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女神の箱庭~気高き白と、罪と罰  作者: たてはのこう
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第四部前半

【第四部】


◇鍵握る少女


「…………ということです」

 再会の喜びも束の間、世界が滅びる――そんな突拍子もない話をユーリイから次いだ魔女が語ったのは、にわかには信じがたい内容だった。

 何故ってその終末論を端的に言ってしまうと、それが創造主クローソーによる審判であるからだ。創造主は自分のつくったルールから外れたこの世界を自身の手で、滅ぼそうとしているというのだ。

 どうして母なる創造主がそんなことを、と当然の疑問を抱いた俺に魔女は改めて創世神話を語ってくれた。確かにそれの節々には創造主がこの世界に何を願い、そのために何をしてきたかが表れているのだが。

「例えば、王との戦いであなたが壊した水晶。あれも創造主による干渉のいい例です」

 理解を助けるように魔女が言う。

「あれが? どうして?」

「創世神話において、この世界で争いが起きた際、創造主は何をしたでしょう?」

「確か……娘である女神を送りこんだ」

「そうですね。それと同じことなんです。

古代エウノミアが侵攻を受け滅びたことは平和だった古代の国々に不均衡を生みました……つまるところが各国の力の均衡を崩してしまったわけです。これは世の平穏を願う創造主にとっては大変に由々しき事態です。ホウライにまた乱世という混沌が訪れることを嫌った創造主はそこで、かつて女神を送りこんだのと同じように人間界を管理し得る絶対的な力をもたらしたのです。それというのが――」

 あの、水晶だったというわけだ。つまりあの革命で俺がしたことは、穿った見方をすれば神殺しということになる。

 深いため息がもれた。

 俺がずっと不条理を感じていた平和、それは単純な秩序維持などではなく、そこには創造主という大いなる存在の思惑が絡んでいた。俺が主導した王国への反抗はその背後にある創造主の平和構想に触発する行為でもあったのだ。

 革命が成され水晶の破壊を知った創造主はだから、それを自分に対する人類の反逆と見なした。そして今、性懲りもなく自分の願いを裏切った人間を、思い通りにならないこの世界――箱庭――ごと滅ぼそうとしているのだ、というのが此度の危機の全貌だ。

「先に言っておきますが、、今この場にいる誰一人この船から降りることは許されません」

 魔女はいつになく強い口調で言った。

「……ボクも?」

「もう立派な関係者です」

 アリス船長にも容赦なかった。この世界の一大事だ、ここまで聞いておいて他人事を決めこむのは許されまい。それに魔女だって自分の行動に責任を感じている。革命を起こす決め手となった自分の存在に責任を感じている。これは彼女なりに助力を乞うている言葉なのだ。

 わかっている。それはわかっている。だが、

「創造主なんてモノを相手にどうしろっていうんだ?」

 皆が神妙な面持ちで俯く中、俺の声には意図せずして悲壮感が混じっていた。確かにこの世界を救うために対峙すべき相手はわかった。自分にその者と戦わなければならない理由があることもわかった。だからここまできて逃げ出そうなどという無責任なことは小指の先ほどだって考えてはいない。

 しかしその創造主がどこから、どのようにしてこの世界に干渉しているのかもわからないのに、どうやってそれを止めろというのだろう?

 神に神の領分があるように、人間には人間の領分がある。そう、神にとっては権限、人間にとっては限界という名の領分だ。自分のつくった世界をかき回し、その理想を崩した俺たちは言わば、創造主にとって敵だ。いや、俺たちだけではない。創造主は今や人類すべてを敵と見なしている。だからこそ世界そのものを破壊するなどという暴挙に出たのだ。それを感じ取りもがく人間がいたところで特別扱いはないだろう。「自分を倒して止めてみろ」などと回生の機会を与えることもない。わざわざそうする必要がない。創造主は既にスイッチを入れた。後はただこの世界を俯瞰してさえいればいい。何人だろうと自分を止めるための接近を許可することはないだろう。

「まだ悲観するには早い」

 イヴが、おもむろに口を開く。

 何かを言いかけた魔女が、それを受け、やめた。

「どうしてそう言える?」

「お前は僕の存在についておかしいとは思わないのか?」

 イヴの存在……彼が、魔女が自分のために落命する未来を変えるためにやってきた存在であることは既に周知の事実のはず。ここで改めて考えるほどのこととは……?

「僕が救われたのであれば、ネージュにはエウノミアに侵攻する理由がない。違うか?」

 あぁ――確かにそうだ。王子が助かっているならば、エイレネによる隣国侵攻は起こらない。国が滅びることもなければ魔女がこの時代に逃げ延びることもなくなるはずなのだ。

 だが現実は、違う。

 古代エウノミアは滅び、魔女は現代へ。エウノミアの血族を恨み続けたネージュはトレニア村をも滅ぼしている。この世界の歴史に起こるべき変化は生じていない。

「イヴは、助かっていない?」

 この世界ではな、とイヴは答えた。

「つまりはこういうことだ。時渡りによって跳躍したネージュはこの世界ではなく、並行して存在する別次元のホウライに辿り着いていた。そしてそこで兄王子を救う――過去を変えたわけではなく、エイレネ王子イヴァンが生き延びる歴史を持った世界を新たにつくった。今ここにいる僕はその世界の住人ということだ」

 話を戻すぞ――急ぎ足に言う。

「別世界の僕がここにいるといっても、しかしそれは僕の力ではない。僕がアメリア様から受け取ったエウノミアの息吹をもってしても遠く及ばない方の助力があってこそ、僕はここに立っている」

「あなたのいた世界にも、ノエルさんのような方がいたのですね」

「はい。そしてその方というのは――」

 魔女に丁寧な言葉で答えたイヴは彼女から視線を外した。そのまま目で示したのは、

「えっ? す、スミですかっ?」

「その通りです」

 素っ頓狂な声をあげるお手伝いに冷静に答えてイヴは、ふらりと現れた彼女によって、自分が救われた背景を知ったことを明かした。この世界で起こる革命の結末を知り、それで未来を変えるべくこちらの世界に来ることを決意したのだと話した。結果的に離ればなれになってしまったものの同じ願いを抱くスミ子の力を借り革命が起きる以前の時代、十年前の世界に跳躍してきたのだと続けた。

 俺自身もまだ信じ難い。だが言われてみれば納得できる場面はいくつもあった。魔女の家に至る道のこと、ユーリイが味方であること、怪物に襲われたユーリイを魔女が救いに来ること、革命の采配に関する手際のよさ、そして革命の結末……コイツはやはり、「知っていた」のだ。あのとき繰り返していた「変えなきゃ」の意味も今ならわかる。記憶を失いながらもコイツには本来の目的意志が残っていたのだ。

 ここまでくるとイヴがいずれ言わんとしていることも理解できた。並行する世界から彼がやってきた事実に照らして、スミ子による時空間跳躍――例えばこの世界に干渉する創造主の元へも――の可能性を示唆しているのだ。勿論記憶を取り戻せれば、の話だが。

「初めてお会いしたときから気づいてはいたのです。しかし」

「あの!」

 スミ子がイヴを遮る。

「……突然そんなことを言われても困ってしまいます」

 言葉通り困惑した声と表情でスミ子は言った。

 その理由が、自分が記憶を取り戻すことに世界の命運を委ねられた重圧ではないことに俺は気づいていた。この態度はどれだけ待っても、探してもここに自分の両親はいないという真実を突きつけられたことに対する失意の現れなのだ。俺もだからここでコイツの持つ秘められた力について大げさに誉め称えるような真似ははばかられる。それどころか、本当は誰より長い時間をともに過ごしてきた者として何か言ってやらねばならないのに、かける言葉にすら迷う。

「大丈夫です……スミはやれますよ。自分のワガママなんかで、皆で歩き出したこの世界を終わらせたくなんてありませんから」

 弱々しく笑ってスミ子は疑問で結ぶ。

「でも、どうしたらいいのでしょう?」

 今度はいかにして記憶を取り戻すかの話だ。

 これはこれで、難題だ。これまで記憶を取り戻せなかった十年間には色々あった。薬草からおまじないから、それこそ尽くせる限りを尽くしてきた。タンコブを叩いて引っこませようとするに等しい強引な方法だって試してきているのだ。それがここにきて、イヴの助言を受けあっと言う間に元通り――なんて世の中、甘くない。

「それなんですが、皆さん」

 頭を抱える俺たちに魔女が言った。

 彼女は姉と顔を見合わせ、お互いに頷き合ってから、こう言った。

「解決する方法が見つかったかもしれません」



◇初めての


「ノエルさんを探すことを提案します」

 どういうことですかとスミ子が尋ね、全員の視線が集中する中で魔女が言う。かもしれない、とは言っていたが、魔女の中には既に「彼女にさえ会えれば」との確信に近いものがあるのだろう、提案の名を借りた強い主張に感じる。

「彼女に会うことができれば、わたしたちが今直面している問題のすべてにカタがつくと思います」

 すべて、というのはスミ子の記憶を取り戻すことと創造主の元へ辿り着くこと、で間違いないだろうか。

「家族との再会、も加えてください」

 魔女は言う。

 根拠は、と俺は言った。

 魔女ノエルとは確かに、彼女たちの話からするに相当やり手の存在ではあるらしい。彼女たちがこの地に駆けつけるのに力を貸してくれたり、人間離れしたところも多々見受けられる。助力を乞うに申し分ない。

 では何が不服かというと、つまりは必要性の問題になる。それだけの存在であるならば、魔法なり何なり使って何でもできてしまう。記憶を取り戻すも乗りこむのも再会を叶えるのも実際、お手の物なのだろう。

 それが――だ。

 彼女の言葉に従うならば、魔女は三つを同程度の重要課題として捉えている。世界を救うという最終目標を達成する上で必ずしも必要とは思えない、スミ子の家族にまで言及したその理由を聞きたい。

 それは、まぁ、せっかく魔女に会うのだから、もののついでに頼みたくもなる。その希望があり、かつそれを可能にする人物を前に何もしなければ、旅が終わった暁には――とわかっていてもスミ子の胸に禍根を残すことになる。そうだ、コイツは執念深い。

 スミ子の気持ちを整理する――正念場に向けて皆の意思を統一する意味でも、そうすることに反対はしていない。ただやはり、それが寄り道である気がしてならないのだ。

「そう思うのは順番が違うからですよ」

 魔女は婉曲に俺を否定する。

「こう言った方がいいでしょうか――スミさんが家族と再会し、記憶を取り戻し、そしてわたしたちの道を切り開く、と」

 あぁ、と俺は思わず手を打った。打ったはいいが、もっともらしい顔で言われたから反射的にそうしただけで、実際のところはその違いなどよくわかっていない。だから、次に口を開いたのは俺ではなくスミ子だった。

「もしかして、そのノエルさんがスミのお母さんだと」

「はい。そう考えます」

 魔女はようやく、核心に触れた。

 スミ子の口から改めてどうしてそう思うのかと、当然の疑問がもれた。

「歌です」

「歌?」

「ノエルさんはあなたと同じ歌をうたっていたんです」

 それは普段、退屈しのぎに口ずさむ歌ではない。スミ子だけがうたう、あのおまじないのことだ。

「あの歌には『ほのか』という言葉が出てきますね」

「ノエルさんの娘の名前も『ほのか』っていうんだって」

 ユーリイが続けた。

 魔女ノエルはその歌で魔法を使い、スミ子はちょっとした奇跡を起こす。俺たちがうたったところで何も起こせないそれを知り、そして不思議を引き起こす……確かに二人には共通する部分と言える。

 だが、そんなに都合よくいくものだろうか?

