向きもせずため息混じりに魔女が言う。彼女にしては少し厳しい言葉だと感じた。俺は今の自分がそう批判されるほどしまりのない顔をしているとは思わない。だからすぐに気づくことができた――彼女は俺の結婚話をからかっているのだ。

 俺も男だ、いずれは誰かと家庭を持つことになると当然に思っている。その相手が旅先で出会った誰かではなく兄妹のように育ったお手伝いだっただけ。そしてそのタイミングが今日だっただけ。まだ、現実味が湧かない話だ。

「初めて会ったとき」

 何となく言わずにはいられない気持ちになって、今更ではあったが、俺は言った。

「お前がその相手になるんじゃないかとも思っていたよ」

 魔女は何も答えない。ようやく振り向き、慎ましい笑みを浮かべた。

「何をしていたんだ?」

 魔女は何も言ってこず、仕方なく俺の方から話を振る。これといった興味があるわけではなく純粋に間を繋ぐための発言だ。昼間と異なり黙っていたのではどうにも落ち着かない気がした。

「ちょっと、考えごとです」

 魔女の視線が前に戻される。

「考えごとをしながら、月を見ていたんです」

 俺は彼女の隣に座った。彼女がそうしていたように空を見上げる。

 透き通るように澄んだ空には、青く月が輝いている。

 月の光は太陽と違って、照らし出す世界に余計な色を与えない優しい光だ。それ故にその光を浴びる者の、ありのままの姿を浮かび上がらせる。昼間は笑顔も見せ、楽しそうにしていたにもかかわらず、ここで俺が隣の少女に感じ取ったのはやはり儚さだった。儚さ――そう、まるで夜、このやわらかい光の下でしか咲くことを許されない花のような。

「怖くでもなったのか?」

 俺は尋ねた。大一番を前に席を外してこんな所で考えごとだ、彼女なりに思うところはあるだろう。彼女ならでは思う色々があるだろう。事実俺も、それで夜歩きなどしているのだ。

「怖い、は正確ではありませんね」

 小さく首を振る。ではどうしたのだと訝る俺を横目でちらと見てから、ため息を一つ。視線を再び前に戻して唐突に言うのだった。

「この世界が一つの天秤だったらいいのにって、ずっと思っていました」

 何故彼女が突然そんなことを言い出したのか、俺には見当もつかない。遡れば、何もしなければ素通りしていたに違いない俺を、わざわざ呼び止めた理由もまだわかっていない。魔女はいったい今、何を思っているのだろう――邪魔をしないよう俺は「どうして」とだけ問いかけた。

「簡単な話です。わたしが痛い思いをしたり苦しんだりしたその分だけでも、どこかで誰かが幸せになれるから。それなら自分自身を傷つけることだって、いくらでも正当化できるでしょう?」

 微かな笑みとともに魔女は続ける――トレニア村で自分が過ごした幸せの対価に村人たちは不幸な死を迎えた、だから自分にも当然誰かのために不幸になる義務はあるはずだ、と。

「お前」

 俺はその言葉を、ケリをつけたはずのかつての自分に対する彼女の執着と受け取った。まさかまだ死にたいなどと考えているのかと問う声は、感情的になっていた。

「それこそ見当違いですよ」

 魔女は素早く否定した。

「わたしは今までに一度も死にたいなどとは言っていません。それに、『思っていた』と言ったはずです」

「……今は違う、と?」

 小さく頷く。

「トレニア村のことは悔やんでも悔やみきれません。でもイヴさんが言ってくれました。本来死ぬはずだったわたし――わたしではないわたしが過去で自分を救い、暗躍していた悪を挫き、そして誰も理不尽に傷つくことのない世界を生んだんだって。わたしのおかげで幸せな世界が一つ生まれたんだって。勿論それで自分の罪が消えたとは思いません。でも後ろを向き続けるよりずっと嬉しい答えをもらった気がしています。すごく救われたんですよ。

それというのもジークさん、あなたとの出会いがきっかけです。あなたやスミさんに会い、ユーリイと再会し、イヴさんやアリスさんにも出会えた。わたしにはもったいないほどの幸せな出会いを、あなたがくれたんです。だから怖くなったんじゃないんです。ジークさん、わたしはね」

 そこまで言った魔女は、いたずらがばれた子どものようにペロリと舌を出すと、

「ただちょっとだけ、寂しくなっちゃったんです」

 照れくさそうに笑った。

 俺を呼ぶ声が聞こえてきたのはそのときだった。それも一つではない、二つか三つ。何かあったのだろうか?

「先に行ってください。わたしは後から」

 そう言って送り出してくれた魔女の声がしかし、

「ジークさん」

 駆け出した俺を呼び止める。

 振り返った俺に魔女は微笑んで言った。

「あなたに会えてよかった。わたしを連れ出してくれたのがあなたで本当によかった。ジークさん、幸せな思い出をありがとうございました」

 どうして今それをとは思った。だが疑問に思うその気持ち以上に、彼女にそう言ってもらえたことへの誇らしさがあった。

 よせよ、と照れ隠しにそれだけ言って俺はまた駆ける。

 それが――彼女と口をきいた最後の機会となった。


 魔女の亡骸と対面したのはそれからすぐだった。

 館の裏の木陰に船長が、大鋏を胸に突き立てられた状態で横たわる彼女を見つけたのだ。

 一メートルを優に越す大鋏は、創造主クローソーを象徴する創世神器だと船長が言った。俺たちの行動を知った創造主が見せしめにそれをしたのだと、俺は受け取った。そう思うと悲しみ以上の悔しさに見舞われた。

 祝賀ムードは一転、突然に訪れた旅の仲間の死に俺たちは表出の程度の差異こそあれ、皆一様に悲しみに暮れた。

 中でも特にそれを嘆いたのはユーリイだった。彼女はここ数日の様子から、妹に死期が迫っていることをそれとなく感じ取っていた。その上で静かに逝かせてあげたいと今晩、館を離れた魔女を見て見ぬフリをして見送ったのだ。それがこのような結果となったことに、ユーリイは自分を責めずにいられなかった。自分が引き留めてさえいればこんなことには……誰一人として彼女を責めはしなかったが、ユーリイ自身がそれを許さなかったのだ。


 ――もう、旅なんて終わりでいい。


 元々妹がいたからこそここまできたユーリイだ、彼女が旅を続ける意義は妹の死とともに失われたのだ。

 涙ながらに彼女が発した一言は俺たちの中にも困惑を呼んだ。俺自身は悔しさも悲しみもあるが最後まで、世界を救う目的を果たすまで歩みを止めないつもりだ。守るべき人を失ったとはいえイヴも降りたりはしないだろう。スミ子も、そして船長も同じだと思う。それでもこういった発言が生まれたことはやはり、士気にも関わる大きな問題だった。創造主との対峙に向けまとまっていた皆の心に、小さからざる亀裂を生んだ。

 俺は勿論、周りだって明日の舞台に臨むことの必要性は理解している。だがそれを口にしては――仲間を失った場での発言だ、血も涙もない薄情者と思われるだろう。誰もがだから、頭ではわかっていながらもそれを口に出すことを躊躇っていた。だからこそこの旅の終着というものもまた、俺たちには近づいていた。

 言うことができれば継続。ただしユーリイは脱落する。

 言い出せなければ終わり。世界の滅亡を受け入れる。

 マイナスを覚悟して前進するか、それとも皆で挫折するか。そんな決断が提示されたそのとき――俺は初めて、お手伝いが誰かに手をあげるのを見た。

「アミさんがいなくなったら、このセカイはもう終わりなのですか?」

 ユーリイの頬を打ったスミ子は言った。

「アミさんがいなくなった『程度』で、このセカイを諦めてしまうのですか?」

 お姉さんのクセに、あなたは何もわかっていません――腹を立て飛びかかったユーリイを軽くいなしてスミ子は言った。ただそこに、彼女を愚弄する気持ちはきっとなかった。その証拠にスミ子も涙を流すままにしていた。

「アミさんが一人で去ったのは旅を打ち切らせるためですか――違いますよね。自分の死を知って感傷に浸って欲しいから、でもありませんよね。その本心は足手まといになりたくないからじゃないですか? 王家の者として見苦しい姿を見せたくなかったからじゃないんですか? 皆の意志に水を差したくなかったからじゃないんですか?

