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女神の箱庭~気高き白と、罪と罰  作者: たてはのこう
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第三部

【第三部】


◇眠れる王女と彼岸の花


 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 その声は多分。自分以外の誰にも聞こえない。

 時の経つのは早いもので、あれからもう一ヶ月が過ぎていた。

 あれ、というのは俺たちが起こした革命のことに他ならない。一ヶ月という時間はだから、俺たちの手によって王が倒れてからの時間であり、人々が新しい平和とともに歩き出してからの時間であり――そして、魔女が目覚めることのない眠りを続けている時間でもある。

 王都での戦いにおいて振り下ろされた刃は魔女ではなく、彼女の持つ魔銃を目がけたものだった。だから実際にその直撃を受けたのは銃だけで、彼女はまったくの無傷で済んだ。しかし邪悪な意思が姿を消すとともに倒れた魔女は、それきり一度として目を開けていない。戦いの傷がすっかり癒えた今もまだ、原因もわかっていない。

 戦いの後俺はユーリイと、イヴと名乗ったかつての暗殺者から魔女の過去と、彼女とネージュの間に存在する時を超えた因縁について聞かされた。

 それによって俺は魔銃に刻まれた文字の意味やエウノミアにこだわる彼女の正義の背景を知ることとなった。村を滅ぼしたという言葉の真意など、彼女が積極的には語ってくれなかったことが、ネージュという怨念を基点にようやく繋がった。

 彼女が「魔女」などではなく、ただ一人の、普通の少女であることも、俺は遅まきながら理解した。しかしそれを知ったことに今更、何の意味があっただろうか。こうなってから魔女の生い立ちやネージュの存在を知ったところで彼女が目覚めるわけではない。もっと早く聞いていたら、と彼女の背負う過去に踏みこまなかったことを悔やみこそすれ、何の解決にもなりはしないのだから。

「なぁ……俺たちはいつまでこうしていればいいんだ?」

 誰にともなく呟いた。

 今日も俺は、俺たちは魔女の部屋に来ていた。

 死ぬこともなく目覚めることもない。そんな少女を前にすこぶる重い空気の中、俺にはそれを口にしたところで誰からも答えが返ってこないことはわかっていた。現に自分たちが彼女を見守る以外に何もできずにいることがその証拠だ。だからそれを口にすることが余計にこの場の雰囲気を暗くしてしまうこともまた、わかっていた。わかってはいたが、それでも言わずにはいられなかった。何より、沈黙が苦しかった。

 ユーリイは小さく舌を打ち、スミ子はばつが悪そうに俺から目をそらす。部屋の隅に立つイヴは無反応で――、


「……えぇと何だっけあの花。確かその蜜には死者の魂を現世に呼び戻す力があって……」


 しかし今日はその中に一つだけ声が生まれた――そうだ思い出した、ヒガンバナだ!

 その主はつい三日ほど前、妻とともに五年半にわたる長旅から帰還した俺の父。皆の視線を一身に集めながら本人はしかし、誰とも目を合わせてはいない。まったくの無自覚なのが本当に恥ずかしい話だが、考え事をするとき、その内容を口に出してしまうのが旅から帰ったこの父親が新たに身につけてきた癖なのだ。

「この子はまだ死んでいない。死んでいない……けど多分、効果はあるはずだ。目覚めないのは体ではなく心の、魂の問題だから。だから彼女の魂と交信してその原因を取り除くことができれば目覚めさせることも不可能じゃない。不可能じゃないはずだけど…………」

「その話は本当かっ!」

 思わず親父に詰め寄った、拍子に、一冊の本が落ちた。

『彼岸の花に関する考察』。

 ――と名に負うその本はエウノミア王国のある西大陸から遙か海を隔てた南大陸における研究考察書だった。どうやら俺たちの事情を察して、用意してくれていたものらしい。

 それには古代に端を発するヒガンバナに関する言い伝えや効能などが記されていた。ただし文献は、その花の存在はあくまで伝説に過ぎないとし、その生育地を不明としている。仮に実在していたとしても、現代にその花を用いる風習が残っていない以上既に絶滅してしまっているのではないか、という不吉な言葉で結ばれていた。

「で、でもまだ可能性がゼロと決まったわけではありませんよね!」

 場をとりなすようにスミ子がパン、と手を合わせた。

「港町に行きましょう! 海を渡るんです!」

 それを合図として俺たちは、静かに頷き合う。やる前から無駄だと諦めてしまえるほど、ここに集まった者たちは魔女に対して薄情ではない。そうとも、俺たちはもう立派な関係者、見て見ぬフリはできない。今度は俺たちが魔女を助ける番なのだ。それに、変化のない退屈な日常に目的を得て興奮を覚えたのは皆同じだから。

「あたしは行かない」

 そうして盛り上がりつつある皆に、意外にも水を差したのはユーリイだった。姉のお前が行かなくてどうするんだ、とはこの場にいた誰もが思ったことだと思う。だがそれを口にする者はない。寝たきりの妹をいたわるように眺めるユーリイ。勿論行きたいのは山々だが、苦しんでいる妹を置いては出られないジレンマがある。

 この二人を引き裂くことはできそうにない。仮に連れ出したとしても、ユーリイは妹が気がかりで身も入らないだろう。ここに残り、有事に備え留守を預かってもらう方がお互いのためになる。

 ……となると、

「メンバーは俺とコイツと……スミ子、まさかお前は」

「はい。勿論行きますけど……」

 前向きに答えながらスミ子は、そっとイヴに目を遣る。何を隠そう魔女が倒れた際、俺でもユーリイでもなくこのお手伝いを、イヴが責め立てたからだ。理由もわからぬまま一方的に怒鳴られたスミ子は、それはもう大泣きに泣いた。そしてそのときのことが心の傷になっているのだろう、一月が経った今でもイヴをあからさまに避けている。

 俺は二人が――イヴの奴はどうだか知れたものではないが――そのように気まずい関係であることは百も承知している。だがそれ以上に、一度は自分を狙ってきた暗殺者と二人きりになることだけは絶対に嫌だ。

「決まりだな」

 だからこそ小心者のお手伝いの気が変わらない内にと、スミ子の視線に気づいたイヴが何かを言いかけたのを遮って俺は結んだ。

 そうと決まればすぐにでも出発したいところではあったが、久方ぶりに息子と再会した両親の要望もあり、出発は明朝ということになった。


「少しいいか? 聞きたいことがある」

 夜、旅の準備に余念がない俺をイヴが訪ねてきた。この家に身を寄せていながら奴がそうするのは初めてのことだ。革命が成されたことによって敵――刃を交える相手でなくなったのは確かだが、俺はその素性など詳しく聞いているわけではない。今だって名前以外ほとんど何も知らない。

 ともに旅立つにあたり、この機会に一度話してみたいところであった。

 こちらからの疑問に答えてもらうことを条件に、俺は承諾した。

 イヴは早速質問を口にする。それは奴なりの、俺に対する肯定の意思表示。

「あのスミ子、という方はいったいどういう御方なんだ?」

 は、と思わず間の抜けた声が出た。わざわざ部屋にまで来たのだ、どんなことを聞かれるかと覚悟していたのに、それがまさかお手伝いのこととは拍子抜けしてしまう。しかしイヴの表情は真面目そのもの、俺が、その質問が単純な好奇心からではないと察するまでに時間はかからなかった。以前魔女に対してそうしたように、お手伝いが十年前に家の庭に倒れていたことや記憶喪失であることなどをすっかり話してやった。

 イヴは、正直何の面白味もない奴だった。嘘ではないだろうなと言わんばかりの真っ直ぐな瞳で俺に向かい、始終冷静であり続けた。が、お手伝いが記憶喪失だと知ったときだけは驚きを隠さなかった。

 その変化は二人の間に何かしらの接点があると確信させるには充分なものだった。しかしそこで「お前はアイツの何を知っているのだ」などと聞き返してしまっては元も子もない。一つの質問を受けたなら、それに対する質問もまた一つ――等価交換の不文律だ。発言は慎重に選ばねばならない。

「お前の狙いは何だ?」

 俯き、ともすれば思考の海に沈みかねない相手を呼び戻すよう俺は言った。イヴの眉間に小さなしわが寄ったので、理解を助けるように、こう重ねる――以前は命を狙っておきながら、今は逆に協力するなどいったいどういう風の吹き回しだと。

「深読みはするな」

 イヴは俺の目を見ずに答えた。

「僕はアメリア様を助けたい。それだけだ」

 言うなり、もう話すことはないとばかりに背を向ける。だが俺はそれを引き留める。まだ納得できていない。それはコイツが俺を殺そうとした説明にはなっていない。

 それを指摘されたイヴは背を向けたままではあるが、律儀にも足を止めた。そのまま長い沈黙を挟んでからようやく、口を開くことには、

「革命の首謀者であるお前を斬ればアメリア様は争いから遠ざかると思っていた。だからだ」

 言葉少なくもイヴはそして、あの場で退いたのは彼女に目撃者になって欲しくなかったからだと続けた。

 奴の態度に、魔女に対する一種の執着を俺は見て取った。しかしその背景を尋ねる前に今度こそイヴは部屋を出ていってしまっていた。慌てて呼び止めたものの用が済んだ奴を引き留めることはとうとうできずに終わる。

 だから俺は――、


 お前はあの戦いの結末を知っていたんだろう?

 魔女が再起不能に陥ることを知っていたんだろう?

 だから俺を狙ってきたんだろう?


 その後続けるつもりだった言葉を一人口の中だけで呟く。スミ子との関係も含め他にも聞きたいことは尽きないが、この場はひとまず妥協する。最低でも魔女が目覚めるまでの間はイヴが敵になることはない。それがわかっただけでも旅の不安は一つ減ったのだ。

 作業を終えベッドに身を横たえると、慣れない相手と話などしたから、余計に疲れてしまったのだろう、すぐに眠気が襲ってきた。イヴの言葉からもっと考えるべきも考えなければもあったはずなのだが、睡魔には逆らえず、俺の意識は間もなく沈んでいった。


 翌日の天気は生憎の曇り空だった。山からは湿った風が吹き降ろし、少し肌寒くもある。未明から朝まで降り続いた大雨の影響で地面はぬかるみ、新鮮なはずの朝の空気はどことなく生臭い。すっかり眠りこけていた俺は気づかなかったのだが、昨夜は大きな地震もあったらしい。そんな旅立ちの日におあつらえ向きといかないどころか前途多難を思わせる不吉な朝に、俺は旅立つ。魔女を救う力、「ヒガンバナ」を信じる心を友として。



◇海の見える町


   ●


 ……あぁ、眠いなぁ。

 お気に入りの席に着くなりテーブルに突っ伏して、彼女はここ一月の間にすっかり口癖となっていた言葉を呟きました。

 一月前といえば、遠く離れた王都で革命が起きた頃です。王が倒れたことについては彼女も聞き及んでいました。田舎の小村連合が王の正義を覆すなど、珍しいこともあるものだと感心したものです。

 しかしながら港町で船長として船を操り、人や物を運ぶことを生業とする彼女には、指導者の交代などあまり関係のない話でした。彼女にとって重要なのはあたかもそれをきっかけとしたかのような荒天で海が荒れ、仕事がなくなってしまったことだけでした。

 ……女王様の祟りかねぇ。

 ……怖い、怖い。

 彼女は今までどんなに荒れた海に出ても帰港できなかったことがなく、熟練の船乗りたちから一目置かれる女船長です。本来であれば海が荒れたこのときこそが一番の稼ぎ時に違いありませんでした。

 そんな彼女が手持ち不沙汰になってしまったのはひとえに、毎度の航海において彼女が安全を保証できるのが自分の身と所有する船だけであるためでした。海に出て心躍る航海をしたいだけの彼女にとっては乗客や荷物のことなど、言ってしまえば、そのついで。知ったことではなかったのです。それ故に操舵の腕は確かでも、商売人としての彼女の信頼は決して厚くはありませんでした。大事な荷物や生命を危険にさらしてまで荒れた海に出ようと思う物好きなど多くはないのです。

 だから海が普段通りの姿を失った今、彼女に仕事の話が舞いこんでこないのは至極当然のことでした。そして仕事がない以上、昼間から酒場に入り浸ったり惰眠を貪ることであり余る時間を消化するのもまた至極当然のことでした。


 ――大丈夫。じきに面白くなるさ。


 頭の中であっけらかんとした調子の、若い女の声が言いました。彼女がもう一人の自分と呼ぶその者はいつだって楽観的な意見を与えてくれる、彼女にとっては少し迷惑な姉です。


 ……じきって、気楽に言ってくれるけどさ。

 ――オレが今までお前に嘘をついたことがあったか?