 俺は冷静に思い、言う。彼女の言う通りであればいいに越したことはない。遅ればせながら理解した俺にとってもそれは一石二鳥どころか一石三鳥の大手柄だ。しかし忘れてはならない、イヴの言葉によればスミ子は元々「別のホウライ」からこちらに来た、別世界の住人だ。それがここで再会などできるものだろうか。

「随分、腰が重いのですね」

 責めるように魔女が言った。

「とても、お伽話だけを信じて魔女を探していた人の言葉とは思えません」

 それを言われてしまうと耳が痛い。

 何故そんなにも慎重であろうとしているのか、それは客観性の観点以上に、純粋に俺個人の意見でもあった。自分でも正直なところ、まだそれについて確信を持っているわけではないが、せっかくのチャンスであるはずのそれを、俺は恐れている。スミ子が記憶を取り戻すことに必要性を感じる一方、恐れを抱いてもいる。その理由は、今は考えないことにする。

 魔女との再会の余韻に浸っていたい状況で、息つく間もなく世界の危機などという話を持ち出されて混乱しているだけだ――と理屈をつけて、俺は自分を納得させる。そうだ、俺が足を引っ張るのはもう懲り懲りだ。これはスミ子の問題なのだから。

「続けてくれ」

 俺は促した。

 魔女が頷く。

「皆さんの方が詳しいと思いますが、今この世界では異常気象が続いています。ステラ村でも周辺でも今年はどうしてこんなにって、エウノミア王の祟りかって戦々恐々です。でもあの人は違いました。それを滅びの兆候だと、しかもこの世界をつくった創造主がそれをしようとしているとまで言いました。

単刀直入に言います――ノエルさんは恐らくこの世界の行く末を知っています。それも予想だとかそういう不確かなビジョンではなく客観的に眺めた結末としてです。あの人は『そうして滅んだ世界』を実際に見てきているのかもしれません。

それにノエルさんからは余裕が感じられました。きっと自分が死なないとわかっているからでしょう。つまりあの人には逃げ場があるんです。例えば、異世界という――ね」

「歌以外にもスミ子と共通点がある、ってことか」

 ええ、とだけ魔女は答えた。

 もっともスミ子との血の繋がりを別にしても、俺たちには既に、魔女ノエルに会う必要が生まれている。わざわざ情報をもたらしたということは、彼女がホウライ滅亡の結末に干渉しようとしている、ということでもあるからだ。それは、或いは『未来を変えてみなさい』という挑発ともとれる。エウノミアを変えた俺たちがその先の結末に対してどう責任を果たすのかを眺めるつもりなのかもしれない。何にせよ、彼女との対面は欠かせないだろう。

「ところでその人はまだ村にいるのか?」

「多分もういない」

 その問いにはユーリイが首を振った。

 続けてもたらされた言葉に俺は、言葉を失った。

「美味しい物と楽しい所を探しに行くって言ってた」

 流石は魔女――人には世界の危機を喚起しておきながら、何とも非常識なものだ。やはりこの世界の存亡には興味などないのかもしれない。

 確かに、ステラ村に留まったままでは合流する時間すら残らないかもしれないが……彼女の足取りはこれで完全に途絶えた。相手は古の時代から生きている者だ、俺たちが知っているような美味しい物なら今までにいくらでも口にしてきていることだろう。それに見ず知らずの個人の楽しみなど特定できようはずがない。

 魔女ら姉妹が魔法の特急便で送り届けられた現実を鑑みるに、考えつく限りを片っ端からあたるだけの猶予も恐らく、ない。完全にお先真っ暗だ。

 魔女もそこまでは考えていなかったのか、俯く。

 俺は小さく舌を打つ。

 結局、魔女ノエルなど、ないものねだりの存在なのだろうか。

 自分たちの力でどうにかするしかないのだろうか。

「ジークくん……ジークくん」

 いら立つ肩をトントン、微かに叩かれて我に返る。ここまで俺たちを案内してくれた女船長の顔がそこにはある。

「あのね……この土地からすぐのところに、クレハっていう小さな島があるんだけど……」

「……島?」

「でね……そこにある小さな村で、次の満月の晩にお祭りがあるよ」

 ――祭り。

 目から鱗、という言葉を俺は初めて体験したと思った。

 祭り……そう、祭りだ。祭りといえば出店がある。普段は食べない特別なごちそうが食卓に並び、酒も振る舞われる。それは即ち、その時期にしか食べられない期間限定の「美味しい物」だ。またその地域によって異なりはするだろうが、祭りと名がつく以上、催し物も開かれるはず――。

「……あるよ。確か歌姫を決めるんだ……だから別名『歌姫祭り』っていうの」

 ――希望の光が差してきた。個人の楽しみは特定できなくとも、魔女ノエルが興味なしと切り捨てるような性格でない限り、祭りの場は「楽しい所」でもあるに違いない。

「ノエルさんは『ほのか』を探してる。本当にスミちゃんのお母さんなら、あたしたちの行く場所にきっと現れるはずだよね」

「ええ。わたしたちは再会するようにできている、とも言っていました」

 姉妹が揃って太鼓判を押した。

 どうやら目的地が、定まった。

「目的地は離島の歌姫祭り、ですね」

 魔女が結び、皆で頷き、立ち上がる――。


「あ、あの」


 制するように、声をあげたのはスミ子だった。

「その前に……今、試してみたいことがあるのですが」

 胸の前で落ち着きなく指を遊ばせながら、緊張しているのか上目遣いに俺を見、皆を見、消え入りそうな声で言った。

 珍しい。今まで当事者でありながら、スミ子は周囲が見つけてきた方法を勧められるまま試してばかりいた。自分からこうしたいと訴えてきたことはなかったのだ。

 いい傾向だと思う。結局他人でしかない俺たちではなく本人だからこそわかることもあるはずだから。むしろ今までそれをしなかったことが不思議なのだ。後々になって「もっと早く試していれば」などと後悔したくない気持ちから、俺は先を、その内容を促した。

「はい。坊っちゃまとキスをするのです」

 割合にはっきりした口調でスミ子は言った。

「そうしたら何か、思い出せるかもしれません」

 まさに、恋の魔法なのです――力強く拳を握るコイツはそうやって、時と場合を選ばずお伽の国の住人になってしまうことがある。まるで眠り姫ですね、と自力で目覚めた元眠り姫が言った。その話なら俺も知っている。悪い魔女に呪いをかけられ千年の眠りについた姫君がさすらいの王子のキスによって目覚め、その後彼と結ばれ幸せに暮らす――という筋書きの、白雪や茨と姓を変えて各地で親しまれている知名度の高い童話だ。

 だから、タチが悪い。

 魔女は早くもお伽話の定番になぞらえてうっとりしている。イヴはショックを与えるという意味では合理的ではと同調している。ただ、港町の件があるからかその視線は心なしか冷たい。ユーリイと船長は興味がなさそうにしている。そう、ここにはこのお手伝いを止める者がいない。

「さ、さぁ坊っちゃま! 今こそスミと誓いの――」

 だが、現実は甘くない。

 俺は王子などではなく冒険者で、スミ子もまたお姫様などではなくお手伝いだ。

「調子に乗るな」

 寄ってきたお手伝いをかわし、その頭を軽く小突く――王子らしくない。あぅ、と小さな悲鳴があがった――姫らしくない。それが俺たちなのだ。そもそも王子も姫も、もう間に合っている。

 ……まったく、貴重な時間を。

「皆、急ぐぞ」

 さっさと腰を上げる。

 そうして次の目的に向け先陣を切って歩き出した自分の顔色を、俺は知らない。

 後で聞いたところによると、大人しく従っていた方がよかったのではないかと声をかけたくなるほど、それは見事な赤色をしていたらしい。



◇仙女に守られた地


   ●


 最初は、時を超えてやってきた未来人だと思っていました。

 ユーリイが味方であることも森の化け物が真っ先にジークムントを狙うことも、作戦の立て方も、王都でネージュがアメリアを乗っ取ることも、ジークムントに訪れる危機について彼女の頭の片隅に、その記憶がうっすら揺らめいていたからこそ手を打つことができたのです。意識より先に体が動くことさえありました。

 今になって振り返ってみると、自分の見てきたあらゆることが、彼女が無意識に管理する、記憶の引き出しの奥にある出来事と合致していたように感じます。だから彼女は当然に、自分を未来よりの存在と感じたものでした。

 しかしそれも革命が成されるまでのことでした。その成就を機に彼女の中からは、今までそれとなくあった既視感がきれいさっぱりなくなってしまったのです。

 明るく振る舞う陰で彼女は心細さを覚えました。しかしアメリアを心配する皆に水を差してはならないと思い、じっと口を閉ざしたのです。

 イヴァンが自らの過去を告白したことで彼女は、自分という存在について決定的な情報を得ることができました。

 それによると確かに、自分は未来よりの者でした。それまで正体を隠し続けてきたイヴァンが今更嘘など言うはずもありません。彼女は紛れもなく革命の、アメリアの結末を知り、それを変えるためにやってきた存在だったのです。

 では、自分はどこでそれを知ったというのでしょう?

 革命後の未来から来たのであれば、何故自分にはその未来における記憶がないのでしょう?

 その答えを知るためにも彼女は魔女ノエルに会わねばなりません。

 ノエルという名前には聞き覚えがある気がします。ない気もします。何にせよ会ってみないことには、その者が自分の母であるかどうかも、何とも言えません。

 ただ、新たな希望を見出した仲間たちに隠れて彼女は思うのです。


 記憶を取り戻したとき自分は何を知るのだろう?

 そしてそのとき「スミ子」はどこへ行ってしまうのだろう?