アミさんはこのセカイを愛していたはずです。その想いを皆に託して逝ったのです。そんなことに、生きている人が気づいてあげられなくてどうするんですか。しっかり受け止めてあげられなくてどうするんですか。あなたは――」


 ――アミさんの死を無駄にするつもりですか。


 スミ子は最後、ほとんど叫ぶように言った。

 それは決断から目を逸らしかけていた俺たち全員に対する言葉でもあったと思う。俺たちは魔女の死という現実ばかりに囚われ、視野が狭まっていたらしい。ここで足を止めることは世界の終焉を受け入れることではない。魔女を汚した者に屈することだ。魔女の遺志を否定し、残された希望という可能性を放棄することだ。俺たちは彼女の死をただの悲劇で終わりにするところだったのだ。

 この世界を守る。魔女が生き、未来を願ったこの世界を守る。スミ子のおかげで俺たちの覚悟は新たになった。そして最後の戦いは同時に、彼女の弔い合戦の意味も持つこととなった。その場では「少し時間が欲しい」と言ったユーリイもきっと、明日には再び仲間として顔を見せてくれることと信じる。俺たちは魔女の亡骸を丁重に弔い、明日の勝利を誓ったのだった。

 あてがわれた寝室に戻り一人になって、俺は改めて魔女を想った。

 魔女を見つけた船長が皆を呼び、そして俺を呼んだ――それは即ち、俺と話していた当時、既に彼女が落命していたことを示している。俺が話した彼女はこの世の者ではなかったのだ。そうまでして俺に、謝意を伝えに来てくれた魔女に俺は何もできなかった。「どういたしまして」も言えず、「こちらこそありがとう」も言えず、何より最後まで一人だけ彼女を名前で呼ぶこともしないままだった。

 もう永遠にその機会は奪われたのだと思うと涙が出た。

 それは悲しみの涙であり、悔しさの涙でもあった。



◇あまつみそらの大図書館


「到着な~のよ」

 一面に広がる白銀の地、天上の世界へと真っ先に足を踏み入れた魔女ノエルが遠足気分で両手を上げた。

 文字通り一瞬のことだった。

 夜明けとともに案内され、館にあった扉を抜けた俺たちは、その瞬間にはもう巨大な神殿の前に立っていた。この場所が天上界アマツミハラ。遙かホウライを見下ろす創造主の本所ということになる。

 こんなときでなければユーリイを始め誰かしらが件の扉のカラクリを気にして騒ぎ立てるところだろうが、生憎今日の皆にはそんな好奇心に振り回されている余裕はない。

 世界を守る目的がある。

 魔女の無念を晴らす目的もある。

 今は俺や、昨夜の悲劇から立ち直ったユーリイは勿論、船長まで表情を険しくするほどの重大な局面だ。ここまで来て緊張を微塵も感じていないのは恐らく魔女ノエル一人だけだろう。もっとも彼女の場合は性格の問題もあろうが、それ以上に、自分に絶対の自信を持っている。かつて創造主に敗れた彼女がそのような態度を取っていられる理由が俺にはわからないが、ただ彼女の持つ「力」は娘であるスミ子の曰く一族の中でも別格なのだそうだ。

「は~やくはやくなの~。ノエル一人で入っちゃうのよ~」

 いつの間にそこまで行ったものか、気づけば入り口の大扉の前で魔女ノエルがこちらへ手を振っている。そうして皆を先導するような立場をとっておきながら、しかし彼女は今日の戦いには参加しないことになっている。かつての実績があり、そして娘も太鼓判を押すほどの実力者だ、俺としては是非にも助力をお願いしたいところであるし実際頼みもした。そして本人も一度は快く了承してくれた。しかしそこで思いがけず物言いがあったのだ。よりによって彼女を誰よりも知るスミ子からだった。


『坊っちゃまはこのセカイを救いたいのですよね?』


 最初は言われたことの意味がまったくわからなかった。お前こそこの世界を救いたくはないのかと、言い返しそうになったほどだ。しかし至って真面目な相手の表情から、その言葉にまだ続きがあることを悟るまでに長い時間は必要なかった。

 ――だったら母様に手出しをさせてはいけません。

 一旦はまとまった話だったが俺はすぐに辞退を申し入れた。思えば頼むことはあっても、一度頼んだものを断ったことは初めてかもしれなかった。そのときスミ子が浮かべた安堵の表情は忘れられそうにない。

 そんなこんなで今日の魔女ノエルはあくまで立会人ということで落ち着いている。だから自衛の場合を除いては本来、何もしないことになっている次第なのだが――。

「ぴんぽ~ん。ぴんぽ~んなの~。ノエルが入りますなのよ~」

 そうはいっても天性の性格がそれを許さないらしい。先走った彼女は勝手に扉を開けてしまった。正確には開け方がわからず力任せにあれこれしている内に壊してしまっただけなのだが結果は同じことだ。

「開いたのよ~。皆も早く来るのよ~」

 俺たちを振り返り、ぶんぶん手を振る。

 その瞬間に途方もない戦慄に襲われたのは俺一人ではないはずだ。何故って彼女の背後、白亜の内側に二つの赤い瞳が光ったからだ。内部を守護する者、俺たちなど一飲みにしてしまえるほどの巨大な白蛇――それが今まさに彼女を食らわんと大口を開いている。

 身に迫る危機を誰かが叫ぶ――より早く、彼女の口が小さく動いた。


「ないない」


 その一言から生まれたのは、砂だった。

 砂の山。白い砂の山。

 彼女に牙をむいていた大蛇が、一瞬の内にそれに変えられてしまったのだった。

「これがノエル母様ですよ」

 スミ子の声でようやく、俺は我を取り戻す。正直なところ何が起きたのかまったくわからなかったが、目の前の結果だけさえあれば、彼女が魔女としていかほどの実力者であるかは充分に理解できたつもりだ。あの者とて仮にも神が住まう地の警護にあたる存在だ、自分たちで戦っていたらきっと苦戦を強いられていたに違いない。

 ここはやっぱり――。

「まさか今からでも母様の力を借りたいなどと考えてはいませんよね?」

 隣からお手伝いが顔を覗きこんでくる。こういうときだけは妙に鋭い。

「まぁ、少しだけ」

「では少し考えるだけで終わりにしてください。母様は手加減ができない上に、張り切るとまるっきり手がつけられなくなる方なので」

 スミ子の視線に俺はかろうじて思い留まった。

 それがこの世界のためになるのだと自分に言い聞かせ、神殿に足を踏み入れた。

 外見と異なり神殿内部はまるで王立図書館のように、書物で埋め尽くされていた。五メートルを優に越える天井、そこに迫る高さまである棚も壁も本一色で埋め尽くされている。それらの本は、魔女ノエルが言うにはそれぞれが一つの世界。以前イヴが話してくれた「並行して存在する世界」たちがここには一冊ずつの書物として管理されているのだ。ここに安置されている書物の世界は、「~したら」「~しなかったら」と思う個人の希望、後悔といった選択の数だけ存在する。だからこうしている間も、これからも増え続けていく。そのすべてを収めるここは言わば成長する神殿でもある。

 この中には、魔女が幸せな一生を終えられる世界もあるのだろうか?

 俺に尋ねられたスミ子は曖昧な笑みを浮かべただけだった。

 しばらく何事もなく歩いた頃、分かれ道に辿り着いた。直進する道と、右に曲がる道だ。

 右に曲がれば創造主に会えると魔女ノエルは言った。

 俺たちは彼女に従い右の道を行く。

 この先でやるべきことがあるというスミ子と、船長とはそこで別れた。

 俺たちは魔女ノエルの先導の下、迷路のような神殿を、衛士を蹴散らしながら駆けていく。

 目指す存在への接近を予感させるように目に入る景色は次第に図書館から「裁縫道具」の博物館へと変わっていった。

 ガラスケースに並ぶ長針、短針。

 紡錘機材の変遷を示す模型。

 動物性糸に植物性糸。

 ボタンにボビン。

 糸切り鋏に裁ち鋏。

 巻き尺、足踏みミシン、機織り機。

 そうしてかつてこの世界を縫合した創造主を象徴するに相応しい物たちが過ぎ去っていく中、突然まばゆい光が眼前に広がって――、

「ここは」

 その地に足を踏み入れた俺が初めて発した言葉がそれだった。

 そこに待っていたのは緑豊かな大地に建ち並ぶ素朴な家屋、だだっ広い畑、古井戸、歴史を感じさせる木造の集会所という風景。戦に備えて組まれた柵、物見櫓や土塁石塁には見覚えがある。遠くには山が連なり、澄んだ清流も望むことができる。

 どうしてここに――その風景を知る皆を代表して俺がそれを呟く。

 そこは紛れもない故郷、ステラ村の風景だった。



◇始まりの書、始まりの少女


「いい所ですね、ここは」

 足を止めた俺たちの背後で子どもの声がした。

 声のした方に目を向けると、そこには俺たちに背を向け一人の子どもがいる。小奇麗なショートカットをし、魔女ノエルやスミ子と対照的な真っ白なドレスを着た少女――それが上品な衣装に不釣り合いなことにたき火をしているところだった。

「私が再現したのです。あなたたちに相応しい場として」

 少女は、燃え盛る炎へと恐れもせず薪をくべている。

 俺たちは創造主に会うために来たのだが――視線だけでうかがいを立てる。魔女ノエルは少女を指さし小さく頷いた。

 彼女が、創造主?