 ……星の数ほど。

 ――今回は大当たりさ。ほら、妙な匂いがするだろう。

 ……匂い?


 彼女は寝そべったままで胸一杯に空気を吸いこんでみました。

 普段通り、潮と酒以外の匂いなどありません。

 ……でも、たまには起きてこうやって「何か」を待ってみるのも悪くないかもしれない。

 彼女は呑気に考えるのでした。


   ●


「うわ~。潮の香りがしますぅ~」

 住み慣れた村と違う空気に、一歩先を行くスミ子が歓喜の声をあげた。

 目指している港町が近づいていることは風の匂いが変わったことで何となくわかった。留守を任されることが多くあまり遠出をしない俺にも、体に直接感じるそれは地図などよりよっぽど頼りになる目印となっている。魔女を救うという大義を掲げた旅とはいえ新鮮な雰囲気には心躍るものがある。陽気にハミングなどしながらステップを踏むスミ子も些細なこと――浮かれ過ぎて転びそうになったところを間一髪助けてもらった――からイヴと仲直りを果たし、人間関係も出立当初に比べれば良好だ。目的地に近づきつつあることはその事実だけで真っ黒な空の醸し出す憂鬱さも、いくつもの町を経由して続けてきた長旅の疲れも薄れてしまうほどなのだった。

 もっともそんな浮き立つ気持ちも、実際、町に着くまでのことだった。

「……暗いな」

 期待とともに訪れた俺にはそれ以外の何も言えない。

 親たちや、同じく世界を旅して回っていたイヴから聞いていた話では、ここは活気に溢れた町だったはず。それが現実はどうにも正反対。人通りは少なく、窓はことごとく閉め切り。どんよりした空気ばかりが漂い、活気など「か」の字も見当たらない。

 とにかく船着き場を探そう――俺は見ているだけで気が重くなりそうな陰鬱な町へと勇気とともに踏み出すのである。真っ昼間から酩酊中の者たちが浮浪する大通りを抜け足早に港へと急ぐ。

「……ここも、あまり代わり映えしませんね」

 入り口の様子からも何となく想像はついていたが、お手伝いの言う通りの様子で、残念ながら港も例外ではなかった。

 普段であればそこは幾艘もの貿易船が並び、積荷を運ぶ者がせわしく行き交い、取引に難航する船主たちがそこかしこで張りあげる荒々しい声の絶えない場所だったという。船乗りたちの間で「邪魔だバカ野郎!」「何だとこの野郎!」が喧嘩の文句ではなく挨拶として平然と成り立つような、そういうこの土地の人間にしか通じないような独特のルールも含めてにぎやかな場所だったという。

 それが今は――中型の船が数隻並んでいるだけで、行き交う水夫の姿もない。それもそのはず、遠くからでは凪いでいるように見える海も、近くで見れば荒れも大荒れ。とても船が往来できるような状況ではなかったのだ。

「坊っちゃま……本当に船なんて出してもらえるのでしょうか?」

 とはいえ、頼まないことには出してもらえないことだけは確かだ。まずは行動、と俺たちは船舶所のすぐ近くにある酒場を訪れた。

 そこは悪天候の影響で仕事を失った船乗りたちの溜り場になっていた。

 俺たちは早速、昼間から安酒に浸る男たちに片っ端から声をかけてみたのだが……結果は、あまり芳しくなかった。遠慮や辞退の名を借りた拒否の連続。命知らずの海の男たちとて死にたがりとは違うのだ。

「海神さまもお怒りのこの時分に海に出たいなんて、さてはお前たち、訳ありだな」

 そんな中――誰も彼も話しかけられたくないとばかりにそそくさ背を向ける中、俺たちに声をかけてくる男がある。

「それだけの覚悟があるなら頼んでみろよ、アイツにさ」

 そうして俺は彼女の存在を聞かされることになる。

 聖なる十字架と呼ばれる、命知らずの女船長のことを。



◇不死身の女と幽霊船


「あそこにいるぞ。ほら、あの隅のテーブル」

 男が指したのは、何もない場所だった。

 ――いや。よく見ると、元々照明が限られている空間の、ほとんど光が届かない場所にテーブルが一つ、ひっそりと備えられている。そして、言われなければ目にも入らなかったそこには――髪の長い人物が突っ伏していた。

「……聞いていたよ」

 こちらから話しかける前に欠伸混じりの声で、相手の方が先に声をかけてきた。

「船……出して欲しいんでしょう?」

 彼女はゆっくり、俺たちを見上げるために首の向きだけを変える。

 ひぃっ、と俺の背中でスミ子が悲鳴をあげた。


   ●


 栄養失調でも起こしているような青白い顔の彼女でした。伸びほうけたボサボサの頭髪もまた目も覚めるような白です。しかし、そこから受ける印象ほど、彼女本人は年老いてはいませんでした。ジークムントの見立てでは恐らくまだ十代、あどけなさの残る少女です。年齢相応に瑞々しい輝きを放つべき顔、その目にはしかし生気が宿っておらず、何とも言えない気味の悪さがあります。「命知らず」と一言で表すにも、その様子は勇敢という意味合いとは程遠く、彼女には、ありのままを言うなれば死人めいているところさえありました。

 この人が、聖なる十字架……。

 その姿だけで彼は、背筋を冷たいものが伝う嫌な感じを覚えました。


   ●


「教えてよ……どうして海に出たいのかな」

 自ら声をかけてくれた相手に怖気づいているわけには勿論、いかない。彼女をおいて航海を求める自分たちに協力してくれそうな者はなく、俺たちは彼女の力を借りたい。その彼女の方が俺たちに興味を持ってくれているのだ、ビビって何も言えない、それで愛想を尽かされるようなことがあってはそれこそ言語道断。みすみすチャンスを逃すというものだ。

 俺は自己紹介に始まり魔女が寝こんでいること、彼女を目覚めさせるために必要な「ヒガンバナ」を探しに行く途中であることを手早く簡潔に話した。

 自分たちが国政を脅かした先の革命者であることについては、伏せておいた。既に過去のことであり、今の自分たちにまったくそのような気概がないとしても、武力的な活動に関わった経験のある者はあまり歓迎されない。それどころか警戒され、ロクな人間関係を築けないことさえある。俺は旅立つにあたり、それらの点について両親から念を押されている。だから自分たちについてはトレニア出身の新米冒険者とお手伝い、傭兵に、魔女のことも大切な家族と表現し、重篤な病気であるということにしておいた。

「いいよ……ボクでいいなら力になってあげる……本当に、ボクでいいならね」

 突っ伏したままで興味なさげに聞いていた彼女だったが、好意的な返事だけは素早く返してくれた。態度を見る限りでは「面倒臭い」などと断られそうだったが、嫌な含みのある言い方ではあるが、それでも嬉しい返事には違いない。

「まぁ……他に手助けできる人なんて、いないと思うし」

 とは言いながら、だ。いかにも慈善事業を謳いつつも彼女の話はまだ終わっていなかった。彼女はそこで一つの条件を提示してきたのだ。

 仕方ないとは思った。この大荒れの海への出航だ。若い者から老練まで、大勢の船乗りたちが躊躇う命懸けの航海に、何の見返りもなく臨める人間などいるはずがないのだから。ただ「条件」という言葉を出されてしまうとやはり、魔女の件もあるせいか身構えてしまう。あれが特殊な例だとわかっていても、だ。

 そんな俺から彼女は、ふと視線を外した。そうしてイヴを指しながら言うことには、

「……そこのお兄さん……ボクにちょうだい。お婿さんにする」

 ――とのことだった。

 自分の口から、自然と安堵の吐息がもれるのを感じた。これから直面するであろう危険に対して金銭的な手当てがそこまで潤沢に用意できるわけではないし、辺境の小村出身の俺に、現実的に用意できるものなど比喩でも何でもなく本当に少ないからだ。手近なもので済ませてもらえるならそれはそれで大いに結構な話だ。

 だが――これはいかがなものだろう。

 振れない袖を振らされるよりは大分マシだ。何より「命を奪って欲しい」に比べればよっぽど優しい。が、これはこれでまた難しい要求だ。

 彼女は結婚を望んでいるが、そこには勿論尊重されるべきイヴの意思も関わってくる。当の本人はというと「何故自分が」と言わんばかりに表情を曇らせている。実に積極的な、婚姻に対する消極の意思表示と言えよう。

 この場限りの話と割り切って口先だけの言葉を返すことも可能ではあるが、後が怖い。欺こうものなら、それこそ末代まで祟られかねない。

 どうする?

 魔女を助けるには、彼女の協力が不可欠だ。彼女に拒まれてしまっては元も子もなくなってしまう。しかしそのために仲間を人身御供にするような真似など許されるのか。そう、俺の決断には人二人の、人生がかかっている。

(悩む必要はありませんよ)

 背後に隠れていたお手伝いが俺にそっと耳打つ。自分たちの目的は魔女を救うことにある。そのためならたとえ火の中、水の中。自分を犠牲にすることだって――。

 そこでスミ子はイヴへと向き直ると、

「当然、できますよね?」

 笑顔とともに、強気に言い放つ。表情こそ笑っているもののそれは、俺がかつて目にしたことのない笑みだったように思う。

 そういった調子で無理を押しつけてくることは、ユーリイには多々あった。ただ彼女にはそれを可能にするだけの裏表ない明るさと、人間関係づくりの得手があった。それらはスミ子にはない力だ。だから余計に、イヴからすれば意表を衝かれた部分もあったのだろう、思いもよらぬ相手からの言葉に言い返すこともできず、「アミさんのためです」の一言で黙らされてしまった。勿論完全に納得しているようには見えなかった。しかし至上に慕う魔女を人質にとられては仕方がなかったようで、

「……条件を呑もう」

 すっかり消沈した声で言ったのだった。

 その返事をもらえたことは、女船長にはよっぽど嬉しかったに違いない。飛び起きた彼女は、「……アリスだよ。アリス・トロメール」とだけ言い残し、早速その細腕に婚約者を引きずって意気揚々と去っていったのだった。

「大丈夫です。きっと仲良くやりますよ」

 本当によかったのだろうか――申し訳なさと、不安半分に最後まで見送った俺にスミ子が明るく言った。その顔を見ていると、本当に言う通りになりそうな気がしてくるから不思議だ。絶対そうだという確信さえ湧く。

 そういえば――思い返せば先の革命のときもスミ子は「きっと上手くいく」と、そう言って励ましてくれた。そして現に俺たちは革命を成し遂げることができた。

 コイツの言葉には成功を呼び寄せる力があるのかもしれない――俺は思う。

 或いは成功すると「知っている」が故にそう言えるのか。そうも思う。

 魔女の結末を知っていた節があるイヴと、そのイヴと知り合いらしいこのお手伝い。

 もしかしたら二人は……。

 俺がその答えを知るのは今しばらく先の話になる。

「坊っちゃま、ようやく二人きりになれましたねっ」

 スミ子の無邪気な笑顔が、思考を遮る。俺は先の笑顔の正体が、一月以上も前の復讐の成就にあったことを後れ馳せながら理解した。

 スミ子がまた、おまじないの歌を口ずさんだ。


 翌朝港に行ってみると、既にそこではアリス船長の指示の下、屈強な男たちによって出航準備が進められていた。前日酒場にいた者を見つけ話を聞いてみると彼らはこの女船長をアネゴと慕う、いわゆる追っかけという種族の者たちだった。彼女が腰を上げれば従わない者はないと言われるほどアリス船長は、薄気味悪い見た目に反して水夫から熱烈な人気があるらしい。つくづく人は見かけによらないものだと、感心せずにはいられない。