 彼女はその不安を、誰にも言えずにいました。


   ●


 船長の案内を頼りに俺たちはまた海を渡り、件の村にやってきた。

 船長はすぐと言ったが、実際には三日の道程になった。時間にあまり拘束されることのない田舎育ちの俺ではあるが、彼女との時間感覚の違いには驚かされた。この三日間が拷問のように長く感じた俺だった。

 村は、三日にわたって行われる祭りのちょうど中日を迎えていた。

 三日間祭りの期間があるといっても初日は準備に充てられるため、実際は二日の開催となっている。奇しくも俺たちは祭りの実質的初日に到着したわけだ。船長が、気が急く俺に言い続けた「お祭りは逃げないよ」の言葉が身に染みる。

 村に着いた俺たちは祭りの開催に伴い閉店していたものを何とか頼みこみ、まずは宿だけ確保した。本来村祭りはこの村の者だけで楽しむごくごく閉鎖的なもので、その期間中に外部の者を受け入れたのは史上初のことであるらしい。つくづく運がよかったというべきか、それとも再会を明言した魔女ノエルの導きによるものか。何にせよ俺たちにとってはよい結果だろう。

 それにしても――だ。

 年に一度の村祭りの喧噪に俺は、ため息を禁じ得なかった。祭りを祭りらしく全身全霊で楽しもうという心意気は結構なのだが、世界が危機に瀕している今、無邪気にはしゃいでいる人々の姿はあまりに不謹慎に思えてならなかった。

 もっとも村人たちが呑気にしていられるのは祭りの開催ばかりが理由というわけではなかった。喩えるなら凪、または砂漠のオアシス、或いは台風の目……この村、いや、この島自体がこの世界においては場違いな存在だった。ありとあらゆる自然災害から隔離された平穏な地なのだ。恐らくこの地に生きる誰一人として世界各地で相次いでいる異変になど気づいてはいないだろう。「ノエルさんの話の方が嘘に思えてくる」と呟いたユーリイに異を唱える者はいなかった。

 出店で商売に励む村人に、世間話のついでに尋ねてみると、何でもこの平穏は村で古来より崇められている「仙女様」の力によるもの――とのことだった。遙か昔にどこからともなく現れた彼女の不思議な力で砂漠だったこの地は潤い、緑豊かな土地に生まれ変わったという。以来長い歴史の中で一度として凶作に見舞われることなく、村は一切の自然災害とも戦乱とも無縁でいられた。そして現在に至る、ということだ。

 その話の特に興味深いところは、それがただの伝説ではなく、仙女が過去から今にわたって実在する存在であるという点にある。この村祭りは今も変わらず年に一度この地を訪れる彼女をもてなすために行われる感謝祭なのだ――と彼は笑顔で結んだ。

「その仙女様とはもしや、ノエルというお名前ではありませんか?」

 魔女が逸早く皆を代表して尋ねたが、彼は首を横に振った。

 希望が一つ潰えた瞬間だった。

 話を聞く限りその仙女は創造主がもたらそうとしている破滅に真っ正面から対抗する世界をこの地で保ち続けている。創造主に劣らず、また恐れないその行いは、昔話に登場する魔女そのものだ。ユーリイたちの言葉もある、魔女を自称したノエルこそがその仙女に違いないと俺も思っていた。

 だが違うなら違うで俺たちは、それもまた一つの収穫としなければならない。魔女と仙女――人智を超えた存在が要はこの世界に二人いたということになるからだ。しかもその仙女は毎年この村の祭りにやってくる。チャンスは二倍になったのだ。

「皆さんは、旅の方だとおっしゃいましたね」

 話を終え立ち去ろうとした俺たちを引き止めるように、今度は店主が言ってきた。

「せっかくですから、明日の催し物に参加していかれませんか?」

 スミ子と魔女を交互に見遣りながら彼が言うのはずばり、船長も言っていた歌姫祭りの由来たる催し物のことだった。彼はその行事の責任者らしかった。曰く内容は至って簡単なもので、女性出場者が自由に歌をうたい、その年の歌姫を決めるというもの。見事歌姫に選ばれた者には何物にも代え難い最上の名誉が与えられるのだと、彼は物売りらしいセールストークを交えながら続ける。

「特にそこの人形をお持ちのお嬢さんとメイドさん、あなた方のような娘さんならきっと仙女様も喜ばれますよ。いえ、勿論まだ優勝と決まったわけではありませんが」

「……ボクは?」

「仙女様は歌が上手で『健康的』な娘を特にお好みなのです」

 事務的にきっちり船長に釘を刺してから改めて二人に向き直ると、

「さぁ、どうなさいますか? 八百年続く村の歴史において村外から出場者を募るのは初の試みでもあるのですが」

「勿論出場です!」

 店主に答えたのは意外にもスミ子だった。一度俺に顔を向け、

「仙女様も大事ですが、ノエルさんも大事です。その人がここに来るのであれば、ただ闇雲に探し回るよりこちらから存在をアピールするのも手だと思うのです」

 家事の合間にうたうのとは勝手が違うことなど百も承知といった様子で言う。内気なコイツにそんなことをさせて大丈夫だろうかと不安にも思うが、なるほど、その言うことはもっともだ。

 コイツはコイツで自分が果たすべき役割の責任感を自覚している。だったら俺はその背中を押してやるだけだ。

 一方魔女は人前は苦手なので、と辞退した。

「では出場者登録をしますので、お名前を」

「はい。ステラ村の」

 スミ子は少し迷ってから言った。

「ほのかと申します」

「かしこまりました。ステラ村よりの――」

 書類の上を軽やかに動き始めた筆がぴたりと止まった。

 そうか、だからあの宿も――。

 おもむろに手帳を確認した彼がそうもらしたように、俺には聞こえた。

「あの、コイツが何か?」

「いいえ、こちらの話です。明日は時間になったらお呼び致しますので、それまでご自由にお楽しみください」

 手続きを終えた彼は、急にぎこちなくなった笑顔でそれだけ言い、今度は逃げるように、店番もそっちのけでいずこへか駆けていくのだった。

「この村にはね……ちょっとした予言の風習があるんだ」

 そう言って、置いてけぼりにされた俺たちに船長が説明してくれた。

 村人複数の元に、ある日突然、仙女から手紙が届くことがある。時候の挨拶などはなく、そこには近い将来に訪れる出来事について数行の文章が書かれている。内容はこれといって他愛のないことばかりなのだが、その通称「予言書」には三つだけ守らねばならない点がある。

 一つ、受け取った予言書の内容を他人に口外してはならない。

 一つ、予言書の内容が実現した後であれば口外してよいが、その相手は同じく予言書を受け取っている者に限る。

 一つ、祭りが終わった後にはすべて自由に暴露してよい。

 もしそれらの一つでも破った場合は……。

「何年前になるかなぁ……ボクの友達がね、予言書を受け取ったんだ。……内容が内容でさ。それで自棄になってボクにその予言書を見せた途端に……」

 その先の言葉はほとんど聞き取れなかったが、結末は想像に難くない。仙女が何を目的にそれを行っているのかはわからないが、どうやらあの店主もその予言書を受け取っているらしい。平穏な地に生きる人も楽ではなさそうだ。

「ところで」

 これからどうしようか、と俺は皆に問う。

 自ら声をかけておきながら、しかし俺はそれについてあまり真面目に考えていなかった。それよりも魔女の様子が気がかりだった。人前が苦手であることを理由に断った彼女だが、どうにも顔色が優れない。道中では一言の弱音を吐くこともなかったが、やはり病み上がりの旅路は負担だったのだろう。元々の儚さも手伝って、その姿は一層弱々しく映る。

「すみませんが先に宿に戻ります」

 魔女はユーリイを胸から降ろし、一人戻っていく。ユーリイは珍しく妹を追わなかった。

 彼女に付き添うにはまだ早い時間だったので、俺たちはそのまま屋台巡りなどしながら、一縷の望みを賭けて魔女ノエルを探すことにした。俺たちという前例があるのだ、彼女だって遅ればせながらこの祭りに到着しているかもしれない。それに行動さえしていれば、彼女を探す過程で仙女に出会える可能性もないわけではない。

 彼女と面識があるユーリイを軸に俺はスミ子と行動をともにする。このメンバーになるのは南の森以来になる。今回同様「魔女」を探そうとしていたあのときと同じ三人組になったのに験担ぎのつもりがないわけでもない。船長とイヴはユーリイからの「不釣り合いな印象の人」との手がかりだけを頼りに別行動に入った。

 本当にそのヒントで見つかるんだろうか?

 絶対無理である、に賭けてもいいと思った俺だった。


 その日俺たちが魔女ノエルと出会うことはなかった。

 勿論イヴたちもなかった。

 ただ夕方宿に戻った俺たちはちょっとした想定外によって迎えられた。

 いったい何が起きたのか、急ごしらえで確保された兼物置の窮屈な部屋は、広々とした大部屋に模様替えされていた。しかも頼んでもいないのに、軽く十人前はあろうかという量の食事まで並んでいる。優雅な仕草で果物を口へと運んでいた少女が、恥ずかしそうに小さく頭を下げた。

「すみません。先にいただいてしまって」

「何があったんだ?」

「それが、わたしにもさっぱりで」

 戻ったときには既にこうなっていたとのことで、問われた魔女もどう説明したらよいものかと困惑していた。食事は先程、運ばれてきたらしい。その際、食事代も宿泊費もいらないと言われたのだそうだ。自分も驚いているのだと控えめながら身ぶり手ぶりを交えて説明すると、彼女はそこで、俺とスミ子を呼び、他人事のようにこう加えた。

「そういえば、お二人の分はないそうです」

「……嫌がらせか」

「そういうことではないと思いますが」

 眉を顰める俺を魔女は冷静な口調で否定する。そして俺たちに別室が用意されたと言う。

「宿のご主人はどうやら、お二人を夫婦と捉えているようなんです。恐らくアリスさんの言っていた『予言書』によるものではないかと」

 ここまできてしまうと最早、予言という気はしない。予言書の名を借りた指示書のようにも感じる。だが仙女はいったい何のためにそんなことをしたのだろう? ……まぁ、元々その予言書自体、さして意味のある行動にも思えない。八百年も同じ祭りを続けていると、たまには外部者を巻きこんで遊びたくもなるのかもしれない。

 ……巻きこまれる方は、たまったものではないが。

「坊っちゃま! スミたちの部屋ですって! スミたちだけの!」

 特別扱いに気をよくしたお手伝いを意識しないように、俺はその別室の案内を受ける。

 本当に、仙女は何故俺たちを標的に選んだのだろう?

 こうなったらさっさと食事を済ませ、さっさと寝てしまうに限る。

 ぼやきながら案内された部屋を見た俺は、その瞬間に言葉を失う。

 はしゃいでいたスミ子もそれに続いた。

 美しい装飾、豪華な調度品、テーブルが一脚に、椅子は二脚、そして――ベッドは一台。

 そこは、正真正銘の夫婦部屋だった。



◇クレハの夜


 何ともいえず気まずい食卓だった。コイツといるときにこんな重苦しい時間を過ごした経験は記憶に誤りがなければこれが初めてのことだ。

 婆やが家を出てからというもの俺には、親が留守の間、スミ子と二人きりなどありふれたことだった。二人きりでいたとて何ら気兼ねする必要はなく、むしろ心地よささえ感じるような気楽な関係だった。それはひとえに、意識的なものではあるが、俺にとってスミ子がお手伝いであり妹のような存在であることに起因している。スミ子はいつでも隣に寄り添う存在でありながら、俺にとって特別な異性ではなかった。なかったはずなのだ。

 それが今の俺ときたら、向き合う形で椅子に腰かけているスミ子を、妹程度にしか見ていなかったはずのお手伝いの顔を見ることもできないでいる。

 何も話しかけてこないところを見るとスミ子も、どうやら俺同様に緊張に支配されているようだ。ただそちらから物音だけは絶えることがない。何の音かって、食器の動く音だ。ちらと覗けば、二人分にと必要以上に多く用意された食事は既に半分まで減っている。俺がほとんど手をつけていないから、それはつまりコイツが一人で食べ進めた結果ということになる。食べることで緊張感をごまかそうとしているのだろう。

「……緊張するとお腹が減るのです」

 俺の視線に気づいたのかふと、手を止めてスミ子が言った。飲み物すら満足に喉を通らない俺に比べれば、それはそれで厄介な体質だが、すごいことだろう。

 それにしても仙女の奴めと、俺は内心で毒づく。

 案内された部屋を、俺は固辞しようとした。だがそれを宿の者たちが許してくれなかった。

『どうか聞き入れてください』

『理由は聞かないでください』

『でなければ私たちが……』

 涙ながらに頼まれたのだ、預言書の存在を知る俺たちに断れるはずがなかった。それで人の命が救えるのなら安いものだろう。

 本当に、仙女という者はいったい、何を考えてこんなことをさせるのだろうか。もしこうして、気まずい食事をしている俺たちを眺めて楽しむつもりだったならば、その目論見は見事成功したと言えるだろう。つくづく悪趣味ではあるが。

 だがそのような理不尽な事態をもたらし得る存在であるにもかかわらず、仙女はこの村では多大な支持を受けている。いや、支持などという言葉では最早生ぬるい。老人から子どもまで、住人たちは誰も彼も、ことごとく仙女を崇拝している。溺愛し心酔している。そうされるに値するだけの恩恵を確かに、仙女は遠い昔、村にもたらした。だが、それだけでこうもなるものだろうか? 昼間話した村人たちは予言書の掟に背いた際の仕打ちでさえも仙女からの愛と受け止めていた。彼女の愛に報いることのできなかった自分たちへの罰と当然に思っている。俺にはとても、そんな考え方はできない。だから余計に不気味な感じがする。

 人々の心をこうも惹きつける仙女、明日こそ出会えるに違いない彼女は、果たしていかなる存在なのだろう?