「それにしてもおかしいですね。どうして燃えないのでしょう?」

 少女は不思議そうにまた薪をくべた。

 目の前の火は俺の胸ほどの高さまである。何を焼くにも不足ないどころかかなり勢いのある炎だ。これだけ猛る焔を前に何を言っているのだろうか。

 俺は彼女の見つめる炎の中へと目を遣った。

 そしてそれを――炙られその端をいくらか焦げつかせながらも、襲いくる灼熱の群を拒むようにあり続ける一冊の本を見出したのだった。

 ――いけない!

 アマツミハラは大樹の枝葉の如く無限に広がりを見せる世界たちを一冊ずつの本として保管・管理する地だ。つまりはここで赤色の害意にさらされている一冊もまた一つのホウライに他ならない。そう、今まさに滅亡の危機に瀕しているこの世界こそがそれなのだ。

 思うと同時に体が動いた。

 だが――それより早く動いたのがこの少女だった。


「邪魔を、しないでください」


 燃える薪どもを蹴散らすより早く、手を伸ばすより早く俺は、目に見えない不思議な力で吹き飛ばされていた。かろうじて着地だけ成功させた俺はもう、この少女が敵であることを疑わない。彼女は意図的にあの本の焼却を遂行しようとしている。その証拠に腰を上げた彼女は、もう近づけさせないとばかりに炎を背に立ちはだかる。

 俺はそこで初めて彼女の顔をしっかりと見た。常夏を思わせる健康的な小麦色の顔に、上品な育ちを鼻にかけたような小さなレンズの眼鏡が理知的な姿を思わせる。しかし不機嫌そうに俺を見据える眼鏡の奥の冷たい目や真一文字に結ばれた口は一方で潔癖、完璧主義といった自分本位の印象をもまた強く訴えかけてくる。

「自己紹介の必要はなさそうですね、ジークムント」

 彼女は感情のこもらない声で言った。

「そしてイヴァン、ユーリイ」

「ノエルもいるのよ」

「二人ほど姿が見えませんが……まぁ追々現れる、といったところでしょう」

 彼女は、俺たち侵入者一人ひとりの顔を確認するように指しながら名前を挙げていった。魔女ノエルのことは、因縁の相手だ、意図的に無視しているようだ。

「流石は創造主、俺たちのことはお見通しか」

「ええ。あなたたちがここまでやってきた目的もね」

 創造主は表情を緩めることなく、あくまで事務的に言った。彼女の手に武器はまだない。俺もだからまだ武器に手を伸ばしはしない。創造主として計り知れない力を持つ彼女が相手だからこそ俺たちも慎重になる必要がある。

「あなたにお聞きしたいことがあります」

 俺に代わって口を開いたのは、イヴだった。

「あなたは本当にこの世界を滅ぼすことを望んでいるのですか?」

 創造主は背後の炎を一瞥し、イヴに視線を戻してから答える。

「あなたたちが目にしている光景が真実です」

「思いとどまってはいただけませんか?」

「できません」

 ひるまずに問いかけるイヴを冷たく切り捨てるように、創造主は即答した。何故、とは改めて問うまでもない。俺たちには心当たりがある。

「私は争いのない平和で、美しい世界をつくりたかったのです」

 物憂げなため息が彼女の口からもれた。

「この世界の始まりがいかなるものであったか……あなたたちはご存知ないでしょうね」

 アレは本当に地獄のようでした、と彼女は言った。

「果てしない闇に包まれた世界でした。漆黒の空と漆黒の海……私自身もまた、混沌の海を漂うだけの存在でありました。

何十万、何百万、何千万年の時間を私は一人で過ごしました。心が擦り切れそうな長い孤独の中を漂い続けました。

そんな中、あるとき、天より一筋の光が差したのです。私はその光を追い、そして暗黒の海の中に一切れの布を見つけたのです。我が骨を針、髪を糸として縫いつけ縫い合わせ、そうして生まれたのが我が子も同然の愛しい世界、ホウライでした。

ホウライは本物の私の子どもでした。青い空を望めば澄み渡る青空を持ち、緑が欲しいと願えば様々な植物を芽吹かせ……私の言うことをよく聞き、姿を変えました。そして世界を豊かにすればするほど私を苦しめた混沌も姿を変えていきました。私がつくった球――世界儀は、この世界そのものを映す鏡でもあったのです。

私は世界儀の一部を切り取り、この素晴らしい世界の記録をつけることにしました。それにあたり天上界に移り住みました。ここはホウライの観測所、そしてここにある書物は砕けた言い方をするならば、私の愛しい世界の観察記なのです。

しかしここにいる間に私が見てきたのは必ずしも美しいものばかりではありませんでした。

あらゆる動植物を生み出した最後に私が生み出した人間。知能を持ち言葉を持ち、技術を学び研鑽する心を備えた者たちにこの世界をより豊かにしてもらうことを願ったのですが……現実はそう上手くいきませんでした。人の世と争いというものは、切っても切り離せない関係にあるのでしょうね。あなたたちもこの世界の歴史を学んだ者として承知していることでしょう。

たった一度の諍いで腹を立て、他人の命さえ奪う者も人間にはあります。それに対して私は三度目まで、よく我慢したのですよ。女神を遣わし、神器を授け、手を変え品を変え人世の平穏のために尽くしてきたのです。それをあなたたちは――どうしたのですか?」

 創造主は瞳を鋭くした。心当たりがあるだろう、と彼女は訴えているのだ。

「お言葉ですが、それは早計ではありませんか」

 イヴがひるまずに言う。

「早計?」

「自分たちがしたことについて言い逃れをするつもりはありません。しかし過去の事例に関しては現代を生きる者たちとは無関係です。あなたはその罪なき者まで滅ぼしてしまうおつもりですか」

「なるほど」

 王家の者に相応しい利発な考え方ですね、と創造主は言った。

「ですがそれ――罪を裁くという考えは人間として生まれたあなたが人間のために唱える理屈に過ぎません。スミ子の言葉を借りるならばそれは『人間の言い分』です」

 私が裁くのは人間の(さが)です――彼女は毅然とした態度で言い放つ。

「同じ人間がした過ちなら、それは大きな問題です。その人間には欠陥があるということですから。しかし時代も育ちも異なる人間がした同じ過ちなら、それはもっと大きな問題です。そうでしょう? つまりは個人ではなく、人間という生き物そのものに欠陥があるということなのですから」

 そしてつまりは、それが創造主の言い分ということだ。

「創造主ともあろう者が随分勝手だな」

 今度は俺が言う。

「自分がつくった世界だろう。気に食わないから終わりにするなんて身勝手過ぎる」

「では他にどうしろというのですか?」

 素早い反論だ。

「私は争いなどない世界をつくりたいだけなのです。しかしそこに生きる人間が争いをやめない。ここで見逃したところで、きっとまた同じ過ちを繰り返すことでしょう。

だからやり直すのです。一度すべてを零に還元し、『争いをしない人間』がいる世界を新たに始めるのです。それ以外にどのような方法がありますか?」

「まずはその極端な考え方をやめればいい」

 創造主は眉を顰める。不快感ではなく疑問の意思表示だろう。

「人間という生き物の不完全さをもっと、認めるんだ。人間は過ちから学び、成長していく生き物なんだ。星の数ほど失敗して後悔して、だがそこで終わらず、それを糧に前進する力を持った命なんだ。それが今、お前のしようとしていることは失敗を取り返す機会を奪うのと同じだ。今のまま終わらせたなら、次のホウライでもきっと人間たちは同じ過ちを繰り返すだろう。そのときお前はどうする? また滅ぼすのか? また新しい世界をつくって、自分の失敗をなかったことにするのか? 人間の弱さを認めてあげられなかった自分から目を逸らすのか?

失敗と真っ正面から向き合わないならお前自身が成長しない、そしてお前が成長しない世界なら、何回繰り返したってそこに生きる人間だってきっと成長しない――」

 自分でも驚くほど言葉が飛び出した。俺は意識しないところで怒っていたのかもしれない。創造主の身勝手さに、幼稚さに、その心の弱さに腹を立てていたのかもしれない。

 こんな端的な考え方しかできない創造神に俺たちは振り回されたのか?

 こんな未熟な神のために、魔女は命を落としたのか?