 人望ある頼れる船長、優れた操舵の腕を持つ船長……不安要素を挙げるなら、その所有する船だろう。俺たちが乗る予定の船とは、こういうところだけ彼女のイメージ通りで、どうにもくたびれた船なのだ。旧式なだけでなく傷だらけでもあり、生きた幽霊船と言っても過言ではない。事実、港に漂着した難破船を修理して使っているものだというからたまらない。尚、その名をハンプティ・ダンプティ号という。

「……大丈夫……この船は絶対に沈まない……ボクがいるからね」

 俺に気づいてやってきたアリス船長が言った。

「アンタが聖なる十字架、だからか?」

「……うん。ボクね……死神に嫌われてるんだ。だからどんな船に乗っても、嵐に巻きこまれても死なない……ううん、死ねないんだ。……ボク以外の船員は毎回、何人か消えちゃうけどね……」

 果たして安心させようとしているのか、それとも不安を煽ろうとしているのか。その真意は俺にはわかりかねる。はっきりしていることは、間もなく出航準備を終えようとしている船を見つめる自分の顔が、その場にいる誰よりも青ざめていることだけだった。



◇世界のてっぺんへ


 南大陸方面は自分の庭も同然だから任せて欲しい――胸を張る船長の下、俺たちの航海はおよそ二ヶ月、危なげなく続いた。

 荒海航海の不安は尽きなかったが、船長は死神に嫌われた者らしからぬ安全な航行で俺たちを運んでくれた。「ダーリンがいるから今回は特別」とのことだった。もっとも船長がしたことと言えば、せいぜいが鼻歌をうたっただけで実際のところは、舵がひとりでに動き、船を操っているような状態だった。ありのままを言うのであれば、俺たちは船に運ばれた、と表現した方が正しい。

 意思を宿した不思議な船――。

 ハンプティ号は神の船、と船長は話してくれた。どこの誰がつくったのかも、いつの作なのかも知れない。船長自身もわかっているのはこの船が主の意を組み、自由自在に海原を駆ける魔法の船であるということだけらしい。

「本当に、不思議な船なんだよー」

 と、かく言う船長もまたこの船に負けず劣らずの存在ではある。彼女は十七年前、港に漂着したこの船に乗っていた赤ん坊――両親も他の大人の姿もない船にたった一人残されていた乗員だ。だから人は彼女を死神を祓う聖なる十字架と呼ぶ一方、船の子とも海神の娘とも呼ぶ。そんな彼女だから、不思議な縁で繋がっている彼女が船長だからこそこの船も真価を発揮することができるというわけだ。

 ただ運行が荒れるときは大いに荒れるという。船中が台風一過の朝のようにぐちゃぐちゃになり、乗組員が海へと投げ出されることも少なくない。むしろそれが普通だと船員たちからは聞かされた。今回は本当に稀なケースであると何故か残念がる船員たちに反して、イヴがいてくれてよかったと、つくづく思わずにはいられない俺だった。

 とにもかくにも俺たちは南大陸へとやってきていた。

 その目指す地はというと、名をホウライ山という。

 朝か夜か、どうにも判然としない厚い雲ばかりの空模様の中、雲の内まで続く険しい山。俺自身、今回初めて目にするが、世界一の高さを誇る山だ。

 そんな場所をどうして目指しているのか。

 船長の曰くホウライ山、雲に隠れたその頂には古来此ノ岸と彼ノ岸とを繋ぐ場所として神聖視されてきた歴史がある。いつしか訪れる者がいなくなり伝統も風化してしまったものの、現世と霊界とが交わる地とされたそこではかつて、愛する者を失った人々が巡礼の末に想い人との再会を果たしていたという。言い換えればそれはつまり、そこに行けばヒガンバナが手に入るということでもある――世界を股に掛ける女船長のそんな見通しを俺は信じた。

 長旅の末に到着した南大陸は、北方育ちの俺たちにとってはかなり厳しい環境だった。元々雨が多い土地とのことで、何をおいても、とにかく蒸し暑い。またその気候帯特有の蔓や羊歯状の植物が上下に左右に無秩序に生い茂っているのや、今にも雨が降り出しそうな真っ黒な空模様――雲のせいで日光も届かず、昼間であるにもかかわらず夜のよう――も相まって目に映るすべてが陰鬱として見える。そういった印象の限りここは、船を降りるにあたって現地の様子を聞かせてくれたアリス船長にこそよく似合っていると言えるだろう。

 陸に上がった後も船長は調整もそっちのけ――元々したことがないらしいが――で船を離れ、案内役を買って出てくれた。土地勘のある先達がいる心強さの一方、帰路に心細さを感じたのは俺だけだろうか?

 イヴは表情を変えない。スミ子の陽気な鼻歌も健在。ただ俺の手のひらは、蒸し暑い気候のせいではなく、じっとり汗でぬれていた。

 使われなくなって久しい古の道、鬱蒼と茂った森はやがて終わりを告げ、遠目に見えていたそれは、俺たちの前にそしていよいよ、現実として現れた。

 大地が隆起と沈降、褶曲やら体積やらを繰り返した結果生まれるのを山と言うならば、それは山ではなかった。変わっていった、ではなく現れた、と表現した通り、どことなく人工物を彷彿とさせる。世界一の高さを誇るだけあって険しく隙がない、一見するに錆びて赤茶けた鉄壁にも似た岩の「壁」だった。一説にはかつてこの地で隆盛した城塞都市が「金色の魔女」によって岩山に変えられたのがホウライ山であるとも言われている、と船長が話してくれた。


「あれ? 階段がありますよ?」


 圧倒的な存在感を誇るこの壁をどこから、どうやって登ればいいものかと思案する隣で、スミ子が拍子抜けしたような声をあげた。なるほど、お手伝いが指した方を見ると確かに、露出した岩を削ってつくられた階段が覗いている。巡礼者のために古代の人々が整えたか――でなければ本当に遺跡か。船長の話もまんざらつくり話というわけではないらしい。

 試しに、その一段に乗ってみる。多少の風化こそ見られるもののつくりはなかなか頑丈。途中で崩れることはなさそうだ。

 安全であることさえわかれば、長い道のりにはなりそうだが、道のない道を切り開きながら進むよりは数段マシに違いない。問題は頂上まで続いているかだが――まぁ、そればかりは進んでみるより仕方ない。俺は迷わず先陣を切った。



◇世界のてっぺんで


 山路は初めこそ石段続きの急傾斜の道だったが、次第に石畳を敷き詰めた歩きよい道へと変わっていった。大回りではあるものの、頂上へと向かって螺旋道はなだらかに、流れるように続いていく。肌に合わない蒸し暑さも標高が増すにつれてやわらぎ、快適といかないまでも負担ではなくなった。無理せず休憩さえきちんと確保すればどうということもない、これまで歩いてきた旅路の延長だ。

「どうして誰も来なくなってしまったんでしょう?」

 吹き上げる風に乗っていつしか漂い始めた、もう二度とそんな経験をすることはないだろうと思っていた深い霧は、確実に頂上が近づいている一つの実感になる。その証拠に足下もまた、石段に戻る。いよいよかと期待が高まってくる中を「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」と踊るようなステップを踏むスミ子が言った。

 それは道中で俺自身も考えていたことではある。ただここまで来てしまうと、これだけ環境が整っている中で人が来なくなる理由などわずかだろう。

 ――行きたくても行けなくなった。

 ――行く必要がなくなった。

 ――行きたくなくなった。

 これらに照らす。

 例えば一つ目については、道が途中で崩れて通行不能となったケースが考えられる。分かれ道もない一本道だ、崩落などで通行できなくなれば当然、意志に反して進むことはできなくなってしまう。ただこれは今までの道のりを鑑みるに却下していいだろう。幅広く、頑丈なこの道がここまできて通行不能になっているとは考えにくい。

 続いて二つ目として考えられるのは花が絶滅してしまったというケース。これは俺の信条と心情に照らして却下する。確認をしない内に結論を定めたくないし、自分たちの苦労を無駄にしたくもない。

 結果――俺には三つ目が残された。

 道もあるし花もある、そんな中で花の入手を妨げる仕掛けの存在だ。それで命を落とすようなことがあれば人足も自然と遠ざかるだろう。俺たちもその危険を覚悟しておいた方がいいのかもしれない。

 階段を終えた先に待っていたのは、それはもう見事な花畑だった。知っている草花も知らないものも、見目鮮やかな植物が季節を問わず盛りを迎えるその様子はあたかも、昔話に聞くだけのホウライの原風景。悠久の理想郷が現世に顕現したような、広大な花畑があるばかりだ。

 このどこかに、ヒガンバナが……。

 今のところ異変は感じない。強いて言うなら標高の高い地を目指してきた割に、周囲は明るくなるどころか一層暗みを増して――。


   ●


「走れっ」

 イヴァンが突然、ジークムントの背を押しました。

 よろめいた彼がいきなり何をするのだと振り向くのと、自分が立っていた場所に何か大きな塊が降ってくるのとは、ほぼ同時でした。

 もし、イヴが押してくれていなかったら……。

 ジークムントは冷たいものが背筋を伝うのを感じました。

 彩花を散らしてもうもうと土煙が上がります。その内側、煙に包まれた存在に嫌な気配を覚えてジークムントは思わず後ずさります。静かに、剣を抜きました。

「坊っちゃま、いったい何が?」

 お手伝いを振り返ることなくジークムントはただ前だけを見据えます。

 土煙の内から金属の擦れ合う不快な音が届きます。剣を構え、戦いの緊張感へと精神を研ぎ澄ます彼の前に間もなく煙が晴れ、それは現れました。

「スミ子。お前が言った、人が来なくなった元凶だ」

 盾と槍を携えた鋼の騎士でした。全身を鋼の鎧で覆い凛と立つその姿は、騎士道精神を表すために精錬されていると言っても過言ではないでしょう。

 不意打ちを仕掛けておきながら――ジークムントは、その内側にいる者を鼻で笑いました。

 その者が生身の人間であるとはこれっぽちも思ってはいませんでした。

 そうです。この者もまた、ステラ南の森に息づいていた怪物同様、創造主の手により生み出された内つ臣の一つでした。エウノミア(秩序)を長女に据えたように、何よりも秩序に基づく平穏をこの世界に望む創造主にとって果たすべき役割を終えた者が世に留まることも、失われた過去に執着することも秩序を乱す行いなのです。

 そのようなことは露知らず、ただ一つの敵として騎士と向き合うジークムントの中に、未知の敵と刃を交えることに恐怖はありません。南の森の怪物や王がつくり出した幻影などによって怪異に慣れが生じたわけではなく、それは王国打倒に向けた戦いの中で戦士として成長した結果、大切な仲間を救いたい強い使命感を自覚した結果です。だから、負ける気はしませんでした。

 お手伝いを下がらせ、ジークムントの方から敵へと向かっていきます。特に合図をしたわけでもなく、イヴァンもタイミングを合わせて飛びかかります。前後からの挟み撃ちになりました。

 騎士は足を止めたままでいます。そして、ジークムントにだけ応戦しました。丸い盾で防ぎ、槍で返します。当然のことながら騎士は、背後からのイヴァンの剣撃をまともに受けることになりました。

 鋼が閃き、騎士の背に、頭から腰にかけて大きな裂傷が走ります。

 勝った――勝利を確信したジークムントへと、しかし止まることなく騎士の槍は繰り出されます。甲冑の傷が自然に塞がっていくのを認めたイヴァンが、それを伝えました。

 不死身の騎士、それがこの敵の正体だったのです。

 騎士は執拗に、ジークムントを狙います。イヴァンが斬りつけるのをさせたいままに、腕を落とされようが足を失いバランスを崩そうが――すぐに元通りになってしまうのです――ジークムントだけを狙います。他の三人の存在に気づいてもいない様子で、ただ一人だけ。