 食後、用があると断って俺は部屋を出た。

 そのような用など勿論なく、それは未だ解決されざる寝床の問題から逃れるための口実に過ぎない。見え透いた嘘だ。

 俺は上品な調度品の並んだ部屋で、スミ子は明日までの時間を自由に過ごすべきものと考えている。何故って明日、アイツには大事な勝負がある。祭りを盛り上げるための一行事ではあるが、出場する以上は体調を整え万全の態勢で望んで欲しいと思っている。

 とはいえアイツにもそれを拒む理由はある。お手伝いに過ぎない自分が俺を差し置いて一人いい思いをすることをスミ子はよしとはしない。

 だからこそ俺は敢えてその話題には触れず部屋を出た。外で適当に時間を潰してからお手伝いの寝入った頃に戻り、床にでも横になることができれば充分だ。念のためスミ子には明日に備えて早めに寝るよう声をかけておいた。


 昼間ほどではないが、夜になっても村から活気が失われることはなかった。出店は閉じているものの酒が入り、月明かりの下宴会に移行した村祭りからは相変わらず人の姿が絶えない。それもそのはず、船長はここを「小さな村」と言ったが、実際のところは人の数も活気もステラ村とは大違い。いつか船長に、彼女にとっての「普通の村」の規模について問い詰めようと思う。

 だが改めて思う、やはり人が多くて賑やかな場所は楽しい。祭りであれば尚楽しい。

 そういえば幼い頃、親父にこう言ったことがある。どうして一年に一度しか祭りはないのか、毎日が祭りだったらきっと楽しいのに――と。

『本当に、そう思うかい?』

 その問いかけが確か、返ってきた言葉だった。当時はなぜそんな風に言い返されたのかよくわからなかったが、十を過ぎ夜祭りに参加し、隠れて酒も口にするようになった今ならその意味もわかる気がする。幼い自分に言い聞かせることもできる。年に一度きりだからこそ、人々はこうしてはめを外して楽しめる。毎日祭りが続いたらきっと普通の日々が恋しくなってしまうに違いない。いつもプカプカと空想の海を泳いでいて、あまり父らしいところを見せない親父の言葉が理解できた瞬間。自分も大人に近づいたものだとしみじみ感じる。

 少し祭りの喧噪から外れた場所では、踊り子みたく露出の多い衣装に身を包んだ少女が、しきりに道行く男に声をかけて回っている。遠目にもなかなか整った顔立ちだとわかる彼女が何を商う者なのかは想像に難くない。自分にはまだ遠い世界だ。

 関わり合いになりたくないので、さっさとその場を離れようとした――ときだった。

「ぁお~。かおるぅ~。かおりがするのよ~」

 どこからともなく不気味な声が轟いた。

 どこにも、何者の姿も見えない。だが声がする。

 右か、左か。さもなくば前か、後ろ。

 だが頭上から聞こえている気もする。

「かおるのよ~。かおり~かおればかおるれろ~」

 ガサリと物音がして、背後の闇の中で何かが蠢いた。

 恐ろしくなった俺は急いで引き返す。

 道中ずっと、周囲に姿なき何者かの気配を感じながら宿に戻った。

 それでも数時間ではあるが、潰すことはできた。



◇ここにいる理由


 こっそり部屋に戻るつもりだった俺は、中から聞こえてくる声に気づいた。スミ子がまだ眠らずにいたことは勿論だが、話し声とも普段の声とも違う、その歌声に何より驚いた。

 部屋に入ることが躊躇われる。俺は静かに耳を澄ました。



  一人探した故郷の

  水面移ろう世迷(よま)い月

  いつか、睦みて(なだ)拭けば

  八千代、九重、永久の縁


  人に習いて文、菖蒲

  三日待たれず夜を越して

  いつか、睦みの七竈

  やつるこの身ぞ尊けれ



 それは今まで耳にしたスミ子のどの歌とも違っていた。繊細に透き通る歌声も、どちらかというと能天気な部類のアイツがうたっているとは信じ難い。心に染み入る美しい調だ。

「まともな歌もうたえるんだな」

 歌の終わりを待って戻り、俺は声をかけた。

「それが、明日うたう歌か?」

 言いながら、ベッドに腰掛けているスミ子の隣に自然と腰を下ろす。ようやく、普段通りに振る舞うことができた気がした。スミ子は俺が今までどこで何をしていたのか、尋ねることはせず小さく頷いた。

「数え歌なのです。お母さんが子守歌にうたってくれた」

「思い出の歌だな」

「はい」

 それが自分の一番大切で、一番好きな歌であると言うとスミ子は目を閉じ、今しがた口ずさんでいた穏やかな旋律を繰り返した。

 俺もまた自然とスミ子に合わせ目を閉じる。

 再び聞いたそれは、憂いを帯びた独特の調のためか数え歌というよりむしろ恋歌であるようにも感じられる。そこに表された孤独や再会の喜びは、俺の中ではスミ子自身を主人公として描かれていた。本当に優しい、物語だ。

「スミは、スミですよね?」

 穏やかな余韻に浸る中で、うたい終えたスミ子が微かな声で言った。

 俺は何も言わなかった。スミ子がそう尋ねてきた理由を俺は知っている気がした。

 多分、同じ理由なのだ。

 俺が魔女ノエルとの対面に慎重な姿勢を取ったのには、スミ子に訪れ得る変化に対する恐れがあった。記憶を取り戻したときコイツが別人になってしまったら、この十年間のこと、俺たちのこともすべて忘れて別人になってしまったら――それを俺は恐れていた。

 だがその思いは、俺以上にスミ子の心にこそ暗い影を落としていた。誰が何を言おうとどう励まそうと肩代わりはできない。当事者にしかわからない、使命感や責任感では取り繕いきれない感情がある。それをスミ子は涙を含んだ声で吐露したのだった。

「ワガママだってことはわかっています。そんなことを言っている場合じゃないってこともわかっています。でも」


 でもスミは今のまま、スミのままで――。


 最後まで言うことなくスミ子は口を閉ざす。たとえ本心でも、自分がそれを口にしてはいけないことをスミ子はよく理解している。そうだ、承知したからこそここにいる。

 目当ての者に会ってもいない内から考え過ぎだと、人は笑うかもしれない。俺だってできるなら、そうやって笑い飛ばしたい。だがやはり、その通りのことが起きてしまったらという不安が残る。確証もないままに大丈夫などと言うのは無責任に思えてならない。

 それは他でもない俺自身の信条に反する行動でもあった。結果を見るまで結論を定めない、その先に待つべき希望を信じて突き進む行動原理を自ら否定することにもなる。その信条を無意識に曲げようとしている自分に俺は気づいた。かける言葉にわずか、迷う。

 ここで「文句を言うな」と言えばこのお手伝いはきっと、逆らうことはしないだろう。「やめてもいい」と言っても多分、責任感がそれを許しはしない。求められている言葉が何であるかは瞭然だ。

 記憶を取り戻すことなんて諦めろ――決定的な指示をスミ子は待っている。

 それを理解したとき、どうして仙女が俺たちに二人だけの時間を与えたのかがわかった気がした。いたずら、悪ふざけ、傍迷惑……そう思っていた仙女の存在を俺は見直した。それがただの過大評価の深読みだとしても俺は彼女を信じる。きっと他の誰にもできない、コイツのために、俺にしかできない仕事をさせるためだったのだ。

 俺は落ち着いていた。かつて戦うことに迷いを抱いた自分に対する魔女の心境が今ならわかる。ここで大切なのは何を言うかではなく、どう伝えるかだ。

 長い沈黙を俺は費やし、言う。

「お前のことはお前が決めるんだ」

 普段通りの声で発したつもりのそれは、或いはスミ子にとって冷たい言葉だったかもしれない。だが薄情な気持ちからではなかった。スミ子を家族として大切に思うからこそ逃げ道をつくって甘やかすのではなく、コイツ自身の、尊重されるべき意思を聞きたかった。

 例えば俺には国を変えたいという夢の果て、今は世界を救ってみせるという意志がある。魔女はそんな俺の剣となってくれた。ユーリイたちには守りたい人がある。

 この戦いは皆がそれぞれに覚悟を決めて臨んだ戦いだ。

 これから先はどうあっても後味の悪さはつきまとうだろう。後悔するときもあるに違いない。だが最後まで自分たちの選択に、行動に責任を果たす、果たさなければならない、俺たちの旅はそれを承知の旅なのだ。

 俺はその選択次第で世界がどうなるとか皆はどう考えているとか、そういったプレッシャーをかける言葉は使わなかった。そうしておいて誰に強要されるでもないスミ子自身の意思を問う。この世界のためにどうしたいのかについて。そしてこの世界のためにどう責任を果たしたいのかについて――。

「……坊っちゃまは、卑怯です」

 俯いたまま、やがて俺以上に長い沈黙を挟んで答えはあった。スミ子はそれ以上を言わなかったが、その一言だけでもしっかり意思は伝わってきた。コイツは自分の力で決めたのだ、恐れず前に進むことを。

 その覚悟を讃えて隣の少女の頭をそっと撫でてやった。そうとも、何があってもコイツはスミ子だ。部屋の隅、庭の隅、台所の隅で震えてばかりの、我が家の大事なお手伝いなのだ。記憶を取り戻してこの十年間のすべてを失おうと、俺たちがそれを忘れない。きっとまた今までと同じように受け入れる。家族だから、それができる。

 心地よさそうにスミ子が身を預けてくる。

 その拍子に、どこに挟まっていたものか、俺の服から一枚の紙が落ちた。

 三つ折りされた上質なそれを開くと、そこにはかわいらしい文字でこう書かれていた。

『キスをする』

 それは言わずと知れた仙女からの手紙だった。

「い、今更ないですよね、そんな――」

 真っ赤になって狼狽えるスミ子を遮るように俺は、唇を重ねた。

 確かに今更だ。だがこのときを逃したらもう、二度とそのときは訪れない。


 長い長い、キスだった。


「一つだけ……自分がこの世界にやってきた理由が、思い出せた気がします」

 やがて顔を離したスミ子が独り言のように言った。

 そうして静かに語るのは山頂での話の続きだった。革命の結末を変えるためにやってきた二人の意思の相違というヤツだった。

「イヴさんは何をおいてもアミさんを助けたいと願った。そしてスミは」

 もったいぶるように、一呼吸。

「きっと、こうして坊っちゃまと一緒にいられる世界が欲しかったのですね」

 しみじみ言い終え、照れくさそうに笑った。



◇後の祭り


 パン、パァンと二発、頭上に空砲が響き渡る。

 村祭りの主要行事である歌姫コンテスト出場者集合の合図だ。

「行ってきます」と慇懃に頭を下げてからスミ子は駆けていった。それを見送りながら周囲に目を遣ると、他にも数人の少女たちが同じく人の群れをかき分けていくのが見えた。スミ子以外の参加者たちなのだろう。