 そう思うと悔しかった。話している内に感情を抑えきれなくなった俺はその最後を叫ぶように結んだ。

「創造主だろう、本当にこの世界の母親ならもっと子どもたちを信じろよ!」

 俺が終えるとしばしの間、そこには沈黙が生まれた。

「……なるほど。そのような考え方もあったのですね」

 長い沈黙を挟んで創造主はしみじみと言った。皮肉な感じはしない、俺の言葉は純粋に彼女の心に届いたのだろう。表情も心なしかやわらいでいる。

「自惚れ、だったのですね。まさか――誰よりもこの世界を見つめてきたはずの私が、まさか人間に母としての未熟さを教えられようとは」

 躊躇うことなく創造主は炎に手を差し入れ、あの書物を取り出した。そうしてから俺たちに向き直ると、

「私が間違っていたようです」

 すんなりとそれを差し出してきたのだった。

「本当に、アンタがアミを刺したの?」

 俺が言うより先にユーリイが言った。

 彼女の言う通り、確かにそれは信じ難いことだった。目の前の少女は子を愛するあまり自分の理想を押しつけ過ぎてしまった、言うなれば愛し方を知らない母。幼い親だ。その考え方の中心には「どうして言うことを聞いてくれないのか」という我が子への憎しみにも似た愛情がある。そう、激情の矛先は我が子――ホウライという世界であって魔女個人ではない。彼女がそれをすることには違和感を禁じ得ない。

「私ではありません」

 彼女の答えを俺は少し複雑な気分で聞いた。やはり違ったかと納得する一方、復讐の拳を誰に振り下ろせばいいのかわからなくなる。

「あれは娘たちが勝手にやったことです。とはいえ、止められなかった私に責任がなかったとは言えません」

 創造主は本を持たない方の手を胸に置いた。

「それで救われるなら、どうぞ私を斬りなさい」

 俺たちは顔を見合わせた。

 彼女は改心した。親としての在り方を学んだ彼女はホウライを滅ぼすのをやめ、その証拠に本を俺たちに託そうとしている。加えて彼女は俺たちが仇討ちをするべき相手ではない。戦う理由も、傷つける理由もないのだ。

 俺たちが剣を交えることは、なかった。武器を手にすることもなかった。

 そうとも、自己満足のために刃を振り回すのが俺たちの軌跡ではないはずだ。今までも、そしてこれからも貫かれるべき信念でそれはあるはずなのだ。

 俺たちの選択を讃え、創造主が握手を求めている。


「騙されちゃ、メよ」


 耳元で魔女ノエルの声が届いたのはそのときだった。

 もしそこで彼女が俺を、尻もちをつくほど豪快に引っ張ってくれていなかったら俺の体は見事、首を境に二つに分けられていたことだろう。

 俺の頭上で、しゃきりと音を立てて二枚の鋼が交差する。見覚えのある大鋏だった――。

「あなたが人間を守るとは、どういう風の吹き回しです?」

 呆然とする俺の隣に佇む者へ創造主が無感情に問うた。

 我に返った俺の隣で魔女ノエルは、笑みを浮かべるだけで何も答えようとはしない。ただ頭の中だけに、彼女の声は聞こえていた。

『しっかり覚悟を決めておくのよ』

 ……覚悟。

 そう、覚悟だ。

 俺たちは昨日、世界を救う心を一つにした。魔女を悼む気持ちを一つにした。だがそうしたつもりになっていただけで実際、俺には、足りていなかったのだろう。だからこんなにも簡単に敵の術中にはまってしまったのだろう。魔女ノエルは、そんな俺の未熟さをやわらかい口調で責めている。

 恐らくこれまでのことは、俺が無意識に望んでいた結末だった。話せばわかる相手と刃を交えることもなく平和な決着を迎えることができればいい――俺の中にはこの創造主という存在と戦うことへの恐怖が、甘えが自分の気づかないところにあったのだ。だからこそそこにつけこまれた。今の不意打ちは創造主からの先制であり、目を覚まさせる宣戦の一撃ともなった。

 戦いを迷わない。戦いを、恐れない。

 拾ってもらった命で俺は剣を構える。

「不愉快な目になりましたね」

 創造主が俺に視線を戻す。その口元に微かな笑みが浮かんだように見えた。そのときをもってこの場の雰囲気ががらりと様子を変えたのは創造主と対峙する誰もが理解しているはずだ。静かな怒気が空気を震わせ、研ぎ澄まされた明確な殺意が見えざる幾多の刃として俺たちに突きつけられる。鋏は彼女の隣に直立して浮遊している。彼女がそれに触れることも拳を構えることもない、が、万に一つの油断も許されない。あらゆる方向に感覚を研ぎ澄ましながらこの敵とにらみ合う。

「嘘は、ついていませんよ」

 悪びれる様子もなく不敵に笑いながら創造主は言った。

「何もない暗黒の中で味わった孤独も、初めて自分の思い通りにできる世界を手にした喜びも、人間に裏切られたことへの失望も嘘ではありません。ただね、私はあなたたちのような人間風情の言葉に心を動かされるような者ではない――それだけのことです」

 それは自分を唯一絶対の存在と自負する者ならではの余裕の笑み。そしてはっきりそうとわかる、俺たちに対する拒絶の意思表示だ。世界を滅ぼすという発想を持つに相応しい強かな内面を彼女はついに現したのだ。

「私がすべきは我が理想を踏み外した世界を零に還元すること、そして身の程知らずの虫どもに現実を思い知らせること、思い上がりを正すこと」

 あなたたちに相応しい、死を――創造主はおもむろに大鋏を手に取り、横薙ぎに振るう。まだ距離がある。俺たちへの攻撃ではない。彼女がそれを繰り、切り開いたのは、この空間そのものだった。

 何もない中空に、目に見えてはっきりと亀裂が走る。音を立てることなく、縫合されていた傷口が開くように静かに口を開けたそこから、「闇」が流れこんでくる。原初のホウライを占めていた果てなき混沌だ。

「混沌の中に布切れを見出したそのとき、私は創造主となった。世界儀をつくり出しこの世界を管理してきた。それが何を意味するか、わかりますか?」

 溢れ出る闇を、こね回すようにしながら彼女は、尚も俺たちを眺める顔に笑みを崩さない。

「私は混沌を支配する者でもある、ということです」

 固唾を飲んで見つめる俺たちの前、その手元に見覚えのある姿が、色が覗く。やがて彼女の手により闇の中から引きずり出されたのは……。

 アミ、とユーリイがその名を呼んだ。

 まさか、とは思う。そんなはずはないと思おうともしている。だがその手首に巻かれたリボン、ユーリイが黄泉路についた彼女との別れを惜しんで送った深紅のリボンには見覚えがある。そして俺たちは知っている。今対峙する相手が創造主であることを。

「勿論本物ですとも。そして」

 彼女が何の意味もなく、埋葬された魔女の体をわざわざ引き出してくるわけは当然なかった。その証拠に彼女の体はさしずめ霧にでもなったかのようにその実体を薄れさせていく。魔女を包み、間もなく吸いこまれるように、その体の中へと消えていった。

「あなたたちを滅ぼす最後の剣です」

 魔女が目を開け、口をきいた。

 創造主は魔女の体を奪ったのだった。

 俺は無意識に魔女ノエルを見た。彼女は小さく頷いている。そうだ、彼女は「覚悟を決めろ」ではなく「決めておけ」と言ったのだ。こうなることを見越して言ったことだったのかもしれない。いや、そうに違いないと俺は読む。

 エウノミア王都では、王が手にしていた水晶が魔女の思い出の人物を呼び出し、戦うこととなった。創造主の意思を感じ取った道具がそのような選択をするのだ、それを生み出した本人だってきっと同じか、それに等しい戦略を選ぶはず――俺たちの仲間の体を使い戦う、というような。

「なかなかいい体です。では始めましょうか、ここからはあなたたちのやり方で」

 エウノミアの力――白い翼を広げた創造主が拳を構える。魔銃を使わず拳のみで戦う、それで充分だと言っている。

 卑怯者……俺は自身に芽生えたありのままを口にする。だがその程度、彼女にとっては何でもないのだろう。むしろそういった反応を見越した上での凶行だ。俺たちにとっては苦痛でも彼女には快楽だ。だからその場に、

「勝った」

 新しい価値観を象徴する一言が生まれたとき、俺は耳を疑った。

 呟いたのは魔女ノエル。

 勝った?