 それならそれで、旅の仲間たちにはチャンスでありました。ジークムントは自分が囮になっている間にヒガンバナを探すよう指示を出します。

 手のひらを広げたみたいに花びらが上を向いている赤い花だよ、葉っぱはないよ――と確認してお手伝いとアリス船長は駆けていきます。イヴァンはその場に残りました。

 さて――これからどうしようか。ジークムントは呟きました。

 目の前で起きていることは夢でも幻でもありません。滅びない敵、滅びずに攻め続けてくる敵を前にどんな戦いができるでしょう。

 弱点はあるのか、あるとしたらそれはどこか。槍を受け流しつつ彼は考えます。イヴァンは既にそれを行動に起こしています。頭、胸、腹、腕も脚もすべて一度は壊しています。その中でまだ壊されたことがない部分は――騎士の象徴たる盾と、槍。

 盾と槍を携えた騎士ではなく、盾と槍が騎士を操っているのだとしたら。どちらか、或いは両方を破壊することでこの者は滅ぶことだろう。ジークムントはそう見立てました。

 ただ、それが問題でした。斬り結ぶことを前提とした防具と武具の強度は、甲冑部とは比べ物になりません。武器で盾を壊すこと、武器で武器を壊すことは一対一に勝利するよりも難しいのです。

「お前はもっと歴史を学ぶべきだ」

 いつそこに来たのか隣でイヴァンが言いました。

「どういうことだ?」

 騎士は尚もジークムントのみを狙って槍を突き出してきます。その隙に素早く左に回りこんだイヴァンは、敵の腕を斬り上げ、その手にする盾を奪ったのでした。

「僕たちに無理なら、コイツ自身に壊してもらえばいい」

 彼は奪った防具を手に、ジークムントの前に立ちました。

 これまでイヴァンの行動などまったく意に介さずにいたことが騎士には災いします。繰り出された渾身の一突きはその思惑通り正面から衝突し、盾と槍は相砕け散ったのでした。

 騎士はしかし、動きを止めませんでした。すぐさま元通りになった武器と盾を手にまた向かってくるのです。

 今度こそ終わりだと油断していたジークムントは咄嗟の反応で横っ飛びし、かろうじて不意の一突きをかわしましたが、着地と同時に足首に痛みを覚えました。

 正真正銘の不死身……。

 彼の中から、この者を倒すという発想は既になくなりつつあります。お手伝いたちが花を見つけるのと自分が力尽きるのとどちらが先だろうか――脳裏をよぎるのはそんな考えばかりでした。


   ●



◇もう一人の魔女


「ぴんぽ~ん。ぴんぽ~んなのよ~」


 その声が聞こえたときあたしは、アミの部屋にいた。

 世間じゃこのところ、雹が降ったり地震が頻発したりで大騒ぎ。ステラの村も例外じゃなく、あたしもアミの看病そっちのけで友達――といっても動物さんだけど――とあっちこっちへ駆り出される毎日。ようやく、一日中アミと一緒にいられる時間を得た昼下がりのことだ。

 ま、看病っていっても、できることなんて何もないんだけど。

 気まぐれに窓の外に目を向ける。

 玄関扉の前には、黒のフリフリドレスを着た人影が見える。横顔だけだけどウェーブがかった黄金色の長髪がきれいな人。服装が服装だから多分、女の子。それがドンドン扉を叩きながら、うたうように言ってる。

「魔女なのよ~。魔女が来たのよ~」

 胡散臭い奴だと、あたしは思った。

 そんな奴が白昼堂々やって来るのも、元を辿ればジークのせいだ。二ヶ月前、これから海に出るって便りが届いたきり何の音沙汰もないんだから。

 あの連中は本当にアミのために動いてくれてるんだろうか――あの子が本物の魔女なら是非ともお聞きしたいもんだ。

 ま、そうだったら面白いってだけ。生憎あたしに応対する気はない。おじさんやおばさんも出掛けてる。鍵はかけてあるから、あたしが居留守を使う以上、あの子はここで門前払いだ。さよなら、自称魔女さん。

 ――カチャ、パタン。

 扉が開く、音がした。

 あたしは慌てて外を見る。あの子の姿はない。

 あばさんたちが帰ってきたんだろうか?

 だとしたら「ただいま」の一言くらいあっていいはず。

 聞き違いじゃないと思うけど――あたしは家中の気配に耳を澄ます。この体になってから、動物的な感覚が妙に優れてるあたしだ。

 聞こえてきたのは、スキップでもしてるのかドタドタうるさい足音と、あの子の声が奏でるおかしな歌だった。



  かもね、か~もね、かもなのね

  かもじゃないけど、かもなのね

  かもしれないけど、かもだから

  かもじゃないけど、かもなのよ


  かもよ、か~もよ、かもなのよ

  かもじゃなくても、かもなのよ

  かもしれなくても、かもだから

  かもじゃなくても、かもなのね



 何、この歌?

 思わず吹き出しそうになるくらい、何を言いたいのかまったくわからない。そもそも伝えたいことがあるのかどうかもわからないし、そんなことを考えること自体が野暮なのかもしれない。とにかく酷い歌だった。

 でも何でだろう、不思議と懐かしい感じがする。

 あたしは――この歌を知ってる?

 それとも、この子を?

 足音は真っ直ぐこっちに向かってきてる。

「こんにちはなの! 魔女のノエルですなの!」

 威勢よくドアが開き、現れた女の子が開口一番、まぶしい笑顔とともに言った。

「……はぁ。魔女のノエルさん……なの」

「なの」

 服装からあたしはこの子を女の子と判断してたけど、こうして向かい合って見た彼女の印象は「どこか不釣り合いな人」だった。天真爛漫、無邪気な笑顔と幼い言葉遣い、子どもっぽい服。それだけなら確かに女の子。でも口調とかの割に、妙に成熟してる部分もある。そこだけ見るならこの人は大人。

 そのまま数秒眺めて、あたしはようやくこの人に似合う言葉を見つけた。「年齢だけ重ねた子ども」だ。最大の違和感は彼女から精神的な成長を感じないところにあったわけ。

 そうして一人納得するあたしを彼女の方も、笑ってはいるけれどじっと見つめてる。初めてあたしを見た人は大抵が「ぬいぐるみが喋るなんて」って驚くけれど、好奇の瞳であたしを見るけれど、この人は何となく違う気がした。

 どっかであたしと会ったことがあるんだろうか?

「忘れるとよいのよ」

 まだ口にもしてない内から心を読んだみたいに、表情を崩すことなく彼女は言う。

 あたしは彼女が不法侵入者であることを気にしなくなっていた。

 立ち話もなんだからとあたしは彼女に椅子を勧め、自分はアミのベッドに座った。

 ありがとなの――そう言って腰を下ろしたノエルは、自分が行方不明になった娘「ほのか」を追ってここに辿り着いたことを話してくれた。

「このセカイのどっかに迷いこんでるはずなの」

「この世界、って言っても広いけど」

「この辺りで匂いがしたのよ」

 ノエルはふっふ~んと笑う。人探しってそういうものなんだろうか? この人の言うことはよくわからない。それなら最初から魔女が来たなんて言わずに「娘を知りませんか」って訪ねてくればいいのに。

「それじゃ~いけないの」

「どうして?」

「秘密なの」

 ……バカに、されてるんだろうか。何だかすっかり主導権を握られてる。思えばトレニア村でもこの村でも、あたしをこんな風にからかえる人はいなかった。それが、でもやっぱり、あたしには新鮮である以上に懐かしい。

 忘れるとよいの、とノエルがまた言った。

「娘さんの特徴は?」

「ほのかはかわゆい。とて~もとて~もかわゆいの」

 勿論、それだけでわかるはずがなかった。全体、大雑把過ぎる。猫に逃げられた飼い主の方がまだ的確な情報をくれる。この人には、本当に娘を探す気があるんだろうか、なんてこともふと思う。

「似顔絵とか、ない?」

「あったらほのかがすぐ見つかっちゃうの」

「見つけたいんじゃないの?」

「それはノエルにもよくわからない」

 ため息を隠しもしないあたしと対照的に、ノエルは天真爛漫に笑う。そう言うとあたかも今そうしたように聞こえるけど、実際のところはずっと笑顔でいる。もしかしたら笑顔以外の表情がないのかもしれない。

 この人がどうにも不敵な人物に思えてきた。

 全体、あたしは考えるよりも行動するタイプの人間だ。けどそれは多くの人が思うような意味じゃない。考え始めるととことん突き詰めるまで歯止めが利かないから、だから深く考えないようにしてるってだけ。

 そのあたしが久々に考える――この人は底が知れない。

 今ならわかる。娘を知らないかって訪ねてきてたら、居留守を使われた場合に引き返すしかない。自分は魔女だって最初に名乗ることでこの人は不法侵入する、それができる当然をつくった。それから娘を探してるって話だけど、話してみるとどうにも、この人にとってそれはさして重要な問題じゃない。つまり人探しは話の枕で、本当の目的は別にある。「魔女」としてするべき何かが彼女に――なんてのは考え過ぎだろうか?

「流石なの」

 魔女ノエルの声であたしは顔を上げる。もう驚かない。一層の明るさが宿る彼女の次の言葉を、あたしは待った。

「ノエルにはも~一つお仕事があるのよ」

「もう一つ?」

 窓を背にしたノエルから、白い腕がすっと伸びてきた。手のひらを上に向けて、のほほんとした彼女らしい、そう、まるで握手かを求めるみたいにゆったりした動きだった。

 あたしはそれに応えるように手を伸ばし返してた。そうしようと思ったわけじゃなく無意識に手がそっちに向かった。ううん、手だけじゃない。あたしという意識そのものが彼女に引きこまれていくようで――。

 あたしは――そのまま、気を失った。


   ●


 これでよし、なの。ユーリイが意識を失うのを見届けた魔女ノエルは言いました。しかしそれはまだ、本当の目的の、準備が整ったに過ぎません。

 彼女はアメリアを見据えてうたうように言いました。

 教えて欲しい、屍人使い?

 どうしてその子を思い通りにできないのか、教えて欲しい?


 ――ううん、教えてあげる。


 返事を待たずに彼女は、差し出していた手を拳に変えました。

「結構よ。アンタの存在以外に理由があるなら別だけど」

 ノエルが次の行動を起こす前に、どこからともなく少女が姿を現しました。観念したように、投げ遣りに彼女、ネージュは言います。

「結局、アンタには敵わないのね」

 四百年前も一年前も、そして今もと自嘲気味に笑いました。

「で、どうするつもり? 私を消して、この子を救って、それでハッピーエンド?」

 ノエルは首を左右させます。では何がしたいの、と訝るネージュに彼女は言いました。

 お前はリオンの役に立たなければならない。

 お前には、エウノミアに大きな借りがあるから。

「借り?」

 魔女は大きく頷きます。

 お前は自分が踊らされたことを知らない。

 謀反を企む者たちの陰謀であることを知らない。

 兄の病が、自分を嵌めるために仕組まれたものであることも知らない。

 逆臣どもに唆されるまま無実の隣国に攻めこみ、大勢の命を奪った――これがどうして罪にならない?

 お前は咎人。

 大罪人も大罪人。

 違うとでも?

 ならどうして、イヴァンはここに来た?

 どうして――お前の邪魔をした?