 聞いた話では、この歌姫コンテストは主催者側の独断と偏見に基づく外見審査を勝ち抜いた十人の少女たちによって行われる。声が美しくとも審査を通れなければ出場できず、かといって容貌にばかり磨きをかけても歌が上手くなければ優勝はできないという、なかなかに狭き門とのことだ。

 例年であれば村内の出場者のみの大会だが、今年はスミ子という外部者もそこに加わることを許されている。口に出すことはなくても、村の中でそれが仙女の予言書による措置であることは暗黙の内に知れ渡っている。仙女がそのような判断を下せば、それを崇拝する人々の態度も右に倣う。スミ子は思いの外、村人たちから親しみを持たれている。

 ただふとした瞬間、俺はおかしな感覚に襲われる。

 ほのか様、と彼らが口にする瞬間だ。

 確かに、俺たちは仙女の思し召しによりこの祭りへの参加を許されている。スミ子は特に大本番の行事への出場権を与えられた身だ、それ相応の敬意をもって接しているのだと思えば当たり前の対応とも言える。だが何故だろう、村人たちがスミ子を通り越してその背後にある何者かを見ているように、俺には思えてならない。上手く言えないが、どうにも彼らが「ほのか様」という言葉を使い慣れている気がするのだ。遡れば出場者登録のときだって、「ほのか」と口にした瞬間に店主の目の色が変わったように思う……例えば仙女が「ほのか」という者だとしたら、というのは深読みが過ぎるだろうか? 俺は、そうは思わない。最前列とこそいかなかったもののステージから程近い観客席に陣取っているのにも、聞けば特別審査員として登場するという仙女を見極める目的がある。

 本来ならただ座ってステージを眺めるようなことなどしたくなかった。だが、皆がそれを許してはくれなかった。昨夜俺たちに隠れて話し合いが行われたらしく、その席で勝手に、俺の仕事はスミ子の応援と決まったのだ。まぁ、焦っても件の仙女が現れるでもなし、息抜きよろしく待ちの姿勢だってたまには大切だ。

 時計を見るに、始まるまでにはまだ少し時間がある。とはいえ出歩いて何かするには短い猶予。つまるところ微妙な待ち時間である。

 こういう場合の手慰みには他愛のない考え事でもしてみるに限る。ちょうどここでおあつらえ向きの問題もある。

 そう――優勝者に与えられる名誉とは何なのだろう?

 名誉と言われて真っ先に思い浮かぶものといえば、勿論富や地位だろう。しかし平等な村社会、貧しくなくも華やかとも言えない村の様子を見る限り、その線は薄そうだ。毎年同じ物が与えられるという大前提があるが、「仙女様からいただく物なら何でも」という線もこの際だから排除する。

 今までは村内の者だけがこの大会に出場していた。そこに今回はスミ子が特別参加している。その観点から思案を試みる。村人ばかりでなく、そう、ずばり冒険者がもらって嬉しいものだ。

 俺がこの旅を続けてきて一番ありがたいと思ったものはずばり仲間の存在だろう。より踏みこんだ言い方をすれば、今では家族と言っても過言ではない者たち。様々な局面で自分を助けてくれた皆の存在は何物にも代え難い。

 ただし――そのケースに当てはまる場合、名誉などと面倒な言い方をせずとも素敵な物、もしくは人と言えばいいと思う。仲間の存在は心強いし嬉しいが名誉ではない。与えられるのはやはり目に見えぬものだろう。

 ――或いは。

 それは仙女による何かしらの行為とも考えられる。例えば男の身であれば彼女から口づけをされたり抱擁を受けるなど、最上の名誉に違いない。ただ今回の出場者は少女たち。女子の身でもそういった行為は喜ばしいものなのだろうか。でなければ……なかなか考えはまとまらない。

「隣、いいですか?」

 こうなったらスミ子には意地でも優勝してもらわねばならない。そんな思いに一人やきもきする俺に、そのとき頭上から慎ましく話しかけてくる者があった。

 青と白の服――。

「魔女か」

 俺はそう呼んだ。彼女が魔女などではないことは大分前に判明しているのだが、未だに俺からはその名で呼ぶクセが抜けないでいる。魔女もそれで慣れているようだし、今更正そうとも思わないのだが。

「休むように言われてきたんですが、迷惑でしたか?」

 首を横に振って俺は場所を空けた。

 魔女は「失礼します」と断ってから隣に腰を下ろした。前日よりいくらか顔色のよくなった彼女の胸には珍しく、ユーリイの姿がなかった。

「ユーリイならノエルさんを探していますよ」

 察したように魔女は言い、笑う。イヴたちにも今日は魔女ノエルの似顔絵を渡してあるとのことだ。流石は魔女と言うべきか、わざわざ尋ねて確認するまでもなくそのすることに抜かりはない。俺は視線をステージに戻す。

「そうか。じゃあ――」

 捜索の方もつつがなく行われているんだな。俺はそう続けるつもりだった。

 しかし実際にその言葉が俺の口から生まれることはなかった。

「ええ。今はわたしたち、二人きりってことです」

 ふふ、と鼻で小さく笑う音がする。振り向いた額にやわらかいものが触れた。言いかけた言葉など既に頭にない。彼女から口づけをされたのだと気づくまでに俺は数秒の時間を要した。

「ふぅん……そういう反応をするんですね。メモメモと」

 笑いながら魔女は筆記するような動作を取る。

「一度やってみたかったんですよね。こういうの」

 驚きとも恥ずかしさともつかない感情に見舞われていた俺はその一言で我を取り戻す。悪びれる風もない彼女の様子にようやく、自分がからかわれたことを悟った。それもそうだ。今まで俺は彼女に助けられることこそあったものの、自分が魔女に好まれるような姿を見せつけた記憶はない。だからと言ってはなんだが、今はただただ、この魔女が自分をからかったという事実だけが意外に感じられた。

「お前でもいたずらをするんだな」

 あまり深い意味を持たない言葉とともに苦笑いを浮かべる。これまた意外なことに魔女は、むっとした様子ですかさず当然です、と言い返してきた。

「ジークさんはいったいわたしのことをどう思っていたのですか?」

 不機嫌な瞳がじろりと俺を向いた。何をそんなにムキになることがあるだろうか――とは思いつつも、予想外の反応に俺は困惑する。しどろもどろになる。

「まぁ、真面目な奴だとは思っている」

「……ふぅん。真面目、ですか」

 不愉快そうな声が言う。怒らせてしまっただろうかと訝る俺の首に、突然、腕が回された。

「なら今度は真面目なキス、しましょうか?」

 不意に引き寄せられたすぐそこに彼女の顔がある。祭りの雰囲気に合わせて化粧でもしているのだろうか、甘い香りが漂ってくる。緊張のあまり呼吸を止めた俺の元へ、落ち着いた声と美しい少女の顔がゆっくり迫ってきている。

 しかしあと少しまで迫ったところで魔女はそれをやめ身を引いた。にっこり笑って「残念でした」と、そう言うのだった――――また、遊ばれたのだ。

 事実に納得していても、困ったことに顔には勝手に熱が集まってくる。年下の少女にいいように弄ばれるとは、恥ずかしいやら情けないやらで最早ため息も出てこなかった。

 明るく笑う彼女の姿を無意識に眺めていた。

 こうして彼女と接してみてわかったことがある。スミ子がこの旅の中で成長したように、魔女もまた、出会ったときと比べて大分様子が変わった。特に表情が明るく豊かに、年頃の少女らしくなった。かつて手を差し伸べずにはいられない儚さの中にあった笑顔は、今の彼女にあっても最高の魅力を引き立てている。このような姿を目にする日が来ようとは、出会った当時には想像もしていなかった。神聖というより皆に好かれ大切にされるという意味で、彼女こそ神子と呼ばれるに相応しい存在だと俺は思った。

「……あまり見つめられると恥ずかしいですね」

 何を言うでもなく見られ続けることに耐えかねたのか、魔女が俯く。先の意趣返しをしてやりたい自分を抑えて俺は視線を外した。その直前、彼女の色白の頬がほのかに赤く染まっているように見えたのに、俺は気づかないフリをした。

 魔女は何も言ってこずいつしか沈黙が訪れる。意外な一面を見せられたことで緊張してはいたものの気まずさはない。だからせっかくの機会に話したいことはたくさんあったはずだが、平穏を壊してしまうのが嫌で結局何も言うことはない。ただただ静かだった。

「始まるみたいですね」

 ほどなくして、声をかけられ顔を向けたステージには昨日の出店の主人が立っていた。この企画の最高責任者であるとともに司会者でもあることが紹介される。簡単な挨拶に続いて彼が開会を宣言するとともに、さすがは年に一度の一大行事だ、俺と魔女を置いてけぼりに会場は言いようのない熱気に包まれる。

「まずは出場者の皆さんの入場です!」

 ステージには人数分の椅子が並んでいる。彼の合図で呼ばれた者から一人二人とステージに上っていく。この順番は登録の早さや容姿に順位づけをされた結果ではなく五十音によるものとのことだ。

 ほのかことスミ子は九番目に現れた。その名が呼ばれると同時に会場が大きくざわついた。スミ子は俺を見つけて手を振りかけたものの、実際にはそれをせず、代わりに頬を膨らめて不機嫌そうに着席した。

 続けて十人目までが出揃うと、それまでの盛り上がりが嘘であったかのように一転、辺りは静まり返った。周囲に目を向ければ、皆々、誰からともなく手を合わせ、しきりに拝むような仕草をしている。

「ジークさん。もしかして」

 俺は確信をもって魔女に頷く。

 村人たちが向いている方には、村長たちの席に並んで誰よりも豪華なつくりの椅子が空席になっている。それは彼女のための席に違いなかった。そう、ようやく仙女様のお出ましだ。

 観客一同を見渡した司会者はその一倍豪華な特別席を指し、そこに腰を下ろすべき者についての話を始めた。すかさず飛んできたヤジを軽く受け流すあたり、恒例の前口上のようだ。曰く、仙女がこの村のために何をしてくれたか、彼女がいかに慈悲深い存在であるか、自分たちがどれほど彼女を愛してやまないか――詩人顔負けの美しい言葉で彼はそれらを語り聞かせた。そしてそれを終えると、

「皆様、大変長らくお待たせしました! それでは」

 もうこの場で死んでも構わないと言わんばかりの恍惚とした表情で、感極まって涙声になりながら、特別審査員を紹介したのだった。

「それでは、仙女ほのか様にご登場いただきましょうっ!」


 ――ほのか。

 ――仙女ほのか。


 最高潮に達した村人たちの興奮の中にあり、やはりそうだったかと立ち上がる俺。期待と皆の視線を一身に集める特別席にしかし、仙女はなかなか現れない。

 代わりにステージ上で悲鳴があがった。

 逸早く視線を走らせた俺の目はそこに、瞬時に九人の少女を数えあげる。

 一人、足りない。

 足りないのは――。

「――くん! ジークくん!」

 一つだけ生まれた空席を見つめて呆然とする俺の耳に、動揺が広がる人々をかき分け、近づいてくる声がある。

「大変だよ! この絵の人がメイドさんと一緒に消えちゃったんだ!」

 取り乱した船長がいつになく青い顔で言うのを俺は、彼女以上に真っ青な顔で聞いた。



◇永遠を持て余す者


「落ち着け」

 諭すようにイヴが言った。

 スミ子を探しに村を出、俺たちは村を見下ろす山の頂にある「ほのかの館」という場所へ向かっていた。祭りの日、そして関係者以外立ち入りが禁じられているそこは名前の通り仙女ほのかの住む館。そして同時に、歌姫コンテストで彼女に選ばれた娘が生け贄としての任務を全うする、名誉と終焉の交わる地でもある。