 記憶に新しい、昨日までともに過ごしてきた仲間、家族に対して剣を振るわなければならないことに戸惑いこそあれ、一欠片の希望さえも見出せずにいるというのに、彼女はいったい何を言い出したものだろうか。だが俺以上に衝撃を受けたのが、創造主だった。

 その顔から真っ先に笑みを消し去った創造主に彼女は穏やかにこう言った。

「お前はたった今、神ではなくなった」

「?」

「わからないの? 人間の体に入ったら、その人間が持つ以上の力を発揮することはできなくなる。お前は神の利点を失ったのよ」

「だから、何だと言うのです? 私がその程度で」

 負ける、と最後まで言わせず魔女ノエルは断言した。

「その体を選んだのが運の尽き。そして調子に乗ったのがお前の敗因よ」

 その証拠にと彼女は指をパチリと鳴らした。



◇恋のグリモア


 坊っちゃまたちには本来の目的を果たすために、右の道に向かってもらいました。ほのかは他にやることがあったので真っ直ぐ進みます。勿論一人ではありません。一人でもいいのですが、アリスさんを相方にもらいました。

 珍しい組み合わせだと首を傾げられました。でもたまにはいいものです。彼女とは話したいことがありました。それにアリスさんにとっても、そちらの方が都合がいいことのはずなのです。

「このセカイのことは、このセカイの者たちで」

 坊っちゃまたちとは速やかに分かれました。


「ねぇ……どうしてボクなの?」

 皆さんと分かれた後、歩きながらアリスさんが言いました。

「あなたと共犯者になりたいからですよ」

「……共犯者?」

「皆さんには、自分の正体は隠しておきたいでしょう? ねぇ、ディケさん」

 そうです、彼女は創造主により生み出された三女神の末妹だったのです。厳密には女神をもう一つの人格として宿した人間です。このセカイの完全な人間ではないからこそ彼女はヒガンバナのことを形だけではなく反魂の性質も含めて知っていました。ホウライ山では内つ臣に襲われませんでした。そして女神であるが故に、昨夜は創造主の気配を感じ取り、アミさんを見つけることもできたのです。

 アリスさんの目が大きく見開かれました。脅したつもりはありませんでしたが、少し震えていたかもしれません。

「いつから、気づいてた?」

 どうして気づかれたのだろうと驚いているようですが、ほのかは彼女が正体を隠していることなど気づいてもいませんでした。ただほのかは知っていたのです。知っていたことを思い出したのです。

 でもそれをほのかは伝えません。

 時を同じくして前方から向かってくる二つの人影が見えます。

 一人はすらりと背の高い女性です。彼女はワンピース様の純白の衣に身を包み、手や胸、肩、腰と動きを制約しない程度の防具を身につけ、十文字の刃を備えた長槍によって武装しています。真っ直ぐな黒い髪もまた戦いの邪魔にならないためでしょうか、耳が隠れる程度の長さでさっぱりとされています。顔立ちには凛とした美しさこそありますが、眉は不機嫌そうにつり上がり、笑みのない口は固く結ばれています。そのため本来あるべき愛嬌など台無しです。ほのかたちに対する敵意がむき出しにされているのがありありとわかってしまいます。

 もう一人は対照的におどおどした様子のちびな少女でした。同じ純白の衣装でもこちらは大きめのローブを頭からすっぽりと被り、顔はおろか手足すらも隠してしまっています。でもそれだけではまだ足りないのか自分の存在すらも隠そうとするようにぴったりとくっついて、片時も相方の背中を離れようとしません。

 のっぽがエイレネ、ちびがエウノミア――ほのかにはちゃんとわかっています。そしてもう一つ、二人を認めたこの瞬間に自分の怒りが沸点に達したことも感じました。

「すみませんが、お姉さんたちとお話する時間はナシです」

 ほのかはアリスさんを留め、一人で前に進みます。今まで坊っちゃまにしてもらっていたことを今は自分がしています。でも、今のほのかに、背後の彼女を守ろうという意思はありません。その本心は横槍を入れさせず自分一人でケリをつけたい、です。

「貴様からか、メイド」

 のっぽが威圧的に言いました。今日のほのかはノエル母様とお揃いの黒いドレスを着ているので、その姿だけで立場がわかるはずはありません。要するにこの人は「お前たちのことなら何でも知っている」と暗に言っているのです。

 ほのかは気圧されないよう言い返します。

「お手伝い、です」

「何?」

「メイドは家事をする人のことです。お手伝いはその名の通り手伝う人です。そして大切な相手のために尽くす人です」

「貴様の心意気などどうでもいい」

 のっぽは鼻で笑いました。

「我々に逆らうことの意味を理解しているかどうか、それが問題なのだ」

「勿論理解していますよ」

 ほのかは答えます。

「あなたたちこそ、この地に踏みこまれたことの意味を理解しているのでしょうか?」

「小細工ができる程度の小者が、どうやら態度だけは一人前だな。そこのディケのように」

 ほのかを通り過ぎて、背後のアリスさんを笑います。ほのかは負け惜しみをやめるよう言いました。

「……負け惜しみ?」

「二千年前、あなたたちが人間の子どもを人質に取らなければ、勝っていたのはアリスさんです。それとあんまりほのかをバカにしない方がいいですよ、あなたたちはその『小細工ができる程度の小者』に手も足も出せずに敗れるのですからね」

「……」

 のっぽが眉根を寄せました。自分たちの卑劣な行いを見透かされたのも、見下されるべき者に強気に出られたのも気に食わないのでしょう。

「流石は魔女、その娘まで自信過剰な世間知らずらしい」

 それでも女神としてのプライドが許さないのでしょう、激昂することなく言いました。

 ただ――、

「貴様の母は人間界を震撼させ神界を脅かした、空前絶後と言われるほどの化け物だった。だがそれだけの力を持った者でさえ我らが創造主様には敗れた。人だろうが魔女だろうが吸血姫だろうが、我ら神々との間には決して越えることの叶わない絶対的な壁があるということだ。その娘がどれだけ優れていようが――貴様」

 ――目の前の者が言葉を続ければ続けるほど、ほのかは自分の顔に笑みが浮かぶのを抑え切れません。でもこればかりは仕方のないことです。

「何がおかしい」

「いいえ。あなたたちは創造主の力を疑っていないんだなと思って」

 ほのかは言いました。

「尋ねますが、それだけすごい存在なら、どうしてそのとき魔女ノエルを滅ぼしてしまわなかったのでしょうか?」

「創造主様は慈悲深い。無闇な殺生は好まない」

「魔女が、南大陸のクレハ島を自分好みの土地につくり変え、そこで人を食らっていることも当然、知っていますよね」

 無論だとのっぽは答えます。ではどうしてそれを止めないのだと尋ねてみましたが、今度は、答えはありませんでした。さて、とほのかは尚も追求します。

「ところでその慈悲深く殺生を好まない創造主が今このセカイを滅ぼそうとしています。それは矛盾ですよね」

「矛盾ではない。創造主様は、ご自身の理想を踏みにじった愚かな人間どもにとうとう愛想を尽かされたのだ」

「物は言い様ですね」

 本当にそうでしょうか、と続けました。

「だったらもっと早くに芽を摘み取ればよかったのではありませんか? 内つ臣が滅ぼされた段階で既に平和構想など崩れ始めています。もっと遡ればジークムントという革命の種を放置する必要もなかったでしょう。どうしてでしょう?」

「たかが人間だと見くびっていた部分がなかったと言えば嘘になる」

「ではどうして、革命が起きた直後にこのセカイを終わらせてしまわなかったのですか? この猶予はいったい、誰が与えたものなのですか?」

「……」

 待っても答えはありません。いい加減、認めたらどうですかとほのかは言いました。

 所詮まやかしはまやかしなのです。どんなに強がろうと言い訳を並べようと事実から目を逸らすことは許されません。

 つまり、とほのかがそれを口にします。

「あなたたちも創造主も、結局は魔女ノエルに踊らされているに過ぎないのですよ」

 この誇り高い女神たちにそれを受け入れろと言うのは到底無理な話でした。神として振る舞っていたつもりが知らず知らず魔女ノエルによって操られていた、そうされていたことにすら気づかされずにいた――彼女たちにとってほのかの言葉は女神である自分たち、ひいては創造主の存在をも揺るがす言葉なのです。

 それを暴露することは、このセカイではルール違反でもあります。

 でもほのかはそれをしたかった。

 アミさんのためにも思い知らせてやりたかった。

 ――そして。

「では私からも問おう。仮に貴様の言う通りだとして、魔女ノエルは何のためにそんなことをした? 我々を操ることがあの者にとって何の得になるというのだ?」

「目的なんてありませんよ。そして、損得の問題でもありません」

 ほのかは切り捨てるように言いました。

「トラブルを引き起こしたり解決したりさせたり、母様は純粋にそれを眺めたいのです。だって自分がつくった箱庭ですもの、自分の思い通りにして楽しみたいではありませんか」

 ――そのプライドをズタズタにした上で。

 のっぽの整った顔がみるみる紅潮します。

「そんなことがあってたまるか! この世界の創造主はクローソー様のみ! そのような子どもじみた考えが」

「あなたの心意気などどうでもよいのです」

 ――絶望を与えた上で。

「……」

「現にあなたたちは自分たちの思い通りにしてきたつもりが、何一つ思い通りになんてできていない」

 ――破壊する。

「そしてもう二度と、です」

 今までのほのかであったらこうも強気な言動をとることはなかったことでしょう。でも今は違います。故郷に帰り、年季の入った板張りの天井の薄暗さも、時代遅れな蛍光灯から降り注ぐ光の白さも、日焼けしていない畳の若草に似たさわやかな香りも、張り替えたばかりの障子の向こうから吹きこんでくる秋の風の涼しさも、肌掛け布団のやわらかさも、太陽の優しい匂いも……あらゆる懐かしさに包まれてすべてを思い出したほのかは違います。憶えていたのではなく思い出したからこそ今、「それ」をしようと思い立った当初の新鮮な自分を強く感じ、その気持ちを力に変えることができるのです。


 そうです、ほのかは変えてみせるのです!