「……」

 ネージュには、彼女が嘘を言っていないことがすぐわかりました。そう判断する根拠には遠い昔、自身を本に封じた者に対する、その実力を認めているが故の敬意があります。現在、自分を滅ぼさないと言う彼女から発せられる余裕があります。笑顔の翳に光る不敵さがあります。そしてそれ以上に身の締まる思い、畏怖があります。彼女は真実だけを話しているのだとネージュは本能で悟ったのです。

 それに、と魔女は尚も続けます。

「お前たちは元々、一つの存在だった」

「一つ?」

「善の部分はリオン。悪の部分はネージュ。ノエルがそ~なるように振り分けた」

 この者はいったい何の話をしているのだろうとネージュは思いました。そんなことができるのであれば、それは最早魔女などという陳腐な存在ではなく――いや、そんなはずはないと小さく頭を振りました。

 しかし彼女が言うのであればすべては事実であり、そして事実である以上、話の限り自分には、アメリアのために働く義務があるに違いないとネージュは思ったのでした。



◇罰願う少女


 最初に手にかけたのは爺様だった。

 わたしにこの世界に果てしなく存在する不思議を、知識を示してくれた先生だった。そして、村の未来のためわたしに初めて刃を向けた人。

 次は隣の家に住むカルロスおじさんだった。

 浮いた話の一つもない人だったけど、ようやく三歳年下のサリーさんと二月後の結婚が決まって、未来に幸福の花が咲きかけているところだった。

 三人目は薬屋の常連客だったヴァレリィ。

 喧嘩ばかりするお兄ちゃんのために湿布や傷薬をよく買いにきていた。

 七歳のクセにませていて、「お姉ちゃんの好きな人は誰?」なんてしつこく聞いてきて。

 でもかわいい子だった。

 四人目からはもう、誰でもよくなった。

 思い出なんて関係ない。

 誰だろうと、誰の姿をしていようと皆、わたしの敵だったから。

 わたしがいない間に、トレニア村は既に、お母さんの言葉通り壊滅させられていた。

 死体があちこちに転がるそこは屍人使いの独壇場。

 わたしは手を変え品を変え襲ってくる一人ひとりを、ケモノの力で消し去った。

 すべてが終わって一人になったとき、戦う相手をなくして高揚が去ったとき、大きな寂しさがやってきた。

 これからは一人なんだ――って思うと辛かった。

 本当に辛かった。

 自分の運命を呪って、この巡り合わせを泣きながら嘲った。

 あぁ、そうだ。

 笑っていた。

 爺様の言う通り。

 本来ならわたしもそこで滅ぶべきだった。

 自分でけじめをつけなきゃいけなかった。

 でも許されなかった。

 お母さんがそれを許さなかったから、わたしは惨めにも生きることを選んだ。

 時を超え、霧向こうからやってきたわたしが呪いの子として、災いの子として村を滅ぼしたように、霧を越えてやってくる存在――マレビトをわたしは待った。

 わたしの死はそのマレビトによって与えられなければならない。

 飢えたり無闇に力を使って命を落とすのは、逃避だ。

 天寿を全うするなんて、卑怯だ。

 殺害。

 或いはその人のために力を使って燃え尽きることこそが、わたしに許された終焉。

 わたしはジークさんに、ただそれだけを求めていた。

 魔女としてエウノミアの悪を断ち切り、滅ぼされることを望んだ。

 なのにどうして、わたしは未だ逝けずにいるのだろう?


   ◎


 真っ暗、だ。

 或いは真っ黒なのかもしれなかった。

 そんな状況だから残念ながら目では何も捉えることはできない。ただ自分の肌に、今までとの違いをはっきり感じる。

 ――窮屈なぬいぐるみの体じゃない、人間の体。

 ここがどこなのかはわからない。

 でもきっと現実とは違う場所だと思う。あたしの体はもう一年も前に終わったんだ。それが都合よく戻ってくるなんて、やっぱりあり得ない。

 ううん、あっちゃならない。


 普通なら――ね。


 今までのあたしなら、そんなことは考えなかった。でも「ノエル」と名乗る存在を知った今なら話は別。あの人は普通じゃない――ううん、あの人自身にとってはきっと全部普通。すべてが当然、当たり前だ。

 あの人は単純に、純粋にあたしたちとは違う「普通」を生きてる。だから、言うなれば、あの人にとっての常識はあたしたちにとっての不思議、そしてあたしたちにとっての常識は――知らない。多分、「関係ない」価値観なんだろうと思う。

 あの人はいったい何者なんだろう?

 あの笑顔にごまかされちゃいけない。魔女を名乗るだけあって計り知れない。得体の知れない秘密があるような気がしてならない。

 そんな人が何をしに来たんだろう?

 何をさせに来たんだろう?

 それに、もう一つの仕事って何だろう?

 考えても、結局彼女自身を問い詰めてみないことには何もわからない。問い詰めたって、納得のいく解答がもらえるかどうかはまた別問題。のらりくらりとかわされる、に賭けてもいい。

 だからあたしはさっさと気持ちを切り替える。

 まずは目の前のことに集中だ。ここに来たのにだって、きっと意味があるはずだから。

 あたしが考え終わるのを待ってたように突然、周りの景色が様子を変えた。

 思わず足を止めた。何故って闇が晴れてみればそこは、あたし自身もよく知ってる場所だったから。トレニア村を囲んで存在する霧の森だったから。

 ここに立つのは一年半ぶりだ。懐かしい。

 ここはあたしにとっては遊び場だった。難攻不落で決まった道程なんてものもないこの森で、唯一、あたしだけは迷ったことがなかった。霧を越えて外界に出ることこそできなかったけど、あたしは初めて足を踏み入れたときから一度として自力で戻れなかったことがない。

 まぁ、他の皆とは違う勘を備えてたってこと。

 そしてその勘、直感が訴える――やっぱりここは現実じゃない、って。

 規則とか理屈じゃなくて、体が勝手に道を選ぶ。

 あたしは当たり前のように霧を抜け出した。

 そして当たり前のように、トレニア村にやってきた。

 あたしの直感が確信に変わったのはそのときだった。

 村はあたしの知ってる頃とはまったく様子が変わっていた。変わらずに残ってたのはあたしの家だけで、他はどれも焼け落ちてる。あたしン家だって、建物が残ってるってだけで、同じじゃない。家の周りにはいくつもいくつも、お墓があった。

 あたしはこの風景を知らない。こんな恐ろしい光景を知らない。だからこれは、現実じゃない。この姿を知ってるのはジークとスミちゃん、そして――他でもないアミ。

 そのアミをあたしは、お墓の群の中に見つけた。

「そう……あなただったのね」

 あたしが呼ぶと、しゃがみこんでいたアミは振り向くことなく言った。

「何が?」

「一つ、足りないの」

「足りない?」

 答えはない。あたしは改めて何が足りないのか問いかける。

 それでもアミはまだあたしを見ようとはしない。だとしたら、それを質問に対する答えととるのなら――。

 ――お墓?

「そう。わたしの分はまだない」

 アミは言った。わたしの分だけが、と。

「そうりゃそうだよ。まだ生きてるんだもの」

「死なずにいる、の」

 強い口調でアミはあたしに言葉を重ねてきた。

「皆、死んじゃった。ネージュに殺されて、わたしに殺されて、骨も残さずに消えちゃった。なのにわたしだけ、どうして残っているんだろう?」

 ねぇ、と振り向いた顔と声はあたしを責めてるように感じられた。

 死者は生者を恨む。羨む。以前化け物と戦ったときに改めて思い知らされたことだ。気持ちは、わからないでもない。生きていたらこうだったのに、こうしたかったのに――自分から失われてしまった可能性を持つ者に対して自分の不幸を不条理を、憎しみを叫ぶのは、現世に未練を残した者なら当然だと思うから。

 でもこれは逆。アミは生者でありながら死者への羨望を訴えてる。「死を得ることができた」皆を恨んでる。そして「皆と同じように逝けなかった」自分を憎んでる。

 わかってる。アミはそのためにジークに力を貸した。アミにはアミの悲しみがある。疎外感もある。でもやっぱり、可能性を持った人間がそれを失った者に憧憬を抱くのは間違いだ。だから、だと思う。当たり前のようにそれをする今のアミが、あたしには怖い。怖くてたまらない。

 これが、一年の間にアミが蓄えた心の闇。あたしの知らないアミの姿ってわけだ。

「やっぱり、運命ね」

 顔を前に戻して独り言みたいにアミは言った。

「霧の向こうから来たわたしは村を滅ぼした。だからわたしを殺すのは、同じように霧を越えてやってきた存在だと思っていた。でも、ジークさんと行動をともにしたけど、望んだものは得られなかった。あの人はわたしが待っていたマレビトじゃなかった」

 ――そしてまた、あたしを見て、

「ここはわたしの、アメリアの心の中。誰も来られるはずのない、わたしだけの世界。それなのにあなたはやってきた。ねぇ、わかるでしょう?」

 あなたには資格があるの。そう言ってアミは笑った。

 わかりたくなかった。認めたくなかった。

 あたしはアミに生きて欲しいから。罰を与えられるためなんかじゃなく、そんなもの忘れて精一杯、自分の幸せのために生きて欲しいから。ここで頷いたらあたしは、自分で自分の望みを壊すことになる。

「悔しくないの? あなたは妹のわたしに消されたんだよ? 順番も憶えていない。物を壊すのと同じように」

「……」

「……そう。それがあなたの選択なら、それでもいいよ」

 黙っているとアミが言った。

「わたしはこのまま眠り続ける。そして逝くから」

「そんなの、ダメだ」

 だってそんなことになったら、アミのために旅立った人たちの努力も気持ちも踏みにじることになる。心配してくれたステラの村の人たちに対してもだ。

 でも、ダメと言ったはいいけど、わかってもらえてはない。今のアミの頭の中には「自分がどう滅びるか」に関する選択肢しかないから。生きようという気がないから。

 どうしたらいいだろう?

 どうしたら立ち直ってもらえるだろう?


『叶えてあげればいいじゃない』


 どこからともない声で我に返る。反射的に顔を向けたそこ、墓群の中には――アイツがいた。あたしたちの故郷を滅亡に追いやった張本人、アミの心に深い傷を残した張本人、そしてこの世界でただ一人アミの死を願う張本人が、あたしたちを笑ってる。

 そうだ、元々アミに取り憑いていた卑怯者だ。ここにいたって不思議じゃない。

 でもそれだけだ。

 コイツさえいなければ――。

『後にしてもらえる? あなたの相手をしにきたわけじゃないのよね』

 関係あるかとあたしは飛びかかる。

 怖い怖い、と逃げるように飛び上がったネージュは屋根に腰かけ、フン、と鼻で笑った。

「この――」

 すぐさま追おうとしたけれど、何故だろう、あたしの体は動かなかった。意思に反して動こうともしない。

 ただ、頭の中で声がする。

『あの子に任せるのよ』



◇たった一言のため


『王女ともあろう者が無様ね』


 わたしはユーリイと違って別段、ネージュの登場に驚いていなかった。ここはわたしの心の中で、そして彼女はわたしに巣くう存在。だからいきなり現れた彼女にそんなことを言われても、平気。

 不思議ね。あれだけ許せないと思っていた相手をわたしは今、古い友人にでも会ったような気持ちで眺めている。勿論今だって許してはいない。でもそれ以上の懐かしさがある。そう思う――思えるようになったのには当然、理由もあった。


 平和が破壊され、混沌が訪れる。

 混沌を再構築し、秩序が築かれる。

 秩序が維持され、平和がもたらされる。


 全体、世界を取り巻く状況は三つのプロセスによって構成され、破壊、秩序、平和というその三つが順に巡ることでこの世の中は流れている――焼け落ちた爺様の家で、奇跡的に残った書物に書かれていたことだ。若い頃から熱心な研究家だった爺様はわたし以上に外の世界に憧れて、それで色々調べていたらしい。まだ子どもの頃、一度だけ出会った「不思議な女性」に知識を授けられたのがきっかけだと教えてもらったことがある。爺様の話がわたしに外界への好奇心を芽生えさせたように、爺様にもそんな恩人がいたわけ。書物はその女性による話を書き留めたものだった。

 それによると三つのプロセスはそのまま三女神の存在にも関係している。正義を冠するディケは破壊の力、秩序を冠するエウノミアは再生の力、そして平和を冠するエイレネは、保持存続の力――という風に、創造主様が生み出された女神たちはそれぞれ異なる力の象徴となっている。

 そしてそれは神話の世界に留まらず、現実としてわたしたち王家の者にも受け継がれた。

 正しい使い方を知らないわたしは最初にそう教わったまま、それを筋力や肉体強度の増強に使っているけれど、わたしが戦いに使う力も、元々は体内の血液や細胞の活動を活発化することで治癒力を高める癒しの、再生の力だ。

 ネージュも同様に女神エイレネの力を受け継いでいる。自己保存の力。自身の肉体が滅びた後も精神体として存在し続け、屍に取り憑きその体を操る――それが彼女の力の正体。そう、つまり彼女は「屍人」使い、死者を操る存在だ。

 それなのに彼女は一時とはいえ王都で、わたしを支配した。生者であるわたしを操る力はないはずなのに。神代からの、女神による取り決めを越えてそれをすることができた。

 ――何故だろう?