 スミ子が連れ去られた後、俺たちは主催者をつかまえ仙女ほのかことノエルについて、歌姫コンテストの意義について聞き出した。そこで明らかになったのが仙女の正体が永遠を持て余す吸血者――吸血姫であること、そして歌姫に選ばれた者には彼女に血を捧げる権利が与えられるという事実だった。村祭りの目玉行事であるコンテストはあろうことか、彼女のための生け贄選びの場であったのだ。

 それを知った上でイヴが若い仲間たちにおける一年長者として、平常心を失いつつある俺をなだめようとしているわけだ。

「いくら生き血を好むといっても、娘を手にかけるようなことはないだろう」

 本当に親子なら、だ。まだ二人の関係がそうと決まったわけではない。それに、もし親子ならどうしてスミ子を連れ去る必要があるのだろうか。

「そればかりはノエル様に会って確かめるまではわからない。だからこそ僕らはこうして彼女の元に向かっている。そうだろう?」

 イヴに返す言葉が見つからず俺は黙りこくるしかなかった。慰めてもらいたい気持ちがないと言えば嘘になるが、それは別に言葉遊びのような一般論を求めているわけではない。


『仙女様はあらゆる災害や疫病から村を守ってくださるのですよ? そのような御方の一部になる以上の名誉がどこにありますか?』


 こうしている間にも主催者の言葉は否が応にも脳裏に甦る。仙女を心より崇拝する村人たちの口からは、彼を含めそういった肯定的な意見しか聞かれなかった。誰一人として命を捧げることを恐ろしいと思っていないところに、この風習の恐ろしさはある。かつて婆やが当然のこととして棄老の風習に身を投じたように、歴史と伝統によってそれは人々の中ですっかり正当化された行為となっていたのだ。

 そんな場所へ仲間を送りこんだ自分の責任は決して軽くないと俺は考える。もしもお手伝いを無事に取り戻すことができなかったらと、今にも後悔に押し潰されてしまいそうだ。その無事を祈れば祈るほど表情が強張っていくのが自分でもわかる。

「あまり悪い方にばかり考えない方がいいですよ」

 魔女が理性的に言った。

「そうだ、不安なのがアンタ一人だけだと思うなよ!」

 ユーリイは感情的に、そこへ言葉を重ねる。

「ほら、とっとと顔を上げる! その辛気くさい顔をやめる!」

 矢継ぎ早にがなり立てられた俺はとりあえず俯き加減にしていた顔だけは上げてみせる。だが表情まではどう試みても変えられなかった。

 村で教えられた道には「こっち」「あっち」と至る所に案内看板が立てられている。一人でそこへ向かう歌姫に対する気配り――今となってはその言い方が正しいのかも疑問だが――により、俺たちが道を失うことはなかった。

 やがて日が傾く頃、件の館に到着した。外見上は別段変わったところもない、館の名を負うに相応しい大きな建物だ。

 俺は迷わず木製の大扉に手をかける。

 扉を開けた瞬間、首元を吹き抜けた冷たい風に軽い目眩を覚えた。

 内部は歴史を感じさせる、趣のあるつくりとなっていた。足下はよく磨かれた大理石の床に、鮮やかな血を連想させる真っ赤な絨毯が映える。頭上にはシャンデリアが淡い光を放ち、明る過ぎず暗過ぎず広いエントランスホールをやわらかく照らす。ホールの中央には二階へと続く階段が幅広く、それを中央に左右に分かれる通路にはいくつもの扉が並んでいる。一人が暮らすにはあまりにも贅沢な様子ではあるが、そこは村の救世主たる仙女の館だ、特別風変わりなところもない、ごく一般的な風景と言えよう。

 ……ここにスミ子が。

 俺は胸の内に呟いた。


 ――コツ、コツン。


 そのとき階上より冷たい音が響いた。

 足音だ。

 改めて思う――仙女こと魔女ノエルは何故スミ子をさらったのだろう? スミ子をどうしたのだろう? いかなる態度で自分たちを迎えるのだろう? 

 俺には俺の疑問がある。彼女に助けられたという魔女たち姉妹にも二人なりの思いがある。イヴたちだってスミ子を知り関わっている以上、この場に立つにあたり思うところがあるはずだ。

 村を救った仙女か、生き血をすする吸血姫か、それとも世界を救う鍵となる魔女か――果たしてどれが本物の彼女なのだろう?

 間もなく現れた者を見て俺は、しかし、ほっと胸を撫で下ろした。降りてきたのはスミ子その人。見たところ怪我などは見当たらない。普段のメイド服ではなく漆黒のイヴニングドレスに身を包んでいるが、その程度の違いなど些事に過ぎない。

 だが真っ先に駆け出そうとしたその一歩を、俺は留まった。

 先駆けてスミ子が口を開いたからだ。普段の愛嬌にあふれた声とは遠くかけ離れた、気だるげな声でこう言ったからだ――遅い、と。

 これに驚いたのは俺ばかりではなかったはずだ。そもそもコイツ自身が表だって不満を口にすることがない。

 怒っているのか、さもなければ――。

 そう思いつつ見れば階段の途中で足を止め、俺たちを見る瞳に無邪気なお手伝いの面影は残っていない。見下し、威圧するような鋭い瞳がただただ妖しく輝いている。笑みの消えた冷めきった表情がこの少女を捉えどころのない、不気味な存在に思わせる。

 それでも何か呼びかけなければならないと思った。呼びかけて自分の知るスミ子を取り戻さなければ、自分の中にある危惧を否定しなければならないと思った。

 だがそのための言葉が、出てこない。

「まったく……よくここまで来れたモンだよ、お前」

 先に言ったのは、興味なさそうに皆を見渡したスミ子だった。すぐに「いや」と自ら言い直すことには、

「その程度でよく生き残れたな」

 フン、と鼻でせせら笑う。

 呆然とする俺に、結局、肝心なところで他人頼りなんだよなと男のような口調でスミ子は言った。

「助けられてばっかりなんだよ。このセカイの内つ臣に襲われたとき、イヴァンに襲われたとき、アメリアがネージュに支配されたとき、お前は何をした? いや、何ができた? いつもそうだ、一度だってお前が決め手になったことなんてなかった。お前は他人がいなきゃ何もできない奴だよ。

だから、ってわけじゃないが、気になったんだよな。ハハ、魔女の(さが)ってヤツか――自分を助けてくれる他人がいなくなったとき、お前には何ができるんだろう、ってさ」

 スミ子はにやりと意地悪く、口元を歪めた。

 その表情に、まさかという思いがこみ上げてくる――俺は恐る恐る、仲間たちを振り返る。

 そこにあったのは、いつかの王都を彷彿とさせる光景だった。

 イヴの体は俺のすぐ背後に、仰向けに倒れていた。その体からはあるべき頭部がすっぱり失われており、さながら鋭利な刃物を滑らせたような断面から、今の今までその体を巡っていた新鮮な血液を噴き出している。果たして姿を消した頭部はというと、体から流れ出た血がつくった赤だまりの中に転がっていた。その隣には腰の辺りで胴を両断され、魔女が倒れている。引きちぎられたような乱雑な断面が生々しく、痛々しい。胸に抱かれた灰の山はユーリイのなれの果てだろうか。こんな状態でなければ姉妹の鑑とも言うべき美しい姿だろう。一番後ろを歩いていた船長は、首を明後日の方向に曲げた状態で座っていた。俺が苦楽をともにしてきた仲間の誰一人、この場にはもう残っていない。


『スミは、スミですよね?』


 仲間たちのあっけない最期を目の当たりにして、涙も出なかった。熱に浮かされたように真っ白になる頭の中を、昨日のスミ子の一言がよぎる。スミ子は記憶を取り戻すことを恐れていた。そして自分が自分でなくなってしまうことを恐れていた。今にして思えばその理解は浅かったのかもしれない。スミ子が真に恐れていたのは、本来の力を取り戻した自分が仲間を傷つけてしまうことだったのだ。

「遅いって言ったよな」

 この状態になるまでに果たしてどれだけの時間がかかっただろうか。皆は――苦しまずに逝けただろうか。そんなことを考え始めた俺をスミ子の声が我に返らせた。

 笑っている。苦楽を分かち合い、同じ目標に向かって歩んできた仲間を屠っておきながら飄々とした顔をしている。

 仲間を、殺しておきながら――。

「仲間、か。でもそれは人間の言い分だろう」

 スミ子は笑うのをやめない。

「魔女には魔女の、吸血姫には吸血姫の言い分がある。魔女であり吸血姫でもある者には、魔女であり吸血姫でもある者の言い分がある」

 俺にとっては仲間なんて考え方は甘えなんだよ――とうとう声をあげて笑った。

「群れていれば、そりゃあ楽さ。自分では何もできなくたって、誰かがやってくれる。自分に力がなくたって、その力を持った誰かが肩代わりしてくれる。

自分はいるだけでいいんだ。

他人と一緒にいさえすれば、何もしなくたって栄光のおこぼれに与れる。仮に問題が起きても周囲の存在が隠れ蓑になる。自分が向き合うべき責任も軽くなる。そりゃあ心地いいだろうさ、クセになるくらいにな」

 そんなことはないと言い返したかった。だが悔しいことに、その言葉が真理を射抜いている部分もあった。

 コイツの言う通り俺はいつだって、仲間の存在に頼っていた。革命を起こすにあたっては魔女を頼った。スミ子の知恵を借り、ユーリイに友達である動物たちの説得を頼み、ヒガンバナを求めて船長にも助力を乞うた。その他にも自分の気づくところで、気づかないところで大勢の人々の世話になりながら俺はここまでやってきた。そこに甘えがまったくなかったと言えば嘘になる。

 だが、理解することと納得することは別問題だ。それを真っ向から否定するのは人間の傲慢だ。お互いを想い合うための、不完全という余地――それが人間に許された素晴らしさだ。自分にできないからこそ他人と協力し合う。補い合う。一人のままでは自分の能力以上のことはできない。だからこそそうやって助け合い、高め合うのが人間なのだ。

 皆は俺が頼まないときだって自分から助けてくれた。スミ子だって王都で、ホウライ山の頂で俺を助けてくれた。人間の気持ちがあるからこそ助けてくれた。

 だから、それすらも否定したスミ子を前に俺は吹っ切れたと思った。記憶を取り戻し、コイツは人間を捨てた。仲間を捨てた。俺と一緒にいられることを願ったアイツはもう、いないのだ。

 俺は剣を手にする。

 どうあろうと俺はスミ子を受け入れるつもりだった。受け入れることが俺にはできると思っていた。だがそれも結局は俺という人間の傲慢に過ぎなかった。悔しさも、自分の言葉を守れなかったことに対する惨めな気持ちもあるが戦わなければならない。コイツは敵なのだ。