 一番好きなものは、父様と母様。

 二番目に好きなものは、母様のうたう歌。

 三番目に好きなものは、母様のつくった物語。

 誰が何と言おうと家族が一番のほのかがその物語と出会ったのはまったくの偶然でした。何とはなしに新しい読み物を漁りたい気持ちになって、偶然ノエル母様の書斎に入ったほのかの目の前で、偶然崩れてきた書架の住人たちの中で、偶然目に留まった皮表紙の古い一冊こそがその本、『罪と罰』だったのです。

 片つけをする前に試しに開いてみたそれは同姓同名の人間の性格が十人十色であるように、ほのかが以前に読んだ小難しい異国の物語の内容とは似ても似つきません。好奇心旺盛で空想好きな女の子が主人公の、子ども向けファンタジーでした。なるほど、母様らしい選択です、と一人納得してほのかはその本を戦利品としたのです。

 ほのかがノエル母様のつくった物語を好きである理由はたった一つ、それらが決まってハッピーエンドを迎えるからでした。悲しい結末や身の毛のよだつ終焉が嫌いというわけではありませんが、純粋に、皆が笑顔で大団円を迎えられる物語が特にお好みなのです。

 部屋に戻るなり早速、ほのかはそれを読み始めました。そうして四番目に好きなおやつも忘れ、主人公の少女が涙ながらに拳を振るい友人や家族の体を取っ替え引っ替え襲いくる仇敵を退けるまでを一息に読み切ったのです。

 しかしそれは続く物語の長いプロローグに過ぎませんでした。

 季節は流れ、物語の舞台は一年後の世界に移ります。それに合わせて主人公も、自分の生きる国の在り方に疑問を抱く少年に変わりました。主役の座を降りたあの少女も勿論登場します。魔女という肩書きを負い、力を求める少年に助力してくれるのです。

 それはほのかの好みに抜群に合う展開でした。あの少女と再会できたことに対する嬉しさはさることながら、ほのかは真っ直ぐな心を持った主人公にこそ心を惹かれるのです。

 続く物語の中で魔女の助力を得た少年は、怪物退治のために訪れた森で人間の魂を宿したぬいぐるみと出会います。このぬいぐるみ――実は魔女の姉だったのです――をも仲間に引き入れ少年はやがて、村の仲間とともに王国に反旗を翻します。そして各地で相次ぐ農民の蜂起にまごつく軍を出し抜いて城に乗りこみ王を倒すのですが……。

 ……どうしてこうなってしまったのでしょう?

 ほのかを待っていたのはかつての主人公が、滅ぼしたはずの仇敵に体を支配され新しい主人公を消し去ってしまう展開でした。その後彼女が新たな世界へと翼を広げ、病床に臥せる古代王国の王子を救い力尽きる結末でした。

 得をしたのは誰?

 どちらの主人公でもない。

 最終的に得をしたのは……正義じゃない。

 読み終えたほのかの胸にはそれまで母様の物語を読んで得たものとはまったく違う感情がありました。読み始めた当初の心躍る感じはありません。いかんともし難いやるせなさだけが残されました。

『どうして母様はこのようなお話にしたのですか?』

 気になったほのかは早速その疑問をぶつけてみました。でもその答えとして与えられたのは「約束だから」という短い言葉だけでした。ほのかの大好きな、温かな笑顔を崩すことのないノエル母様は、ほのかがその物語に触れたことをあまり歓迎していないようでした。

 それだけの言葉で母様の考えが理解できるほどほのかはお利口さんではありませんでした。でも自分の中で、物語の登場人物たちを気の毒でならないと思っていることだけははっきりしていました。

 自分にできることをしよう。

 そう決意したほのかはそのために必死で考え、ハッピーエンドに向けた新たな筋道を描きました。注意すべきは、物語の主役はあくまであの二人ということです。ほのかは納得のいかない終末を変えたいのであって横から主人公の座をかすめ取りたいわけではありません。

 だったら――そう、ほのかは「お手伝い」として二人を支える立場にいましょう。そして革命が無事に終わった暁には、あの少年と素敵な時間を過ごすとしましょう。そんな野望とともにノエル母様がつくった物語の世界へと入りこんだのです。

 記憶を失っていた間も、ほのかの「干渉者」としての意思は失われることなく生き続けました。そして陰に日向に自分の望むよう物語を紡ぎ続けたのです。

『変えられないものは変えられないよ。これはアイツが、大切な友達のためにつくった物語だから。アイツなりの思い入れもある』

 帰郷したほのかは母様にそう言われました。

 しかしまた、こうも言われています。

『変えられなくてもいいじゃないか。つけ足せばいいだけの話だろう』

 記憶を取り戻したほのかはその助言に従い今、自分の知っているところで、知らないところで広がっていく物語のために、自分自身が『気高き白』と名付けた物語のために精一杯をやっているのです。

 だから――それを壊した者たちを許してはおけません。

 ほのかは吸血姫らしく冷酷な目で、二人を見据えます。

「アミさんはね、あそこで安らかに、眠ったように亡くなる予定だったのです。それをよくもやってくれましたね」


 ――住人の分際でよくも、勝手なことをしてくれましたね。


 ほのかの怒りは言葉にされたその瞬間、目に見えない刃と化し、槍を手にした女神を容赦なく斬り刻みます。

 しかし見ると、その背後にいたはずのちびの姿がありません。

 ……ははぁ、逃げたのですね。

 要は悪足掻きです。

 でも所詮は悪足掻きです。

 気配を捉えたほのかは彼女を追い、並行するホウライに入りこみました。そしてそこで、未熟にも服を汚してしまいましたがきっちり、アミさんの仇討ちを成し遂げたのでした。

「アリスさん」

 戻ったほのかは呼びかけます。今の内に「共犯」関係についてしっかりお話をしておかなければなりません。

 ほのかはここまでに、彼女に二つ恩を売っています。一つに創造主との対面を回避し、皆さんに正体を知られないための逃げ道をつくりました。そして二つ目に彼女の正体を知る者たちを消し去りました。今やこのセカイでそれを知るのはごく限られた者だけとなりました。

 その対価としてほのかが望むのはずばり、ここで暴露された一切合切について口を閉ざすことです。ほのかの一番の目的は好きな人と穏やかに、幸せな時間を送ることにあるのですから。

「アリスさん。ほのかは、あなたの正体を誰にも口外しないと約束します。ですからあなたも、わかっていますよね?」

 笑いかけるとアリスさんはとてもよい笑顔で頷いてくれました。これにて一件落着です。

 坊っちゃま、後はお任せしますよ――。

「お手伝い」の仕事を終え、静かに呟くほのかなのでした。



◇だから、胸を張って


 何も、起こっていない。

 そう思ったのは俺一人だけだった。

 正確には、そう思えたのが俺一人だけだった。


 静かな沈黙がこの場を包んでいる。


 俺の前方には拳を構えた魔女――創造主の姿。俺の両脇にはそんな彼女へと戦闘態勢を取りながらも戸惑いを隠せない仲間たち。その誰もが動きを止めている。

 最初は錯覚だと思った。その状態が数秒続いたところでようやく気づいた。錯覚などではなく、この場にいる者がことごとくその時間を停止させているのだ。

 俺と――それをした張本人である魔女ノエルを除いて。

 創造主をも例外としない彼女の力によってこの場には静寂がもたらされた。驚きもあり、しかしどこかでそれに納得している自分がいた。恐らく相手が人間の身であるかどうかなど関係ないのだろう――俺の中には一つの確信めいた考えがあった。

 心を読んだように彼女はゆっくり頷いた。そして言う。

「迷ってるのね」

 俺は頷いた。魔女が既にこの世にない存在だと理解していても、あの姿と戦うことは辛い。創造主にも不利益はある。だがそれを相殺できるだけの不利益が俺たちにも課せられた。言わばこれは創造主にとっての保険だ。それも、策略だとわかっていながらも剣を鈍らせてしまう程度には効果覿面の。

「それはリオンの遺志じゃないのよ」

 彼女は少しだけ悲しげな表情を浮かべてみせる。そうして不謹慎に笑うばかりの人ではないことを少し意外に感じる俺に昔の話なの、と切り出した。

「四百年前に存在した古代エウノミアは、クローソーが理想としたような、武力を持たない平和な国だった。だから隣国から突然の宣戦布告を受けたとき、自分たちに勝算なんて万に一つもないことは誰の目にも明らかだった。

敵の侵攻を目前に控えてトレニアールはその結論を迷わなかった。国民をことごとく避難させ、エイレネの怒りの受け皿である自分は数少ない近衛の者たちとともに城に残ることを選んだ。ノエルも友達だったからその場に残った。でもトレニアールはノエルに戦うことを許さなかった。この世界のことはこの世界の者の手で――トレニアールはそう言った。そしてネージュと相討ちになった。彼女はエウノミアの誇りに殉じた本物の王様だった。

この話をしたとき、リオンはどんな反応をしたと思う?