 その疑問の答えが今のわたしの心情ということになる。

 そう、古くからの友人に対する感情にも似た不思議な懐かしさ。生まれた時も土地も違うけど、敵同士でさえあるけれど、わたしと彼女にはどこか似ている部分があるのかもしれない。だからこそわたしたちはあのとき、一つになったのかもしれない。

 そんなわたしを見下げるネージュの目は感慨深さなんてものとはとても無縁なもの。一年前にわたし自身が彼女に向けたのと同じ目。敵を見つめる瞳。

『一年前』

 ネージュは笑みを浮かべて言った。

『あなたは、本当に素敵だった。命がけの戦いの真っ最中にもかかわらず薄ら笑いなんて浮かべて。死のリスクすら楽しんでいるみたいに生き生きとしていた。まるで戦うために生まれてきた存在であるかのように――そう、あのときのあなたは全身全霊で戦士だったのね。それが今は――」

 みなまで言わなくてもいい。言いたいことはわかっている。一年前の、あのときのわたしと今のわたしは別人。自分に与えられるべき罰だけを考えて生きてきたわたしだ、隠居した老人みたいに悟りきった顔をして、厭世家を気取って、それは彼女にはさぞかしつまらない人間に見えているに違いない。

 でもわたしだって、好きでこんな人間に成り下がったわけじゃない。彼女と出会ってさえいなければ、自分の背景を知りさえしなければ、自分のせいで村が滅びてさえいなければこうはならなかった。いずれ平々凡々な大人になって、平々凡々な一生を終えることになっていたはずだ。

 でも、もう済んだこと――ううん、取り返しの叶わないことだ。だから……笑いたければ勝手に笑えばいい。

 取り合う気にもならなかったわたしはでも、直後、その意思を撤回することになる。

『ええ。好きに笑うつもりよ』

 そう言ったネージュが、こう続けたからだ。

『こんな娘のために死んだトレニアールを』

 わたしは自分の瞳が怒りに染まる瞬間を知った。

「取り消せっ!」

 反射的にわたしは怒りを轟かせる。

 母親としての彼女のことは憶えていないけれど、わたしはお母さんを大切に思っている。母親だと知ってからは娘として尊敬しているし、知る前には遠いご先祖様たちから受け継がれた忠誠心と言ってもいい気持ちを抱いていた。村の名前だって、元を辿れば彼女に由来している。そうされるだけ素晴らしい人だったお母さんをわたしは誇りに思ってもいる。それをバカにされてどうして黙っていられるだろう? わたしを見下して「取り消すものですか」と挑発的に笑うネージュが憎い。

 ――心底、憎い。

『だって、トレニアールが無駄死にしたのは事実なんですもの』

「黙れ! お前がお母さんをバカにするな!」

『あら、愚弄しているのはあなたの方じゃなくて?』

 ……わたしが?

 一瞬、怒りが削がれるのを感じた。

 ネージュが鼻でせせら笑う。

『過去と現在であなたのために、あなたのせいでどれだけの人間が犠牲になったのかを知らないとは言わせない。なのにあなたはそれを知っていながら罪や責任から逃げて、自分勝手な理由で命を捨てようとしている。それが英霊たちに対する愚弄ではないとどうして言い切れるの?』

「それは……」

 答えることができなかった。自分の境遇についてそんな風に考えたことが、わたしにはなかった。

 わたしの「せいで」命を落とした人々がいる。

 わたしの「ために」命を落とした人々がいる。

 それは表裏紙一重の、思考の違い。

 だからわたし「も」消えなければならない。

 だからわたし「は」生きなければならない。

 自分が考えてきたことをわたしは責任と言い、彼女は逃避と言う。愚弄と笑う。わたしが取るべき選択は、どっち?

『エウノミアを、変えようと思うの』

 我に返ったわたしに彼女は、眠り続けているあなたには関係のない話だけれど、と続けた。

『今のエウノミアは、あまり上手くいっていないの。当然よね、絶対的な存在によってまとめられていた国から王が姿を消したんだもの。国を支えた仕組みの根拠が、法の根拠がすべてなくなったんだもの。仮初めの平和の中で人々が抱いてきた理不尽も不条理な思いも、押さえつける恐怖が失われた。地位の向上を求める辺境と己の利益を守りたい中枢の溝は埋まらない。合議制という機構の中でさえ、既に強者と弱者が生まれている。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、でも、どちらかを選ばなければならない。結局、どちらも選べない。恨まれるのが恐ろしくて何も決められない。

不自由だ、息苦しいと思いながらも、皆、王という存在に依存していたのよ。不満はあるけれど、決して手の届くことのない王という存在がその背景にあったからこそ人々は我慢してこれたの。あなたたちが破壊したのは王政じゃない、王によって守られていた秩序よ。

私はねアメリア、トレニアールのことは大嫌い。でも彼女のことは好敵手として尊敬してもいるの。その彼女が治めていた国が、こんな形で荒廃していくのは忍びない。だから――私がつくり直すの。幸いお誂え向きの体もあることだし、ねぇ』

 にっこり笑う。

『あなたが死を求めるとは、そういうことよ』

 ぞっとする。またしてもわたしを利用する気なのだ。

 口ではもっともらしいことを言っている。分析もきっと間違ってはいない。間違いがあるとすれば、それは、彼女が描くエウノミアの像。彼女はきっと厳罰主義を必要と考えているはずだ。革命を教訓に地方へ駐屯兵を派遣して監視体制を強化したり、絶対王としての権力誇示のために考え得る限りを尽くすことだろう。先の戦いで皆で勝ち取ったエウノミアを否定するように。

 わたしはそれを許してはならない。王なんて立場を欲しがっているわけじゃないけど、王家の血を引く者として国を守る義務がある。

 そうだ、元々わたしが立ち上がったのは、エウノミアの誇りを守るためだった。それをわたしは、危うく自ら放棄するところだった。一番守らなきゃいけないものを自分の手で再び壊すところだった。

 王都で彼女に体を奪われた理由が今ならわかる。与えられるべき罰のことばかり考えていたわたしは、生きながらにして死者だった。

 わたしはまだ生きている。

 大勢の人たちが守ってくれたこの命で今度はわたしが、エウノミアの誇りを守らなければならない。

 わたしの選択は、こうだ。

「絶対に、あなたの好きにはさせない」


   ◎


 決意を口にしたアミは森へと駆けていった。現実から霧の森を経てあたしがここに辿り着いたのと逆に、目覚めに向かっているんだろう。アミは気づいてるだろうか、自分が乗せられただけだってことに。自分に向いていた罪の意識を、誇りを守ろうとする自尊の心にすり替えられただけだってことに。

 結局、ノエルが言った通りの、ネージュの行動した通りの結果があたしの手元には残った。嬉しいけど、面白くない。

『単純ね、あなたよりよっぽど』

 だからそんなことを言われるのも面白くない。

 アミがいなくなったことで、村にはあたしとネージュの二人だけが残された。でも心象世界の主が姿を消すことはその世界の終焉に向け火蓋が切られたことでもある。あたしたちだけの時間はそう長くはない。

『だから危険なのね。単純であるが故にあの子は諸刃の剣でもあるから。考え方一つ、物の見方一つの違いで正義にも悪にもなれてしまう。そして全力で突き進んでしまうから。それでも、雁字搦めにされて動けなくなるよりよっぽどマシだとは思うけれど……大変なのはこれからよね』

「何を企んでる」

 あたしは目を鋭くした。今回はあたしに都合のいいように動いたけど、コイツには前科がある。あたしたちの敵で、トレニア村の仇で、そして諸悪の根源だ。

『人聞きの悪い言い方をするのね』

 ネージュがニヤリとする。以前のような高圧的な感じは影を潜めている。でも少し拍子抜けしたけど、コイツは右手に武器を隠し持って左手で握手をするようなことを平気でする奴だ、まだ油断はできない。

 でも、そうね――と続ける瞳がふと、遠くなる。

 ネージュは自嘲気味に笑った。

『あなたは、現人神を信じるかしら?』

「アラヒトガミ?」

 オウム返しにするあたしにネージュは、人の姿を借りて世に顕現した神のことだと説明を加えた。

『力でかなわず知恵でもかなわず、何をしても上を行かれる。先を越される。出し抜いたつもりが踊らされて、隠したつもりが筒抜け。そんな存在に、すべてお見通しって顔で自分のしてきたことを間違いだと指摘されたとき、あなたならどうする?』

 あたしには答えられない。あたしはそんな、自分の人生を否定されるような出会いをした経験がないし、生き方もしていないつもり。

 でもこれは、あたしの話じゃない。つまりそれを言うネージュ自身がそれだけの恐怖によって改心させられたってことだ。あの、魔女ノエルという存在に。

 ――魔女ノエル。

 あの人は何者なんだろう? ネージュを改心させアミが目覚めるきっかけを生み出した点においては、あたしはあの人を味方だと肯定する。

 でもそれなら、もう一つの仕事なんて遠回しな言い方をせずにはっきり内容を口にすればいいと思う。それにネージュを説得してことが足りるなら、あたしを行かせる必要がない。あたしは、ここでは本当に無力だった。来る必要がなかったんじゃないかとさえ思ってる。そのあたしがこの場に居合わせたことに何の意味があるんだろう――あたしにはさっぱり、わからない。それこそ「神のみぞ知る」ことなんだと思う。

 気づけばあたしは、村にはいなかった。

 また闇を漂う者になる。

 そういえばあたしはアミに、一つ黙っていたことがある。

 あたしだけは今回のアミの呵責と無関係ってこと。

 あたしは、爺っちゃんの家から逃げられなかった。そう、あたしは火事で命を落とした。

 焼け落ちる家の中で一生を終えたあたしの体は、ネージュの奴に利用されることもないまま、今もあの家の下に眠っている。アミに消されてなんていないのだ。

 ま、すべては今更の話。言ったら言ったでアミにまた新しい後悔の種を与えることになる。だから――この事実をあたしは墓場まで持ち帰るつもりでいる。

 ネージュの姿ももうない。

 謝罪はなかったけれど、今回の行動が彼女なりの、最後の良心だったということであたしは決着する。許したくはないけど、今までのことはどこかで踏ん切りをつけなければいけない。ネージュを恨んでも許しても皆は帰ってこないから――だったらせめて、皆の冥福を祈るきっかけに変えていかなければいけないと思うから。変えていこうと思うから。

 意識が、再び遠くなる――。


「おはようユーリイ」

 視界に飛びこんできたのは天井を背景にしたアミの笑顔だった。そう、あたしが目覚めた場所はその腕の中だった。仕方ない。今のあたしはぬいぐるみだから、簡単に抱えられてしまう。姉としてはちょっとだけ残念な現実。

 でもこの笑顔も現実だ。

 昔からそうであるように、アミの笑顔には人の心を和やかにする力がある。そしてその効力はあたしも例外じゃない。散々心配させたことを叱ってやろうと思っていても、この笑顔を前にしては何も言えなくなってしまう。今ならその理由がわかる気がする。この笑顔はきっとアミを守った人々の笑顔。アミを愛し、アミの幸せを願った人々からの時を超えた贈り物なのだ。そりゃ、あたし程度がかなうはずがない。

「ごめんなさい」

 アミはでも、その笑顔を申し訳なさそうに歪めて言う。

「この一言を、ずっと昔からあなたに伝えなきゃいけなかった気がする」

 そんな顔をされたらあたしこそ申し訳なくなる。でもあたしはそんなアミを否定しなかった。何故だろう、あたしも、そう言われるのを長い間待ち続けていた気がした。アミに謝って欲しいことなんてないはずなのに、不思議な気分。