「そうだよ、それでいい。どうせ結果は変わらないけどさ、見せてみろよ、お前の力をさ」

 その声がしたとき、スミ子はもう目の前に立っていた。頭一つ低い位置から薄ら笑いとともに俺を見上げ、ニィと歪めた口元に牙を覗かせる――余裕だ、と言っているのだ。

 それは勿論悔しい。

 俺だけではない、コイツは皆を、皆の死をも笑った。

 感情に任せて低い構えから斬り上げ一閃。遅い、と呟いたスミ子に上体を微かに反らすだけでそれはかわされた。だが、そこで終わらせない。相手がずらした重心を戻す――その瞬間を狙う。

 かわされることは想定の範囲内だ。

 無理な斬り返しはせず、空振りした剣の勢いのまま、俺は体を回転させる。

 タイミングは直感が計る。

 肩越しに見えた相手と、視線が交差する。

 ふ――と鼻で笑う音がした。

 瞬間、重心の移動に逆らわず、大きく跳躍する相手の姿が見えた。薙撃が空を斬る。

 体躯に似合わない脚力で空に逃げたスミ子は一度後方宙返りを挟んで俺を見据え、

「本気で殺るときはさ――こう」

 何かを放るように腕を振るう。

 動き自体は早くない。飛来する物も見えない。ヒョウ、と風を切る音だけがする。

 そこにいてはいけない――直感が体を動かす。咄嗟の判断で横っ飛びすると同時に、立っていた場所に、二メートルほどにわたる深い爪痕が刻まれた。

 鎌鼬――。

「やるじゃん」

 余裕を見せるスミ子の体はまだ宙にある。俺はそこを、着地を迎える瞬間を勝機と定める。

 ただ相手もそれを黙って受け入れてはくれない。

 牽制に腕を二振り――目の前の床に連続して打ちこまれる見えざる刃が俺の進路を阻む。

 思うように距離を詰められず俺は結局、広く距離を挟み、階段に着地した相手とにらみ合うこととなった。

「お前を残した甲斐があったよ」

 スミ子は楽しみをこらえきれない様子で言った。

「ソイツらときたら、あっという間でさ」

「お前が卑怯なことをしたからだ」

「違うな。本物の戦士じゃなかったからさ」

 冒涜に俺は奥歯を噛み締めた。

「何だよ、怒ったのか? ならもっと怒れ。それで強くなるならどんどん怒ってくれ。そして全力で向かってこいよ」

 こう言えるのだ、コイツにはまだ余力がある。それに結果は変わらないとも言っている、俺を相手に遊ぶ程度の感覚でいるのかもしれない。俺にとってこの戦いが命懸けであることをコイツは当然に理解しているはずだ。その上で弄ぼうとしているのだ。

「来ないのか? それとも」

 俺を見る瞳が妖しく光る――スミ子は階上でまた腕を振るう。

 直線軌道の鎌鼬。

 一度見た技だ、俺は横にステップを踏みそれをかわす。

 そうして改めて視線を向けた先にスミ子の姿は、ない。

「何だよ、動けるじゃないか」

 声は背後から。

 腕を振りかぶる相手の姿が、背を向けたままだが見えた気がした。

 イヴを切り裂いた、魔女を引きちぎった横薙ぎの動き――。

 かがんだ頭上を風切音が駆け抜けた。

 その体勢から振り向きざまに反撃の刃を始動させる俺の眼前に黒布が揺れる。

 ドレスの裾――そして薄い肌色。

 横っ腹に衝撃が走り、俺は自分の体が飛ばされるのを感じた。

「素敵なものでも見えたかい?」

 やってきた痛みにむせる俺をからかうように少し離れた場所でスミ子がカラカラ笑った。

「なかなかいいセンスだと思うよ。体術も反応も悪くない。人間にしては上出来だよ、お前。仲間なんていない方がよっぽど強いんじゃないか?」

 そんなことはない。俺は否定する。

「……ふぅん、本当にそうかな」

 訝るように首を傾げスミ子は、先程よりもゆっくり、扇ぐように腕を揺らした。その直前、視線は微かに俺から外れていた――その先に船長の体を見つめていた。

 俺は迷わず剣を、船長の前に差し出した。

 悲壮な高音が鳴り響き、船長の体と引き換えに刃は砕け散る。俺は同時に戦う力を失った。

「ほらやっぱり、弱点だったな。どうするんだ、戦いの最中に武器をなくして?」

 確かに、我ながら酔狂な真似だった。返す言葉もない。

 だが悔いもなかった。それに見合うだけのものを守ることはできたのだ。

 しかし、どうやってこれから戦う?

 チャンスをやると。スミ子は言った。俺の前までやってくると、どこからともなく取り出した果物ナイフを手渡してきた。

「何もしないでいてやるよ」

 言葉通りに何をするでもなく、直立する。

 小さなナイフとはいえ立派な凶器だ。斬っても刺しても致命傷を与えられる。そして当の相手は抵抗せずにいるという。これは倒れた仲間たちの仇討ちをするために整えられた時間に他ならない。

 仲間の無念を晴らしたい。晴らさねばならない。

 気持ちで立ち上がった俺にはしかし、そこで割り切ることはできなかった。

 数ヶ月をともにしただけの者にさえ、俺は強い仲間意識を持っている。十年連れ添った家族ともなれば尚更だ。吹っ切ったつもりでも俺はスミ子を捨てられなかった。この手でその思い出にケリをつけるのだと思っても、あの無邪気なお手伝いの笑顔を捨てられなかった。

 俺は、ナイフを落とした。

 何のためにここで戦ったのだろうと、自分でも思う。多分、感情に任せて暴れたかっただけなのだ。結果はわかっていた――俺一人になってはもう、何もできることはない。仲間を失うとともに、この世界の滅亡を食い止める手立ても俺からは失われたのだ。

 そこでささやかな復讐を果たすことにいったい、何の意味があるだろうか――何もない。

 その先には何も残らないのだ。

「できないか。弱いな、人間は」

 幻滅したとばかりにため息がもれた。

 俺の力を見てみたい――自身の好奇心のためだけにかつての仲間を屠ったスミ子。俺が戦いを放棄したことによりその好奇心を満たした彼女はそして、俺を見上げて静かに呟いた。


「でも――そこがいいのかもしれませんね」


 正面から首に手が回される。精一杯に背伸びをしてきたスミ子の唇が俺に重ねられた。

「ただいまです、坊っちゃま」

 一瞬何が起きたのかわからなかった。そんな俺をいつもの無邪気な笑みとともに見上げて、顔を離したスミ子は言ったのだった。俺がよく知っている耳慣れた口調だった。

「……スミ子?」

「はい。スミはスミですが」

 それが何か、と言いたげに首を傾げるその様子は俺の知るスミ子以外の何者でもない。しかしそう装っているだけで、油断させた自分の首をはねようと狙っているのかもわからない。現にコイツは親しんだ仲間たちを容赦なく屠ったばかりなのだ。

 魔女に取り憑いていたネージュという存在の記憶がふと甦る。

 皆を容赦なく討ち倒したスミ子と、無邪気なお手伝いのスミ子、どちらが本物なのだろう?

 そして今はどちらの「スミ子」なのだろう?

「どちらも本当のスミですよ坊っちゃま」

 心を読んだように天真爛漫な笑みとともに言う。身を離したスミ子は階上を振り返ると、ぶんぶんと元気に手を振った。

「皆さ~んもう出てきても大丈夫ですよぅ~」

 その直後に覚えた衝撃を俺は生涯忘れることはないだろう。何が起きたものか、それを合図にスミ子の手にかかり落命したはずの仲間たちが似顔絵の女――魔女ノエルに連れられ現れたのだ。混乱しながらも俺は現状把握に努めるべく周囲に目を遣った。皆の亡骸などなく、そこには砂の山が散在しているだけだった。

「どうです、驚きましたか?」

 えへへ、と頬をかいたスミ子はそこで拳をつくった。

「これがスミの力なのです!」

「さっきまでのお前は……」

「ちょっと母様の真似をしてみました」

「お前にやられた皆は?」

「見ての通りの砂人形です」

「……ということは」

 はい、とスミ子が微笑む。

 ……全部、偽物だったのだ。

 体中の力が抜けていく。俺はそのまま尻もちをついた。

 胸の中では嘘でよかったという安心感やら狂気からの解放感やらが未だに溶け合わずに渦巻いている。だが――そう、すべては調子に乗ったスミ子のいたずらだったのだ。

 ……最早怒る気力もない。

「最初から説明してくれ」

 それだけ言う俺の顔はさぞかし子どもじみていたことだろう。


   ●


 ジークムントたちは館の客間に案内されました。

「スミはちょっと里帰りしてきたのです」

 円卓に腰を下ろした皆の顔を見渡しながら、説明を求められたお手伝いは言いました。

「そして記憶を取り戻しました。以上です」

 当然とばかりに言いますが、それだけで納得できる者は勿論、いるはずがありません。

 誰からともない提案でジークムントたちが質問し、彼女がそれに答える運びとなりました。

 もっとも聞いたことに答えるという形を取ったことは、聞かなければ答えてもらえないということでもあります。記憶を取り戻したお手伝いは無邪気さの陰で上手く言葉を選び、いくつかの事実については彼らに疑問を抱かせずに話を運んだのでした。そしてときには、ばれないように嘘も交えたものでした。そうまでしてでも仲間たちに隠しておかなければならない秘密が、この世界にはあったのです。

 ジークムントたちはお手伝いの話から、ノエルとの関係を知ることとなりました。親子関係にあることに触れた上で彼女は自らを「ほのか・シオン・アルカード」と名乗りました。そうです、彼女の本名は確かに、「ほのか」だったのです。そして自身でもそれについて尋ねられるつもりがあったのでしょう、母親であるノエルのことにも言及したのです。

「母様のお名前は、ほのか・アルカードといいます」

 紹介されたノエルがゆっくり頷きます。娘の曰く彼女は魔女としてノエルを名乗り、仙女としてほのかを名乗り、自分を使い分けながら世界を回っている存在なのでした。

「親子で、同じお名前なのですか?」

 当然に生まれる疑問を口にしたのはアメリアでした。それについてお手伝いの少女は、だからシオンなのですよ、と当たり前だとばかりに答えます。

「だって、同じ名前が二人いたら区別がつかなくなるでしょう?」

 アメリアは顔をしかめます。しかしそれ以上は尋ねようのいかない話でした。

 話は続いて吸血姫としてのお手伝いに触れることになりました。母親であるノエルが今まで多くの少女を食らってきたということは即ち、同じ一族である彼女もまた人間を食料とする生き物だということであります。彼女自身もそれは否定しませんでした。しかし勘違いしないで欲しいと続けて言うことには、

「別にそれがなくては生きていけないというわけではないのです。元々、吸血姫にとって人間の血は嗜好品でしかありませんからね」

 ジークムントと過ごした十年間がそうだったのです、それに頼らず生きてきたスミ子はこれから先も不要であると潔く宣言します。そうしてから「それにですね」と続けることには、

「血など口にしなくとも、スミは旦那様さえいれば困ることはありませんから」

 皆の前で堂々と、彼に抱きついてみせるのでした。というのも吸血一族には初めて口づけを交わした相手を生涯の伴侶とする掟があるからだと、皆の視線を一身に浴び萎縮するジークムントに彼女は言いました。隣ではノエルも満面の笑みでもって頷いています。