リオンはすごく喜んだ。やっぱりお母さんはお母さんだったんだ――って嬉しそうにしていた。きっと彼女の誇り高い生き方に感銘を受けたんだと思う。

古代戦争から四百年が経った今、リオンはやっぱりトレニアールの子だった。滅びの運命から目を逸らそうとはしなかった。リオンは聡いから、ノエルになら自分の宿命を変えることができるだろうって、きっと気づいてた。でも何も訴えることなく、黙ってそれを受け入れた。迷うなら思い出すのよ。今こそリオンの言葉を、遺志を。今まで見てきたリオンがきっと力になってくれる」


 ――俺が見てきた、魔女。


 記憶が巡る。

 霧の森で出会った魔女。

 魔女と呼ぶにはあまりにあどけない、死を望む儚げな少女だった。

 南の森へ怪物退治にともに出掛けた魔女。

 俺に本物だと確信させる力を見せてくれた。

 夫婦花の群生地ではち合わせた魔女。

 今は亡き幼なじみを思い起こさせた。

 戦いに迷った俺に喝を入れてくれた魔女。

 独りよがりを窘めてくれた彼女が恐ろしくもあった。

 王都で、もう一人の魔女と戦った魔女。

 何度倒されても挫けずに向かっていった。

 ネージュに体を奪われた魔女。

 あのときは本当に死を覚悟したものだ。

 一命を取り留めたものの、眠り続けた魔女。

 誰かを助けるために行動したのは何年ぶりだろう。

 ホウライ山で再会した魔女。

 本当はこんなに明るい少女だったのかと、驚かされた。

 祭りの空き時間に俺をからかった魔女。

 俺は彼女の意外な一面を知った。

 そして昨夜。

 寂しいと言ったのは、本心だろう。

 でもありがとうと言ってくれたのも、紛れもない本心だろう。

 魔女は既に、思い出の中の存在だ。その思い出の数は、ユーリイにはかなわないかもしれないが、俺だってたくさんの魔女を見てきた。そしてその魔女の姿からたくさんのものを受け取っている。

 魔女が俺に望んでいるものが、わかった気がした――。


「アンタはいったい何者なんだ?」

 俺はこれまでずっと「何でもできるすごい人」程度にしか考えていなかった魔女ノエルに、その正体をとうとう聞いた。彼女は今まで通りに明るく破顔して、こう答える。

「ノエルはノエル。魔女であり吸血姫であり、ほのかの母親。それ以上は皆が決めればよいのよ」

 それは俺の望んでいた答えとは遠くかけ離れたものだった。だがそれでいいのかもしれない。魔女とは元来、そういう掴み所のない謎ある者であるべきなのだ。

 俺は彼女へと頭を下げる。

 魔女ノエルが再び指を鳴らした。



「何も起きないではありませんか」

 やれやれといった様子で創造主が発したそれが、再び動き出した時間の中での一言目だった。

「つくづく不愉快な人ですね」

 言葉に対して彼女は喜色ばんでいる。どうせ口だけで、実際には何もできやしないのだと嘲っている。彼女は自分の時間が凍らされていたことを知らない。そしてその時間の中で俺が成長したこともまた、知らないのだ。

 俺は創造主に向けて一歩踏み出した。

「勝ち目などないとわかっていながら向かってくるのですか」

 ああ、と頷いてみせる。俺の中には確信があった。

「お前こそ、止めなくていいのか?」

「フン。造作もない――」

 そう笑った彼女が、俺を止めることはなかった。それどころか体を動かすことさえもできないでいる。

「……何故動かない? 何故、動こうとしないのです?」

 そうこうしている間に俺は、彼女の前に立った。創造主である自分にあぐらをかいているからそんなことにも気づかないのだと、俺は言った。

「自分の居場所に土足で踏みこまれて腹を立てるのがお前一人だと思うなよ」

 そうだ、忘れているだけ。己を完全無欠の存在だと信じて疑わない彼女だからこそ、足下をすくわれる。俺たちに苦痛を与えることしか考えなかったからこそ、自分が定めたルールすら忘れてしまう。

 屍人使い――創造主が苦々しく呟いた。

 背後に魔女ノエルがにっこりと笑っているのを感じる。そう、彼女が言った通りその体を選んだのが運の尽きだったのだ。

「迂闊だったの。あのまま神らしく戦っていれば確実だったものを、調子に乗って人間なんて窮屈な器に入りこんだりするからこうなるのよ」

「あなたは最初からこれを狙っていたのですか……」

「ううん。願ってたの」

 絞り出すように苦しく呟く創造主を魔女ノエルは素早く否定した。

「お前は自滅したのよ」

 その言葉はこれまでのどの言葉より、その笑顔はこれまでのどの笑顔より強く深く創造主に響いたことだろう。自信満々の彼女が青ざめる瞬間を俺は初めて目にすることとなった。

「まさか、本当に私を……?」

「最初からそのつもりだ」

 俺たちの背後には数え切れない生命がある。未来がある。敵として立っているのが仲間の姿をしているからといってもそれは、ここで戦うことでしか守れないものを見捨てるための言い訳であってはならない。

「ま、待ちなさい。私にはこの者を甦らせることもできるのですよ。あなたはその機会すら奪うつもりですか。この者を傷つけることに心が痛まないのですか」

 それは勿論、魔女は仲間だ。あまり長くはなかったが同じ時間を生きた大切な家族だ。それを傷つけるのに心が痛まないはずがない。生きて会えるものなら是非にも会いたい。

 それでも――。

 俺は首を振る。

「魔女はやっぱり、死んだんだ」

 自分自身にも改めて言い聞かせるように俺は言った。

「穏やかな顔をしていたよ。俺はアイツの最期を知らないが、きっと自分の死に痛みも恐怖も感じていなかったんだと思う。きっと自分の一生に満足してそのときを迎えたんだと思う。古代王国の血を引く者として誇り高く逝ったんだと思う。

だからだよ。魔女は俺にありがとうと言ってくれた。死にたくないでもさようならでもない、ありがとうだ。これがどれだけ勇気ある言葉か、お前にわかるか?」

 答えはない。否でも応でもなしに沈黙を選んだ理由は一つ――創造主である彼女でも「死」が怖いのだ。自分がこの世界に理不尽にもたらそうとしているもの、その恐ろしさを、自分が与えられるときになって彼女はようやく悟ったのだ。

 かつてネージュが言った――散々人を傷つけておきながら自分だけは無事でありたいなどという都合のいい話があるはずはない、と。そうだ、そんな虫のいい話があっていいはずがない。そして創造主といえどもその例外であってはならない。

 神も、管理者もこの世界にはもう必要ない。今こそ俺たちが望むのは「人間の」自由と平和だ。成功もある、過ちもある、試行錯誤を繰り返しながらも進み続ける明日を俺たちは手に入れるのだ。

 それに、だ。

 俺には守るべき約束がある。


『どうかあなたの手で、わたしを殺してください』


 出会ったあの日の言葉が胸に甦る。そんな悲しい願いをこのような形で叶えることになろうとはあのときは夢にも思わなかった。だがそれはこの世界の者としてユーリイにもイヴにもできない。魔女と、その魔女に助力を乞うた俺が交わした一つの契約だから。俺がやらなければならない。

 大きく深く呼吸しながら、心静かに刃の切っ先を相手へと向けた。「バカな」と驚愕の表情を浮かべる相手を真っ直ぐに見据える。

「見せてやるよ創造主。お前が虫ケラのようにしか見ていなかった人間の覚悟を。俺たちの誓いを。だが忘れるな、お前を倒すのは俺じゃない、自らの力で未来へ歩み始めたホウライだ。この剣はホウライに息づき、そしてホウライに散っていった者たちの魂だ!」