 少し離れたところで、魔女ノエルも寂しそうに微笑んでいる。この人にこんな顔ができるなんて、ちょっとだけ意外だ。アミに自己紹介は済ませたんだろうか? でもそれだけじゃない。あたしだって答えて欲しいことは山ほどある。

 ミッションコンプリ~トなの。

 微かな声が言った。



◇翼を広げて旅立つキミに


 ノエルさんは魔女だ。

 魔女と呼ばれるままにそのフリをしていたわたしとは違う。

 本物の魔女。

 ノエルさんは本当にすごい人だ。

 例えば、そう。雨の日に生まれたから、アメリア――彼女はわたしの名付け親だった。名付け親になれる、ってことは、わたしが生まれた当時の存在でもある、ってこと。彼女はお母さん、トレニアールの友達でもあった。何歳かは、秘密だそうだ。

 ノエルさんはわたしの知らないお母さんをたくさん教えてくれた。わたしの前に現れたときは母親らしくあろうと気取っていただけで、本当は男勝りなお転婆だったこと、結婚相手は自分より強い人でなければ嫌だと言い張ってわざわざ武闘会を開いたこと……聞けば聞くほど懐かしいような恥ずかしいような不思議な気分になった。

 戦火からわたしを逃がし、未来へ送ってくれたのもノエルさん。お母さんと再会させてくれたのも掌の獣をつくったのも彼女だ。やっぱりこの人はすごい。

 でもわたしにもたらされたのは必ずしも楽しい話ばかりじゃなかった。

 古代戦争やネージュにまつわる話。それともう一つ。

「このセカイは今、滅亡の危機に瀕している」

 あまり危機感のない口調ながらノエルさんはそれを告げてくれた。その原因を聞かされたときにはだから、「そんな理由で」って一瞬、耳を疑いもしたくらい。

 でも、彼女の言葉には不思議な説得力があった。曰く、すべての元凶はわたしたちにある。だからわたしたちがそれを止めるために動かなければならない。そしてそのための最優先課題としてまずは、ジークさんたちに追いかなければならないということだ。

「も~じき危なくなるの」

 聞けば彼らは今、わたしを助ける道を探してこの世界の頂と呼ばれる場所に向かっているらしい。そしてノエルさんの言葉では、明日には彼らはその地に到達し、それと同時に敵襲を受け、危機に陥るらしい。

「アレはこのセカイの者を狙う。だから助けてあげるとよいのよ」

 ノエルさんの言うことはたまに、よくわからない。それが多分「魔女」と呼ばれる者の在り方なんだと思う。

 ノエルさんはわたしたち姉妹を、魔法で彼らの元へ運んでくれると言った。それから、彼らを手助けするための知恵も授けてくれた。常闇のルールを破る者――わたしは彼女の言葉を胸に深く刻みこむ。常闇の意味するところは文字通りで、一瞬、一筋たりとも陽光が差さないことに由来する。陸も海も光が届かず、時間の流れに関係なく夜が続くことを示す。好んで住み着く人間もなく独自の植物ばかりが我が物顔で繁茂する、そこは果てしない闇に包まれた世界なのだそうだ。

 でも、大丈夫なんだろうか?

 元々国を変えるために戦っていたのが、今度は世界の危機だなんて、スケールが拡大し過ぎている。それにわたしは気分だけ言えばお伽話の眠り姫だ。目覚めて早々に世界を守るために戦えだなんて、やっていけるんだろうか? ジークさんたちには申し訳ないけれど、もう少し準備期間が欲しいというのが本音だ。

 それに……。

「大丈夫なの。トレニーを信じるのよ」

 ノエルさんはそう言うけれど。

 確かに、お母さんはわたしを生まれながらの戦乙女と言ったけれど。

 わたしの不安を余所に、ノエルさんの準備は続く。

 話しこんでいる内に時間が過ぎたので出発は明朝ということになった。

 夕食の場は明るかった。

 おじさんもおばさんも、わたしの目覚めを心から喜んでくれた。あんまり驚いている様子はなかった。聞けば世界中を探検して回っている人たちだ、三ヶ月眠り続けた人間が目覚める程度は常識の範疇なのかもしれない。「ジーくんたちの冒険も徒労に終わっちゃったのね」と残念がっている節も垣間見えた。もっともわたし自身も驚いて欲しいわけじゃないから気にはしない。気になるのはむしろノエルさんのことだった。

 ノエルさんは部屋を一つ借り、籠もりっきりで何かを準備している。とはいえ時渡りを行ったり未知の技術を備えた武器をつくったりする人にいったい何の準備が必要なんだろう? わたしの中にはただジークさんたちが危機に陥るのを待っているんじゃないかという疑念さえ湧いていた。

「そ~でもないの」

 部屋を訪ねると、椅子に腰掛けていたノエルさんは、背を向けたまま言った。その前には、絶妙に大胆な衣装が飾られている。

「リオンの服なのよ」

 よもやと思っているとノエルさんはわたしを見ることなく言った。

 え、と思う。

 それは遠く澄み渡る秋空を連想させる青と白のツートンカラーのツーピース。白い上衣には、襟はあるけど袖はない。腕を覆う部分が胴と離れているから、着用した場合最低でも肩や二の腕は露出という形になる。頭には星形に近い白い花のコサージュをあしらった、空色のカチューシャ。青色の短いスカートにも左右の腰にそれぞれ空色のリボンがあしらわれている。そして腿まで届く真っ白なハイソックス。極めつけにハイソールのブーツ。この服に実は隠された力が――なんてことはない。どこからどう見ても隙のない、かわいい衣装だ。

 ……こんなのを着て、戦えるはずがない。

「なの。戦わないための服なの」

 わたしはまたしても「え」と思う。口からふ、と怒りの片鱗が覗いた。

「ふざけないでくださいっ!」

 大恩ある彼女を相手にそんなことをしたくなかったけれど、わたしはとうとう怒鳴った。

「何が戦わないための服ですか! わたしは戦いに行くんです! あなたが言ったことでしょう、わたしのために旅立った皆を救いにいくんです!」

「わかってるのよ」

 ノエルさんはまだ背を向けたままでいる。それが何だか「お前なんか相手にしない」と言われているような気がして余計に癇に障る。

「いいえ、わかってない! こんな格好、どう見たってふざけているじゃないですか!」

 こんな服を用意するためにわたしたちは足止めされているんだろうか? だとしたら心底バカらしい。それこそ、わざわざ皆が危機を迎えるのを待っているようなもの。下手をすれば見殺しにするようなものだ。

「あなた、本当は皆を助ける気なんてないんでしょう! ええ、そうでしょう! 所詮は他人事ですものね! お母さんのことだって――」

 言い終える前に、ピシリと頬に鋭い痛みが走った。

 ようやく振り向いたノエルさんが「冷静になるの」と言った。

 思い起こせば戦いの場以外で誰かに手をあげられたのは初めてかもしれなかった。笑顔のままの彼女に少なからざる脅威を感じながらわたしは、冷静であろうと最大限に善処する。

 でもやっぱり、無理だ。

 だってこんな服を着ていたら、駆けつけることができても戦えない。拳を振るうどころか走ることだって満足にできやしない。戦えないわたしなんてただの足手まといだ。せっかくの力だって――。

 ――あぁ、そういうことか。

 わたしは気づく。

 この人は全部、お見通しってこと。

 これはわたしに、「力を使わせない」ための服装なのだ。

 ノエルさんの纏う気配がやわらいだ。

「でもそれじゃ困るんです。わたしだって皆のために戦いたいです」

「心配ないの。ちょうど仕上がったところなの」

 気がつくとノエルさんの手には、どこに隠し持っていたのか、今の今までなかった小さな銃の姿がある。

「新しい力なの」

 その言葉とともに手渡された銃は形こそ同じだけれど、今まで手にしていた魔銃とは何かが違った。どこがどう違うのかと言われると困ってしまうけれど、使っていた人間が言うのだ、とにかく違う。

 ケモノと同じではない、とノエルさんが教えてくれた。彼女はそれについて逐一丁寧な説明をしてくれたけれど、その話はあまりにも難解でわたしにはほとんど理解することができなかった。わかったことは新しい魔銃もやっぱり世界でただ一つの、わたしだけの武器であるということ。今度は扱うにあたり生命力を必要としないこと、そしてノエルさんがそれを「旅立つキミの翼」と呼んでいることくらい。わたしにはそれで充分だった。

 ノエルさんは本当にすごい人だ。

 普段通りに送り出したらわたしがどうするかも、それをさせないための方法もしっかり考えてある。その上で新しい力も授けてくれた。やっぱり、すごい人だ。

「あとはゆっくり休むだけよ」

 促されるままわたしは部屋に戻った。

 あれだけ眠っておいてまだ寝るだなんてと思ったけど、わたしが眠りに落ちるまでに長い時間は必要なかった。久しぶりに起きて活動したというのもあるんだろう、全身が全霊で休息を欲していた。


 その晩わたしは不思議な夢を見た。

 夢の中のわたしはとにかく怒っていた。

 何に対してかはわからないけど、腹を立ててノエルさんを責め立てている。どこへやった、返せ、そんな言葉を吐きかけている。

 ノエルさんは申し訳なさそうな顔をしている。実際、そう思っているんだろう、謝罪の言葉を繰り返している。

 寝る先立って怒鳴りこみをかけたりしたから、そんな夢を見たんだろうか?

 これはノエルさんの行動に対する反抗の願望なんだろうか?

 それにしては妙に、現実味があったように思う。

 憶えている限りノエルさんは、ひたすらこう繰り返していた。

『ごめんねなの、トーコ』


 明くる朝、わたしは見事に寝坊をした。

 大切な出立を前に何て情けないことだろう。

 でも、わたしだけじゃなかった。どうしたことかユーリイもノエルさんも寝過ごした。今となってはただただ、それがジークさんたちの命取りにならないことを願うばかりだ。

 着替えを終え、上着を羽織り、改めて訪れた部屋の床に、ノエルさんはいそいそと大きな二重丸を描いた。「ラビットホール」と命名されたそれの中央に立ちさえすれば、あとは彼女が魔法で飛ばしてくれるとのことだった。

「もっとすごい魔法とか、期待してたんだけどなー」

 ――なんてユーリイは言うけれど、偏見だと思う。物々しい呪文を唱えたり難解な呪式を刻んだりするのはそれだけ、その人が魔法使いとして未熟な証拠。本当にすごい人ほど、そんなものには頼らない。そして本当にすごい人ほど、そんな人には見えない。わたしがこの短い期間で学んだことだ。

 旅立ちのときがやってきた。彼女とは出会ってまだ間もないけれど、何だか昔からの知り合いとの別れにも似た切なさが胸にこみ上げてきて、わたしは言った。

「また、会えますよね?」

 ノエルさんはやっぱり笑っている。

「大丈夫なの。きっとそ~なるようにできてるのよ」

 わたしたちが円の中に立つと、ノエルさんは早速、不思議な歌をうたい始めた。


  ほのかのかのかほのかのか

  ほかほかほのかのほかほのか


 どこかで聞いたことのある歌だなと思った、瞬間。

 足下の床が。

 そこに音もなく口を開けた闇が、わたしたちを飲みこんだ。



◇悲願の花


   ●


「ありました! この花ですね!」

 声をあげたのはお手伝いの少女でした。

 山の頂に到達してから――守護者の襲撃を受けてから間もなく三十分が過ぎようとしています。彼女はその時間が剣闘する者にとってどれだけ苦しい時間であるかを、戦いの外にいながらも理解していました。

 体力は勿論のこと、それは多大な精神力をも要する戦いであります。一撃が致命傷になり得る実戦の場で、一瞬たりとも気の抜けない緊張とも、終わりが見えないことへの不安ともジークムントは戦い続けているのです。

 早く、早く見つけなきゃ――。

 気ばかりが急く中で、見つけたというより、彼女が「あって欲しい」と願ったとき、それがふと目の前に現れたのです。

 アリス船長が親指を立てています。

 元々この地へはヒガンバナを求めてやってきました。望みの物が得られた以上、長居は無用。加えて不滅の体を持つ敵と対峙しているのです、逃げることこそ得策と言えましょう。