「それとも人間とは、好いてもいない相手とも軽々しく口づけを交わせるような情の薄い生き物なのですか?」

 これにはジークムントも困ってしまいました。彼女のことを何とも思っていないわけではありませんが、結婚などという具体的な結論について考えたことはなかったのです。しかしながらそれを伝えて自分が薄情者と思われるのは嫌ですし、人間全体がそうであると思われるのはもっと嫌でした。

「よかったよかったなの」

 何も言わずにいる内に、背後でのほほんとした声が言いました。

 ポンとその手が肩に置かれます。

「ほのかがお嫁に行けなかったらど~しよ~ってノエルはとて~もとて~も心配してたの」

 うたうような、ゆるゆるした口調で彼女は言いました。軽やかな言葉の裏ではしかし、鋭い爪が肩口に突き立てられています。ぞっとしながら振り向くジークムントへと反論を許さないという意思、「断ったらどうなるかわかっているだろうな」との含みが容赦なく突きつけられます。彼は自分が総身で震え上がる瞬間を知りました。

「坊っちゃま。不束なスミですが末永く、よろしくお願いしますね」

 母親に対する恐怖心に気づいていないのか、スミ子は天真爛漫な笑みを形づくりました。ジークムントは密かに思います――吸血姫は残酷な生き物で、そしてこんなにも強引な生き物なのです、きっと気づいていても彼女はその笑顔を崩さないに違いないと。

 しかしこの場でそれを口に出すことは許されません。朗らかに笑うその陰でノエルが鋭いものを突きつけている事実に気づいた者はありません。ぎこちなく笑うジークムントにはアメリアの白けた視線だけが痛くてたまりませんでした。



◇わたしだけの時間


 お祝いムードの館をこっそり抜け出した。

 別についていけない、ってわけじゃないし二人を祝福する気持ちも勿論あるけれど、そういうおめでたい席は何となくわたしには相応しくない気がした。厳密にはちょっと違うんだけれど、とにかく、外の空気を吸いたい気持ちになった。

 束の間の安息に身を委ねる皆にわたしは心からのお礼と「お疲れ様」の言葉を贈りたい。

 国を変えるために戦って、続けてわたしを助けるために旅をして、今度は世界を救おうとしている。せっかくのお祭りもスミさんがさらわれたりで楽しむどころじゃなかっただろうし、ここに来るまで皆、緊張の連続だったと思う。だから最後の戦い――わたしが勝手に戦いだと思っているだけだけど――に向けてやっぱり休息は欠かせない。

 皆には万全の体調で臨んでもらいたいと思っている。そしてきっと勝利して、この世界の未来を守ってもらいたい。その行く末を見届けてもらいたい。何だか、旅立つ子どもを見送る親の気分。

 涼やかな秋の夜風が吹き抜けた。

 思えばわたしも、随分と遠くまで来たものだと思う。

 皆の歩んできた軌跡はそのまま、わたしの軌跡でもある。霧の中で一生を終えるつもりだったわたしはエウノミアを変え、世界の頂に至り、海を越え、ついには神々の聖域に手の届くところまでやってきた。身に余る冒険の幸福を与えてくれた仲間たちに、わたしはたくさん、たくさん感謝しなきゃいけない。

 何だかしんみりしてきた――でも、こればっかりは仕方ない。

 わたしは明日の、皆の出立には同伴できない。怖じ気づいたわけでも責任を放棄したわけでもない、わたし自身の問題によって、そうせざるを得なくなった。

 そう――寿命という問題だ。

 ネージュと戦い、化け物と戦い、革命においてもわたしは自分の持てる力を酷使した。死という罰を願っていた当時の若気の至りで、わたしはがむしゃらに、貴重な命をすり減らしてきた。

 でもそれだけが理由じゃない。

 お母さんの幻と戦ったあのときを最後に、わたしは拳を振るうことができなくなった。出立前夜、ノエルさんに怒鳴ったのを最後に声を張りあげることができなくなった。ホウライ山で皆に向かって駆けたのを最後に走ることができなくなった。

 日に日にわたしの体からは自分の感じるところで、感じないところで力が失われていく。こうしている間にも、大切な何かがまた一つ、失われているのかもわからない。

 そんな状況になってようやく、わたしは爺様の本に書かれていた、古代王族とその扱う奇跡に関わる重大な秘密を思い出した。

 使用対価と、契約対価。

 前者は言わずと知れた、その力を使うにあたり払わなければならない対価だ。エウノミアの末裔であるわたしで言うならば、生命力。

 そして後者は、女神様から力を授かるにあたり、人間たちが支払った対価。言い換えるなら一族を縛る楔、もしくは呪い。創世神話では信頼に足る者たちに力を授けたことになっているけれど、実際のところ女神様たちはそんな甘い考えを持った存在じゃなかった。王族たちが結束して反旗を翻すことがないよう対価という形で不都合を押しつけた。

 その裏側を知ってか知らずか始祖様が対価として女神様に差し出したのは――寿命だった。結果エウノミア族は契約の呪いと使用の対価、二重に命を搾り取られる宿命を負うことになった。

 そう、つまりエウノミアは短命の一族だったのだ。

 王家に生まれた者はどんなに長くても二十を数える頃には一生を終える。急激に老化するわけでも病気になるわけでもなく、時計が止まるように静かな死を迎えるらしい。ただそれはエウノミアの力を生涯使わなかった場合。使えば使った分だけ大切な時間は失われてしまう。

 以前お母さん、トレニアールはわたしとほとんど年の変わらない少女の姿で現れた。でもその頃には既に結婚し、わたしという娘を授かってもいた。そうでもしなければ血が絶えてしまう、エウノミアはそんな家系なのだ。

 そうやって引き継がれてきたエウノミアの血筋も、わたしでとうとう絶えることになる。わたしが絶やしてしまうことになる。

 自分の体だ、どういう状態であるかは自分が一番わかっている。自身の終焉を悟り、皆が守ってくれたエウノミアの終焉を悟り――そう、だからわたしは一人で外に出た。

 ユーリイだけは、わたしの変調に気づいていた。でも何も言わずにいてくれた。わたしの意思を察して、こうしてわたしだけの時間をくれた。もう十四年もずっと一緒だった家族だもの、事情を理解していたって、それはなかなかできないこと。やっぱりあの人はわたしにとって世界一のお姉ちゃんだ。

 ……でも、そのユーリイの顔すらももう思い浮かべることはできない。また、わたしの中から失われたのだ。


 ――わたしの時計は今、何時何分を指しているのだろう?


 絶対の自信があった目が、闇の中に何の輪郭も見つけられなくなった。わたしはひっそり腰を下ろす。のたれ死ぬのは構わないけれど、行き倒れみたいな見苦しい最期だけは嫌だって、そういうプライドだけは残っているのだ。

 まぁ――両者に大した違いはないのかもしれないけれど。

 腰を下ろしたわたしは、ポーチからノートの切れ端を取り出した。そこには世間知らずのわたしが、今よりもっとずっと世間知らずだった頃に書いた、叶えたい夢たちが書かれている。目が利かなくたってそこに何が書いてあるのかは自分のことだもの、当然に憶えている。


 外の世界へ出てみたい。

 アメリア、と名前で呼ばれたい。

 もっとかわいい服を着てみたい。

 キスの一つもしてみたい。


 これらは叶えることができた夢たち。


 素敵な恋をしてみたい。

 お母さんになりたい。


 そしてこれらは叶えることができなかった夢たち。その機会を永遠に奪われた夢たち。叶える資格のない夢たちでもある。

 わたしは結局、この生きてきた時間の中で、この世界に何を残すことができたのだろう?

 村を滅亡に追いやり、エウノミアの体制を変え……思い返せば壊してばかりの人生で、あんまり人には誇れることもない。魔女を名乗っては死を願い、周囲に散々迷惑ばかりかけてきた。わたしって、本当に何だったのだろう?

 そんな風に思うのは「異郷で終えるのも悪くない」って思っていた人生に未練がある証拠に違いなかった。あはは、仕方のない奴だ――なんて笑いながら、涙が頬を伝うのを感じた。あぁそうなんだ、って今更気づいて。わたしは今まで口にすることのなかったその思いを言葉にする。もっと、生きていたかったんだ――って。

 もっと早くその気持ちに気づいていたら、そう感じた自分を素直にさらけ出していたなら、きっと今とは違う結末があったと思う。一人で寂しく逝くんじゃない、皆に見守られながら、満ち足りた気持ちでそのときを迎えられる未来もあったと思う。わかったような顔をして、でも本当は何一つわかっていなくて、そしてそれをさらけ出すこともしなかったわたしには、そんな人間に相応しい最期しか残らなかった。

 でもそれが、罪を犯した者が負うに相応しい罰だ。

 ――罪と、罰。

 呟いた途端、不意に目の前に広がる光景があった。

 知らないはずなのに、どこか懐かしい香りのする光景だ。



『コマリんはもういない』

 ノエルさんが悲しそうに告げた。

 嘘だ、とわたしは叫ぶ。思わずそうした自分の顔を、わたしは知らない。でもこれだけはわかる。彼女を信じていないからそう言ったわけじゃない。彼女の言うことを認めたくなくて言ったのだ。

『嘘じゃない』

 ノエルさんは首を左右させた。

『この世界に熊谷子鞠という人間はもういない』

 言葉より先に、手が伸びた。肩を掴んで力任せにその体を揺さぶって、わたしはどうして、と重ねる。どうしてそんなことをしたのよ――と。

 わたしは泣いていた。そして怒ってもいた。自分にも、相手にも。怒らずにはいられなかった。何故って、知っていたからだ、彼女がそれをした理由を。

 ノエルさんはその答えを口にする。

『トーコが願ったから』

 そう、それが起きたのはわたしのせい。わたしが本気でそれを願ったから、それを願った相手が他の誰でもないノエルさんだったからこそそれは起きた。取り返しのつかない不幸の引き金を引いたのは他ならぬわたし自身だったのだ。

 だったらもう一度聞きなさいと言う。マリを返してとわたしは涙ながらに訴える。

 でも、

『失われたものは、二度とは戻らない』

 ノエルさんの答えは変わらない。その度に、苦しそうな顔をして首を振る。

 そんなやり取りがどれだけ続いただろう――ノエルさんが不意に、言った。

『失われたものを取り戻すことはできない。でもトーコが望むなら』

 わたしは顔を上げた。

『トーコが望むなら、ノエルはトーコのための世界を創ってあげる』

 ただし――。

 コマリんはもうコマリんじゃない。トーコもトーコじゃなくなる。

 それでもいいかと問うてくる彼女にわたしは構わないと答える。

 でも、ともう一つだけ、最後のお願い。

 罪を犯したわたしには罰を、どうか決して報われることのない、重い重い罰を――。

『ならそれはトーコの罪と罰の軌跡』

 そう言ったノエルさん――ノンちゃんは悲しそうにこう結んだ。

『そしてきっとノエルの、罪と罰の軌跡』



 いったいいつの記憶だろうか?

 それともただの夢だろうか?

 わたしには何もわからない。

 もう考える気力もない。

 わたしの時計はそろそろ、二十三時五十九分を回った。

 再び闇に閉ざされた頭上で誰かの話し声がしている気がする。

「本当に……のですか?」

「……い丈夫。……ちゃんがきっ……つけてくれるよ」



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