 終わらせてください――。

 どこからか聞こえた魔女の声に支えられながら俺は、創造主の胸を渾身の力で貫いた。

 創造主は死にゆくその瞬間、果たして何と言ったのだろうか。

 俺には知る由もない。

 わかるのは力尽きた彼女の体が、ゆっくり横たわったことだけだ。


 最後の戦いは俺たちの、ホウライの勝利によって終幕した。

 だがその勝利は、その瞬間に立ち会った俺にとって満足感とも達成感ともほど遠かった。

 いつだって人に助けられるか、その対価に何かを失ってばかりだった俺の勝利は今回もまた同じだった。かつての敵に助けられ、死した仲間に助けられてようやく手にすることができた、胸も張れない格好悪い勝利。後味の悪い勝利。だがそれで満足しなければならない、大きな勝利でもある。

 スミ子の声が聞こえる。二人が追いついてきたのだ。ユーリイたちも俺を呼んでいる。

 皆の元へ歩き出そうとしたそのとき、背後に何者かの気配を感じ俺は足を止めた。

 知っている気配だ、振り向きはしない。魔女と言いかけて、慌ててその言葉を打ち払う。

 俺はまだ呼んだことのない彼女の名前を初めて口にした。

 アメリア――と。

 はい、と答えが返ってくる。やはりそうかと納得する一方、俺はかける言葉に困る。

『謝るのはナシですよ、せっかく満足しているのが、惨めになりますからね』

 だから次に声を発したのは彼女だった。言おうとしていたことに釘を刺された体となった俺は苦笑いする。なら何を言えばいい、と尋ねる俺を相手も笑っているような気がした。

『バカですね。こういうときに相応しい言葉があるでしょう?』

 あぁそうだな、とたった一つ思い当たる。本来なら催促されて言うのは恥ずかしい言葉だが今は、今だけは違うと断言できる。それを言うのに何を躊躇う必要があるだろうか。いや、その必要はない。

 ありがとう――俺は言う。知恵をもらったこと、力をもらったことを、勇気をもらったこと、最後まで助けられっぱなしになってしまったこと……ありのままを彼女に感謝する。そんな俺に彼女はよくできました、とまず言ってくれた。それから、

『こちらこそ、約束を守ってくれてありがとうございました。わたしが生きた世界を、わたしが愛した世界を守ってくれてありがとうございました。どうか、胸を張ってくださいね』

 トン、と背中を押された。

 こらえきれずに振り向いた俺の前に、彼女は横たわったままでいる。

 ユーリイたちに呼ばれて俺は我に返る。我に返って今度こそ仲間たちの元へ駆け出す。

 ありがとう――。

 最後にもう一度呟いた声は彼女に届いただろうか?

 俺は涙を拭った。



【エピローグ】


◇拝啓、アメリア様


拝啓 秋の日に日に深まるこの頃、アメリア様へ


手紙など初めてなので、まずは決まりきった挨拶から書くことにします。

お元気ですか? 俺は変わらず元気でいます。

今は明日の旅立ちを前にこの手紙を書いています。


俺は世界を巡る旅に出ることにしました。

両親に感化させたわけではなく、自分で思い立ったのです。

旅を通して経験した未知との出会いが恋しくなってしまったのです。

色々不安も尽きませんが、スミ子と二人、旅立ちます。

見たことのない場所や出会っていない人々、知らない世界を求めて旅立つつもりです。

いつかあなたと再び出会うことがあったならそのときにはきっと、お話しします。

あなたが知るはずだった世界、あなたが出会うはずだった人々のことを話しましょう。


ユーリイはステラ村に家を建て、薬屋を始めました。

信じられないかもしれませんが、いえ、あの人の仕業と言えばすぐ信じてもらえますね。

そうです、ユーリイは人間の体を取り戻すことができたのです。

浮気心が芽生えたわけでは決してありませんが、その可憐さには驚かされました。

男勝りなところもありますが、今では村の男たちを悩ませる一人の年頃の娘です。

ただ本人はまだまだ、動物たちとの暮らしの方が楽しいようです。

そんな彼女が次に会ったときどんな少女になっているのか、今から楽しみです。


イヴは推薦された共和国議長の席を辞退し、船長と港町で船仕事をしています。

娘も生まれ家庭も円満なようです。

大事な一人娘にネージュと名付けたことが先行きの不安を思わせますね。

しかしまぁ、そこは二人を信頼するとしましょう。

何せ時を超えてやってきた古代人と海神の娘との、奇跡の夫婦なのですから。


あの人――ノエルさんについては、残念ながらあなたに話せることはありません。

雰囲気から何となく想像はつくと思いますが、あの戦いが終わってすぐふらりと――



 そこまで書いたところでジークムントは筆を止めました。それからため息混じりにごく小さく「戦いか……」と呟きました。

 彼が仲間とともに、この世界のために創造主と戦ったことは世間には知られていません。混乱を避けるために、彼ら自身が口を閉ざしたためでした。だから身の回りに異変を感じることはあってもそれが崩壊の予兆であったことなど衆人には知る由もなく、あれから何事もなく一年が経った今となっては、仮にホウライが滅亡の危機にあったなどと話したところで、信じてくれる人は多くないでしょう。

 だから彼らがこの世界を守り、そしてその旅の中で一人の少女が犠牲になったことも、すべての真実はあの日ともに戦った皆の胸の内にだけ刻まれているのです。

 影の英雄――。

 彼は再び、独りごちていました。勿論自分自身が英雄と讃えられたいわけではありません。世界の未来を紡ぐための尊い犠牲となったアメリアを英雄に仕立て上げたいわけでもありません。ただ大切な仲間を失ってようやく得られた平和が既に、皆にとってありふれた日常として平然と横たわっていることに時々とても腹が立ち、そこにあるべき一人の少女の姿がないことが悲しくてたまらなくなる。それだけのことです。

「旦那様ぁ。コーヒーをお持ちしましたよぅ」

 扉が開き、現れたお手伝いが言いました。生き生きした彼女と裏腹にジークムントは少しだけ表情を渋らせました。村に戻った二人は晴れて正式な夫婦となったのですが、年若いジークムントはまだ彼女との夫婦関係に恥じらいを隠せないのです。

「あれ、お仕事中ですか?」

「何でもない。それより旦那様はやめろ。俺にはまだ早い」

「ダメですよぅ。旦那様は世界で一人きりの、スミの旦那様なのですか――」

 言いかけたお手伝いが窓の向こうを差しました。

「あれは何でしょう?」

 どうした、と尋ねるのと彼がそれに気づくのはまったくの同時でした。

 それは夜の村の上空に突如として現れた、巨大な虹色の輪でした。

「ジークっ! スミちゃんっ!」

 外ではユーリイが二人を呼んでいます。彼はお手伝いを伴って部屋を飛び出しました。

 その手の中で、書きかけの手紙はクシャクシャに握り潰されていました。

「どいてくれ、通してくれ!」

 集まってきた村人たちをかき分け彼らは前へ前へ、虹源を目指します。いつ村に着いたのか、イヴァンたちの姿もあります。そしてどうにか彼らがその最前列に割りこんだ頃でした。

「見て! 光が……」

 旅の仲間が揃うそのときを待っていたかのように――上空の光が静かに弾けました。

 そして雪の如く舞い降る光とともに、ジークムントたちの前に彼女は降り立ったのです。

 決して忘れ得ぬ少女が、胸に二人の赤ん坊を抱いて――。

「奇跡だ……」

 彼には、その感動を示すのにそれ以上の言葉を見つけることはできませんでした。それが精一杯でした。奇跡――そう、最高の奇跡だと自分自身に言い聞かせるように繰り返します。この再会はホウライのために戦った自分たちに本物の神様がくれた最高のご褒美だと、きっと皆も思っている気がしていました。

 勿論その一言ですべてを納得してしまおうなどとは思いません。彼女自身のこと、ネージュのことやその赤ん坊たちのこと、早くもジークムントには彼女に聞きたいことがたくさんあります。しかしそれをするのは必ずしも今である必要はありません。これからの日々の中で少しずつ話してもらえばいいのです、そのための時間ならいくらでもあるのですから。

 だから今はただ、彼は優しく笑ってみせます。

 そして「ただいま、皆」とはにかむ彼女にこう言うのです。

「おかえり、アメリア――」




長らくお付き合いいただきありがとうございました。楽しんでいただけたなら幸いです。◆と◇、○と●の使い分けなど、気づいていただけたでしょうか? ヒントはスミ子ことほのかにあります。

「何度も読み返したくなる作品」を目指してこれからも精進していきます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