 そのために彼女はジークムントを助けに向かいました。

 自分だけが逃げるわけにはいきません。

 彼女は南の森で怪物退治をしたときのこと、王都でアメリアと敵対したときのことを朧げながら憶えていました。自分には人と違う力があると、確信めいたものもありました。

 気分が高揚してきます。足止めに留まらず、自分にならできるという漠然とした自信さえありました。

 足を痛めたジークムントを庇いながら果物ナイフを振るい始めた彼女は圧倒的でした。

 しかし彼女にもやはり、その敵を滅ぼすことはできません。何故なら彼女はお手伝いであるからです。森で怪物にとどめを刺したのがアメリアであるように、王都で魔銃を破壊したのがイヴであるように、彼女はいつだって、お膳立てをする「お手伝い」に過ぎなかったのです。

 彼女はまだ、その「お手伝い」という肩書きが自分の思う以上の拘束力を持っていることに気づいてはいませんでした。


   ●


 スミ子は恐ろしいほどに、強かった。最早天性のものとしか言いようがない。これがスミ子の実力なのだろうか――果物ナイフでさえ使い手次第で強力な得物になり得ることを俺はこの日このとき初めて知った。

 人間相手で言ったら、一振りで一殺は下らないだろう。王都で、玉座の間ただ一人歓声をあげていたのはこの姿の予兆だったのだろうか。考えたくないが、この可憐さでありながら、或いは俺以上の使い手かもしれなかった。

 ただそれだけの実力をもってしてもこの騎士を討ち倒すことはできなかった。これまで幾度となく俺を危機から救ってくれたお手伝いの奇跡に期待もしたが、スミ子だって万能ではないということだ。

 戦況は芳しくなかった。

 敵は不死身。腕を失おうが脚を失おうが息つく暇もなく猛進してくる。

 対する俺に策はなく、体力的にもそろそろ苦しい。そして足を痛め、文字通り足を引っ張っている状態だ。

 花を手に入れるという目的は既に達成されているのだから、あとはここを脱出するだけだ。

 そうは言っても敵の狙いは俺一人。三人はいつでも離脱することができる。

 そう、やはり問題は俺なのだ。

 何故――俺なのだろうか?

 この地まで俺たちを導いてくれたのはアリス船長、この場所に一番に足を踏み入れたのはスミ子だ。イヴは何度もこの騎士を斬りつけ、妨害をしてきた。普通に考えれば武器すら持っていない船長や、一見した限り戦士にはとても見えないお手伝いこそ真っ先に襲いそうなものだ。花の入手に直接あたったのもこの二人だ。

 なのに何故、俺だけを狙うのだろう?

「ああもう! 頭がど~にかなりそ~です!」

 終わりの見えない戦いに、とうとうヤケを起こしたスミ子の声で我に返る。怒りに任せてナイフを投げつけるスミ子の姿が瞳に焼きついた。コイツは勝負を投げたのだ――俺はいよいよ、殉職する自分を思い描く。仲間を救う旅の途中で落命、美談ではある。

 だが、その瞬間はついぞ訪れなかった。一向に怯むことを知らなかった騎士が、自棄っぱちの果物ナイフを腹に受けたことで初めて動きを止めた。それだけではない、ガラガラ音を立て、崩れ落ちたのだ。

「……もしかして、スミの大手柄ですか?」

 照れくさそうに、頬をかくスミ子。

「ううん……違うみたい」

 それを素早く否定して、船長が、俺たちが来た道を指した。

 近づいてくる人影があった。


   ◎


 暗闇の中を、わたしたちはどこまでも落ちていく。

 時間にしたら、多分、ほんの数分。でも何もしているわけじゃないから、それ以上の長さに感じる。地図を見た限り村から目的地まで、旅をしたら数ヶ月は下らなそうな距離があるから、これはまぁ、そのルールを無視したわたしたちが最低限に負うべき対価と考える。世界の裏側に突き抜けてしまう、なんてことは断じてない。

 ――空気の匂いが変わった。

 アミ、とユーリイが呼ぶ。

 わたしはユーリイを抱え、残された力で翼を広げる。

 もう何度も使うことはないだろう、みすぼらしい光をわたしは、ユーリイには見せないようにした。

 間もなく地面が見え、わたしはゆっくり降り立った。

 ――ここが、常闇の地。

 わたしたちがくぐったラビットホールは既にない。なくなったのか、それとも闇になじんで見えなくなったのか、それすらもよくわからない夜の世界。

 わかるのは、闇の奥にほんのりと浮かび上がる朧月。

 ――そう、アレが。

 常闇を侵すモノ。


 敵だ。


 新しい魔銃を手にする。

 ケモノが死に、新たに託されたツバサという力。

 この世界でただ一つ、わたしのための武器。

 よく、手になじむ。

 距離は関係ない。対象の大きさも。

 これはすべてを撃ち抜く。そして滅ぼす。

 そういう力だと、銃を通して魔女が教えてくれる。

 ならわたしは、その引き金を引くだけだ。

 ――深呼吸。

 アミ、とユーリイが不安げな視線を投げかけてくる。

 大丈夫と頷いてわたしは、この手に力をこめた。


   ◎


 やってきたのは魔女とユーリイだった。

 何故目覚めたのだろう? いったいどうやってここまで来たのだろう? 騎士が崩れ落ちたのも彼女たちの仕業なのだろうか? 疑問は尽きない。

「皆、本当にごめんなさい。それから、わたしのためにありがとう」

 小走りで駆け寄ってきた魔女がにっこりと笑ってみせる。それが閉鎖的で儚げな彼女しか知らない俺たちを大いに驚かせたことは言うまでもないだろう。絶妙に大胆な衣装も含め、まるで別人だ。本当にあの魔女なのだろうか? いったい何があって変われたものだろう?

 やはり、疑問しか浮かばない。

「ちょっと待っていてくださいね」

 魔女は俺の疑念を察した様子だが、それに答えることはせず、まずは船長に向かう。

「初めまして。アメリアと言います。あなたは?」

「……アリス。ハンプティ号の船長やってる」

「そうですか、アリスさん。ありがとうございました」

 彼女が続けて顔を向けたのはイヴ。

 以前の魔女と同じようにあまり感情を露わにしないイヴの顔に、感激の色が浮かぶのを俺は見逃さなかった。それもそのはず。これは念願の、時を超えた「母さん」との再会なのだ。

 ふと隣に視線を移すと、スミ子の憂いを帯びた笑顔が目に入る。複雑な笑顔だ。仲間の幸せを喜びたいが、同じく家族との再会を求める自分にはそれが少し悔しい。でもそれを周囲に悟られてはいけないので顔だけは笑っている――といったところだろうか。十年も一緒にいるとなかなか口では言えないことも不思議とわかってしまうものなのだ。お手伝いの寂しい肩をそっと抱く。逆らわず身を預けてきたスミ子とともに仲間を祝福してやるのだ。

「初めまして、ですね。イヴァン王子」

 魔女は事務的に握手を求める。些か拍子抜けするその態度に感動が大きく薄れた。

「王子?」

「ええ。彼は古代エイレネ王国の王子なのです」

 つまり赤の他人ということだ。しかも、エイレネというのは……。

 彼にも礼を述べた後で魔女は、俺からの疑問に答える形でこれまでの経緯を話してくれた。

 彼女の話の中では「ノエル」という存在が幾度も登場した。魔女がこうして復活を遂げたのもこの場に駆けつけることができたのも、あの敵を倒すための知恵や力を授けてくれたのも、すべてはそのノエルという、もう一人の魔女の尽力によるものだった。

 魔女はまたその者から、古代戦争にまつわる重大な事実ももたらされていた。

 古代エイレネ王国の陰で展開していた反逆計画、毒を盛られた王子のこと、兄王子を想う気持ちを利用され隣国に侵攻した気の毒なネージュのこと。その王子、ネージュの兄がイヴであることに改めて言及したところで魔女は一旦、彼に話し手の立場を譲った。

 イヴも隠す必要がなくなったのか、自分が魔女の言う通りの存在であることやこの時代に来た目的をようやく語ってくれた。

 しかしこの出会いから大分遅れての彼の話は、俺にとって薄ら寒い話でもあった。というのも彼が言うには、本来俺はユーリイともども王都での戦いで、ネージュに乗っ取られた魔女によって殺される運命にあったというからだ。本来の歴史の流れは、俺たちを始末した魔女はその後過去へ跳躍し、病床のイヴァンを救い力尽きるという筋書きらしい。イヴァン少年はその瞳に母とも聖女とも映った「アメリア・レオハート」が自分のために命を落とす未来を変えるために時を超えてやってきた存在なのだった。

「ところでさ、ヒガンバナってのはどこにあるの?」

 イヴが話し終えるなり、それまで黙っていたユーリイが口を開いた。まぁ、俺もそうだが自分の最後を聞かされるのは、あまりいい気分はしない。それに、彼女にとってはいつでもできる身の上話などよりもここでしか得られないヒガンバナの方が大事だろう。

「あたし、早く父さんたちに会いたいんだけど。それともまだ見つかってないの?」

 いいえ、ここにとスミ子が答え、その続きを船長が継いだ。

「きれいな花でしょう……。でも忠告……反魂は一生に一度きり、一人きり……ね」

「一人きり? ん~迷うなぁ」

 ユーリイは当然に花の所有権が自分にあると思いこんでいる。

 一人悩むユーリイの代わりに魔女が視線で伺いを立ててくる。元々彼女のために使う予定だったのだ、その必要がなくなった以上、俺はそれでも構わない。

「大丈夫よユーリイ。わたしと二人なら、ね」

 それでいいの、と聞き返す姉に魔女は、小さく笑って首を左右させる。二人は連れ立って、俺たちから離れていった。

「よろしかったのですか?」

 二人を見送ったところでお手伝いが尋ねてくる。俺は魔女を真似て首を横に振った。

 先の革命で俺は幾人もの村の仲間を亡くしている。もう一度会いたい、会って詫びなければならない者が多過ぎるのだ。そこから一人だけ選ぶようなことをしたらそれ以外の者たちに恨まれてしまうに違いない。

 本音を言えば幼なじみのリサに会いたい気持ちは強くあるが、それも我慢する。いつか自分が彼女のいる世界に行ったとき、聞き上手の彼女を相手に話すことがなくなっては困る。彼女がやきもちを妬いてしまうような話を山ほど持ちこんで自慢してやる、というのが死の間際に交わした約束なのだ。

「リサさんにお会いしなくてよろしいのですか?」

 俺は頷くだけで答えとした。勿論両親と生きて再会を望むスミ子に「お前こそ会いたい人はいないのか」などとは言わなかった。

「大変だったようだな、そっちも色々と」

 泣きはらした跡こそあるものの、幸せそうな笑みを浮かべて戻ってきた魔女に俺は声をかけた。正直な気持ちを言えば、この笑顔を自分の力で取り戻すことができていたらどれだけ名誉なことだろうかと思ってもいるが、それを口にしないだけの分別はある。

「ええ、大変でしたよ。色々と」

 真似するように答えて魔女は笑った。

 二度も自分から居場所を奪ったネージュのことは、いくら騙されていたとはいえすべて許せたわけではないだろう。その兄に対して言いたいこともあると思う。自分のために命を散らせた亡国の民や亡郷の縁故を思えば、押し潰されそうな心の痛みもあるに違いない。

 だが魔女はここに立っている。過去を受け入れ、背負う覚悟を決めているのだ。この強さは心の強さ――だからこうして、本物の笑顔を見せてくれる。寂しそうに微笑むよりずっと人間らしく素敵な姿だと思う。

「ジークさんに大事なお話があります」

 しみじみ感じ入る俺に、魔女が言う。

 少し上目遣いに、真っ直ぐ俺を見つめる瞳には熱がこもっている。

「大事な、話?」

「あーそうそう。それなんだけど」

 その言葉に反応して魔女の頭上から、ユーリイがしゃしゃり出てきて言った。

「この世界、もうじき滅んじゃうらしいよ」



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